アナザースカイ エジプト

もうひとつの故郷のように感じるエジプト。たびたび訪れるエジプトのフォト旅行記をご覧下さい。

息子のパートナー

2011年08月26日 | 旅行

 

 

2人の娘は、エジプトでも食欲旺盛。

エジプトデビューの嫁も、エジプト食材の料理をモリモリ食べる。

 

 

 

  

 

少し癖のある漬物「トルシー」も、チーズ「ギブナ・ローミー」も何でもこい!

「おいし~~い!!」と言って幸せそうに食べる。

 

 

  

 

 

エジプトを始めて訪れると、気候、町の喧騒、交通事情、エジプト人の人懐っこさに、

驚いたり疲れたりする人が多いなか、彼女はすぐに馴染んだようだ。

 

 

  

 

 

例えば、タクシーをつかまえるため通りに立つだけで

通る車の多くが頻繁に、クラクションや大声で挨拶していく。

二人の娘は「みんな おはよーー!はいはい、おはよー!」

ドライバーが誰にでもいう社交辞令の言葉「ヘルワーー!(カワイイ)」と叫んで通り過ぎても

「しってる~~!」と図々しく切り返す(笑)

 

 

          

 

 

 

息子の職場は転勤が多い。

中国やアメリカにも支店があるが、外国へは出来れば行きたくないと話していた。

あまりに楽しそうなので試しに「エジプトに転勤だったら?」と聞いてみた。

「エジプトだったら、転勤についていきます♪」

エジプトに支店無いけど…。

エジプト贔屓の私たちに合わせた心遣いもあったのかもしれないが、

滞在中の彼女を見ていると、心からリラックスしてエジプトを楽しんでいた。

 

 

 

 

 

 

アクの強いエジプトは、好きな人とそうでない人に分かれるが、

豪快で明るく素直な彼女は、物怖じせず、何でも食べ、どこにでも出掛け

アラビア語を覚えようと絵本を買って覚えたてのアラビア語を駆使し、エジプトの人たちと仲良くなっていった。

そんな彼女の様子を見て、娘と私は心から感心していた。

 

 

 

 

 

子育てで随分苦労させられた息子ではあったが、人を見る目は確かだったようだ。

私たちのDNAに近いパートナーを選んでくれて本当に良かった。

ちなみに彼女のお母様も大のエジプト贔屓である。

将来、いつか両家の家族でエジプトツアーってのも、いいかもしれない♪

 

 

       

 

 

 

 


娘のトーク2

2011年08月20日 | 日記

 

 

後半はエジプト革命について語った。

1月25日「警察の日」前夜、予兆をまったく感じることのないまま、

当日はボスから自宅待機を命じられる。

この日からすでにツイッターが開けない状態。

そして翌日、いつもどおり会社へ出勤。やっと開いたPCで情報を得て、初めて事の重大さを知る。

 

        

                (国民民主党事務所)

 

 

29年に及ぶムバラク独裁体制、汚職、賄賂を強要する警察の腐敗した体質、

留まることを知らない物価の高騰、相変わらずの低賃金、失業、若者の就業率の低下などに

ハリード・ザイード事件が発端となり、国民の不満が一気に火を噴いた。

娘のわずか2年の滞在中にも、家賃、電気代、食料品などの価格の高騰は異常だったという。

電気代に至っては倍にも料金が跳ね上がっていた。

エジプト人にとっては「生きるか死ぬか!」の決意を持って、反政権デモに参加したのだろうと語った。

 

 

  

 

 

騒乱が激しさを増し自宅待機が続く中、ついに娘の住むギザでも銃声が聞こえ始める。

通りを見ると装甲車も走るようになる。

1月27日不安に追い討ちをかけるように、唯一の情報源である

ツイッター、フェイスブック、SMS,インターネット、携帯電話と次々と遮断されていった。

 

 

        

 

 

そんな不安な最中、考古学者である河江氏が、AERA(米国古代エジプト発掘隊ヴィラ)に避難させて下さり

何の不安も無く最高の環境で、帰国までの5日間を過ごすことが出来た。

ヴィラの中での各国の考古学者が、徐々に神経質になる中

チームリーダーである河江氏が執られた緊急時の的確な判断と行動で

気持ちが前向きになり、ヴィラの雰囲気が次第に明るくなっていったという。

そしてここでの共同生活は、一生忘れられない素晴らしい体験になったと語った。

 

 

         

 

 

1月29日戒厳令が発令され、午後4時から翌朝8時まで外出禁止となった。

ヴィラの近くで違反した男性が銃で撃たれるという事態も起こった。

カイロ、アレキサンドリア、スエズでは非武装のデモ隊に対し、警察がゴム弾、催涙弾を発砲。

ラクダに乗ってデモ隊の中に乱入する者まで現れた。

 

 

  

 (-もしも「楮」がカイロに出店したら- のコンセプトで作っていただいた 美味しかったエジプト風料理!)

 

 

騒乱の状況は、いよいよ悪化していった。

町から警察が消えると、入れ替わるように暴徒が現れた。

1月29日、暴徒はエジプト考古学博物館のかけがえのない遺物を盗み、ミイラを損傷させ

タハリールの店、ホテルを次々と襲っていった。

一般人だと思われていた暴徒は、私服警官や政府側に雇われた生活困窮者だったと判明した。

それに反して、反政権デモの人々は人間の鎖で博物館、遺跡を守ったり、

自警団を結成して、町や家族を自らの手で守り、非武装、非暴力を最後まで全うした。

 

 

      

     (楮の若きシェフさん)

 

 しかし反政権デモの人々の犠牲者は次第に増えていった。

無抵抗の男性が、いとも簡単に銃殺された映像がネット上では流されていたが

国営放送は騒乱の状況を報道せず、サッカーの試合などを放送し続けていた。

自国で何が起こっているのかを把握出来ないでいたのは、世界中で情報を遮断された

エジプト国民のみだったといえる。

 

 

  

 

 

退避勧告を発令した日本政府がチャーター機を飛ばしたと知ったのは、帰国した後だった。

ネット、携帯が遮断されていた状況下では、情報を収集することも出来ずにいた。

しかも、在エジプト邦人、旅行客の人数には到底達していない定員のチャーター機1機が

カイロ、ローマ間を3往復しただけで、その役目を終えた。

エジプトエアーは欠航、ネットが遮断されていたためエジプト国内では一切発券が出来ないという状況の中

大阪大準教授の金谷氏が、大変なご苦労を重ねてチケットを確保していただき

ネットの通じていないエジプトに、ファックスでE-チケットを送信していただいた。

 

 

                     

 

 

 2月4日大規模デモ「追放の金曜日」が帰国の日となった。

河江氏に空港まで送っていただいた朝、自身の目で見たタハリールの姿には、目を覆うものがあったという。

商店街、ホテルは焼け焦げ、ガラスは割られ、コンクリートは投石のために剥がされていた。

陽気で活気あふれたタハリールの面影は、まったく残っていなかった。

その無残な姿を車の中から垣間見た時は、やりきれない悲しみと、

エジプトの友人たちの犠牲が、これ以上増えることのないよう、しかし革命は完遂してほしいと心から祈ったという。

 

 

         

              (会の皆さんからいただいた素敵な花束)

 

 

娘が自身の目で見てきたエジプト革命はここまでであるが、

2月11日ムバラクが退陣した2ヵ月後、再び一時エジプトに戻って見たものは、

明るいいつもと変わらない優しいエジプト人たちだった。

友人たちの多くが「革命は私たちの誇り、今が幸せ。」と笑った。

どんなに苦しくても、革命前には戻りたくない、初めてエジプトを自分の国だと感じたと語った。

娘はトークの最後に「皆さん!エジプトは魅力に溢れた素晴らしい国です。ぜひエジプトへ行ってみて下さい。

きっと皆さんも大好きになると思います。」と締めくくった。

元木曽川町長さんが、この会で知り合った方々と「ぜひツアーを組んで、エジプトへ行こう!」と提案して下さったことは、

娘にとって大変嬉しい言葉だったに違いない。

 

 

         

                  (元木曽川町長さん)

 

 

 

 

 

 

 


娘のトーク

2011年08月11日 | 日記

 

 

         

 

 

人前で自分の考えを表現することは、勤めていたK塾やガールスカウト集会などの経験で得意分野のはずだった。

「お客様をスカウトだと思って簡単な言葉で、あの~、え~を減らして気楽にやったら…。」

と苦しいアドバイスをするよりなかった。

 

          

 

 

少し前に、素晴らしい講演をされる考古学者の河江さんにお願いして、トークの心得をレクチャーして頂いていた。

その中で一番大切なことは「自然体に…」。

その言葉を胸に、ともかく岐阜の会場になる「楮(こうぞ)」というレストランに向かった。

 

 

          

 

 

主催者の酒井さんご夫妻、「楮」の若きシェフさん、ゲストの方々にお会いし、

皆様の気さくで優しいお人柄に触れ、すっかりリラックス出来たのが良かった。

 

 

            

         (左:建築家で主催者の酒井さん・右:バイリンガル通訳の野口さん )   

 

お陰で原稿を見ることも忘れて、約一時間、無事話し続けることが出来た。

初エジプトの印象、空港に降り立った時の砂とらくだ?の匂いと大気の暑さ。

ルールの無い交通事情。早朝から響き渡るアザーン。日本語ガイドの教養の高さ。ハンハリーリの店員のガッツ! 

 

 

          

 

 

ピラミッドエリアの物売りの子どもたちの逞しさなどに次々と調子に乗って話し続けていった。

アラビア語で挨拶するだけで、喜んでくれるエジプト人。こちらが照れてしまうぐらいの多くの親日エジプト人。

機関銃のように早口でまくし立てるアラビア語を聞いて

何を話しているのか理解できるようになりたいと、アラビア語の勉強を決意したこと。

 

 

          

 

 

圧倒的迫力で存在し続ける古代遺跡の数々、町のどこか懐かしいアンティークな雰囲気。

毎日がエジプト晴れで、そびえ立つピラミッドを見ると元気が出てきたこと。

そして愛すべきエジプト人の国民性にもふれて、

心優しくお節介、もてなしの心溢れ、たとえ貧しくても陽気に生きているエジプト人が

大好きで尊敬していると話した。

 

 

          

 

 

わずか2年間ではあったが単身のエジプト生活には、それ相応の苦労はあった。

不愉快なこと、辛いことも経験したであろう娘だが、エジプト熱はいっこうに治まらない。

それに余りある温かい人たちに恵まれたからだろう。

後半はいよいよ、エジプト革命の話に突入。

 

 

 

 

 

 

 


エジプトの現状

2011年08月04日 | 日記

 

 

                      

 

8月4日ムバラク前大統領の初公判が行われた。

健康状態の悪化が伝えられていたムバラク氏はベッドに横たわったままでの出廷だった。

そして今秋、いよいよ人民議会選挙が行われる。

そこで民主的に選ばれる政府に移行するはずだが、

現在エジプト経済は、革命後の観光客の激減などで大変 困窮しているようだ。

賃上げ要求の抗議デモが頻繁に行われ、負傷者も多数出るという状態が続いている。

 

 

             

 

 

日本語ガイドや日本語をマスターした人々の仕事がほぼ無い、もしくは再開されていない。

原因のひとつとしては、他国が渡航制限解除に踏み切るなか、

日本政府がカイロ・アレキサンドリアなどの渡航制限を緩和していないことにある。

そのため、旅行会社がツアーを組むことが出来ない状態である。

娘が帰国を決意したのも、働いていた旅行会社が休業してしまったということが大きな要因だった。

 

 

                        

 

                       

 

 

振り返れば わずか2年間ではあったが、有意義に勉学に仕事に励んでこられたのは、

多くのエジプトの人々が、娘を寛大に受け入れ助けて下さったからだった。

そんな温かい友人たちに、報いることが出来る何かを探していたが、

革命後のエジプトをこの目で見てきても、友人たちに再会できても、

非力な私たちは何も思いつかないまま、毎日を過ごしていた。

 

 

                        

                       (ショッピングモールも閑散としていた)

                       

                      (ナイルクルーズも休業)

 

ある日、尊敬する元木曽川町長さんから、突然のお電話をいただいた。

エジプト革命を機に日本へ戻った娘に、体験したエジプトの姿をサロンの集まりで、

伝えてほしいとの光栄なお申し出をいただいた。

その会に向け張り切って準備を始めた娘、前日にリハーサルをしてみた。

「えーと、あの~~、カイロ空港、あっ!じゃなくて、カイロ、、国際、、空港で、、、えーと…」

と、こんな感じ!

前日まで、娘を信じていた私はしまった!!と焦った。

ハラハラどきどきのサロンでの様子は次回に、、、。

 

 

                   

                     (いつもは人で溢れるエジプト考古学博物館も寂しい)