葬儀の主役は、当然「死者」だが、彼は当然「死体」という物になっているだけだから、その代理の喪主かといえば、そうではない。主役は「坊さん」だと思う。葬儀は宗教的なルールで行われる。
葬儀社はその代行業者。代行業者と死体の代理人の打ち合わせで、形を作って、坊主がその上に乗る。世間のルールや常識をデストロイするのが、まあ、いわば私の存在証明のようなモノだから、初めての「喪主」体験を目一杯生かして、「率直な交渉」を住職と行った。
結果は、100%満足できるものとなった。
代行業の葬儀社との交渉の原則は、見栄を張らずに(張れない貧困生活者という実態は別にしても)最低価格だ。荼毘にふすだけで、余計な飾りつけや盛り付けは不要だ。棺桶など、いや棺など薄いベニアや丈夫なら段ボール箱でもいい。余程、燃えやすい。
「お別れ」「お別れ」と何度も、棺の蓋を開けて、涙を誘ったり、生の花で飾ったり、葬儀代行業者の手垢のついた商品価格上乗せ演出など、冗談じゃない!当事者はとっくに死んでいる。顔をみたきゃ、生きている時の写真で十分だ。死体の顔を「拝んで」どうしようというのだ?
ちゃっちゃとバーナーの赤ボタンを押して、高温焼却し、灰にしてやらなきゃ、魂の抜けた腐乱するばかりの肉体がかわいそうじゃないか?
できる人は、好きなだけ「未練」と「見栄」を満足させて高額な葬儀代を払えばいい。それこそ社会の潤滑油だ。見栄が商売の土建屋は、1千万円ほどもする黒塗りのクラウンの高級車でやってきて、「ふん、この程度の葬儀か!」と腹のなかでせせら笑っているが、なあに、帳場に出す香典は、5000円に過ぎない。3000円のお返しを受ければ、2000円の話。そんな目線など気にすることはない。
質素な葬儀には「美徳」が宿るのだ。わたしゃ、自分の人生を生きているのであって、他人の顔色を生きているのではない。納得できないことと出来ないことは、しない主義だ。
葬儀社はその代行業者。代行業者と死体の代理人の打ち合わせで、形を作って、坊主がその上に乗る。世間のルールや常識をデストロイするのが、まあ、いわば私の存在証明のようなモノだから、初めての「喪主」体験を目一杯生かして、「率直な交渉」を住職と行った。
結果は、100%満足できるものとなった。
代行業の葬儀社との交渉の原則は、見栄を張らずに(張れない貧困生活者という実態は別にしても)最低価格だ。荼毘にふすだけで、余計な飾りつけや盛り付けは不要だ。棺桶など、いや棺など薄いベニアや丈夫なら段ボール箱でもいい。余程、燃えやすい。
「お別れ」「お別れ」と何度も、棺の蓋を開けて、涙を誘ったり、生の花で飾ったり、葬儀代行業者の手垢のついた商品価格上乗せ演出など、冗談じゃない!当事者はとっくに死んでいる。顔をみたきゃ、生きている時の写真で十分だ。死体の顔を「拝んで」どうしようというのだ?
ちゃっちゃとバーナーの赤ボタンを押して、高温焼却し、灰にしてやらなきゃ、魂の抜けた腐乱するばかりの肉体がかわいそうじゃないか?
できる人は、好きなだけ「未練」と「見栄」を満足させて高額な葬儀代を払えばいい。それこそ社会の潤滑油だ。見栄が商売の土建屋は、1千万円ほどもする黒塗りのクラウンの高級車でやってきて、「ふん、この程度の葬儀か!」と腹のなかでせせら笑っているが、なあに、帳場に出す香典は、5000円に過ぎない。3000円のお返しを受ければ、2000円の話。そんな目線など気にすることはない。
質素な葬儀には「美徳」が宿るのだ。わたしゃ、自分の人生を生きているのであって、他人の顔色を生きているのではない。納得できないことと出来ないことは、しない主義だ。