新聞(朝日)の投書欄に、次のようなパロディが掲載されています。
「核の傘容認」
イカンな発言だ ・・・ 広島市長
これは、先の広島での被爆65年平和式典に参列した菅首相が、直後の記者会見で「核抑止力容認」発言をしたことを揶揄したものです。
唯一の被爆国の首相が、こともあろうに、初参加の国連事務総長や、米・英・仏などの核保有国の代表が居並ぶ平和式典の直後に、被爆地広島で(昨日は、長崎で)「核抑止論」を展開する異常さに、被爆者をはじめ、良識ある人々は怒っています。
同紙はまた、「核依存症から抜け出そう」との社説をかかげ、「"核の傘に入ったまま、核廃絶を言う日本は矛盾している"との指摘への反論さえむずかしい。日本、そして世界の核依存を減らしていく外交を積極的に展開してこそ、非核日本の道理を強く世界にアピールできる」としています。
備忘録として、広島平和式典における潘基文国連事務総長の挨拶全文を記載します。
「私たちは今、この神聖な場所に身を置き、自らの目で見て、感じ、吸収し、そして深く考えます。
私は初の国連事務総長として、この平和記念式典に参加できたことを光栄に思います。そして今、深い感動に包まれています。
広島と長崎に原爆が投下された当時、私はまだ1歳でした。私がここで何が起きたのかを十分に把握したのは、しばらく後になってからのことでした。
私は少年時代を朝鮮戦争のさなかに過ごしました。
炎上する故郷の村を後にして、泥道を山中へと逃れたことが、私にとって最初の記憶の一つとして残っています。多くの命が失われ、家族が引き裂かれ・・・、後には大きな悲しみが残されました。
それ以来、私は一生を平和のために捧げてきました。私が今日、ここにいるのもそのためです。
私は世界平和のため、広島に参りました。
私たちは65年前に命を失った人々、そして、その一生を永遠に変えられてしまったさらに多くの人々に対して哀悼と敬意の念を表するため、一堂に会しているのです。
命は短くとも、記憶は長く残ります。
皆さんの多くにとって、あの日はまるで、空を焼き尽くした閃光のように鮮明に、また、その後に降り注いだ黒い雨のように暗く、記憶に残り続けていると思います。
私は皆さんに、希望のメッセージを送りたいと思います。
より平和な世界を手にすることは可能です。
皆さんの力は、それを実現する助けとなります。
被爆者の皆さん、あなた方の勇気で、私たちは奮い立つことができました。
次の世代を担う皆さん、あなた方はよりよい明日の実現に努めています。皆さんは力を合わせ、広島を平和の「震源地」としてきました。
私たちはともに、グラウンド・ゼロ(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けています。
それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はありません。なぜなら、核兵器が存在する限り、私たちは核の影に怯えながら暮らすことになるからです。
そして、私が核軍縮と核不拡散を最優先課題に掲げ、5項目提案を出した理由もそこにあります。
私たちの力を合わせる時がやって来たのです。
私たちには至るところに新しい友や同志がいます。
最も強大な国々もリーダーシップを発揮し始めました。国連安全保障理事会でも、新たな取り組みが生まれています。また、市民社会にも新たな活力が見られます。
ロシアと米国は新しい戦略兵器削減条約に合意しました。
私たちはワシントンでの核セキュリティーサミットで重要な進展を遂げることができました。その成果を踏まえ、2012年には次回のサミットが韓国で開催される予定です。
私たちはこの勢いを保たなければなりません。私は9月にニューヨークで軍縮会議を招集する予定です。
そのためには、核軍縮に向けた交渉を推し進めなければなりません。それは、包括的核実験の禁止に向けた交渉です。また、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)に向けた交渉でもあります。
また、被爆者の証言を世界の主要言語に翻訳するなど、学校での軍縮教育も必要です。
地位や名声に値するのは核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者であるという基本的な真実を、私たちは教えなければならないのです。
皆さん、65年前、この地には地獄の炎が降り注ぎました。
今日、ここ平和記念公園には、一つのともしびが灯っています。
それは平和の灯、すなわち、核兵器が一つ残らずなくなるまで消えることのない炎です。
私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではありませんか。
そしてともに、広島の炎を消しましょう。その炎を希望の光へと変えようではありませんか。
核兵器のない世界という私たちの夢を実現しましょう。私たちの子どもたちや、その後のすべての人々が自由で、安全で、平和に暮らせるために」
以上、YOMIURI ONLINEから転載しました。