アナザースカイ エジプト

もうひとつの故郷のように感じるエジプト。たびたび訪れるエジプトのフォト旅行記をご覧下さい。

絵を描き続けて60年

2019年07月18日 | 日記

エジプトとは関係のないプライベートなことで失礼します。

今まで描きためたイラストを、イラストACというサイトに投稿し始めました。

私の生んだイラストの子ども達が、どこかで活躍してくれたら幸いです。

絵はいつも傍らにいて、60年以上私の人生を支えてくれました。

幼い時も、学生時代も、育児に大変な時も、経済的危機の時も、大病を患った時も。

嬉しい時悲しい時も、そしてこれからも。

私(アメンママ)のページはこちら→https://www.ac-illust.com/main/profile.php…

 ダウンロードするのに解凍アプリが必要です。(例・Easy zipなど)
 
 
面倒ならページを見て頂くだけでも、とても嬉しいです。

商業的に作成したもの以外のイラストを投稿しています。

従って男女共同参画ネタが多いので、シーンが限定されています。

今後は、使いやすいイラスト、エジプトイラストももっと描いて投稿していきたいと考えています。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ムルシ元エジプト大統領の死

2019年06月30日 | 日記

 

ムルシ元エジプト大統領が6月17日に亡くなったと聞き、当時を振り返る。

2013年ムルシ政権抗議デモがなぜあれほど拡大していったのか、

エジプト国民の生活はどのような状態にあったのかを日記に記していた。

またエジプト革命に続き、協力隊として政変の真っ只中にいた娘の状況とエジプト撤退なども、記憶が鮮明によみがえる。

このデモに対して他国で様々な声が上がったが、

エジプト青年からの手紙を読んで、国民に目を向けていない為政者への当然の抗議だったと納得がいった。


抗議をする対象を的確につかみ、行動した多くのエジプト国民は素晴らしかったと今も思っている。

●ムルシ政権抗議デモ・友のコメント 2013年7月6日
https://blog.goo.ne.jp/a…/e/45e31e35c3d7d34dadbc133c85dc83e3

 

●エジプト青年の長い手紙 2013年7月12日
https://blog.goo.ne.jp/a…/e/41397b809e17f4fc3f79028491cf3eb3

 

●エジプト政権推移 2013年7月19日
https://blog.goo.ne.jp/a…/e/5ce270c69318b8d2a1b742cfceaa63bd

 

●撤退も勇気 2013年8月2日
https://blog.goo.ne.jp/a…/e/4a4edc7a9dc741a5ce697553b05e497a

 
画像に含まれている可能性があるもの:9人、群衆、屋外
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シリア

2019年01月26日 | 日記

2019年1月 シリア難民キャンプ

シリア北西部イドリブ県で大雨による洪水が発生し、

テントが浸水したり流されるなどの被害が出ている。

窓やドアが無い建物や粗末なテントで生活する数千人の子どもたちは

劣悪で危険な状況に陥っている。

また、昨年だけで50万人が避難を強いられ、今冬凍死した子どもも。

シェルターや毛布、暖房用の燃料は不足しており、深刻な事態に直面していると知った。

Save the Children より

ガールスカウト保護者、子ども食堂関係者に呼びかけ

シリア支援に尽力されている山崎やよいさんにお聞きして、

下記の富山ムスリムセンターへ送ることを決定した。

子どもを持つ親として多くの保護者の賛同を得、

集まった衣料を整え、心を込めて送付させて頂いた。

  

名古屋に住む友人達にも呼びかけて、持ち寄った衣料を送付した。

しかし残念ながら 衣料を送る運送費が足りていない。

現金での支援の方が役立つのか、

不足している物資の方が良いのかが ジレンマだ。

以下の写真は富山ムスリムセンターの活動の様子。

  

 

  

 

  

 

  

 

  

劣悪の環境の中、受け取る子ども達の微笑んだ顔が愛おしい。

なんとか頑張ってこの冬を乗り越えてと願わずにはいられない。

 

  

以前、ガールスカウトから同様の支援を送った年もシリアは極寒の地となっていた。

その時のブログ→#mce_temp_url#

Syrian Handsでは、この冬も募金を募って灯油を配布している。

前述した山崎やよいさんは、「女性自身」やNHK「あさイチ」等で

シリアの現状を訴えていられる。

シリア女性の自立支援団体「イブラ・ワ・ハイト」の発起人。

イブラのコンセプトをご紹介しておこう。

「泥沼のシリア紛争の中、生活基盤のほぼ全てを失った女性たちに「針と糸」で収入の道をひらくプロジェクトです。

2011年3月に起こったシリアでの民主化要求デモは、泥沼の紛争へと発展し、甚大な数の被災者を生み出しています。

国際社会の人道支援は追いつかず、特に難民キャンプ外に暮らす避難民や、シリア国内への支援は、極めて限られたものでしかありません。

なかでも、働き手の男性を失った女性・子ども世帯は困窮を極めています。

そのような中、手芸品を制作・販売して、わずかながらでも収入を得ようとするシリア人女性が、シリア国内外に現れ始めました。

過酷な状況の中でも、自ら未来を切り開こうとしている女性たちを支援するため、

私たちはまずシリア刺繍の商品化を進め、刺繍資材を提供し、製品を適正価格で買い取り、販売しています。

この刺繍はシリア紛争被災者の女性が製作したハンドメイド作品です。」

 イブラ・ワ・ハイト(アラビア語で針と糸)より

 

  

2018年9月には、名古屋三越で展示即売会も行われた。

  

美しく愛らしい作品が並んだ。

このイベントで、シリアの現実を知った人も多かったと想像する。 

  

そして、医師 鎌田實氏が代表理事を務めるJIM-NETは、

イラクの小児がん医療支援、シリア難民・イラク国内避難民支援、

福島の子どもたちを放射能から守る活動に貢献している。

 

  

 

  

2018年2月には、名古屋柳橋で「がんと闘うイラクとシリアの子どもたちARTとチョコ展」が行われた。

描かれている子ども達はマスクをして点滴に繋がれている。

なぜこのような病を患ったのか、なぜ治療を受けることが困難なのか

なぜ寒さに死にゆく子どもがいるのか、

命の危機にさらされる子ども達がなぜ存在するのか、

その元凶は 戦争 内戦 に他ならない。

シリア、イラク、パレスチナ、イエメンなど多くの紛争状態にある国に

一刻も早く暖かい春が訪れることを祈る。

そして私達の出来る支援は、まず知ることから始まると痛感する。

 

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「エジプト革命と発掘隊の危機管理」河江肖剰氏

2018年11月12日 | 日記

 エジプト革命当初、ネットは遮断され、TVもまだ報道規制が引かれていた時期だったので、世界中で一番エジプトの現状が分かっていないのは、タハリールにいる人々以外のエジプト人と在住外国人、観光客だったのではないだろうか。

娘は、河江氏に保護して頂いてからのギザの状態は、河江氏のブログの通り深刻だったと振り返っている。

河江氏のブログはこちら→#mce_temp_url#

欧米各国はチャーター便をいち早く飛ばせて自国民の搬送が始まっていたようだ。

その克明な記録が書かれた河江さんのブログがあったが、今は見当たらない。

  

カイロ空港で待機していた人の記録では、

「2Fロビーを良く観察すると欧米人は少ない、所在なく佇んでいるのは、ほとんどがアジア、アフリカ各国の旅客であることが分かった。

M氏と情報交換をすると、欧米各国は政府がチャーター便を手配し、早朝から自国民を出国させているとの事、このような危機事態における欧米各国政府の対応の速さに感心した。」とあり(パーソナルプロジェクトの勧め《6》より)

ジャーナリストの高野孟氏によると

「外務省設置法の第4条に列記された29の所轄事務の9番目に『海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること』が掲げられているけれども、実際には各国に置かれた大使館はじめ在外公館は、当該国や周辺地域について的確な情報を収集し分析して、邦人が遭遇しかねないリスクを予測して最大限の予防策を講じるといったプロフェッショナルな仕事など、全くと言っていいほどできていない。」と述べている。

 又もっと辛辣に

「私自身、数多くの海外取材を通じて体験しているので、自信を以て断言するけれども、多くの日本の在外公館は、形だけの儀典や日本から来る議員や高官の接待が主任務で、普段は進出企業幹部やマスコミ特派員など内輪の在留日本人を集めてパーティを開くのが副任務。そのために高価なワインを揃えたワインセラーや豪華なカラオケ設備を整えるのが、大使や領事の力の見せ所になるという腐り切った状態にある。」とも。(自衛隊  歴史が証明する軍事力による自国民保護の危うさより)

海外で危機に陥った自国民を救い出すのは国家の責務だ。

税金の中には、本来災害や有事の救援に使うべき費用も入っているはず。

危機管理に関しては、過去に日本人が外国で遭遇した数々の事件の教訓も、全く生かされていないと実感した。

今後ますます増えると思われる海外における邦人(本当は邦人のみならず)の生命及び身体の保護その他の安全に関することについて、

日本政府は欧米各国危機管理に習い、一刻も早いシステムを構築しなければならないと思うが、今の政府ではそれも遠い将来のことだろう。

個人でも、グループでも、組織でも、河江氏のように危機管理を日頃から考えておく事が自らの命を守る事で最も重要だと感じる。


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ずっと言いたかった事。そして今でも苦々しく思い出し、また心からの感謝で思い出す事。

2018年11月10日 | 日記

安田さんのニュースを受けて、高遠さん、殺害されてしまった後藤さん、湯川さん、香田さんを思い出す。

「自己責任」の言葉は小泉政権の頃から飛び交い始めたと記憶している。

そして、あの地獄のような日々を救ってくれたのは、日本政府ではなくTwitterのお友達だったことを思い出している。

 

2011年 エジプト革命時、日本政府がやっと手配した実費自己負担のチャーター機はたったの1機。

しかも180人乗り。それでローマまで3往復との事。

エジプト在住の邦人は1000人以上。ルクソールには500人程の観光客が残っていると報道されていた。

どう考えても勘定があわない。

しかもネットが遮断されていて情報は行き渡らず。

外務省は、日本で自力で航空チケットを取れという。

当然エジプトへの便は飛ばず、取れたとしてもネット遮断でどうやってeチケットを送れというのかと抗議した。

しかし、その時一番知りたかったのは、連絡の途絶えた娘の安否だった。

「活発なお嬢様は、ご両親に頻繁に連絡される方だったのでしょうか?公衆電話なら連絡出来るはず」と言われた時は怒髪天をついた!

装甲車が走り回り銃声が聞こえる革命の町で、なぜそんな事が出来る!

私達親子の信頼関係も知らず、よくもそんなことが言えたものだ。

娘の命がかかっている。当然声を荒らげた。

海外で暮らす活発な邦人など、本気で救出する気などなかった。

少なくとも私と話したこの公僕は!

そして日本国とは、こんなものなのかと愕然とした。

 

 

後年「無血革命」「スマート革命」と称されたが、エジプト人の犠牲者は多数。事態はどう推移するかは分からなかった。

娘の身の安全を確保してくださったのは、考古学者河江氏だった。氏は米国古代エジプト調査協会のメンバー。

その考古学者宿舎で安全に 食べる物、眠る場所にも困らず居候で過ごさせて頂いた。

それを無償で許可してくれた米国にも、娘のために宿舎のスペースを空けて頂いた各国考古学者の方々にも、

心から深く感謝申し上げている。

 

何より出エジプトにご尽力頂いた河江氏、金谷氏、バヒトラベル社、貴重なアドバイスを頂いた冨田氏、Twitterの友人のお陰で今の娘がある。

各氏は、もう過去の事と言われるだろう。

しかし私と娘にとっては忘れてはならない事だ。

日本政府が救出しなかった香田さん、後藤さん、湯川さんのご遺族の壮絶な苦しみを思うと。

「自己責任」という言葉で人命を軽んじる事が無くならない限り。

 

 

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15,旅の終わりに

2018年10月29日 | 旅行

 ガールスカウトや、友人、主治医の先生に心ばかりのお土産を。

  

可愛い鉛筆や、革製のしおり、木製のスプーンやキーホルダー、マグネット、小さな動物。ほぼ手作りで、個性的な雑貨達。

  

夫には、マサイマラTシャツとザンジバルシャツ。

「水曜どうでしょう」ファンの息子へ「ビッグ5」のキャップを。

息子のパートナーには、娘とお揃いのマサイ族が描かれたスカーフ。

  

キリン2体とブリキのサファリカーは、この旅の思い出に。

ケニア、ザンジバルで買ったアフリカンなアクセサリーは、私と娘用。

まん中のペンダントは、マサイビレッジで。ライオンの牙がペンダントトップ。

    

ザンジバルの市場で買ったスパイス各種。

マサイシュカは、娘用と娘の友人用。

気になっていたことといえば、ケニア旅行中、ナクル湖でガイドのジョージさんとその親友が久しぶりに会えた時、

「親友の写真撮って」といわれて撮ったが、ジョージさんが携帯を持ったところを見ていない。

せっかく撮った写真、どうやってジョージさんに送ろうかと考えていた。

後日、娘が旅行会社のFBサイトを見つけたので、ジョージさんに届け~と投稿したら、

旅行社や、ジョージさんを知っている人達が気付いてくれた。

そして彼のことを誇りに思っているというコメントも。

きっとジョージさんに写真と気持ち届いたよね。届いたとしたら、便利な世の中に なったもんだ。

Shades of Africa Tours and TravelのFBサイトはこちら→

https://www.facebook.com/Shades-of-Africa-Tours-and-Travel-937482799603901/

この旅の終わりに。

娘へ 心からのありがとうを。

非日常の9日間は、今後も何度も反芻したくなる旅となった。

 

圧倒的な自然に驚き、懸命に生きる動物達を見て感動し、人々の温かさに癒され、別れに感極まって泣いた。

テントの宿泊では 被災者にここまで豪華で無いにしても、こんなテントが用意出来れば、劣悪な環境から脱することが出来るのにとも思った。

65歳になった私が 心躍り学び考えた若き日を、取り戻せたかのような9日間だった。

いつも傍らには、娘の微笑みがあった。(母娘ゲンカは一度もしなかった)

アラビア語ほど堪能でなかったはずの英語を駆使していた娘の姿も、眩しい思いで見つめていた。

ふたりでケニアとザンジバルに足跡をつけていった旅!

最高だったーーーーー!!!もう一度 ありがとう!!!

そして、アドバイスをくれた元ケニア隊Naoki君 ありがとう!

2012年、ケニアの野球振興に尽力するNaoki君のプロジェクトでミサンガ支援を行ったことがあった。

うちにはマサイの子も昔からいたっけ。

ご縁があったケニア。

最後にケニア・ザンジバル旅行記をご覧いただいた皆様。ありがとうございました。

ケニア・ザンジバルは遠そうで近い国。

彼の地はエジプト同様、温かく優しい国だったことを申し添えておきます。

「ハクナマタタ」(心配ない)は、何度も聞いた言葉であり、その言葉が随所に使われている曲「ジャンボ・ブワナ Jambo Bwana」

今もこの曲が脳内に流れ続けています。

こんにちは!ダンナ!素晴らしいケニアは心配ないさ。

">Jambo Bwana


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14,光と陰のストーンタウン

2018年10月27日 | 旅行

ピンチを切り抜け、ベッドで眠ることが出来た夜が明けて。

朝食をとる。

欧米人と思われる観光客が圧倒的に多い。

休暇も羨ましいほどあって、バカンス上手な欧米人は

素敵なところを良く知っている。

「オロジョ」というローカルなスープにも挑戦。

ライムで酸味をつけ、じゃがいも団子や肉、ゆで卵をいれたもの。

クセになりそうな味。

この旅の最終日は半日ガイドさんをお願いしてザンジバルを巡った。

ここからはガイドさんの説明。

驚嘆の家(The House of Wonder)

かつてスルタンが式典用に立てた宮殿。

当時としては、画期的なエレベーターや水洗トイレがあったので

「驚嘆の家」と呼ばれた。

  

「オールド・アラブ要塞」の近く

なんと見覚えのあるマークが!

 イギリス領だった頃のガールスカウト(ガイド)のテニス場跡があった場所だそうだ。

  

 どこか懐かしい建物のお土産屋が並んでいる。

  

ガイドさん

ザンジバルは16世紀初めは、ポルトガルに占領されていた。

ポルトガル人の住居や教会のあった場所にこの砦が建てられ、

アラブからの攻撃に備えた。

現在はこのスタジアムの舞台で、ライブなどが行われている。

で、アラブ砦でひと休み。

石に座っていたら、ヘナタトゥー師のマダムがイスを差し出してくれた。

みんな優しい。

ストーンタウンを再び散策。

なぜかカイロ ・モロッコ ・アレッポの落書きを見つけた。

この情緒ある佇まいは、Emerson Spice Hotel

   

活気あるフングニ魚市場、市営マーケットと巡る。

マーケットでゲバラTシャツの若者から、スパイスを買う。

クミン、シナモン、コリアンダー、ブラックペッパー、レッドチリ、カルダモンなど。

料理の上手い夫なら使いこなすはず。

旧奴隷市場跡にやってきた。

衝撃的な石像が現れる。

スウェーデン人の彫刻家によって造られた奴隷5人の石像。

専門ガイドさんの説明。

19世紀、世界の奴隷貿易の中心はザンジバルだった。

イスラーム商人は、アフリカ大陸内陸部から非ムスリムの黒人を奴隷にして市場まで連行し、インドやアラビア半島へ輸出していた。

イギリスが奴隷貿易を廃止させようと試みたが、この頃のザンジバル経済にとって、奴隷貿易は不可欠となっていた。

1896年、英国艦隊はスルタン宮殿に砲撃。 スルタンは降伏、ザンジバルの奴隷貿易はやっと廃止となった。

  

地下へ降りると、奴隷が収容されていた生々しい空間があった。

奴隷取引の間、この地下室に息もできないほどの大人数が閉じ込められ、多くの人々が飢えと窒息で亡くなった。

まさに、この場所でだ。

屈まないと移動できない高さのこのスペースには、女性子どもが70人ほど収容されていた。

この劣悪な環境のもと、人を酷使し尽くす人非人な奴隷制度は1896年まで続いたという。

奴隷にされた人々の壮絶な辛苦が浸み込んだこの場所を、ザンジバルは負の遺産として保存、公開している。

忘れてはならない記憶として。

旧奴隷市場跡に建てられた大聖堂(Cathedral Church)からは、

鎮魂の悲しく美しい讃美歌が流れていた。

情報を提供してくれた専門ガイドさんと。

  

ストーンタウン町巡りに戻る。

額縁やプレート。色、デザインも素敵だ。

  

飾り付けが可愛い土産屋 

ローマカソリック教会

フレディ・マーキュリーがここストーンタウンで生まれたことも知った。

ここは彼の生家。

両親は、ペルシャ系インド人であるパールシー。

裕福な層や政治的に影響力をもった人々が多いのが、パールシー。

彼は、インドの全寮制の英国式寄宿学校生活を経て、1963年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めた。

しかし、翌年ザンジバル革命が起き、17才のフレディと家族は、ザンジバルを離れイギリスへ渡った、という経緯があった。

11月9日から公開される映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、

ロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディを描いた伝記ドラマだと知った。

必ず観にいきたい。

 

半日付き合ってくれたガイドさんに別れを告げ、

テンボハウスのカフェで海を眺める。

残り時間は少ない。

ザンジバルの空と海の空間に、あとしばらくは存在していたい。

海を眺めながら、娘とこれまでの旅を振り返って「楽しかったねぇ…。」と思い出してクスクス笑った。

夕暮れが迫る頃、ザンジバルを後にする。

美しい町だったストーンタウン。

しかし様々な文化が共存する平和なザンジバルにも、光と陰があった。

どこの国でも、どの場所でも存在する負の歴史。

人間はしようがない性の生き物だ。

息が詰まる収容所は、漆黒の闇のような絶望に包まれ、

珊瑚礁の白い町と波飛沫は、眩しく光り輝いていた。

乗り継いだ飛行機の中、
窓から見えたカタールの町は、フィナーレのように輝いている。
 
今、カタールも飛び立った。
 
あと11時間で、この旅も終わる。
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13,ザンジバルで大ピンチ!

2018年10月26日 | 旅行

ザンジバルに着いたのは、とっぷり日が暮れた頃。

娘の協力隊仲間、ケニア隊の友人から勧められた場所。

ここへ来るために黄熱病ワクチンを受けてきた。

恥ずかしながらザンジバルという名称は「ガンダム」でしか知らなかった。

本当に実在した地名とは。

タンザニア・アフリカ東海岸インド洋上にある沖縄よりやや大きい島で、

2000年にザンジバル島にある町「ストーンタウン」が世界遺産に登録されたという。

娘がセッティングしてくれた アンティークなホテル「テンボハウス」

テンボはスワヒリ語でゾウだそうだ。

  

ホテルに足を踏み入れて感激。

なんてアンティークで素敵なホテルだろう。

「植民地の」という意がある「コロニアルスタイル」で、

イギリスなど支配した国の様式を、植民地向けに実用化した建築物だ。

  

ベッドはインド風。部屋の家具も全てアンティーク。

アラブ風の浴室も素敵だったが、2連泊に油断して撮り忘れてしまった。。。。

キャーキャー♪二人で興奮していたが、明日のために早く休もう。

  

おはよう!

海の見えるダイニングで朝食。

オムレツ名人の手さばきも鮮やか。

ヒートアップしたケニアから対極にあるような おっとり優美なザンジバル。

ここではクールダウンのつもりでゆっくりしたい。

しかし、タイトルにある「大ピンチ」はこの日の夜に訪れる。

  

まずはホテル内の「コロニアルスタイル」鑑賞。

この窓辺は、宮沢りえさんの若き日の写真集「Santa Fe」を思い出した。

  

1階のフロント付近。

博物館のようにアンティークな日用品も並んでいる。

私達の部屋は、3階 右から3番目。

  

ビーチを散策。

乗船するのが大変そうなボート。

海岸沿いにお土産屋が並ぶ。

  

フォロダニ公園には猫が多い。

野良なのに、人懐っこくて のんびりしているのは、

エジプトのように、地元の人々に可愛がられているからだろう。

 

ストーンタウンは迷路のようだ。

アフリカ、アラブ、インドの文化が入り混じる摩訶不思議な町。

ザンジバルは、かつてオマーン領やイギリス領(インド移民多数)だった歴史があった。

宗教はイスラム40%、キリスト教40%。

だから多くのムスリム、ムスリマともすれ違った。なんだかホッとする。

「アッサラーム アレイコム」と挨拶を交わす。

  

 19世紀ストーンタウンを作ったオマーンの王の影響で、

アラブ文化が花開き、荘厳なドアにアラブ文様を施したいわゆる

「ザンジバル・ドア」も多く見かけた。

ティーブレイクで立ち寄ったカフェ。

ブラウニーとジンジャーティが美味しかった。

タンザニアが生んだポップアート「ティンガティンガ」

観光客の女性が「2人一緒に撮りましょうか」と言って撮ってくれた。

ホテルに一旦戻ると、

ハウスキーパーの可愛らしい女の子が部屋を整えていてくれた。

ベッドの上を見ると、なんて可愛いタオルアート!

ゾウとウサギかな?葉っぱをちぎって付けられた目も可愛い。

心のこもった作品に感激して、記念写真。

可愛くて、このまま持って帰りたくて、

シャワーの時タオルに戻すのがためらわれた。

夕方、再びフォロダニ公園へ。

お目当ては屋台の串焼き! 

  

写真はあまり美味しそうにみえないけれど、

アツアツのシーフードの串焼きは絶品だ。

ロブスター、カニ、マグロ、小エビ、ラム、ビーフ♪

どれも、シンプルな塩味。

ところで、昼見かけた多くの猫達が幸せそうな理由がわかった。

ここで、観光客のおこぼれをお行儀よく待っている。

私達も少しずつ残しておいて、前で待っている猫達6,7匹全員に

いきわたるように配給した。

 少しさびしげな夜の町もいい。

ホテルへ戻りシャワーを浴び、夜風に当たろうと二人でベランダへ出た。

部屋からベランダへ出る扉を、蚊の侵入を防ぐために、きっちり締めた。

部屋へ戻ろうとしたら、なんと!オートロックがかかってしまっている!

ベランダへ出るドアがオートロック???

私達は部屋から閉め出されてしまった。

携帯も部屋の中に置いたままだ。

「これって絶体絶命 大ピンチじゃない?!!!」

一晩ここで過ごしたら、凶悪なアフリカの蚊にフルボッコになる。

下を見るとプールサイドのベンチに人が座っている。

二人で必死に呼びかけても、反応がない。

見ると、イヤホンでなにか聴いているようだ。こりゃ駄目だ!

従業員も一向に通りかからない。

娘が私の髪を見て「お母さん!そのカーラーのヘアピン貸して!」

とピンを取ると、鍵師のようにカチャカチャ鍵穴に差し込んだ。

『いくらなんでも、それは無理でしょ』と思っていたら

何分か経った頃、カシャッと違う音がした。

「開いた。。。」ハードボイルドな声で娘がカッコよくキメタ!

「ガールスカウトは諦めない。ガールスカウトは今そこにあるもので工夫する、切り抜ける。」

そんな言葉が頭の中を駆け抜けた。

最大のピンチを見事乗り越えてくれた娘。

いつの間に親を越え、逞しく成長したのか。

今回の旅でも、高齢者とよばれる歳に差し掛かった私に、ずいぶん気を使ってくれた。

「ほら!そこ段があるから」とか「ここでちょっと座ったら」「危ないからやめて!」

とか、私が母に言ってきたことを、いつのまにか 娘に言われるようになっていた。

「大丈夫だわ!」とカチンとくることもあったけれど、

しかしそれは嬉しいことでもあった。

歳月は流れ、母を労わる娘に育ってくれたのだから。

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12,クワヘリ(さよなら) ケニア、そしてジョージさん

2018年10月23日 | 旅行

  

ナイロビまで6時間。

後方へ流れ去る町や村を眺めて走る。

途中から、滑らかな道路に変わる。中国が行っている工事だ。

私は、エジプトと今訪れているケニアしか知らないが、

2003年頃訪れたエジプトでは、自動車、電化製品、携帯電話など日本製品が溢れていた。

それが訪れるたびに中国・韓国製品が増加していき、日本製品は減少していった。

世界の舞台で勢いがあり、技術力を誇り、尚且つ貢献支援もしていた日本を知る者としては、

やはり一抹の寂しさは否めない。

 「ケニアで最後のお土産屋さんだよ。何分でもいいよ。」とジョージさんが車を止めた。

 布に「ヌーの大移動」が描かれたアート。

土産屋の外装がおしゃれ。

ここの店員さん、日本語がペラペラ。猛勉強中とのこと。

娘はジョージさんが気を利かせて連れてきてくれたと言った。

応援のつもりで、日本の100円……1円までの硬貨をプレゼントしたら、大変喜んでくれた。

そして、ケニアの買い物で気がついたこと。

以前のエジプトのように「日本のボールペンを持っていたら欲しい。」と、どの店でも言われたこと。

もしこれからケニアなどを訪れる方は、ぜひポールペンを持参するといいと思う。

 

そして もうひとつ、レジ袋問題が日本でも報道されているが

ケニアでは環境保護の観点から、2017年8月ポリ袋禁止令を施行し実践している。

全ての店で不織布の袋か、ペーパーバッグを使っているという徹底ぶりだった。

土産屋が飼っているニワトリの中に、なんとサファリでは会えなかったホロホロ鳥(ちょう)を発見!

「愛染かつら」のほろほろ鳥(どり)は作詞家 西條八十氏が考えた架空の鳥らしい。ちょっとがっかり!

(若い人はここは流してくれていいです)

 見納めの地球の溝。グレートリフトバレー。

 

 行きと違い、なにか寂しげに映る。

 ジョージさんが「家に土産を買っていきたいけど、車を止めていい?」と聞く。

「どうぞどうぞ!どれだけでも」

休憩や土産屋で、いつも時間をオーバーして、

その後のドライビング計画に迷惑をかけてしまったと思う。

あんな長距離ドライブと悪路が待ち構えているとは知らず、

本当にごめんなさい。

それでもいつも笑ってくれていた。

自由にさせてくれて、本当にありがとう。

ジョージさんは、しこたま野菜を買い込んでいた。

今日この旅から解放されたら、いっぱい食べてゆっくり休んでほしい。

町の様子が近代的な建物に変わってきた。

ナイロビが近い。

    

「ケニアで最後のランチだよ」と連れてきてくれたレストランは、

肉の食べ放題の店・ナイロビ「カーニバルレストラン」

 

  

ビーフ、チキン、ラム、ワニ、ダチョウなどの肉が炭火で焼かれている。

外で食べたいと思い、外の席へ。

ジャングルの中にあるようなレストラン。

  

  

サラダや肉用のソースいろいろ。 
食べ放題なので、もうお腹いっぱいなら、てっぺんにある旗を降ろして降伏。

ジュウジュウの鉄板皿に、席まで持ってきた肉を削ぎ切りしてくれる。

ビーフ、ラム、チキン、ワニ、ダチョウ 全て食べた。

又やって来た店員さんが「slice of KINTAMA」と言うので

「はぁ~~?どういうスワヒリ語?」と思ったら

本当に日本語で「牛の〇玉」の部位だった。

娘が挑んでいた。

エジプトでは、モッホ(羊や牛の脳みそ)のから揚げも平気で食べる。

イケる口なのだ。

  

食事が終わった。。。。

ジョージさんがナイロビ国際空港まで送ってくれる。

二人とも目に力が無い。

  

とうとうナイロビ国際空港に到着。

ケニア滞在中、ほぼ一緒に過ごしてくれたジョージさん。

娘のスワヒリ語、ケニア情勢、動物などの質問に真摯に答えてくれていた。

私達にひとつでも多く動物を見せようと頑張ってくれた。

子どもや動物とすれ違うと、愛おしそうに笑っていた。

綺麗な水や教育の為のボランティアも行なっていると言っていた。

この高潔な人物は、素晴らしきケニア人の象徴なのかもしれない。

空港で別れる時、感極まって私と娘は泣いてしまった。

ジョージさんも顔をクシャクシャにして泣いた。

後ろ姿を見送った時の彼は、私達と過ごした5日間の中で一番ゆっくり歩いて去っていった。

初めて彼の老いを見た気がした。

一期一会は本当に切ない。

しかし、私の人生の中での このわずかな時間の5日間を、ジョージさんを、

私は決して忘れない。

アサンテ サーナ ジョージ ありがとうございました ジョージさん
アサンテ ケニア      ありがとう ケニア

私達はこの後タンザニア、ザンジバルへ向かう。


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11,スリリングなマサイ最後の夜

2018年10月23日 | 旅行

すっかり暗くなってしまった。 

何度も通ったダイニング。

食事の世話をしてくれたスタッフの女の子は、

心からのもてなしをしてくれた。

  

キュートな二人。

スワヒリ語で「ありがとう(アサンテ)」と言うと、「どういたしまして(カリブ)」と返してくれるのだが、

そのカリブの発音が「カリブゥ~」ってとっても優しく可愛らしい。

私もまねしよう。

最後の夕食を楽しんでいると、突然全ての灯りが消えた!

停電だ。自家発電の機械の不具合らしい。

スタッフ達は冷静に、各々の携帯を懐中電灯に切り替えて照らしてくれている。

私も懐中電灯にして、その上にコーラの瓶を置いて、

辺りをムーディーに照らしてみた。

スタッフが「ワォ!ビューティホー❣️ 今度からやってみる。」と言ってくれた。

ガールスカウトで行なった災害時集会の知識が役に立った。

その夜は、9時頃まで停電が続き、

再び消灯になる10時頃までに、大慌てで娘がパッキングしている。

被災時の停電の苦労を少しだけ体験し、

いかに大変な生活を強いられるのかを理解出来た気がした。

外に出てみたら、満点の星空。

星が降ってくるようだ。

「ユンユンユン ファンファンファン」とUFOを呼んでみた。

「お母さん!ホントに来たらどうすんの⁉︎」と娘。

私にそんな能力は無い。

私はこの夜空を忘れない。

そして、その夜、もう一つケニアならではの体験をした。

眠りについた真夜中。

ベッドの枕元近くのテントの外で動物の唸り声が!

流石の私も目が覚めた。

娘はなにも知らずに眠っている‥‥。

そして全てを理解した。

ショートカットの道の排泄物らしきものと、マサイ戦士の夜回り。

「そうか!あのマサイ戦士が守ってくれる。」

そう思ったら安心して、いつのまにか私も再び眠りに落ちていった。

  

スリリングな夜が明け、空が少しづつ白み始めた。

この二日間、漆黒の闇の中で眠り、日の出に待ってましたと起きる。

なんて自然なんだ!

しかし、携帯の充電もままならず、明かり確保のためケチケチ節約して使った。

今度来るときは他の荷物を減らしてでも、乾電池式のランタンと携帯充電器は絶対に持って来よう、

と思っている自分が、いかに様々なものに依存しているのかも思い知った。

  

二日間我が家だったテントに別れを告げ、スタッフさん達にお礼を言い、

マサイ戦士にもお別れを言った。

しばしの私達の素敵なテントだった。

帰りも同じ悪路の道を行く。

なんだか、慣れてしまって写真を撮る余裕が出てきた。

  

それでも、「わおっ!」「うわっ!」と声が出る。

ジョージさんがクリアすると「おお~!」と拍手!

ジョージさんは「ワッハッハ」と笑う。

ハイエースもよく頑張ってる。

  

マサイ族の大切な動物、牛たちの行列。

窓の中を覗き込んでくる牛たちにも、バイバイ。

マサイの人達の役に立って偉いねぇ、ありがとね。

いろいろな命をみせてくれた

いろいろなことを体験させてくれた

いろいろなことを考えさせてくれた

いろいろなことを教えてくれた

また訪れたくなった マサイ・マラ 

さようなら マサイ・マラ ありがとう マサイ・マラ

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