なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

一局を制す「営業用書名?」

2008-11-30 13:28:58 | Weblog
土曜日は定例?の定期検診・・・今月は1日に検診があったので月に2回ということになりますが、たまたま前回から4週間後に当たるのでいつも服用している薬が来週中ごろにはなくなってしまうものがありますから仕方がない。
 このあたりが先生も融通が利かないと言うか商売というか、4週間分の処方箋だけでなくたまには5週間分のことがあればつきで済むのに・・・。
 文句を言っていてもはじまらないので結局は診察してもらうしかない。
  ところが例によって前日の明け方まで本を読んだりネット碁を観戦していたりしていたので、さすがに土曜日ということもあり、油断の朝寝坊です。
 ドアの向こうから女房殿が「今朝はまだいいのですか?」と声がかかって、心の中で「しまった!」です。
 リビングにあるTVから連続朝ドラの「だんだん」のテーマソングが聞こえてきます・・・ということは8時15分。
 超特急で身仕度をして(かなりの大雑把な支度で)8時半出発。
  いつものクリニックは予約制ではないので、早いもの勝ち。
 自転車で急いで・・・本日の5番目の診療札をゲット。
  いつもはもっと早く着いて2番目ですから、遅く出た割には大健闘?。

 ともあれ高校生時代以来の感じ・・・そのころは朝6時に寝て8時に起きて朝食・身支度をして・・・遅刻の確率%でした。
 4階建ての校舎の4回に教室があり、会談で職員室から教室に向かう担任の先生を追い抜ければセーフ、先に教室に入られたらアウト。
 なんだかそのころを思い出していました。
  しかし、睡眠不足と言い、急いで病院に行くことと言い・・・必ず血圧とかの検査が待っているのに、検査結果に出てしまうでしょうから心がけの悪い患者です。
 まあしかし、体調を最も良い状態に整えて診察を受ければ結果は良いかも知れませんが、それはそれで日常のデータという面からみるとどうなんでしょう?
 かかりつけの先生に良いところだけ見せて安心させる?、あるいは褒めて貰う?・・・少なくともキツイお叱りは受けたくはないものの、見せるための検査結果のような気も・・・

 ともかく、当方は良くなる心配?はないのでその点は気楽。
  せいぜい悪くならなければ良いので・・・
 定期検診が終わってからが結構忙しい
  当然処方箋薬局に回って薬をもらってから、コミュニティに回り図書館に寄り、その後コンビニかスーパーに用事がある。
 さて今回の借りた碁の本
「碁敵に勝つ秘訣② 辺の攻防は一局を制す」日本棋院ライブラリー 1998年
  タイトルは知っていましたが読んだことが無かったので借りました。
 タイトルを見ながら、かなり皮肉っぽいことを考えていましたが・・・
  「辺の戦いを制することができれば一局を制することができる?」とか
 序章にある隅6×6で4箇所=144、辺7×6で4箇所=168目、中央5線以上とみると11×11で121目(重複あり)・・・だから辺が一番広くて=重要ということだろうか?・・・この説明はなんだか強引な感じがする・・・一番広い地域だから一番重要と言う説得力があるような無いような。
 仮に一隅捨てて打つと言うことを説明するのに6×6=36目とい説明を用いるなら、都合により4倍したりしなかったりみたいなきがするし、1箇所のみの広さで言えば中央に決まっているみたいな・・・
 
 隅だけの星定石だけがあるわけでなはないし、シチョウが絡めばはるか彼方の反対側のの岸が問題だし、そこにたどり着く前に中央を通過つのだし・・・
 ともあれ星に比べて軽視されているような辺の価値を援護するために曲論的なタイトルになったのでしょう・・・
 本を出す=営業活動ですから書名も営業用視点から決めるでしょうが、老舗の日本棋院からだすのですからもう少しゆったりしたタイトルがフィットすると思うのですが商売ともなるとそうは言っていられないのでしょうね。
 まあブツクサ言っていますが、結局は辺も隅も中央も有機的に絡んでおり、重要度にポイントをつける必要もないわけで、ともかくザルとしては勉強・復習あるのみです。

なんだか変

2008-11-29 16:57:01 | Weblog
 先日凶悪な事件を起こした犯人は犬好きだったらしい・・・本心から強烈にそういう気持ちがあったのか、きっかけとしてなのか、あるいは口実なのかはわかりませんが・・・ともかく「ペット好きな人に悪い人はいません」みたいな言い方は出来ないことは証明されたような気がします。
  同時に「ペット」の部分を「○○]に置き換えることだって、都合の良い表現だと言うことが透け透けな感じです。
 私が住んでいるところはマンションという名前の集合住宅なんですが、住民の管理する組合規約でペットは飼えないことになっています。
 厳密に言うと小鳥・リスなどの籠の中で飼えるような小動物・水槽で飼う魚などはOKですが犬・猫などの大きさのペットはダメということです。
 ところが、ペットブームというご時世と言うかご多分に洩れずと言うか、内緒で飼う人がいる。
 可愛いと言うこともあるにしても居住空間の限界、あるいは目立たなさという点で「小型犬」は向いているのかも・・・ご近所に住んでいる?犬種はかなり偏っている。
 それでも、隠し通せるわけがないのだから周囲に分かってしますのは時間の問題なのですが、ともかく飼い始めて飼っていることを既成事実にしようとしているのはミエミエです。
 確かに飼っている人にとっては可愛い家族かもしれないけれど・・・外から見て可愛くないとは言いませんが迷惑なこともたくさんある。
 第一ルールを無視して飼い始めると言うところが気に入りませんね・・・
 ここのところ毎年のように管理組合の総会とかアンケートなどで「ペット解禁」が議題になるのですが、「解禁されたら飼いたい」では無くて「飼っていることを認めろ」的な感じがして本末???。

 今回の事件がするのは、正論であってもあまり強硬なことを言うとどこで恨みを買って、どんな仕返しが用意されるかわからないので怖い世の中ですね。
  つまり正論が肩身が狭くなりつつある?
 そういう中で、一瞬こわばってしまうような場面がありました。
  いや、私が自分で勝手に感じて勝手にこわばったのですが・・・
 ある朝出勤の途中・・・近道なのでURの団地の中を通って行くのですが、ここは賃貸と分譲の両方があり、確かペットは飼えないことになっている。
 団地の道路には犬猫の絵で「僕たちはここには住めません」という看板があるのですから・・・
 そして近所にも「解禁」のマンションはないと思ったが・・・それに一戸建ての住宅は無いし。
 道路には「犬などの散歩で団地内に入らないでください」との看板がある・・・つまり住民が飼ってもいけないし、外から犬の散歩で通過するのも禁止」なのです。
 それなのに犬に散歩させている男性二人・・・しかもそれぞれが小型犬を2頭ずつ・・・
  私と同年輩の感じのオジサンたち。
 でもなんだか違和感がある。
  ここは自分の住んでいるところでもないし、文句を言うような筋合いでもないし・・・でも仮に何か言ったなら強烈に反撃が来そうなムードを感じる。
 これだけペット禁止の看板が出ているところを早朝とはいえ堂々と散歩をしているのだからきっと手ごわい男たちに違いない。
 夕方は若い主婦とおぼしき5,6人のグループが集団で犬の散歩をしている姿を見かけることがある・・・これも正論的注意は通用しないだろう。
 グループと言うこと自体防衛的姿勢に見えるし、良くても「無視」・・・
  一方でTVなどではペットブームを後押しする番組もあり・・・なんだか番組を作る・ブームを演出する人たちの無責任さを感じます。
 まずは許容されている建物・地区の紹介、そして可能な条件などからはじめなくてはいけないのに・・・

楽しければ良い!?

2008-11-28 18:36:37 | Weblog
 今日も事務所を出るときには日がとっぷりと暮れてしまっていました。
 もともと少ない人員で仕事をしているので、一人が病気で長期療養になりそう・・・なので彼の健康の回復を祈りつつ、しかし現実は3割強の仕事量アップになっている。
 と言う事で、余り役に立たない私めでも忙しくなっていて時間が来たら「オツカレサマ」はできない状態。
 したがって事務所を出るときには自転車は点灯して走ることになる。
 
 さて11月が終わり12月が目の前・・・と言う事で・・・
  黄昏の道を自転車で走らせていると、一戸建ての分譲地の横を通るのですが、驚きましたね。
 3軒に1軒くらいの割合で豆電球がピカピカしています。
  カラフルなデザインで・・・数百個の電球(最近は省エネで便利な発光ダイオードとか・・・)それぞれ飾っています。
 すでにクリスマスモードなんでしょう。
  なんだかそれぞれ競って飾り付けているような雰囲気がある。 
  綺麗はきれいなんですが、こういう流行みたいなものを見てしまうと、へそ曲がりの性格がうずいて来ます。
 よく○○ルミネとかいって荘厳な・華麗な教会風の光のアーチが出現し、流行りみたいに各地にできました・・・
 初めのうちは感心していたのですが、”あっちでもこっちでも”となると綺麗とは別次元の「軽薄さ」と言うか、なんだか変な感じがしてきます。
 今日のクリスマス用のデコレーション・・・
  たぶん小学生の女の子のいる家のような。
 しかし、こんなにキリスト教徒が多いとは思えません。
  キリスト教徒がラマダンをやらないように、イスラム教徒がクリスマスを祝ったりしないでしょう。
 仲が悪いとか良いとかではなくて、自分の宗教行事ではないですから・・・
  日本は昔からおおらかと言うか、いい加減と言うか・・・本地垂迹の国ですから都合よく解釈して取り入れてしまうわけです。
 バレンタインデイに至っては菓子メーカーの作った仕掛けが国民的行事?みたいになっているわけだし。
 
 そんな事を言っている私だって、子供の頃はクリスマスプレゼントを楽しみにしていたのだし、母の実家ではクリスマスケーキを売っていたのだし・・・12月には地元の秋葉神社の火祭りがあり、年が明ければお年玉・・・
 名目はなんであれ、プレゼントをもらえて楽しければ好いわけです。
  
 囲碁に関しても、私たちのようなザルですと強い人から「そんなのは碁ではない」みたいな指摘を受けることはママある。
 「碁になっていない!、せいぜい1か2だね」というわけです。
 「1でも2でも結構!、せいぜい楽しませていただいてます」と開き直るしかないのですが、、、心の中では多少は「今に見てろ」と考えないでもない。
 いずれにせよ私の碁のレベルが低くてもご近所には何の影響もない・・・良くも悪くも私個人の問題。
 ところがイルミネーションはどうだろうか?
  町が明るくなって良いと言うことだろうか・・・確かにそういう効果はある。
 でも、それぞれが家の中に飾ると言う枠を越えて、外に向けて見せているところに多少のいやらしいを感じてしまうのだが、それは自分がいやらしさを持っているのでしょうね?。
 ともかく、「明るくてきれい」なんだけれど「なんだか変」な感じがしました。

暇人の作業

2008-11-27 15:53:23 | Weblog
 最近小さな発見と言うか、ミニミニではあるが一つの悟りを得ました(!?)。
  打ちこめる楽しみを見つけることは、大げさに言えば人生で一つの財産みたいなものでしょうが、そういう意味では私も小さな幸せのタネを抱えているはずです。
 それに加えて「碁を打つ楽しみがある」と言うこと以上に「面白がるタネを持っていること」だと感じたのです。
  碁に関するいろんな事で、(自分にとって)面白いことを見つけること、面白がることができることでしょう。
  碁に限らず日常生活の中でも、ほんの些細なことでも、面白い種を見つけて(人に言えば笑われそうなので言わないことが多いのですが)ミニ感動をする・・・これで体の各所に悪いところがなければ長生きの秘訣だと胸を張れる所ですが、現状ではそこまでは威張れません。
 それでも、お酒も煙草も吸わずパソコン1台与えられて結構満足していますから安上がりの亭主です。(その分稼ぎが悪いのだから相殺)

 さて24日は千葉国際駅伝がありました。
  TV中継を最初から最後まで見ましたが、雨の中選手の皆さんご苦労様でした。
 尤も、家のすぐ横を通って行くのに、炬燵で丸くなってTV中継を見ながらパソコンでネット囲碁観戦でした。
 ところで3区で1回だけ中継で紅葉したナンキンハゼが映りましたが、選手が走る車線の反対側の歩道がナンキンハゼで、あいにくの天気で引いた映像の画面が暗かったので綺麗に映らなくて残念でした。
 あの街路樹の紅葉は明るい日差しの中で、葉の隙間から日差しがチラチラ漏れるような感じの時が綺麗に見えるのに残念・・・また来年に期待。

 さてネット碁の方ですが、休日ですのでさすがに大勢の人が接続していました。
 接続リストを見てふと思い立ってメモをとりました・・・このとき接続している人で私と点数が近い人を20人ほど選んで、名前と点数を記録。
 それを数年前に、私が入会した時にいただいた名簿の点数と比較すると
 10点以上点数がアップした人が5人と9点アップの人が一人5点以上ダウンしている人が5人、プラマイ4点以内の人が6人、新入会員のため名簿に載っていない人が3人でした。
 上がった人は、登録時の点数が控え目だったのか、入会後に棋力アップした結果なのか・・・これはかなり興味があるのですがネットだけに直接訊くわけにもいかないので、興味があるけれど謎のままでしょうね。
 新入会員が20人中3人と言うのは少し寂しい気がしますが、たまたまなのか、あるいは囲碁人口からみたらこんなものか、それもまた興味があります。
  但しネットの事務局では経営の秘密があるかも知れませんから明らかにはしてくれないでしょうね。
 さて点数が全体的にインフレになっている印象がありますが、実際はどうなんでしょう?
  毎日碁に接していれば少しは強くなるのが普通としたなら、点数が上がっていても不思議ではないのですが、点数制度では新入会員を別にすれば皆の持っている点数の総和を分け合って(分捕り合戦)いる形でもあるので、一部が上がって見えるならばどこかに下がって見える部分もあるのでしょう・・・
 私が入会した頃は確か、自己申告は4段までで、5段以上を申告する場合はアマの全国大会の記録とか県予選の実績が必要だったと思うのですが、どうもそのあたりがこの頃緩和されているように見える・・・現実はどうなのか事務局が発表しないとわかりません。
  ただ、390点以上の高段者は負ければ1点下がるけれど、2勝しないと1点上がらない・・・仮に400点に達すると記念品を戴く代わりに390点から再出発・・・そんな事でインフレを防げているのだろうか?。

 町の一部碁会所などでよく見るのですが、段級位を甘めに認定する方がお客が喜ぶのでそのグループでの段級みたいなものができてしまったりします。
 一方、余りにインフレな認定ですと、自分の属するグループでの段があまりにも権威がないので別のグループの人の前では自分の段級を言えなかったり・・・。
  囲碁を楽しめるのならどっちでもいいような気もするし、ある程度は統一されたスタンダードでなくてはいけないような。
  ことの始まりは日本棋院が免状を商品として商売を始めたところでしょう。

 いろんな事に疑問を持って、些細なことに感動したり面白がったり、体は動かさないのですが気持の動きは忙しいものです。

外はまだ暗い

2008-11-26 17:33:01 | Weblog
 夕べは私としては早く寝てしまったので、その分目が覚めたのが早い。
  非常識的な時間に眠ったのだから非常識的な時間に目が覚めるという事では辻褄が合っていますが、ともあれ朝4時前に目が覚めてしまい、退屈でも家族を起こすわけにもいかないし・・・
 女房殿を起こせばきっと怒りだすから退屈しのぎにはなりますが、その後のリアクションが怖いから部屋でおとなしくしていないといけません。
 ベッドサイドのパソコンを見ると案の定つけっぱなしで、ネットで観戦していた囲碁は「白番の中押し勝ち」で終わっていました。
 と言うことは・・・また観戦しながら眠っていた。
  まあ対局室一覧表を見ると、いくつもある対局のうち実際に対局中なのは1局のみであとはすべて「対局終了」の表示です・・・と言うことは・・・この時間ですから検討・反省と言うより私と同じような人がいるような気がします。
 終了している対局室を覗いてみれば対局者本人たちではなく、観戦者が残っているようならその確率がたかそうですが、他人が自分と同じだと言う事で安心しようと言うのもなんだか情けないので調べにはいけません。

 この辺りでこの時間はちょうど新聞配達の人たちが一仕事終わったところで、割合にひっそりしていますから、集中して何かやるには良い時間かも知れませんね。
 普段は自転車通勤の途上、あるいは帰り道で頭の中で下書きしたり、勤め先の昼休みにワードパッドみたいなものでメモをしたりしていますが早朝もなかなかです。
 そう言えば・・・
  私は眠れなくて困っという経験がないと話したことがありますが、普通の人?なら「朝早く目が覚めてしまって、その後眠れなくて困った」となるところを、私の場合「変な時間に目が覚めたので本を読んだ」とか「パソコンで・・・」などになっているだけで、要するに行き当たりバッタリの性格だと言うことなんですね。

 ところでネット碁は今月は今のところ9局対局して4勝5敗。
  成績はまずまずなのですが、やはりザルとしては対局数が少ない。
 尤もこの時間ですからネットで対局待ちの人はいるかも知れませんが、私の方が目が覚めているつもりでも、本当は脳は50%程度眠っているかも知れませんから即応じる気にはなれません。
 気が小さいと言うか変に慎重と言うか・・・もしかしたら昼間だって7,80%で生活していて脳は昼行燈かも知れないのに、笑ってしまいます。

 話は全く違うのですが、若い頃・季節は夏ですが、よく伊豆の狩野川に釣りに行きました。
 父が湯治をしていた温泉病院に見舞いという口実で、その病院のすぐ下を流れる川で釣りをするのです。
 現地に到着して釣り始めるのが午前2時。
  はじめは橋の近くの水銀灯や街路灯の電球がが頼りですが、慣れると糸も目印の動きも見えるのです・・・マア4時には夏でした白々と明けるのです。
 但し今の季節は朝4時はまだ暗い。
  それでもきっとネットには同じような早起きのオジサンたちが集まっているかもしれないので覗きに行くことにします。
 そして囲碁観戦を楽しんでいると・・・知らない間に眠ってしまったり・・・今後これを繰り返すだけの人生になるかも知れない。
 それが恐怖か幸せかわかりませんが。

干支はネコ年

2008-11-25 18:06:12 | Weblog
 通勤自転車で走っているとすれ違う自転車の人の多くが耳にイヤホーンをつけていたりヘッドホーンだったりします。
 「日本人ってそんなに音楽好きだったっけ?」戦後すぐの生まれで田舎で育った私は首をかしげてしまいます。
 マア、音楽好きと言うより通勤時に単に体を目的地に運ぶという行為だけでは時間の無駄みたいな感覚で耳から音楽を流しているのかも知れませんね。
 これが音楽ではなく何かの語学レッスンだったらまさに時間の有効利用でしょうが。
 イヤホーンの人は高校生が一番確率的に高いかも知れません。
 一人で走っている人は耳にイヤホーンが入っている事が多い・・・2,3人で横1列と言うのも多くて困っていますが、そういう時は聞いていないようです。

 私の場合はウォークマンもipodもありませんから物理的に無理ですが、代わりに何か頭の中で「下書き」をしたり、その日の予定、誰かにあったら何をどう伝えるかの予習の時間です。
 但しBGMで音楽が流れていることもある・イヤホーン無しで、頭の中に若いころに聞いていたメロディーが流れていることが多い。
 音楽好きと言うことではないけれど、体を動かす時に結構音楽を感じると言うことでしょうか。
  スローで走っていますから、早いテンポの曲はだめです。
 ともかく最近は全く音楽テープ・レコード・CDを買っり借りたりはしていませんから、すべて若いころに聞いて染みついたようなものを再生している。
 季節・時間・気分によって、そう多くはないレパートリーの中から。
 その時の気分ではテークファイブだったりグリーンフィールズ、場合によってはテネシーワルツだったり・・・ともかく頭の中に流れている。
 そしてこの季節はシューベルツでしょうか。
 クラッシックではありません昔のGSの方の「プラタナスの枯葉舞う(散るだたっけ)冬の道で・・・」
 実際の通勤路にあるプラタナスの街路樹は200メートルくらいで、ナンキンハゼが4キロイチョウが2,300メートル。
 町の中にはマテバシイ(どんぐり)が多くてヤマモモもあるのですが、この季節のイメージはプラタナスですね。
 枯葉が散るのはここではイチョウやナンキンハゼのイメージ、自転車で走っていて上から降ってくることがありますから。
 でも一旦落ちた葉がちょっとした風で舞うのはプラタナスのイメージ。
 他の葉も強い風に吹き寄せられたりしますが、「カサコソ」というイメージとは違うような気がします。
  もっともこの季節が好きなのではありません、、、むしろ一番嫌いな季節。
 毎年今の時期に思うのです「今年の冬は寒そうだぞ!」
 毎年そう思うのです・・・ひと夏越してしまうと前の年の寒さを忘れてしまって、毎年未経験の冬を迎える気分になるのです。
 だからオーバーに「今年の冬は越せるだろうか?」となる。
  それを口にしたら家族からも馬鹿にされてしまいますから言えませんが
 確かに自分の身体的条件から厳冬期は鬼門ではある・・・
 ともあれ木枯らしが吹く季節はそういう季節の入口で、毎年新しく覚悟を決める時期なのです。

 これが寒さに慣れる1月の中頃までは続きます・・・そのころになるとなんとか免疫?ができて、寒さにも腹が据わるのです。
 思えば私の故郷の(その時代だけだったのかも知れませんが)小・中・高の教室には暖房がありませんでした。
 私が住んでいた18年間で雪が降ったのが1度だけ(積雪2センチ)と言う土地柄ですから 無くてもやっていけたとも言えますが、職員室にはダルマストーブか石油ストーブがあったはずです(今でも恨めしい)・・・。
 だから教室のストーブに関する楽しい思い出は無いしストーブにはアレルギー?的なものがある・・・
  こじつけ気味に言うと、そのせいで今でも冬の暖房は炬燵、コタツがあれば丸くなって出て行かない。
 できたら肩までもぐりこみたい気分だから家の者に、「親父は子年ではなくてネコ年だ」と言われている。
 何と言われようとあったかいのがいい。
 それも、エアコンとかストーブの部屋全体をあっためるのが好きではないのだから始末が悪い。
 子供時代には当時飼っていた猫と並んで炬燵にもぐっていたものです。
 炬燵にもぐって暖かくて、それでも顔はちょっと涼しいくらいが好きなのだから始末が悪いと自分でも思っています。
 今年の冬は女房殿がうるさい亭主対策にデロンギとかいうオイルヒーターを用意しているのですが、今のところ私の部屋でカバーをかけたまま・・・
 買ってくれた人に文句は言えませんが、「部屋は暖かければ良い」と言うのは困る・・・体はあったかくて顔と頭は涼しいのが良いのだから、多分どんな暖房機も合格しないはず。

 ともあれ「ネットオヤジ」だろうが「引きこもりオヤジ」であろうが冬は炬燵または暖かなベッドの中でネット碁に限る。
 打つのももちろん良いけれど、顔だけ出して囲碁観戦は幸せな時間です。

気がつきませんでした・

2008-11-24 15:28:00 | Weblog
 相当昔あるお笑いトリオのフレーズで「聞いてないよ」と言うのがありました。
  現在携わっている仕事でもそれに近い場面にぶつかることはあります。
 行政関係の出先機関にいますから、たとえば法律が改正になって、ある行為が義務化された時に、法律に沿って義務を果たさないと違法ですから処罰の対象になります。
 改正初年度から厳密に適用するかどうかの問題はありますが・・・いずれにせよ法律改正に伴い周知期間があって、改正=同時施行ではないですから「聞いていない」と言うのはそれこそ「聞こえません」と言うことになる。
 ともかく普段は窓口で「この法律は去年○月○日より改正されています」と言う風に説明しながら”指導”するわけです。

 ところがこれが個人的な遊びの場面で、立場が変わることがありました。
 ネットで先日の夜中メンテナンス臨時休業がありました。
  深夜の2時頃から2時間くらいですからほとんど影響はありませんが、知らないで入場したら誰もいないので驚きましたね。
 いつも人であふれている駅ターミナルに行ったら、自分以外は誰もいなかったような感じでした。
 広場の隅っこの掲示板にメンテナンスの告示があってやっと原因が分かってほっとしたのですが、本来混雑する所に誰もいないときは寂しさと不安感が湧いてきます。
 メンテナンスというかマイナーのバージョンアップがあったらしい・・・大きな変更ではないので気に留めていませんでした。
 そして数日後にまたもメンテナンス・・・細かな不具合でもあって多少手入れをしたのだろうと思っていました。
 実はメンテナンス前に対局を観戦していて、そのまま居眠りをしていたので、退出すること無くメンテナンスは終わったようですが・・・
 まあ、そんなことがあって久しぶりに(観戦ではなくて)対局。
 対局待ちリストには5,6人リストアップされていますが、同じくらいの点数のお人もいたので私もオファー!。
 オファーボタンを押した瞬間に対局者が決定したのですが、私の考えていた人とは違う人の名前です。
 しかも互い先ではなく私の3子局・・・まさに久し振り!。
 点数から見て相手はプロ棋士に先か2子で打つ手合い割りの人・・・と言うことは県の代表かあるいは予選で上位を争う常連くらい。
  決まった以上「聞いていないよ」とは言えない、一手打って投了するのも情けないし。
ともかく久しぶりの3子局です、、、昔リーリー先生やシェンシェン先生に打ってもらった時の気分で打ちました。
 当時の3つは完全な手合い違いですが、指導碁はいつもこの手合い割りで相当の局数打って貰ったものです・・・ただし1回か1回しか飴玉は無しでしたが。
  
 潰されることを恐れずに精一杯打ったのが良かったでしょうか、214手で白氏が投了し「参りました」とのコメントまでいただきました。
 まあ普段なら上下先の手合いが殆どでしたから置き碁は久し振り。
  どうしてそうなったのか考えてみて「メンテナン」だと思い当たりました。
 普段対局希望を出す時条件として、【上は先まで:下は先まで】の条件でオファーを出すのですが、、、案の定メンテナンスの影響だろうが(サンサン棋院)【上は誰でも:下は先まで】、(早碁棋院)【上は誰でも:下は先まで】、(なかよし棋院)【上は誰でも:下は誰でも】となっていました!!。
 結果的には良い経験をさせてもらいましたが「聞いていないよ!」と叫びた勝ったですね・・・夜中ですが。
 

点数について

2008-11-23 16:00:00 | Weblog
 これは何かを証明しようと言うものではなくて、”私はこう感じている”と言った程度の話なので、最初に断わっておきます。
 
 アマの碁に点数制度が導入されたのは私が碁会所通いをはじめたころだったと思います。
 「導入」などと言う表現は実は正しくない。
 実際に考えだしたり工夫した人はいるはずですが、その人が提唱してアマ碁界が一斉に受け入れたと言う事ではありません。
 話を聞いたりして”良さそうだ”と言う事で浸透していったのでしょう。

 それまでは段級によるハンデと言うのが一般的で、碁会所などの壁には「1段級差置き石1つ」などと書かれた紙が貼ってあったりしたものです。
 碁会所で例えば格上の人と打ってもらう場合そのハンデで打って貰い、3連勝で手直りとなります。
 仮に2級の時に初段に2子で3連勝したら1級に上がると言うことではなく・・・それは特定の人との関係なので、席亭あるいは師範格の人が判断してそろそろ昇級させてもいいだろうと言う事で昇級したと思います。
 少なくともよく打ってもらう格上の人に3連勝が必須条件だったような気がします。
 ところがいろんな人と打って貰うと、相性みたいなものがありますし、誰と打っても3連勝なんて離れ業に近いので、判断する方もかなりの妥協も入るはずです。
 
 碁会所の方の事情からすると、お客がいつも特定の人とばかり打っていると手空きの人ができたり、閉鎖的な感じがしてしまいます。
  碁仇に勝ったり負けたりを楽しんでもらい、いろんな人と自然に打てるように
月例リーグのようなものが提案されるのですが、それをやり易くしたのが点数制度だったのでしょう・・・急速に広まったと思われます。
 点数の基準に問題があったかも知れませんが、ともかくメンバー内の一つの物差しが必要だったのでいろんなスタンダードができたのでしょう。

 さてそのころから30年以上は経っていると思いますが、点数制で打っているところ、段級位で打つところの2つがあり私は両方経験しました。
 大雑把に言うとパンダ・毎日、タイゼムなどは段級位、私の入っているサンサンなどは点数制。
 もっとも入会時には段級位を申告して点数に換算しないといけないので、点数と段級の換算表があるわけで全く無縁と言うことではないでしょう。
  問題は例えばアマ初段と言うものをどの程度の位置と考えるか、あるいはアマとプロの強さの差をどの程度に考えるかです。
 
 よく、碁を打たない人との話で・・・
 「へーaizomechouさんは碁を打つのですか?、何段ですか?」と言う聞き方をするのは、やはり碁を打たない人に多いようです。
 打つ人ですと「今度ぜひ教えてください。あまり棋力が違い過ぎると申し訳ないですが、何段で打っていますか?」という話になると思う。
 はじめの打たない人に「○段で打っています」と言う場合、所属するグループと段級の偏りの話をしても通じないでしょう。
 碁を打つ人には「どこそこで○段で打っています」でほぼ通じるでしょう。
  尤も私の場合はもっとしつこい・・・「サンサンで○段くらい、タイゼムで打っていた頃は○段、町の碁会所ではほぼ○段、日本棋院殻は20年前に○段の免状を戴いています。」・・・これでは自己紹介にも説明にもなっていない。
 そのくらいいろんなスタンダードがあると言うことでしょう。

 昔碁会所仲間が別の町で囲碁クラブの世話役を頼まれて席亭になった時に、そこで囲碁祭り囲碁大会をやると言うので参加したことがあります。
 私は交流対局みたいな形でそこの会員さんと向こう2子で打ちまして・・・初めは相手の人は置き石に不満があったようでしたが、結果は白に数目残りまして・・・後で聞くとその碁会所では6段なのだそうで・・・それでは私は一体?
 まあスタンダードが極端に違うと言うことだけの話です。
  でも、そこまでは違わないまでも不思議に感じることがあります。
 同じネットのMさん
  つい昨日ネットで見かけたら私より10点も下になっています。
 時として私より10点も上にいることも珍しも無いのに・・・
  と、言うことは点数は必ずしもと良さを表していないこともあり、調子を表しているの過ぎない。
 それでも、何かの指針として必要ではある。
   そういうことでネットで出会ういろんな人の中には点数が高くても怖くない人、逆に自分より下でも要注意人物などいろいろいます。
 点数は一応棋力を表しているが、必ずしも点数によって強いと思うかどうかは別の感じ方があるような気がする。

 

目が覚めて・・・

2008-11-22 16:22:15 | Weblog
 木曜日の深夜と言うか未明は好きなことをしていたので、その日はおかげさまでぐっすりと眠れました。
 そして金曜日もぐっすり・・・
  もともと不眠症と言うか眠れないで困ると言うこととは縁がないのです・・・眠る気がしないので我ながら困ったものだと思うことはあっても眠れないと言うことはないのです。
  と言う事で金曜日の夜は夕食後見たいTVもなかったので、早めに自分の部屋に引っ込んんでネットで観戦していた”はず”。
  そう、気がつくと画面は終局の場面で「黒14目半勝ち」となっている。
 また両対局者には迷惑をかけてしまったかも知れません。
  対局の観戦はともかく、終わった対局の対局室が閉じられずにいつまでも表示されているのは気持ちの良いものでは無いに違いない。
  特に負けた方の方はそう思うかも知れません。
 そうは思いながら寝てしまっているのですから自分でも困ったものだと思います(対局者に”お詫び”・・・直接それを伝えるのも変でしょうが)

 (目が覚めたのが午前2時・・・3連休の初日なので変な時間に目がさめても気が楽でこのブログに書き込んでいます。)
 流石に深夜なので対局者はまばらです。
  パンダなどでは世界中の囲碁ファンがいますから夜中でも賑わっていますが、ことらは国内ファンが殆どですから深夜はさみしくなります。
  あちらは国際都市の感じで24時間賑やか、こちらはローカルの商店街の感じですが、生活感覚で言うと一長一短ですね。
 私の場合は深夜に観戦したければパンダを覗いたりと言う事で利用させてもらっています。

 目が覚めて対局が少なかったので、棋譜倉庫に行って自分の碁を見てみました。
  ここには「自分のすべての碁」と言う事で数年前に大きくシステムが変わって以来の棋譜をダウンロードできて振り返ることができるようですが、普通は直近の200局が一覧表で検索できます。
  以前は相手別に並んでいたり、白番・黒番で整理されていたりしましたがこの頃は200局の中の古い順になっているようです・・・マア、それが一番わかりやすいような気はします。
 但し特定の相手別の勝敗を見ようとしたら自分で集計するのに多少の手間が必要になりますが、そういうことを考える人は少ないのでしょう。
 表の一番下の方を見て驚きました。
  一番下から2番目・199番目の対局の日と200番目の対局日・・・15日感も開いていました。
 2週間も打たないで、毎日観戦していたことになる。
  更にそれから2日は打っていない。
 特に打たない理由もないのですが・・・私とたぶん同じように、入場者一覧表では名前を見かけますが、対局者リストには最近載っていない人がいますから、そういう楽しみ方もあるのですよね。

 ところでyahooで見かけたのですが裁判員制度の「宣伝」・・・国民的な義務と言うか新制度。
 制度の良し悪しはともかく、「裁判」と言うものに個人的には良い感情・記憶はありません。
 自分があそこで裁かれたことはありませんが、学生の頃に証人として呼ばれたことはあります。
  制度の宣伝ではるか昔の記憶が・・・
 当時アルバイトしていたところで労働災害・事故があり片足を失った人がいまして、私はその人のすぐ横にいましたから、もしかしたら事故にあったのはその人ではなく私自身という可能性もありましたが、ともかく被害者が経営者を訴えて、私は告発された側の証人として・・・事故当時の証言を求められました。
 どちらも知っている人同士ですから個人的にも相当気まずい感じはありましたが、ともかく見たことを証言すると言うことで出廷しました。
  一番の印象は一言で言うと証人にとって「嫌な所」です。
 原告がいて被告がいますからその弁護士の攻防戦みたいなものがあって、被告側の証人は原告側の弁護士の標的にされる。
 制度としてそうなのでしょうが、証人個人が標的にされるようないやん気分を味わいました。
 攻める側は証言の曖昧な部分を突いてきますが、それは良いとして証言の信ぴょう性をぼかす手段として証言そのもではなく証人を馬鹿にしたような態度まで取ってきます。
 ああいう雰囲気は二度と味わいたくないと思いました。
  いくらいやな気分でも証人は聞かれたことにしか発言できない、しかも「証言」であって「意見」をいうことは出来ない。
 
 嫌なことを思い出しましたが、仮に裁判員に呼ばれたら・・・あの雰囲気は嫌ですね。
 真実を求める場と言うより、自分たちの正当性を主張する勝ち負けのある場所。
  ザル碁・喧嘩碁とたいして変わらない?・・・かも。
  

性格は直らない

2008-11-21 18:26:05 | Weblog
 水曜日の夜は、ネットで対局する前に「囲碁にするか」「深夜のドーハからのサッカー中継」にするかのどちらかにするはずでした。
 つまり良識のある普通の勤め人なら当然そのはず・・・
  ネットで対局した後に適当な時刻に就寝して普通に睡眠時間を確保するか、あるいは宵のうち早めに寝ておいて深夜に起きてサッカーの衛星中継を観戦するか・・・の選択です。
 翌日の仕事を考えて、自分の楽しみと秤にかければ当然そうなるはずです・・・最も賢明な選択は中継をビデオで自動録画しているのですから後で見る。
 ところがたいていそのようには進行しないのです。
  第一リアルで中継しているもの・後では結果が分かっているものを見る気がしないのです

 若くて体力があった頃など、仕事の後に夜碁会所で打って、閉店後は徹夜でマージャンをし、翌朝は雀荘から出勤・・・そういうのも珍しくはなかったのです。(勿論仕事中に寝たりしません)
 それでも仕事の実績は人に負けないつもりではいました・・・その分のエネルギーを仕事に注げばもっと出来たでしょうと言われれば一言もありませんが。
  私の本心としては囲碁を楽しむために仕事をしているのであって、仕事が生活の中心だとは考えていないのですから・・・よくぞ女房殿に三行半を突き付けられなかったものです。)
  ネオン街方面の遊びはしないで、専ら(碁を)打つ、と(麻雀を)打つだけだったので寛大なお目こぼしがあったのでしょう。
 ともかく目の前に御馳走を並べられば手を出さずにはいられない性格だったわけで、その性格は体力が衰えているのに変わっていないのです。
 こういうのを「年寄りの冷や水」と言うのですね・・・分かってはいるのですが。
 例えば眠る態勢でベッドに入るとしましょう。
  その時まず傍らのサイドテーブルのパソコンのスイッチを入れて・・・本を読んだり。
 このとき本が面白かったり、丁度好い区切りがなかったりすると最後まで読んでしまうのが・・・。
 気がつくと朝だったり、外の新聞配達の足音で我にかえって「しまった!」と思ったり・・・
  
 そんなわけで、真面目に翌日のことを考えて「どちらかしかできない」と考えることは考える・・・しかし目の前の魅力に引きずられ、加えて後の方の楽しみも捨てがたい。
 ネット対局をして、その後本を読んで、サッカーの中継をリアルタイムで観戦・・・結局やりたいことを全部やっている・・・「あとはどうにでもなれ」みたいな「やけくそ的」と言うか「棄てばち」的な性格が出てしまいます。
 しかし、老体にはこたえます。
  午前中から眠気を感じるのですから、まさに天罰覿面!。
 しかも午後の課のスケジュールを見てびっくり。
  病気欠勤、研修出張、現場調査などで事務所に残るのは私一人・・・
   マア他の課の人はいますが。
 ともあれ昨夜のツケがまともに返ってきます
  こういうことを年中繰り返しているのですから、われながら学習能力を疑いますね。
 意志が弱いし。
  こういう日は息も継げないほど忙しい方が眠気を感じなくて良いのですが、あいにく今のところソコソコに忙しい程度ですから困ります!?。
 全く贅沢で我儘な言い分です。

久し振り

2008-11-20 18:19:02 | Weblog
 本当に久しぶりの友達からの手紙が届きました。
  私の数少ない友人・・・お互い筆不精ですから用事がある時しか手紙も出さないし連絡もしない・・・だから年賀状の交換は1回あったかどうか。
  それでいて”友人”だと感じている
 私の年代は団塊の世代ですから大学の同期はほぼ全員還暦以上、大学のクラブに入部してから40年は経ちました。
 私は真面目に学問をする学生でもなく、植物系のクラブでもアカデミックな方面は全く駄目で、且植物を育てるような実務面でも向いていなくて・・・それなのに居心地が良いので学内の休憩所みたいにしていました。
 まあ周囲の皆に大目に見てもらっていたわけで、生来の末っ子的な甘えん坊でしたが・・・。
 ともあれ人生の節目みたいな時期なので同窓会をやろうと言う連絡でした。
  高校時代の同窓会の連絡は毎年のように来るのにまだ一度も出たことがありませんが、こちらの同窓会は手紙を見た瞬間に是非行ってみたいなと思ったのです。
 取りまとめ役が学生時代に親しかったF本・・・そうだ彼は私が結婚して間もない頃関西方面から帰郷して家に泊まったことがありました・・・そうそう私の故郷の家に泊って、近くの山に登る準備をしたことがあったっけ(あの頃は私の両親はまだ健在だった・・・)などなどいろんなことが思い出されます。
 そのF本と40前に亡くなったM川と3人は気が合う仲間でした。
 まあFとMは学問と言うか勉強でも気があって、私の方は遊ぶ時だけでしたが。
  それに既に退官している恩師も来てくれるらしい・・・恩師と言っても私たちとは干支で1周りしか違わない同じ子年ですから、ほぼ兄貴的な先生。
  私はできの悪い学生でしたが、どこが良かったのか、いや心配で目が離せなかったのか、夜中に助教授だった頃の先生が遊びに来てくれたものです。
  考えてみればそんな経験のある学生はめったにいないでしょう。
 これは何としてでも出席をしなくては。

 久し振りと言えば、水曜日に久しぶりにネットで対局しました。
  何かのきっかけで(大した理由でもないのですが)対局しないで観戦ばかりしていると、今度は対局するのに何かエネルギーみたいなものが必要となるようです。
 そう、10日対局しないと、実戦の勘みたいなものがなくなっているような不安があるので、自分を後押しする何かが必要です。
 そういう心配があるのなら常に数日以内には対局していればよさそうなものですが、何となくであっても打つ気力が衰えると、ザルの対局とはいえ復活するのにも手間がかかる。
 今回は大学当時の部活の同窓会の連絡がきっかけだったようです。
  そう言えば今のネットにその部活時代の友と同姓同名の会員がいます。
 彼の出身県と同じ県にその会員は住んでいる、、、だからと言って年齢とかも分からないので、実際に本人なのか
どうなのかはわかりませんが。
 もし彼と会うことができればはっきりしそうで、それも今回出席の楽しみな部分。

 さて久しぶりの対局は対局前に懸念を持っていた通りに進行しました。
  思うに、久しぶりの対局は極端なことが起きやすいと思うのです。
 まず、久しぶりなので私の感性が鈍っていて、いやそんなにたいそうな事ではないのですが要するに実戦勘が鈍っているので、大きなチョンボをやりやすい。
 マア、それもザルのザルたる所以ですが。
  それに作戦面で、アマレベルではありますがきめの細かな作戦は取りにくい。
 大雑把と言うか「エイヤー」的なわかりやすい作戦になることが多い。
  よく言えば、「久し振り」=「わかりやすく」、 つまりじっくり寄せるような碁ではなく、「やるかやられるか」みたいな・・・
  そういう予感通りに進んで・・・そうなると半分以上は運の良い方の勝ちでしょうね・・・今回は運が良かったようです。

 ところで水曜日の深夜と言うか木曜日未明に中東からのサッカーの実況中継予定。
  宵のうちに寝てしまって、深夜に目が覚めたら中継を見ることにするか、それともネット対局にしてサッカーは録画にするかの選択で今回は囲碁をとりました。
 囲碁の方がサッカーより少し強かったようです。
  この話には続編があります。

窓から青空

2008-11-19 14:00:40 | Weblog
 2カ月にわたるマンションの大規模修繕が終わりました。
 10年に一度建物を足場とネットでくるんで塗装とか鉄部の点検とかいろんな補修を行います。
 鉄筋コンクリートの建物でも寿命はあるでしょうから・・・あまり短いようですと年金生活になってからの建て替えプロジェクトでは厳しいと考えていましたが、きちんとメンテナンスをすることでかなり長く使えるのだそうで安心しました。
 ともかく、不便でうっとうしい生活から解放されました。

 洗濯物を干すのに困っていましたし、布団類も長い間天日に当てていませんから何となく・・・
 普段はそういうことに無神経な私が感じるのですから相当と言うか、あるいは私も順調に日本人的に年老いていると言うか。
 一番困っていたことはTVです。
 BSとか普通の番組は屋上の集合アンテナ、場合によってはケーブルもあるのですが、ベランダにつけていたスカパーのアンテナを撤去せざるを得なかったのです。
 おかげでこの2ヶ月間はJの試合は通常のTVしか見られませんでした。
 工事用のネット撤去を待って私と女房殿で急遽素人工事。
 急いでアンテナを復活させ、アンテナの角度を試行錯誤でべスポジにセット。
  こういうことになると結構夫婦と息子で結束が固い。
 今度の週末は全試合J1は見られるようになりました。

 それにしてもカーテンを開けると青空が見えます。
 この明るさと開放感がいいですね。
  建物に必要な工事ではあるけれど、長く続いていると工事=迷惑みたいな感情が湧いてきたりして、人間は勝手なものです。
 今日はこれから歯科大に歯の治療に来ますから、ベランダから洗濯物を取り込んでから出発しないと怖い怖い人にしかられるでしょう。
 それとも出かけるまでに1時間半あるから一局打てるかも・・・こういう時に限って難しい碁になることがよくあるので無理しない方がいいかな?
 観戦しながら、もう一度歯を磨いておこうか迷っています。

紅葉(黄葉)

2008-11-18 18:16:41 | Weblog
 今朝は少し嬉しいことがありました。
  西洋のことわざだったでしょうか、「日の下に新しいものなし」という言葉があったと思いますが、自分流に勝手にこじつけて、その言葉を思い出しながら通勤の自転車を走らせました。
 ほんの些細なことですし、ひとさまか見れば感心するようなことでもないでしょうが、私は身近なちょっとしたことに密かに感動する癖があるのです。
 些細な事で心が震える癖ですから、こういう震動が身近な女房殿に伝わったりすると「何よ、オーバーな」と言う風にじろりと見られてしまうのですから、家の中では無感動な顔をしているのです。
 フリーな気分で話ができるのもブログのおかげと言うことです。

 さて通勤ルートは自転車で6キロ半くらいで、信号待ちの時間を含めて約40分くらいで走ります。
 全くノンビリペースで、マラソンランナーに比べたら倍ぐらい時間がかかっている。
 自分では朝から気持ちの余裕の現れと思うことにしているのですが、でも実態はのろのろ走りです・・・その分あれやこれや考えながら走ることはできますが。
 もっとも、そんなに余裕があるのなら周りがよく見えているのかと言うと、それはまた別のことだろうと言うことに気がついたのです。
 いつもの通勤路に直線で4キロほど走るところがあります。
 ここは5メートルほどの歩道の上を走りますが、その歩道の道路際に前に話しましたようにナンキンハゼが植えられていて今が紅葉のシーズン。
 10メートルくらいの車道を挟んだ向こう側は10メートルくらいの幅の緑地帯が続きます。
 ここは松などの針葉樹と名前がわかりませんが広葉樹、夾竹桃も大きく育っています・・・何となく雑然と育っている感じがしますが、木と木の間隔を見ると何となく人為的な感じもしますから、やはり計画をした人がいるのでしょう・・・
 木が中心の緑地で、季節によってはたまにツルボのピンクの花穂が見える程度。
 ともかく10メートルくらいの木が並んでいる・・・暗くなり過ぎないように向こうが少し透けて見えるような緑地・・・そういう認識だった。
 だから紅葉と言うと道のこちら側のナンキンハゼしか目に入らない感じでした・・・グラディエーションと言うか派手な感じですし。
 ところが今朝は道の向こう側の緑地に、カエデの仲間の木の紅葉を見つけました。
 正確には紅葉と言うより黄葉ですし、葉がカエデの仲間に違いないと言う事で名前もわかりませんが、ともかく緑地に中で他の期よりも少し背が高い。
 とにかくここにこういう木があることに今まで気がついていなかったのです。
 この道を通勤して6年半・・・7回目の秋に初めて気がついた。
  そして気をつけてみると4キロの道のそばに5本同じ木を発見した。
 オーバーに言うと人生とか生活に大きな意味を持たないであろうから、今まで見落としてきたと言うことになるでしょう。
 今後も意味が出てくるとは思いませんが、それでも見ていたはずなのに意識の中に入ってこなかったと言うことがわかった。
 きっとこういうことは多いでしょうね。
  自分に見る気がなけれが見えてこないのでしょう。
 目に映ったとしても、心には映っていない。
  
 囲碁で言えば同じ盤面を見て、見えるものが違うと言うようなこと・・・
  あるいは何かが見える人と見えない人がいる・・・
 それらの差が棋力と言うものだとすると、囲碁に限らず実生活でもザル的人生を送っていることを証明してしまった感じ・・・今朝はそんな事を考えながら走りました。

屈辱!?

2008-11-17 18:49:07 | Weblog
 舌禍事件と言うものは何故かいつの世もあるらしい。
  まあ、確信犯的なものと、うっかり型、それに言葉を口にする人の見識を疑うものなどに分けられそうです。
 先日来の防衛関係の問題は舌禍事件と言えばそうですが、確信犯的な要素が強そうですから、うっかり口が滑ったというものとは違いますね。
 これは思想の問題ですから、腰を据えて構える必要がありそうです。
  類型としては「ベストメンバー」発言の犬飼氏もどちらかと言えば、これに近いのかも・・・それに事後処理などを拝見するとレベルに幻滅しますが。
 それに対していわゆる口が滑ってしまう方の舌禍で
  昔NHKのアナウンサー(後に幹部アナウンサーで本局で活躍して、すでに定年退職)が、地方局勤務の時に朝の眠い時に天気予報で「東(ひがし)の風」と言うべきところを「トンの風」と言ってしまったらしい。
 これは本人の懐古談です・・・徹夜マージャン明けだったとか。
  同じNHKで、これも天気予報に関連して
 「台風は関東地方からそれたようです。良かったですね」と放送・・・この時別の地方では台風が通過している真っ最中・・・。
 どちらも陳謝して一件落着でしょう・・・悪気は感じられませんから。

 ところがこの間のサッカーに関する報道
 我が贔屓チームが大激戦の末、強豪チームに勝利しました・・・これに関する新聞社系の見出し(2社が同じような見出しでした)。
 「○○屈辱の5回戦敗退」とある・・・何だこれは!
 負けたチームに「残念」「悔しいでしょうね」と言う意味はわかる。
 しかし、精一杯プレーをした選手たちへの労わりも敬意も感じさせない表現です。
 「○○は常勝軍団なので今回も当然勝つはず」という前提に立っているようです。
 仮にJ1のチームがJ2あるいは大学チームなどに負けたとして「屈辱的」という表現を適切な言葉として使うだろうか?
 それに勝った方の我が贔屓は考えられないほどの番狂わせをしたと言うことなのだろうか?・・・今年はこれまでに直接対決で2勝1敗1引き分けで、これで3勝目なのですから、実力がどうとか行く前に実績ではほぼ互角だったのになぜか新聞記者さんは○○が勝つものときめていたらしい。 
 相手が「屈辱的」な負けと言うのなら、勝った方も何やら屈辱的ですから拗ねたくなります。
  このブログで噛みついても仕方ないけれど、スポーツを愛する人に謝罪と訂正を要求したいです。
 
 どうも見出しで勝負しているようなところがあって人間性を疑われる見出しです。
 それに勝ち負けが大事だと言っても、少し度が過ぎているような気がします。
 これが囲碁の話になるとかなり奥ゆかしいと思われます。
  それはプロがタイトルを失ったりとか、急所の対局に破れたりして自棄酒を飲むことはあるでしょう。
 しかし勝った場合「幸いしました」と言うような常套句があるくらいで、「当たり前のことを訊かないでください」とは言いません。
 (秀策がお城碁の結果を訊かれて「先番でした」と答えたのは、その意味では微妙な感じがします)
 逆はどうでしょうね?
  タイトル棋士が各下的な棋士あるいは新進棋士に敗れた場合「よもやの敗戦」とは言うでしょうが「屈辱的」とは言うはずがない。

 ザルの場合ですが、点数制度で打っているので一応変動的ハンデに効力があるとして「勝って当たり前」とか「勝ってこない対局」などはあるはずが無い。
 もしかしたら、そういう建前に過ぎないかも知れませんが、ある程度は信じるしかない。
 したがって見損じとか大チョンボで負けることはあっても=屈辱的敗戦とは言うわけがない。
 仮に同じ人に変動制ハンデで10連敗くらいすれば悲しくはなるかも知れませんが。

 結局は勝敗にこだわりながらも、囲碁を「楽しむ」と言う部分が問題。
 サッカーの方も「報道」=「商売」としての見方の根底に「スポーツを楽しむ」心が貧弱な感じがしてならない。
 「屈辱的」を「痛恨の」に置き換えるだけで全く雰囲気が変わるのに、記事を書く側にそういう表現をする意思がなかったのか、あるいは表現力の問題なのか?。
  言葉一つで・・・単に角を取って丸くするだけでなく、ものの見方本質の問題もありそうです。

高みの見物

2008-11-16 15:49:12 | Weblog
 たぶん本来の意味とは違うでしょう。
  ネットでの観戦と言うのはどちらが勝ったとしても観戦者に利と言うものがあるわけでは無いのですから「漁夫の利」的なところは全く無い。
 それでも対局している局面を見ていると、両対局者がもしかしたら気が付いていないかも知れない所に目が行ったり、あるいは観戦者が熱心に読んでいたところが戦いの本線みたいなところ出ないことが分かったりするので為になるし面白いと感じます。
 そこのところは観戦者の偏りみたいなところがあるので面白い。
  実際に対局している人は戦局の全体の形勢が肝心なわけですから、大きいところからものを見るでしょう。
 でも、観戦者はややもすると部分的な手所に気持ちがひきつけられるところがあります。
 盤上に現れなかった手を問題にしたり・・・
  観戦者にとっては手順を尽くして手段があるところを何故実行しなかったのかが疑問なわけです。
 対局者本人が気がつかなかったのか、あるいは部分的な成功が必ずしも全体の形成と一致しないために手段を放棄したのか、一方は気が付いていたのかあるいは両者とも隠された手段があることに気がつかないで戦いが進行していたのか・・・観戦者が気を揉んだり、妙に感心したり面白いものです。
 まさに傍目八目であり”対局者が一番読んでいる”こともあります。

 ところで、ここ1週間くらい打っていない。
 仕事で妙に疲れているような気もするし、ネットに接続して同じくらいの点数の人とタイミングが合わなかったり、まあ偶然でもありますが、何となく誰かが来るまで待ってでも打ちたいと言うような気力もイマイチ足りないような気もします。
 それに観戦には観戦の楽しさもあるわけで、ついつい気が楽な方の観戦ばかりになっています。

 ところで先週わが好敵手のMさんと打っていた人が今日は別の人と打っています。
 あの時は9連勝中で、Mさんの2子局で負けて9勝1敗。
 今日見ると戦績は22勝10敗・・・だいたいこのあたりで落ち着くのでしょうか?、やはり強い人らしい。
 それに在住県は北海道。
  私の感覚では北海道の人は強い人が多いですね。
 まあ、相性みたいな点で言っても、東京・大阪・神奈川・埼玉・北海道の人は手ごわい感じがしています・・・マアあまり根拠がないのかも知れませんが・・・反対に相性の良い県が無いのですからやはり根拠に乏しいのかも。
 ところでその方は名前からして女性のようです。
  名前と県だけで年齢はわかるわけがないのですが、何となく自分よりやや上のような気がしてしまうのです。
 それは私が5人兄弟の末っ子で、上に姉が3人もいるような関係からか、女子と言えば姉に甘えて頼って成長してきたせいか・・・
 ともかく先番で打てるような点数で出会ったらぜひ教えて貰いたいと思いました。