アナザースカイ エジプト

もうひとつの故郷のように感じるエジプト。たびたび訪れるエジプトのフォト旅行記をご覧下さい。

日本到着の夜

2011年02月28日 | 日記

 

 

 

娘が2月5日土曜日、エジプトから帰還した。

駅に現れた娘の姿を見た時は力が抜けるほどホッとしたが、その表情にはいつもの笑顔は無かった。

 

 

                    

 

 

 

カイロ空港へ向かう車から見たタハリール広場の変貌に、少なからず衝撃を受けたようだ。

タハリール広場は通勤や友達との待ち合わせ、乗り合いタクシーのお兄さん達とのおしゃべりなど

娘にとって思い出深い場所だった。

慣れ親しんだ店や通りの破壊が想像していたよりもひどく

「大切な彼氏が理不尽に傷を負わされたみたいで辛い…」と表現した。

 

 

 

                    

 

 

 

お世話になった方々や友人達にも、満足に別れが言えずに帰ってきてしまった事も気がかりだったようだ。

マンションの部屋の大部分の荷物もそのままだった。

「情勢が安定したら戻ればいい。」と言ったら、少し明るい表情に戻ったが、

もうひとつ、娘にとっては辛い現実が待っていた。

 

 

 

                    

 

 

 

愛猫アリーナの容体は伝えていたものの、亡くなったことは心が折れないよう帰国してから伝えようと思っていた。

車の中では言い出せないまま我が家へ到着。

娘は玄関ですぐに気づいたようだ。アリーナの日用品が無くなっていたからだ。

「やっぱり、間に合わなかったんだ…」と泣き出したが、看護には手を尽くしたこと、安らかな最期だったことを話したら、

「アリーナ幸せだったね…」とつぶやいた。

 

 

 

                           

 

 

   

人生にはいろいろなことが起こる。

今回のことは、辛い体験であったことは確かだが、

無事帰国出来たこと、帰国に尽力してくださった方々や多くの方が見守ってくださったこと、

アリーナが天寿を全うしたことは、幸福なことだったといえる。

今晩は温かいしゃぶしゃぶとお風呂で、心と身体をしっかり癒しぐっすり眠ってほしい。

そうすれば、きっと明日はそのことに気がついてくれるはず。

 

 

 

                     

 

 

  

 

 

 

 


おもてなし

2011年02月22日 | 旅行

 

 

(おことわり:今回のブログ「おもてなし」はエジプト革命以前に予約投稿したものです)

 

アビールの娘のバルディースは16歳で、Hey!say!JUMPの山田涼介君似の美人ちゃん。

 

 

      

 

 

 

ある日、娘はアビールにお招きを受けて自宅まで遊びに行ったようだ。

しかしアビールはまだ仕事。パパもアインシャムスという大学の教授なのでまだ不在。

両親の代わりに彼女が甲斐甲斐しくキッチンに立っていた。

 

 

                   

 

 

 

いつもお手伝いをしているのか、バルディースが手際よく一生懸命作ってくれた料理を紹介。

・ロッズ ビ シャレイア…1㎝ぐらいの素麺のようなパスタをバターで炒め、米と一緒に炊く。

                 味付けは塩のみ。コシャリのあっさり版。

 

 

     

 

                      

 

 

・ファソリア        …白いんげん豆と緑いんげん豆のトマト煮込み。

                 トマトと玉葱をミキサーにかけ、チキンのスープで煮込む。

 

                     

 

 

・チキンのソテー     …チキンをオーブンで表面パリパリ、中ジューシーに焼く。

                 肉汁と玉葱でグレービーソースを作る。

 

・プリン           …プリンだけはインスタントで作った。可愛いハート型。

 

                    

 

 

 

エジプトではほとんど外食をせず、ソースに至るまで自家製が多いようだ。

鶏料理をする時は、一羽丸ごと購入してスープをとってから料理に使う。

それでも歯ごたえ充分で根性のある美味しいチキンだ。

面白いのは、エジプト人はムネ肉が好きで、お客さまにはムネ肉を取り分ける。

価格もムネ肉のほうが高く、上等な部位とされている。

バルディースが見事に食事を仕上げた頃、ママとパパが帰って来た。

 

 

                    

 

 

 

アビール家では、出来るだけ昼食と夕食は家族揃って楽しむことにしているそうだ。

なぜなら、エジプトの朝食は11時頃、昼食は3時か4時頃、夕食は9時頃。

公務員の就業時間は8時から2時までなので、アビール家では家族が揃う事が可能になるという訳だ。

 

 

     

 

 

 

それにアビール家では、家族が協力して一緒に過ごす時間の捻出に努力している。

子どもだからと勉強があるからと特別扱いをしない。

とにかくどこの子どもでも親をよく手伝う。「手伝って!」という言葉を聞かなくても動いている。

 

 

     

 

 

 言われたことだけをやるのではなく、何をするべきか自ら考え行動する。

いくら知識や学歴があっても、この基本的な行動がとれなければ意味がない。

エジプトでは、まだ家庭を通して教育をするという本来の家庭の姿を留めている。

ワイワイ食卓を囲んで話す、笑う、時として口論になったとしても、

そんな家族はきっと強い絆が出来ているはず。

今からでも…。

 

 

 

 

  

 

 


アリーナ

2011年02月11日 | 旅行

 

 

2011年1月上旬から娘の帰国までの日々は、怒涛のような毎日だった。

アリーナの体調が悪くなり、食事を受け付けず衰弱していくように思われた。

 

 

                              

 

 

 

アリーナは娘が小学一年生の時拾ってきた茶トラの猫である。

雌だと友人に言われ「ドラクエⅣ」のアリーナ姫から名前をもらったが、雄だと後日判明した。

その名前のまま、あっという間に20年が経過していた。

 

 

                                            

 

 

人間なら100歳ぐらいだと獣医は言う。

検査をしたら、末期の肝臓癌との診断が下った。

もう長くはもたないと言われ、その晩は夫と二人で泣いた。

覚悟はしていたものの20年も生活を共にすると、もはや私たちにとっては子どもであった。

 

 

                    

 

 

 

アリーナは息子、娘の成長、反抗期、病気、受験、進学、就職など、

どこにでもある家庭の変化していく物語を、その静かな瞳で見つめ続けてきた。

甘えたり、いたずらしたり、転んだり、家から脱走したり、喧嘩して怪我をしたり…

笑わせてくれたり癒してくれたり、ハラハラもさせられたが確実に家族のかけがえのない一員であった。

 

 

 

                 

 

 

 

少しでも長く傍に居て欲しいと、懸命な看護が始まってしばらくした頃、

突然!エジプトの反政府デモのニュースが飛び込んできた。

アリーナの容体と比例するように、エジプト情勢は悪化していった。

ネット、携帯が遮断され娘との連絡がとれなくなり、彼の容体と相まって不安な眠れない夜が続いた。

 

 

 

                  

 

 

 

一月終わりには、もう自力では立てなくなっていた。

いよいよかもしれないと予感し、ストールに温かくくるんで家中の部屋を見せて歩いた。

「お姉ちゃんのベッドでよく寝てたね。お風呂場でよく水を飲んだね。ここの窓からよく外を見てたね…」

少し興奮しながら懸命に大きな可愛い瞳で、自分の生きた限られたスペースを見つめていた。

その翌日、アリーナは私の腕の中で息を引き取った。

癌の苦痛はほとんどなかったように思う。亡くなるまではうとうとと眠っていた。

しかし大好きな娘に再会することは叶わなかった。

 

 

                                        

  

 

 

息を引き取るとまもなく、娘の帰国のフライトが決まった。

アリーナは古代エジプトの猫の神様「バステト神」になったと言ってくださった方が。

神になり遥かエジプトまで飛んで、娘を守ったのかもしれないと今は思おう。

一緒に寝ていた夜になると、アリーナを抱いていた腕がたまらなく寂しい。

しばらくは、その寂しさを噛みしめよう。

それがアリーナへの鎮魂歌になるような気がするから…

 

 

 

                              

 

 

                    

 

 

 

 

 


愛する出エジプト

2011年02月07日 | 旅行

 

 

エジプト脱出のチケットを手に入れることに行き詰っていた。

日本政府がやっと声高に、チャーター機の検討に入ると伝えた頃には、

寒く食料も少なく、体を休めるスペースもないほど混雑した空港で

待ち続けた600人程の観光客は疲弊しきっていた。

 

 

                      

                                                (普段の空港)

 

 

 

しかしチャーター機はたったの1機。しかも180人乗り。

それでローマまで3往復するらしい。

エジプト在住の邦人は1000人以上。

それに加えてルクソール近辺には500人程の観光客が残っていると報道されていた。

どう考えても、数が合わない。

 

 

                    

 

 

 

かつて、賛否両論はともあれ「人命は地球より重い」といった総理がいた。

時が流れて「自己責任」といった言葉が好きな総理が出現した。

その頃から政府の救援を待っていても、自分の身を守ることが出来ない国へと変貌していったのだろう。

 

 

                       

                       

 

 

エジプト脱出に絶望的な気持ちになりかけていた時、三人の方が手を差し伸べてくださった。

お一人は、エジプト考古学者の河江氏。

一人暮らしで心配だった娘を、ギザの考古学調査本拠地という素晴らしい環境へお連れいただき

安全に快適に過ごさせていただいた。

そして、危険を冒して娘を空港まで送り届けてくださった。

 

 

                     

 

 

 

もう、お一人は大阪大学の准教授の金谷氏で、チケットの確保に多大なるご尽力をたまわった。

やっと探し当てても、フライトがキャンセルになったり大規模なデモが予想され危険だったりと、

3回目にしてやっと出国の運びとなった。

お仕事が山積みだったのにも拘らず何度もチケットを取り直していただいた。

関西国際空港ではお出迎えまでしていただいた。

 

 

        

 

 

 

最後のお一人は報道カメラマンの冨田氏。

経験のない政変の情勢に戸惑っている私に、タイからスカイプを繋いでくださり現場の経験を教えていただいた。

そのあともずっとアドバイスをいただいた。

エジプト情勢は冨田氏の予想されたとおりに推移していった。

 

 

 

      

 

                                   

 

 

 

親の私のほうがくじけそうになったが、河江氏・金谷氏・冨田氏はどんなトラブルにも決して屈せず、

娘の脱出に力を注いでくださった。

実は、このお三人ツイッターで知り合った方々である。

ツイッター上でお話ししていただけの私たちのために、人道的に大切な時間と労力を費やしていただいた。

そして最後に忘れてはならないのは、多くの皆さんのエールだった。

いただいたツイートを見ると、力がわいた。勇気が出た。そしてなにより温かかった。

娘はまだ、この事実を詳しくは知らない。

ツイートをすべて見せて、自分の出エジプトのために、いかに多くの人たちが応援してくださったかを知らせたいと思う。

 

 

                    

 

 

 

ツイッター、フェイスブックの呼びかけで、熱い怒りが結集して幕を開けた反政権デモ。

この歴史的政変に出くわした娘は

また、ツイッターで知り合った胸を熱くする方々によって救済されたといえる。

感謝…。

 

 

                                                  

 

 

 

 


2011.1.25 怒りの日

2011年02月03日 | 旅行

 

 

初めてエジプトの地に降り立ったのは2003年。

 

 

                    

 

 

 

町ではボーダーフォンの看板が目に付いた。

まだやっと娘に携帯を持たせた頃、

経済的に困窮している人たちが多いと聞いていた割には、携帯の普及率がすごいと感じた。

 

 

 

                    

 

 

 

友人たちの多くが、当時からムバラク大統領の批判を熱く語っていた。

娘が留学した頃、娘の友人たちは小学生に至るまで、フェイスブックを利用して友達を増やし楽しんでいた。

娘も勧められ登録した。

 

 

 

                    

 

 

 

誰も予測しなかった大規模な反政権デモは、それらを利用して行われたと聞く。

すべて今から思えばの話である。

 

 

娘がいつも通勤に通っているタハリール広場がその舞台となった。

軍と治安警察への市民感情の違いや、

暴徒と化しているのは反政権デモの人々ではない事を知った。

それどころかエジプト考古学博物館も遺跡も、人々は「人間の鎖」で守っている。

 

 

 

                      

 

 

 

略奪や放火から町を守るため、自警団を結成したのも反政権デモの人々だ。

政府はデモが拡大しないよう焦って、ネット、携帯を突然遮断した。

地球上からエジプトが消えてしまった瞬間だった。

私の娘も消えてしまった。

 

 

 

                    

 

 

 

この不安な情況の中、しばらく娘の消息が途切れる状態が続いた。

その時の恐怖と怒りは、きっと生涯忘れることはできないだろう。

それでもデモは拡大を続けた。

多くの血が流れたようだ。

デモの映像が毎日のようにテレビに流れる。

参加している人々を見ると、みんな顔見知りに見えてくる。

 

 

 

     

 

                     

 

 

 

この人々にもう一滴の血も流してほしくないと思う。

しかし、決して諦めず頑張ってほしいとも思う。

某国のような堅いイスラム国家ではなく、

以前のような陽気で自由で温かい、そして国民が当然の報酬を得ることのできるエジプトをぜひ構築してほしい。

頑張れ!エジプト!!

負けるな!エジプト!!

 

 

 

                     

         

 

 

 

 

 

 


ラクダ アラカルト

2011年02月01日 | 旅行

 

 

砂漠といえば、そこをゆっくり歩んで行くラクダをイメージする。

エジプトやアラブ世界のアイコンだ。

土産物屋や空港の売店では、さまざまなラクダに出合える。

 

 

                    

 

ドバイ空港のラクダ

手足に針金が入っていて、ポーズをとることが出来る。

母が気に入って飛行機の中でずっと抱いてた。今は母の養子になって家にはいない。

 

 

    

                    

 

カタール空港のラクダ

ボタンを押すと「ベーーベーー!」と鳴く。

 

 

 

                    

エジプトのラクダ

お腹を押すと、男性の声でにぎやかにアラブ音楽を歌いだす。

 

 

 

     

 

エジプトのラクダのスノーボール。娘のお気に入り。よく見るとラクダの目が変!

 

 

                    

 

ついでにエジプトのハン・ハリーリで買ったロバ。

 

   

 

 

                    

 

日本のアジアンショップで購入したラクダ。何製かわからない。

 

お国柄でそれぞれ違いがあるのが面白い。

しかしラクダがオブジェやぬいぐるみになるのは、やはりアラブならでは。

テディベアで有名なシュタイフ社のラクダも、鞍や手綱がアラブ風の装飾で作られていた。

ラクダは家には無いが、シュタイフのアラブ風テディ。

 

 

                    

 

 

 

過酷な地で生活する砂漠の民を、遠い昔から支え続けた。

可愛い眠そうな顔で、飄々と砂漠を歩む。

あせらず じっくりと…

時としてラクダのように生きたいとも思う。飄々と……。