あめふり猫のつん読書日記

本と、猫と、ときどき料理。日々の楽しみ、のほほん日記

さばさばと、のユーモアとせつなさと。

2009-07-17 00:34:33 | 本(ミステリ・アンソロジー、その他)

月の砂漠をさばさばと (新潮文庫) 月の砂漠をさばさばと (新潮文庫)
価格:¥ 540(税込)
発売日:2002-06

ようやく、というのも変ですけれど、北村薫氏が、直木賞を受賞されましたね。

なんだかしみじみ嬉しいです。

とはいえ、私は北村氏の作品は、エッセイやアンソロジー(北村氏自身の作品ではなく、氏の愛好する作品を集めたもの)はけっこう読んでいるのですが、あんまり小説の方を読んでいないのですね(^^ゞ

だからというのでもないのですが、私の愛する北村作品はこの、『月の砂漠をさばさばと』

本当は、児童書に分類される作品なのでしょうね。

小学生のさきちゃんと、“お話を書くひと”であるお母さん。ふたりは、ふたりだけの家族。

そのなにげない日常を綴った小さな話をあつめた短編集で、言いまちがいの話とか、思わず笑ってしまうような話やかわいい話がいっぱい。

でも、そのなかにふと、胸を締めつけられるような切ないエピソードもあったりして。

最後まで読みとおすと、“月の砂漠をさばさばと”という、ちょっと変わった、楽しいタイトルが、そこはかとなく憂愁を秘めたものにも感じられるのです。

ひろい砂漠をどこまでもゆくのは、なにも駱駝に乗った二人連ればかりではないなぁ、と思ったりして。

日常のさりげない謎を取り上げる視線はこの作品にも活きていて、大人の方でも楽しめるのでは、と思います。

コメント (2)
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こどもだったころ。その2、小さなギモン

2009-07-17 00:01:22 | 日記・エッセイ・コラム

こどものころって、どうでもいいことが気になったりしませんか?

たとえば、童謡の『赤いくつ』。

そう言うと、異人さんをいい爺さんと間違った話かと思うでしょうが、私のツボはそこじゃないんですね(^_^;)

3番の歌詞かなぁ、“今では青い目になっているだろう”っていうのがあったと思うのですが、これが、保育園児だから5、6歳か、その頃の私にはすごーく気になる部分でした。

今になれば、幼くして外国に連れて行かれた少女は、すぐに日本のことを(そしてぼくのことを)忘れてしまい、その国の人になってしまうだろう、ということの詩的表現だと分かるのですが、その頃は、“外国に行ったら目が青くなるの……?”と真剣に思いました。

ちょっと理屈っぽい子どもだったから、“水とか、気候とか食べ物の関係……?”とか考えたりした。(陽に焼かれて肌や髪が褐色になることはあっても、眼の色は変わらないですよね^_^;)

小学校低学年になると、今度は『浜辺の歌』が気になりました。

“あした浜辺をさまよえば……”という部分です。

なんで、あした、さまようの?ということですよね。

でも、小学生ともなれば少し知恵がついてくるので、2番の、“ゆうべ浜辺をさまよえば”の部分も併せて考えました。

で、このふたつの言葉はたぶん、対比している。(もちろん当時は対比とかわからないけど、ここの部分がカギだとは思っていた)ゆうべ、はたぶん、昨日の夜のことではなく、夕方、あるいは深夜ではない夜、だと思うから、あした、はたぶん朝のことだ。

そこまで考えて、なぜか小学生の私は大人に確かめもせず心の中にしまっておいたのですが、小5くらいで今度は、『赤毛のアン』を読みまして。

あの作品のラスト近くで、ブラウニングだかテニスンだか忘れてしまいましたが、アンが詩を暗唱しますよね。

“ときは春、日はあした”という詩。

これで、“ああ、春は、とき、一年の中の一部分だ。だからあしたも、日、つまり一日の中の一部分。やはり、朝でいいんだ”、と思って嬉しくなりました。(合っているか微妙ですが。やはりこれも大人に訊いてみなかった)

いつもぼーっとしてるね、と言われて、じっさい八割方ぼーっとしてましたが、あとの二割はこんなことを日夜考えている、今から思えば不気味な子どもでした((+_+))

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