http://www.youtube.com/watch?v=ZzPgi4Wn9Zk
小林よしのり『戦争論2』(幻冬舎)を下敷きに。
日本軍が南京で30万人を虐殺した、というホラ話をホラと知らずに信じている人が大勢いるので、分かりやすい『戦争論2』を下敷きにして語ります。
東京裁判で提出された「南京大虐殺」(この“用語”は左翼の専門用語なので、「 」付きで語る)に関する“唯一”の証拠は目撃者の次のような証言である。
「日本軍は近郊の村に包囲・拘禁していた①5万7418名もの難民と兵士を12月16日夜、②ワイヤーロープで2人ずつ括り、4列に並べて③下関(シャーカン)・草鞐(そうか)峡まで追いたて、④機関銃で掃射しつくした後、さらに⑤銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に⑥石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。私はこの一部始終を⑦目の前で目撃しました」
①現在のサッカー場のような照明施設がついているような場所ならともかく、当時の夜、市街地で、よく5万7418名という数字が分かったものだ。数えたの?銀色のカチカチ押して人数を数えるカウンターでも持ってたのか?
②6万人近い人を二人ずつワイヤーで括るには相当数のワイヤーが必要になる。そして日本軍は何人がかりで5万7418名もの人間を2人ずつ括っていったのか。何時間かかったのか。その間、中国人はまったく無抵抗で整列していたのか。
③6万人近い人間がぞろぞろと移動するのにどれだけの時間がかかったのか。これらの人間を管理するにはそれ相当数の日本人が必要だが、何人いたのか。甲子園球場は満員になれば現在は5万人ほどになるが、試合終了後駅に向かうのは、そら大変。
④6万人もの掃射すると、機関銃の爆音が何時間も鳴り響くことになるが、この音を聞いた人はいるのか。当時、南京には外国人のジャーナリスト、日本人の新聞記者いっぱいいたのに、誰も虐殺など見ていないのはなぜだ。
⑤これも何人の日本兵が何時間かけて行ったのか。ここまでで2時間や3時間では無理だろう。これだけの人の流れを見た目撃証言がないのはどういうわけか。
⑥6万体もの死体が骨になるまでどのくらいの時間を要したのか。6万体もの人骨を揚子江へ流すのにどれくらいの日本兵が、どれくらいの時間をかけたのか。また、対英米戦に開戦に踏み切った理由の一つに石油の備蓄がなく、後半年も持たないとの切羽詰った事情に追いやられた(ABCD包囲網)という経緯があるが、6万体を焼き尽くす石油が日本にあったのか。
⑦この目撃者は、一体どこで日本兵に見つからずこれらの行為をすべて見たというのだ。
つまり、捏造。嘘。2ヶ月半調査して、東京裁判の法廷に最初に提出できた目撃証言はこれ一件のみ。その後出てきた証言は同じようなツッコミどころ満載の大同小異ばかり。その後証言をテキトーに捏造するしかなかったから、当たり前といえば当たり前。
南京は総面積35平方キロメートル。周囲を高さ12メートル、厚さ6~12メートルの城壁に囲まれた城塞都市だった。1937年11月、南京攻略を前に富裕層は南京を脱出していた。12月13日にあっさりと南京は落ちたのだが、その間蒋介石はすたこらさっさ~と逃げている。だから南京の城壁内に残っていたのはシナ兵と貧民だけだった。残された市民は南京の中心部にあった「難民区」に避難。地域を管理するために設けられた安全区委員会(委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベ。日本人、シナ人以外の組織)も「われわれは安全区に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。
1937年12月21日、国際委員会のアメリカ人教授ベイツが日本大使館に宛てた手紙には「We come to petition in the name of humanity that the following steps be taken for the welfare of the 200,00 civilians in Nanking・・・」とある。つまり、多く見積もっても20万人しかいなかった市民を30万人虐殺した!というのが「南京大虐殺」なのだ。さらに、1ヵ月後の1938年1月14日付文書で委員長のジョン・ラーベは「当市の総人口は25万から30万だと思います。これだけの人口を普通並みの米の量で養うとすれば、一日に2000担(あるいは一日に1600袋)の米が必要となるでしょう」と述べている。ということは、20万人しかいなかった人口を30万人虐殺して、その1ヶ月後に25万~30万の人が南京にやって来た、ということになりますね。んなアホな。ね、捏造でしょ。ホラ話でしょ。
先ほどの委員長ジョン・ラーベはヒトラーへ上申書を書いている。それを戦後母国に帰って書き直し、当時は誰にも相手にされなかったのだが現在は『ジョン・ラーベの日記』として出版されている。わたくしも購入して読んだが、現在は手元にありませーん。引越しの際ほかしちゃった(標準語で「捨てる」の意味)んで。すんまそん。その『ジョン・ラーベの日記』には「日本人が虐殺した~~、毎日恐ろしいことやりまくった~~~」ってなことが書かれている。やっぱり虐殺したんやないか!とこれを読むと思ってしまいますが、ちゃんと検証すると、そうは言えなくなります。まず、ラーベは「ヒトラーへの上申書」で犠牲者を「5~6万」と書いている。この段階で「30万ってどっから来た数字じゃい!」とツッコミが入りますわ。さらに安全区委員会は日本大使館に毎日文書を送付しているのだが、これは実は食料支援要請よりも「日本軍の犯罪」に対する「被害届け」の方がはるかい多く、連日出ている。
やっぱりか。日本軍は虐殺したんや。
いや、まちなはれ。
読むと、次のように書いてあります☞総数。「殺人事件25件。被害者49名」なんじゃこら?民間人を大量に虐殺したという報告はどこにもない。しかもこれら「被害届け」はすべて伝聞情報。つまりラーベ本人はただの一件も目撃していない。ラーベは毎日「大虐殺」の最中、自由に南京城内を歩き回っていたにもかかわらず、直接殺人事件を見た記述は皆無である。さらに、ラーベは1938年1月14日付け上海ドイツ大使館宛てでは「被害者数千人」と述べているのに、1月28日南京イギリス大使館宛てには「数百人」と述べている。殺人を一度も目撃していないのに、報告する相手によって49人~6万人まで数字をコロコロ変えている。つまり、ラーベは意図的に情報操作をしていたのだ。なぜ?
ジョン・ラーベは中国蒋介石政権に武器を売り、莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長であった。シナ事変勃発後、日本はドイツにシナに武器輸出をやめるように要求する。ヒトラーはソ連を牽制するため日本と組むことを選択し、武器輸出を抑えた。ラーベは怒った。30年もシナに住み、こつこつ積み挙げてきたものがパーになるのだから。日本を逆恨みしたラーベは日本を悪者にしようと企んだのだ。
納得できる理屈ですね。さすが、よしりんだ。完璧だ。
さらに、ソ連兵はベルリンを攻略した際、ベルリン女性の50パーセントが強姦されたという。ベトナム戦争で韓国軍は5000人とも3万人とも言われる混血児を残してきた。日本でも沖縄を中心に混血児が多く生まれた。しかし、「レイプ2~8万」といわれている南京で、日中混血児がいまだ一名も確認されていないのはなぜなのか。
なによりも、当時、国際連盟の決議で再三日本を厳しく非難している。しかも蒋介石も毛沢東も何度も何度も記者会見を行っている。なのに、なのに、なのに、「南京大虐殺」について一言も言及していない!!当たり前だ。そんまもの無かったのだから、言及できるわけがない。
一昨年スマトラ沖地震でなくなった方々が30万人くらいといわれています。あれだけの大惨事で30万人なのです。しかも遺体の処理にどれだけ手間取ったことか。重機などを使って穴を掘るなどしてあの苦労である。当時の南京でそんなことが可能なのか。さらに広島、長崎での原爆の被害が30万人くらいである。日本軍は原爆2個分の成果を手作業で収めたのか?そんなことできるのか?
こんな杜撰な証拠と呼べないものを証拠として旧日本軍を、しいては日本国民を貶める勢力が活躍しているのだ。こんなこと許されるわけがない。
以上、ほんの少しでも共感できる部分があったり、確かにそうだ、と思える部分があるなら、ぜひとも小林よしのり著『戦争論』(幻冬舎)をお読み下さい。まずは知ることから始めましょう。大東亜戦争敗戦以降、日本は貶められているのです。嘘、捏造、ホラ等で騙されているのです。そういう意味では『戦争論』がとっつき易いし、分かりやすいし、見事なまでに嘘、捏造を見抜いてくれています。我々の歴史を取り戻そう!!