11月16日、河江さんの講演会が開催された。
やっと!名古屋でのチャンスが訪れた。
講演室に入ると、あまりの人の多さにびっくり!
事務局の方が「河江さんがtwitter、FBでつぶやくたびに、受講希望の申し込みが膨れ上がっていったことには驚きました。」と始めの挨拶をされた。
聴講の方々の中には、関東、関西からお越しになった熱心な方もいらっしゃったようだ。
そんな中、いよいよ講演が始まった。
室内はエジプトのように暑く、聴講の皆さんは、エジプト人のように熱かった。
(以下は講演内容の感想をまじえた自身用の記録で、まえがき、あとがき以外はtumblrに投稿した文と同様のものです。)
●考古学者のハードな一日
午前5:30 ディックハウスと呼ばれる発掘宿舎で朝食、その後ミーティング。そしてピラミッド発掘現場に向かう。
砂漠の水平線に登る朝日は考古学に携わる人ならではの至宝の特権だ。
午前6:30 現場に到着した頃は、エジプトの人足がすでに働いている。
20年ほど発掘を続けているエジプトの人足はよく働き、発掘の技術も優れている。例えば5ミリ掘るように依頼すれば、きっちり5ミリに掘れるほどだ。
彼らは労働歌のような歌を歌いながら効率よく働く。
午前10:30 まで作業、セカンドブレックファーストと呼ばれている昼食。
メニューは毎日ターメイヤ(豆のコロッケ)をはさんだサンドイッチ、フルーツ等。
考古学者の中には「見たくもない」と言われる程、サンドイッチに飽きてしまっている人もいる。
発掘というと、ツタンカーメンの秘宝のようなものを想像されるが、実際に出てくるものは土器、炭化した植物、骨、古代の枕など。
それらを分類分けし、蛍光X線を照射し、大きい遺跡などは三次元計測などを行って、
古代人の生活や様子を、まるで事件現場を解明していく科捜研のように計測、記録をしていく地道な気の遠くなるような作業の積み重ね。
そのような作業があってこそ事実の核心に迫ることができるのだ。
午後5:30 作業終了。スフィンクスに沈む夕日を眺めながら宿舎へ戻る。
午後12時頃 まで報告書などをまとめ、やっと就寝となる。
ほぼ1日中、苛酷な砂漠での過酷な作業。
知力、体力、持久力、推理力、想像力、そして何より情熱を要する大変な仕事だ。
●人間臭いピラミッド
河江さんが所属している米国古代エジプト調査協会(Ancient Egypt Research Associates)
のボスであるマークレーナー博士は、彼ら考古学者を「Mavericks」(焼印のない牛・無所属の人、異端者、一匹狼)だと言う。
群れをなさず、どの派閥にも属さずpassionでピラミッドとは何かを追及していくと。
探究者としては理想的な形なのではないだろうか。
あの山田洋次監督と河江さんが、エジプトの地で、意気投合された時があった。
監督が「たそがれ清兵衛」のメガホンを取った時、主題として貫いたことは、
他の作品にあるような壮絶なチャンバラ劇ではなく、人として当たり前の日常や人間としての武士の姿の表現だった。
それは、河江さんがピラミッドの謎を探究していく時に心がけていることと重なっている。
「自分の曽祖父さんのそのまたひいじいちゃん、ひいひいを60回ぐらいいったおじいちゃんが作ったと考えよう。」と。
宇宙人でも超古代人でもない私たちと同じ人間のひい⁶⁰じいちゃんが作ったのかと思うと、俄然親近感が湧いてくる。
今まで捉えられなかった事も見えてくるのかもしれない。
(2011年6月16日東京での講演の河江さん)
イギリスの詩人ジョセフ・ルドヤード・キップリングの詩Six serving menの一節
「What and Why and When And How and Where and Who.」をピラミッドに当てはめると、
What→墓 why→公共事業 When→4500年前 How→現在検証中 Who→20000~30000人の人々。
すると、一つの具体的な疑問にぶつかる。
ピラミッドを建設した膨大な数の人々は、どこにいたのか。
それら人々の日常生活に着目したのが、マークレーナー博士だった。
1985年レーナー博士が率いるギザ台地マッピング・プロジェクトによって、
ついに人々が生活していたピラミッドタウンが、そして1991年にはパン工房が発見された。
こうして、河江さんが考古学者人生のスタートを切るキーワード「ピラミッドタウン」は4500年ぶりについに現代に姿を現した。
(東京での講演、ピラミッドタウンの地図)
●ピラミッドタウン
25年にもおよぶ調査で当時の人々の生活が、徐々に判明しつつある。
町は日乾し煉瓦の建物が長屋のように連らなって、労働者や兵隊が住んでいたようだ。
一般の人々は東の町に住み、豪族や貴族など身分の高い人々は西の町に住んでいた。
土器の丘と呼ばれているゴミ(宝)の山の遺跡から、さまざまな手がかりが見つかる。
中でも封泥とよばれている遺物は、他の遺跡からは20年間で703個ほど発見されていたが、
驚くことに、このゴミの山からは半年間で2500個も発見されている。
封泥(ふうでい)とは、重要な物や手紙を封かんする粘土の塊のこと。欧米の封蝋(シーリングワックス)のようなものだった。
2011年に出てきた封泥には、王の書記、王子の教育係と記されており、一緒に一つだけ豹の歯も発掘された。
当時の身分の高い人々のファッションである毛皮の肩掛けから落ちたものではないかと推測される。
(2011年2月4日、エジプト革命当時 考古学宿舎で)
骨やパン焼き壺、ビール壺、脱穀されたエンマ小麦、炭などの発掘からは、
食生活が豊かで、牛、羊、山羊、豚、ビール、パンなどが食されていたことがわかる。
特に西の町に住む人々たちは、肉が柔らかい子羊の消費が多かった。
例えば 牛、山羊 : 羊=0.4:1 その中でも羊の2歳以下の骨:2歳以上の骨=14:1と贅沢な食生活を送っていたようだ。
炭は、99.6%がナイルアカシアの木だったことがわかり、当時は貴重だったと思われる木の燃料が使われていたことも判明した。
これらの豊かな町も、ピラミッドを作るたびに移動していったようだ。
住居の遺跡が一定の高さから、すっぽり切り取られているように発見されている。
ナイルの氾濫によるものかと思っていたが、現在は再利用されたのではないかと考えられている。
宇宙人の仕業でもなく、超古代に繁栄した古代人の努力でもない、
まさしくピラミッドは古代エジプト人という人間たちが、現在の私たちと何ら変わりなく、労働して食べて飲んで眠って、日常の生活をしつつ建造したものだとわかる。
すごい!!
まだまだ調査はこれからも続く。どのようなことが判明していくのか期待が高まる。
(発掘現場の写真ではありませんが、2011年ピラミッドエリア内のものです。)
河江さんの講演が素晴らしいのは、考古学を私たち一般人にも興味が持て理解できるよう、絶妙に組み立てて下さること。
そしてそのユーモアを含めた巧みな話術と、真摯な考古学に対する姿勢にある。
考古学とは、遺跡を傷つけることなく、まず測量・記録を繰り返し、それから最後に発掘だとおっしゃっている。
地道で丁寧な作業の積み重ねがあってこそ、過去からのささやきを聞くことが出来るのだ。
もし河江さんの講演のチャンスが訪れたら、是非お勧めしたい。
河江ワールドへ、そしてエジプトへ!!