没後30年 高島野十郎展
三鷹市美術ギャラリー
2006年6月10日から7月17日
蝋燭のポスターやチラシを見ただけは、どんな作品に出会えるかを想像できませんでした。とらさんのBLOGを拝読して、是非いかなくてはということで行ってきました。
高島野十郎(たかしまやじゅうろう)(1890-1975)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学ぶ。写生はここで技術をあげたのだろう。青木繁や坂本繁二郎と同郷ということで、最先端の美術情報にも触れる機会があった。約4年間の滞欧生活で西欧の美術もじかに鑑賞。
素晴らしいデッサンに支えられた風景画。ドイツロマン派かと思うような作品もあるが、「慈悲」のこころで自然に対峙する日本人の感性が画面いっぱいに拡がる。
《朝霧》(1941)、桜の近景が描かれた《筑後川遠望》(1949)、有明海を描いた《春の海》(1952)、《れんげ草》(1957)、長瀞をえがいた《流》(1957)、《菜の花》(1965)など
17日までの開催ですが、今年何本指かに入るお勧めの展覧会です。
三鷹市美術ギャラリー
2006年6月10日から7月17日
蝋燭のポスターやチラシを見ただけは、どんな作品に出会えるかを想像できませんでした。とらさんのBLOGを拝読して、是非いかなくてはということで行ってきました。
高島野十郎(たかしまやじゅうろう)(1890-1975)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学ぶ。写生はここで技術をあげたのだろう。青木繁や坂本繁二郎と同郷ということで、最先端の美術情報にも触れる機会があった。約4年間の滞欧生活で西欧の美術もじかに鑑賞。
素晴らしいデッサンに支えられた風景画。ドイツロマン派かと思うような作品もあるが、「慈悲」のこころで自然に対峙する日本人の感性が画面いっぱいに拡がる。
《朝霧》(1941)、桜の近景が描かれた《筑後川遠望》(1949)、有明海を描いた《春の海》(1952)、《れんげ草》(1957)、長瀞をえがいた《流》(1957)、《菜の花》(1965)など
17日までの開催ですが、今年何本指かに入るお勧めの展覧会です。
明治23(1890)年、福岡県久留米市の酒造家に生まれた島野十郎(たかしまやじゅうろう)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学び、首席で卒業しました。しかし周囲の期待と嘱望された学究生活を投げ捨て、念願であった画家への道を選びます。以来、約4年間の滞欧生活をはさんで東京、久留米に居を構えながら主に個展を作品発表の場として画業を続けました。70歳を超えた1961年(昭和36年)からは都内・青山を離れ、千葉県柏市の田園のなかに質素なアトリエを建て、晴耕雨描とも言える生活を貫きました。世俗的な成功や名誉とはほど遠い位置で制作を続け1975年(昭和50年)、千葉県野田市の老人ホームで85歳の人生を閉じます。
野十郎は果実や花を題材にした卓上静物をはじめ、信州や武蔵野、そして故郷の筑後地方や房総の風景を、いずれも写実的に、しかもきわめて微細かつ克明に描き出しました。特筆すべきは、彼の絵の写実性は対象の単なる再現性を超え、ときには対象の生命や息吹にまで至って、独自な輝きを発露させていることです。
野十郎が静物画や風景画とともに描き続けてきたのが、火のともった蝋燭や月だけを描いた作品群です。これらの不思議な作品には、見る人の眼をそらさない強い求心力を感じさせるとともに、どこか宗教的感情を呼び起こしさえします。そこには、彼が若い頃から関心を寄せていた仏教への深い含蓄が含まれていると言われています。
「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です」と、彼はある手紙に書いています。この真摯さは、なによりも「描くこと」への彼自身の執着のかたちであり、それはまた「描くこと」のひとつの根源のかたちを、いまもわたしたちに教えてくれています。
彼の遺した作品は没後、ようやく広く知られるようになり、その透明感をたたえた深い精神性と卓越した技量で、今日多くの人々を魅了し続けています。青年期から絶筆「睡蓮」までの約100点の作品、資料で野十郎の世界をご紹介します。