昨日勉強に行ったことについて。
「知覚するということ」
直接触ることができなければ、知りえることができない
どう扱えばいいか、それがどういったものなのか
それはどんな物を扱うときも
どんな人に関わるときも
どんな質のものなのか、重さは、冷たさは、硬さは
何をしたらどうなるのか
それはすべてにおいて
生まれてきたらまず身体をもらう
その一番の利点は「自分以外のものに触れ、知ることができる」
ただし、自分も「壊れるものになる」
人に触れることもなしに、風にあたることもなしに生きることはかなわない
そのための肉体
全てが陰陽一体のようにこれは諸刃の剣でもある
体験を、知覚を重ねられなかった場合のこと
起きるズレは微々たるもののように見えてズレは生きてきた年数に比例して大きくなる
そのずれを取り戻す機会が、子どものそばにある、と私は考える
子どもと一緒に過ごす中で発見する小さな閃きが
私に素直に笑うことを教えてくれた
きちんと伝えようという心を芽生えさせた
子どもたちの悲しいことになってしまわないようにちゃんと生きようと思えた
そうやって取り戻す世界は美しくて
子どもたちに「もっと世界は面白いよ」と伝えたいがために
自分がちゃんと幸せになろうと思った
「子育ての主語はだれですか?」
育ちや成長は「自覚的であること」が最前提だと私は考える
与えられたこと(それがどこから来てどんな経緯でここにあるのか)は
わからない、自分で出会ってきたものじゃないから
物一つにしたって素性が知れないことには
大事にすることもわからない
いつも子どもに注意をしながらも
彼ら自身が躓き、出会い、認め、考えることなしに身につくはずがないと思っていた
子どもたちは自分で育つ、生きていずれは死ぬ。
その上ではどんな人も同じ
「子が育つ」時に、大人(私)はどうするのか
「私が育つ」「私が子を見守る」「私が学ぶ」
ある程度生きてきて大体をわかったつもりでいるから余計難しいかもしれない
子どもはまっさらで何かを適当にはできない、すべてに真摯、そのままを映す鏡
劈かれるときも多いけど
よく見たら、受け止めたら
今の仕事も受け始めた当初の面接で
「あなたはなぜこの仕事に就きたいのですか?」と訊かれ
「子どものそばが成長できるからです」としか言えなくて
落とされていた
でもやっぱりそうなのだ
社会貢献なんてたいそうには言えなくて
あの時はまだ仕事に関わり始めてすぐで
「人を助けること」が「自分を助けること」と対になってるなんて知らなかったから
それも子どものそばで知ったから
成長の無い先なんて と 思う
私にとっては、大学以降の15年弱を繋げるようなお話だった
思うことがいっぱいありすぎて
「ああ、そうだよな」と力強くうなづきたいことがたくさんあって
すごく、嬉しい時間だった。
本当に思うことがありすぎてまた書くだろうな。