今回は、岡山・香川への島旅に出かけました。
まず、今回、渡島した島々の位置関係を示します。赤枠の島々へ渡島しました。
(今回、渡島した島々)
いつものように今回の島々の概略を書いておきます。
石島(いしま)は、玉野市胸上の南約5Km、出崎からは1日100隻近い貨物船が往来する東西経路を隔てて約1.5Kmの瀬戸内海に浮かぶ小さな島。東端に戸尻鼻、西端にヘラガ崎という小さな岬があり、この岬を東西に結ぶ稜線に石島山がある。この稜線を境として南側が香川県香川郡直島町「井島」、北側が岡山県玉野市「石島」である。南側の直島町域には住民はいない。島内からは石器や土器片が出土し、3基の古墳がある。江戸時代に御領地(天領)の直島と岡山藩胸上村の間で領有権と漁業権をめぐり紛争が始まった。元禄3年(1690)、幕府評定所の裁定により、島は直島領、海域の一部のみ胸上領になったが、胸上村が再提訴、同15年(1702)の裁決で島の北半分を同村領とする国境が決定し、現在に至っている。元禄年間(1688~1704)に胸上村から3戸9人が移住、開拓が始まった。産業は漁業が中心で、とくにノリの養殖が盛んだ。
(石島)
松島は、本土から0.4Km、瀬戸内海を展望する名勝地鷲羽山のまさに目の前にある島。岡山県の有人島のうち、最小の島でもある。平坦地は少なく、南部の海岸沿いに集落がある。松島周辺には県下でも有数の優良漁場があり、水産業が主産業になっている。中世には水軍城が築かれ、島全体が城塞となっていたという。島の東部には伊予の海賊・藤原純友に由来する純友神社がある。瀬戸大橋を近くに眺めながら、釣客が本土から多く渡っている。
(松島)
六口島は、下津井港の南西約2Kmにある島。大部分が急峻な地形で、山林のほとんどは国有林である。北部の平坦地や西部の海岸沿いに集落がある。島名は、東岸の一番谷から六番谷まで6つの谷があることにちなむという。島内からはサヌカイト石器や縄文式土器などが多数出土している。近世の初めには塩飽衆と領有が争われ、天保3年(1646)に備前領にとなり、造林と馬牧の島として足軽番役が置かれている。天和年間(1681~84)に島守が来島、定住が始まった。花崗岩が露出しており、慶長7年(1602)から寛永5年(1628)にかけて徳川幕府によって行われた大坂城改築の時の石切場跡が残り、加賀藩・前田家の刻印入り残石も発見されている。戦後の昭和35年には人口46人を数えた。西岸は海水浴場で、その南端にある国指定の天然記念物「象岩」は、瀬戸大橋遊覧船コースのポイントのひとつだ。水産業と観光サービス業が主産業で、旅館1軒・民宿3軒が営まれており、海水浴や釣り、海の幸を味わう多くの観光客が訪れている。北端にはキャンプ場があり、岡山県「青少年の島」に指定されている。
(六口島)
沖之島は、小豆島の北東108mの沖合にある島。沖之島の属する小江地区は、小豆島随一の漁業基地で、江戸時代から漁業者が移り住み、明治24年には26戸を数えた。地勢はなだらかで地味豊かなことから農業も営まれているが、島の基幹産業は底引網などの漁業である。小江の集落との間には約400mにわたって流れの早い海峡があり、「小江の瀬戸」または「乾の瀬戸」と呼ばれている。
(沖之島)
大島は、庵治港の北西約2.5Kmの海上にある。古くは源平合戦の戦場にもなった島で、屋島の大合戦に敗れた平家方の墓に植えられた松が、800年の歳月を経て、「墓標の松」として残っている。江戸時代には高松藩最大の島として山守が置かれ、明治時代には10戸ほどが半農半漁の生活を営んでいた。もともとは2つの島からなっていたが、砂洲でつながった。標高70mと小柄な山体で、中央の平坦部には明治40年制定の法律「ライ予防ニ関スル件」により、同42年に中国・四国8県連合の大島療養所として設立された国立療養所大島青松園がある。青松園では昭和6年から入園者自身による自治会(協和会)が発足しており、昭和56年3月には自治会50年史の発行もされている。平成8年に「らい予防法」は廃止されたが、同16年5月現在、入所者は約170人を数えている。
(大島)
瀬居島は、坂出市の北沖にあった島。面積0.91Km2・標高112m。北には小瀬居島がある。ともに瀬戸内海国立公園に含まれる。昭和43年、番の州町造成第一期工事によって四国と陸繋化した。昭和40年、の国勢調査では人口1,162人を数えていた。人の住居が確認できるのは近世になってからで、甘藷・麦作や、延縄業などが営まれていた。またタイ・サワラの網代場として知られ、特に瀬居島の東沖は「かなての瀬」と呼ばれる優良漁場として名を馳せた。番の州は干潮時にあらわれる砂州だったが、現在は電力・造船・コークス・軽金属・石油製錬・アルミ加工など、瀬戸内海随一の工業地帯へと発展している。平成12年国勢調査時の人口は912人。同14年度の生徒数24人の瀬居中学校、児童数43人の瀬居小学校がある。
(瀬居島・沙弥島)
沙弥島(しゃみじま)は、坂出市の北沖にあった島。面積0.28Km2・標高28m。平成12年の国勢調査時の人口124人。瀬戸内海国立公園に含まれている。昭和42年、番の州町造成第二期埋立工事で四国と陸繋化した。昭和40年の国勢調査では人口141人を数えていた。柿本人麻呂が詠んだ「狭岑(きみね)の島」がこの島だといわれ、人麻呂岩と呼ばれている岩も残り、柿本人麻呂の碑も立っている。また島内には沙弥島遺跡群があり、特にナカンダ浜からは縄文土器類とともに弥生後期からの製塩土器などが発見されて、製塩集団がいたことが知られている。平成8年には「沙弥島千人塚遺跡」として香川県の指定遺跡になっている。また城山地籍には中世の遺構といわれる石塁が残されており、当時活躍した塩飽衆との関わりが指摘されている。人の居住が確認できるのは近世に入ってからで、甘藷・麦作、イイダコ縄などを営んできた。近代に入ると製塩が行われるようになり、明治29年には住民が募って沙弥製塩株式会社を設立したが、埋立とともに姿を消した。東端には瀬戸大橋(児島~坂出ルート)の橋脚が建設されている。平成14年度の児童生徒数は7人の沙弥小中学校がある。
(瀬居島・沙弥島)
広島は、丸亀市の北12.5Kmの海上にあり、塩飽諸島の中で最大の面積をもつ島。戦国時代末期、長曾我部氏に敗れた香川一族と長尾一族の落人が住みついたのが始まりとされ、本島と同じく人名の島でもあった。主要産業は採石業で、島の南西部で古くから花崗岩(青木石)が採掘されている。また、従来の沿岸漁業に加えて、近年フグなどの養殖漁業もなされるようになった。ヤシの木に囲まれた美しい海水浴場も完成し、夏季の休日は多くの海水浴客で賑わっている。
(広島)
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
今回行った島の人口を記載しておきます。
石島91人、松島3人、六口島10人、沖之島75人、大島115人、瀬居島767人、沙弥島99人、広島281人
出典:(財)日本離島センター発行の「島々の日本」から (平成22年国勢調査(確定値)など)