なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

深夜の出来事

2009-01-31 15:50:07 | Weblog
 私は思慮深い人間の仮面を見せながら(本当はそうは見えていないかも知れませんが)実は全く単純な面がありまして、自分では物事を深く掘り下げて、いろんな角度から見ているような気になっているのに、他の人には簡単に分かることが見えていないことが多いらしい。
 だから、あれこれ考えた挙句の結果が、友人にとっては一目瞭然でわかる・感じ取れることと同じだったりするのです。
 まあ、この場合は思考回路とか感じ方の差で、時間がかかるだけのことだから自分を許せるとしても、、、物事によっては時間が経過すると一方通行の道路ですから元には戻れないわけです。
 ですから、一見隣のエスカレーターで並んで進んでいるように見えたものが、実は行き先が違うわけで、別の路線のものは一旦は交わる・接近することはあっても必ず遠ざかっていくことになる。

 などと、夜中にフト感じたりしました。
  何のことか深い意味があるわけではありませんが・・・自分の若い頃からのことを思い出すと・・・「実は起こったことより、起こらなかったことの方が多い」と思ったのです。
 過去の経験などでは、自分が選択したことを経験したことが多いのですが、選択と言うのは複数のことから一つを選ぶことが多いわけで、選ばなかったことは「もしも選んでいたら」「たら・れば」として永遠に残るわけです。
 これは、初めから気がついていて選択したこともあれば、後になって気がつくこともある・・・と言うことは振り返ると「選択と後悔」の歴史みたいなものです。

 まるで自分の碁を後から振り返って見ている感じですね。
  迷わず打った手を後で気に病んだり、あれこれ考えて打った手を後悔したり、それに考えたのに棋譜として記録に残らない部分があまりにも多い。

 前ふりが長かったのですが、やっと本題の「深夜の出来事」です。
  何かが起こったのですが、何も起こらなかった”出来事”
 深夜・新聞配達の音がしていましたから午前3時半頃です。
  この時間、私はネット碁を観戦モードにしたまま実際は本を読んでいました。
 ふと気がつくと、対局者待ちのリストにずっとMさんの名前が載ったままになっています。
 この時間ですから、相手がすぐには現れないのでしょうが、それにしても長いこと”待機状態”なのです。
 『さすが、私の10倍は対局数がある人は違う』と考えましたが、もしかしたら・・・同じネットで4,50局は打った相手ですから『私の名前が入室者一覧に残っているので、Mさんもオファーを残しているのかも?』
 これは、本人に聞くしか分かりませんが、質問する手段もないし、改まって質問するほどのことでもないし・・・かくしてオーバーに言うと”深夜に起こったミステリー”です。
 B級グルメならぬC級の謎。

なぜ?

2009-01-30 18:43:10 | Weblog
 世界経済のことでもなければ安全のことでもない、取るに足らないような些細なことに感動したり疑問を感じたりしながら、それを楽しむのがわたくし流?・いえ
単なる根っからの暇人気質と言うところです。
 但し、家族にも言いませんでここでしか言えません、言ったりしたら「なんて暇な人なんでしょう」と白い目で見られるに違いない。
 「そんなに暇なら家の用事を手伝ってください」と言われかねないのです。

 最近、韓ドラノ連続もののDVDを女房殿が借りてくるので、ついつい見る機会が増えました。
 友達に熱狂的なファンがいるらしく、その息子さんが親孝行なことに、次々にセットで買ってくれるのだそうで、韓ドラライブラリーになっているらしい。
 さて、連続ホームドラマの特徴らしく、やたらと食事とか飲むシーンが多い。
  それにシート張りの屋台がよく出てきます。
 屋台と言うと懐かしいですね。
  私が学生の頃は当時の国鉄の駅前近くに勤め帰り客を当て込んで、そういう屋台が並んでいたものです。
 上野駅近くにもおでん屋が路上で商売していた時代です。
  コップ酒・おでん・ラーメン・・・
 今は嘗て屋台があった辺りには、何もありません。
  まあ、路上占拠、衛生上の問題はあるでしょう・・・それともニーズそのものが減ったのかもあ知れません。
 昨今では、近代的な赤ちょうちんがあるのですから、狭くて寒いところで飲まなくても良い・・・尤も、「屋台」と言う独特の雰囲気はあるとは思うのですが。

 さて韓国の屋台で・・・あくまでもドラマで見た範囲ですが・・・焼酎、焼き肉、ジャージやー麺?、トッポッキ?
 日本の駅周辺にあるファーストフードでは、立ち食いそばとかラーメン屋、おにぎり、、、カレーライススタンド・・・そう、これが無い。
 高級料理店でお刺身、握り鮨などは出てくることはあるのですが、食堂でも家庭でもカレーライスを食べるシーンが無い。
  少なくとも今のところ出て来ません。
  なぜでしょうね?
 辛いものが好きだと思うし、ご飯にかけたり、混ぜたりしてスプーンで食べる習慣がある見たなのに。

 私などの子供の頃は、カレーライスと言えば男の子ではC級グルメくらいにはランクされていたでしょう。
 カレーの嫌いな男の子は見たことが無い。
  さて、僅か海峡一つ隔てて習慣も嗜好も違うらしい。
 本当にカレーは食べないのでしょうか・・・考え始めると眠れない?「地下鉄漫才」調な思考回路らしい。

10連休

2009-01-29 17:26:38 | Weblog
 最近ネットで打っていないし、リアルでも石を握っていません。
  かなり長く打っていない・・・もちろん年明けには打っていたのですが・・・
 そこで棋譜倉庫を覗いて自戦棋譜を検索。
  ここには日付・対局相手なども記録されています。
 過去の対戦記録、直近の200局が古いものから順に並んでいます
 つまり許容量200局で新しい対戦記録が一番下に追加されると、200階建ての屋上から古いものが消えていく仕組みです。
 見ると、一番最近の対局は1月19日となっているから、かれこれ10日間のブランクで、この記録は今のところ自己2番目です。
 一番は10年以上前になりますが、大晦日に救急車で運ばれて、そのまま入院した時の23日間。
 この時は対戦はおろか、他人の碁の観戦も無しで、家から持って来させた囲碁の本と、差し入れされた囲碁の月刊誌だけ。

 マア、実戦から遠ざかってはいたけれど、基本知識の復習の時期となりました。
  そういう意味では、全く無駄な期間でもなかったとも言えるかも知れません。
 但し今のブランク期間は・・・観戦も対局もないのは同じだけれど、勉強機関としても全くのブランクですから、この次の一局が心配です。
 オーバーに言えば浦島太郎状態かもしれません。
  そうでなくても最初の一局と言うものに弱い。
 こういうブランク明けの第一局とか、大会での・・・例えばスイス式4回戦の最初対局など・・・いい年をして震えるのです。
 名誉がかかっているわけでなし、商品がかかっているのでも無くても口切りの一局には極度に緊張するタチなのです。
 度胸の問題とも言えるけれど、性格的に緊張しやすいタチなんでしょう。
  武者ブルイだと思うことにしています。
  頭に血が行ってしまって、その他の部分が貧血状態を起こすような感じ。
 イスの対局で足の震えと胴ブルエは何とか誤魔化せるけれど、指先の震えは相手にも分かってしまうので、必死で揺れないように打ちます。
 最初の1手は必死で誤魔化す・・・30手ぐらいまではかなり意識します。
  相手に気づかれたら精神的に相手にアドバンテージ。
 もしも相手も同じ心理状態だったら良いのですが・・・皆さんはどうなんでしょう?・・・素直に教えてくれるはずはないですね、利他的行為?かも知れませんし。
 ともあれそろそろ、ブランク明けの対局をするだろうが、ネットではふるえないないはずなんだけれど自信が・・・。

我ながら性格が・・・変わらない

2009-01-28 18:11:41 | Weblog
 昔、若い頃に初めて職について、正社員としてやった仕事が自分よりかなり年上の人たちに仕事の連絡とか指導・管理するような業務・・・
 パートタイマーとは言っても家に変えれば一家の主婦であり母親でもあるから、それなりの自信も責任もプライドも持っている人たち、あるいは社会的な地位は低くても技術を持っている職人的な人たちでしたから、若僧としてはかなり苦労した経験があります。
 結局は仕事に誠意を持って取り組むこと、年令と関係なく業務として接することと相手への敬意を失わないこと・・・マアそういうことが重要だと考えた。
 それと、第一に変える必要があるところの気がついた。
  まず、学生口調を改めて少し話すスピードをゆっくりにすること。
   それと、相手に理解してもらおうと話す時に、学生調に”論破”するような感じがしてはいけないこと・・・

 ともかく、それまで自分が属していたグループ・・・学生であり勝手なことを言い勝手なことをやっていたそういうグループは社会的には小さな、特殊な存在だったでありうと気がついた。
 従って、これから自分が社会に出て受け入れられるかどうかは、自分を変えていけるかどうかにかかっていると考えたのです。
 そういう事で、相手の話を聞くこと、穏やかに話すことなどなど・・・結構改善点は多いのですが、変えながらやってきたつもりです。
  しかし、しかし性格はそうは簡単には変わらないものです。

 今日の歯科大での治療で自分で自分に呆れてしまいました。
  ここは予約制で、概ね1回の治療は1時間以内程度が予定されています。
 そして今日の予約時間は午前10時30分・・・これは治療の15分前には待合室に行き、受診準備が必要です。
 そして、10時30分に治療用のキュービックに案内された・・・そこまでは良かった。
 ところが担当の先生がなかなか現れない・・・10分経ち20分経ち、30分経ったところで私が限界でした。
 遅れているのは推測では前の患者さんの治療が長引いているだろうとは思うのだけれど、しかし私としては限界。
  まあ、お客顔で威張り散らすのは苦手なので、そういう気配も出しませんが、
 助手の人に「先生もお忙しいようですし、私も午後には予定がありますので今日の予約はキャンセルということにして、来週に予約を取り直していただきたいのですが・・・」要するに私は「待てない性格」なのです。
 電車みたいな比較的ダイヤがしっかりしているものは待てますが、市内の路線バスみたいにバス停の予定表がほぼ守られないようなものは待てない。
 女房の買物だって「洋服選び」みたいなものは絶対に待てない。

 結局30分待った後、今日の予定は無かったことにして、来週に予約の取り直し・・・全く「待てない性格」なのです。
 自分で何かをやる時に、時間厳守のマナーと同時に守らなくてはいられない性格なので、その反対の「待たされる」ことにからっきし弱い。
 私は宮本武蔵にはなれない。
  小次郎にはなれるかも知れませんが、武蔵の計略に簡単に引っ掛かって、「小次郎破れたり!」となるのです。
 この弱点は少なくとも半世紀の間全く改善されていません。
  自分で改善をあきらめていますから、これからもきっと「待たされることに弱い」性格のままでしょう。
 直せないだろうし、直す気も無さそう・・・。
 

明日は水曜日、カレーの話

2009-01-27 18:10:05 | Weblog
 水曜日には定期検診など仕事は休みでも用事はけっこう多い。
  そういう時に息子が家にいる場合は一緒に昼を食べることになるのですが、この場合息子と言うものはしょうがないもので、オヤジが作るのをあてにしてるのです。
 オヤジがいれば食いはぐれはないと信じている節がある・・・
 これが娘ならば、作ってくれることもあるのではないかと思うのですが・・・甘い期待でしょうね、一度も作ってもらわないうちに結婚して家を出て行ってしまいました。
 娘に御飯を作ってもらうちうのは、現実離れした「ドラマの見すぎ」「絵に描いたような話」なんでしょうね、、、うちの場合は。
 ともあれ自分の分だけ作ると言うわけにはいかない。

 と言うわけで、比較的簡単に作れて息子から文句が出ないものを作るのですが・・・冬なら鍋ものとかもいいけれど、マア男の子ならカレーが嫌いな子は少ないのでそちらに行ってしまいます。
 水曜日の朝に息子に「昼はカレーを作るけれど食べるか?」と訊くと「うん、いいよ」となる。
 「いやだ」という返事なら食べさせないだけでしけれど・・・。
 だから水曜日の昼にはカレーを食べることが多い。
  それで、心配なのはカロリーで、カロリーを抑えるためにもカットトマトとかキノコ類をたくさん使って、ナスなども入れたり・・・
 鶏挽肉、ビーフ、ポークなどや中辛、辛口などと組み合わせて多少は変化を持たせています。
 イカや牡蠣などを使ったり、隠し味にイカのワタを入れたり、自分ではまあまあ以上の出来だとは思っています。

 さてこういうものは、その時に食べる分だけ作るのでは美味しくない。
  かなり多めに作ってしっかり煮込まなくてはいけないので大きな鍋で作る。
 幸い季節は冬ですし、カレーの場合は冷凍しておけるのでその点は安心・・・ただし、息子は翌日も食べたり、女房殿が冷凍したばかりのカレーをさっさと解凍して夕飯に出てくる手抜き!
  結局女房殿にも利用されている感じ
 おかげで1週に2,3回カレーを食べることが続いている。
  明日は水曜日だが、悪い循環を断ち切らなくては!
 たまにはカレーをやめて、鍋にしようかな
  キムチ鍋、アミの塩辛を使った鍋・・・それともカレーなべ!?

 煮込む時間が必要なものが良いですね、その間にネットで対局するのが定石です。
 吹きこぼれ・焦げ付き注意、タイマーをセットして置けばまづは安心。
  但し熱戦厳禁。
 何かを作る時のながらは、二兎を追う羽目になる公算が大きい。

昔は日記アレルギー

2009-01-26 17:42:21 | Weblog
 子供の頃、作文は苦にしませんでしたが日記は大の苦手でした。
  ですから年が改まって、真新しい日記帳を使い始めた時は『今年こそきちんと日記をつけよう』と思うのですが・・・毎年そう思うのだけれど、最短で3日、どんなに長くても1月の終わりまでもったことはない。
 「三日坊主」と言う言葉は私のためにあるようなものだと思いました。
  普通の作文とかテーマが決まったことの文章なら、さして苦労は感じないのですが、何と言っても毎日書くと言うことが出来ない性格でした。
  いや、書くと言うことが問題と言うより、毎日きちんと積み重ねると言うことが出来ないのです。
 それに、何を書くかと言う事ですぐに行き詰ってしまう。
 非日常的なことは記録しやすいのですが、平凡な日常生活を記録するのは難しい気がしてしまうのです。
 だから「昨日と同じ」とか「特に書くこと無し」になってしまう。
  
 夏休みの宿題のような日記だと別な要素も加わるのです。
  大きな問題点は日記は本来ごく個人的な記録のはずなのに、宿題ですから提出と言う事で先生と言う他人の目にさらされます。
 更に宿題ですから、何かの形で評価の対象になるに違いない。
  そういう中で自分を飾ったような嘘も書けないし、そうかと言って提出が前提 それに何から何まで本当のことだけを包み隠さず書きたくもないし。
 マアまともにかけるのは「家族旅行」とか「海水浴」や「町内の行事」などだけですから、40日分の日記を創作するのに苦労したものです。
  何と言ってもまともに宿題をやるのは夏休みの最初の1週間と最終日8月31日だけですから、日記もその日に殆ど全て書くようなものです。
 お天気の記録と矛盾が無いかどうかの辻褄合わせに苦労したり・・・

 そういう事で私の日記嫌いは小学生のころから始まっています。
  でも不思議なことに日記帳そのものは嫌いでは無くて、毎年年末近くなると翌年分の日記帳が本屋・文房具屋さんの店頭に並びますから、それを見ると「イイナア」などと憧れ半分で見てしまします。
 いかにも重厚なものや、恰好が良いものがありますから、そういうものを目にすると私も1冊買って、来年こそ日記をつけようかなどと思わないでもない。
 しかし、仮に始めても最初の3ページだけしか使わない可能性はほぼ100%に近いし値段も安くないので、おいそれとは手を出せません。
 日記を毎日つける人への尊敬と同時に、強いアレルギーみたいなものも持っていました。
 アレルギーと言うよりアンチ日記シンドロームみたいな感じでしょうか。
 
 それが約6年前に、一緒に働いていた若い同僚が彼がやっていたブログを教えてくれたのです。
 それはサッカー関連のブログですから、応援するチームは違っていてもテーマとしては理解できるわけで・・・彼が転勤してからもインターネットでそこの記事を読んだり、たまには書き込みをしたりしているうちに、ブログと言うのもなかなかおもしろそうだと思ったのです。
 学校の宿題ではないから何の強制もないし、それこそテーマは自由だし、日記でも良いし都合の良い時に更新でも良いわけで・・・これならモノグサ太郎の私でもやれそうだなと思いました。

 それにしても、ともかく続いています。
  内容はともかく、おかげ様でこの年にしてはキーボードの操作は結構速いようです。
 ブラインドタッチは難しいものの、両手で打ち込むのはまあソコソコ。
  職場でもほぼ毎日データを入力していますし、家ではブログに文を入力しています・・・そいうことって老化防止に少しは役立っているような気もしますが、どうなんでしょう。

 いずれにせよ、学校で「日記」という科目があったら、きっと落第点だったに違いないのですが、それが毎日ブログを更新しているなんて変わるものですね。
 
  

噂をすれば影!?

2009-01-25 15:50:34 | Weblog
 毎日、3年以上は続けていたので回数にすると1000回以上連続だったのですが、昨日は気がついたら暦が変わっていましたので記録が途絶えました。
 まあ、続いたからと言って賞をもらえるわけでなし、急遽何かの話を入力して日付だけ辻褄を合わせれば形の上では記録は続きますが、それも変ですね。
 と言う事で、1月24日付けの日記はありません。

「噂をすれば影」は、よく使う言葉ですね。
 私の職場での実例で言いますと・・・公的機関を訪問してくるお客様の中には、皆が皆訪問先の”権威”みたいなものを尊重したり敬意を払う人ばかりとは限りません。
 中には、「難しい問答をふっかけて職員を困らせてやろう」とか、真面目な質問を装って「からかう」事を目的とする人もいるのです。
 そういうのは、角度を変えてみたり第三者的な視点から見れば「お笑いネタ」になりそうです・・・そう、昔で言えば”レオナルド熊”のコントみたいに。
  例えばお客さんは「自分の都合」優先で何かを働きかけて来るとします。
 このこと自体古い時代の「お願い」ではなく「権利の主張」に変わって来ていますし、客は窓口で「どなり散らす権利」を持っていますが、対応する方には「どなり返す権利」はないのです。
 ですから「融通の利かないお役所的な対応」を非難されることがあっても、愚直に「法的解釈による正否」でしか答えられないと言う平行線を演じなければならないのです。

 そういうお客の一人にOさんと言う人がいまして、この人は業界知識にも詳しい人なんですが、専門的な問答で職員を困らせて喜ぶ趣味を持っています。
 「○○法第○条の○項についてだけれど」という感じで話が始まります。
  私などは相手にとっては知識が無さ過ぎてケンカ相手にならないので無視されていますから被害に遭いませんが、専門的な知識の豊富な骨のある職員が標的になるのです。
   Oさんは会社役員の肩書があって、定期的にやって来ます・・・まるで暇つぶしのレクレーションを兼ねているように・・・
 時に数か月顔を見せないこともあるのですが、私などそういうことに気がついて「そう言えば、最近Oさんの顔を見ませんね」などと同僚に話しかけると、「やめて下さい、”噂をすれば影”ですから」となるわけです。
 噂をすると”魔”を呼び寄せる”ことだま”信仰的な言葉ですが・・・マア、多少期間が不ぞろいでも、ソロソロ来る頃と言うことでしょう。

 私自身の場合は・・・
  近所のコミュニティの囲碁クラブに行く時は毎日のように通ったりしますが、何かのはずみで足が遠のくと暫くは寄らなかったりする。
 メンバーの中には私の顔を見ると「一局」の声をかけてくれる人もいます。
  中には2子とか3子で私をぎゃふんと言わせようと待ち構えている人もいますが、動機はどうであれ顔を出せば声を掛けて貰えると言うのは有難いことです。
 もしも、浦島太郎みたいに見知らぬ人ばかりだったり、どこからも声がかからなかったりしたら味気ない気分を味わうに違いない。
  久しぶりに「囲碁・将棋クラブ」の部屋に行くと、「オッ!?、どうしたのかと噂をしていたのですよ」と声がかかります。
  実際に噂をしていたのか、あるいは良い噂話かどうかはともかく、声がかかると言うことは「入国ビザ」ならぬ「入室ビザ」「市民権」みたいなものです。
   
 コミュニティの入口にホールがあって、そこから図書館に行く方向とクラブ室などがある方向に分かれるのですから、図書館に行けばそのホールは通過している。
 それに分煙でコムニティ内では禁煙ですから、吸いたい人は建物の外に出てきていますから、建物の近くを通れば顔を合わせることがあるので、本当の「音信不通」的ではないのですが、やはりクラブのある部屋に顔を出さないと行ったことにはならないようです。
 
 さて年が明けてもうそろそろひと月近く経ちます。
  初詣も1月中なら認めてもらえるでしょうから、そろそろコミュニティにも顔を出さないと、噂で「お亡くなりになった」とか、「重病で入院中」と言うことになりかねません。
 

不健康診断

2009-01-23 17:32:12 | Weblog
 昨日は勤務先での健康診断がありました。
  職場一斉ではなくて、同じ職場の人は数人ずつですが、同じ地区の人が日時を変えて公的機関に集まってくると言うやり方です。
  これは、スケジュールが決まると検査表とか問診票が渡されるのですが、それを見ると憂鬱になりますね。
 自分の病歴、治療中かどうかなどについて書かなければならない、それに家族・両親などの病歴などについても・・・
 個人情報保護と言う点では別に心配はしていませんが、毎年書いているわけですから見栄を張って嘘を書く意味もない。
 でも「不健康」を確認させられる感じで気分が滅入ってきます。

 午後1時からの検査のグループでしたので、急いで昼食を食べていったのですが・・・これは間違いだったかも知れません・・・。
 バリウムを飲んでやる検査は予定されていないので気楽に検査を受けたのですが、採血して血糖値などを見る検査があったのですから、少しでも成績?を良く見せるには監査前には食べない方が良かったかも知れません。
 それで、看護師さんにきかれたら「少し前に軽く食べてきました」くらいに答えておくとか・・・。
 それに検査の場所が職場から近いので当然自転車で行くし、所要時間は正味1時間程度だから検査後は即場に当然戻ってくると思っていたから、服装も制服に風除けの上着を着て行った。
 それが何と・・・ほかの人たちの常識とは違っていたみたいです。
  皆さん「他所行き」かどうかは知りませんが、皆きちんとした身なり。
 作業員みたいな服は・・・私だけ?
  まあそれでも公的機関の制服だから、知らん顔をして堂々としていれば良い?
 それと、検査後に職場に戻るのは私だけみたい。
  確かに自転車で15分で戻れる条件ですし、仕事も忙しいのですから仕方がないのですが、一方で絵に描いた餅みたいな年休三十数日分未消化なのですから、何とも悲しくなるような寂しいような。

 検査そのものは、いつもの通り・・・
  私の場合は総合病院で3か月沖には検診があり、循環器中心のクリニックと生活習慣病クリニックで毎月検査されているわけですから、この日の検査は雇用先が「従業員の健康にきをつかっています」みたいなアリバイ的な検査みたいにひねくれて感じたり。
 性格が捻じれているいますね。
  さて、最後の「項目」・・・採血の後[診察]があってお終いなのですが、同僚は何も悪いところが無い(強いて言えば低血圧)ので、「診察]は無しで検査終了。
 私は、多分、診察室に呼ばれて検査カードも見せられながらいろいろ指摘されて、質問攻めに遇うことを覚悟していた・・・
 ところが、私も診察無しで検査終了!。
  どうやら、治療中・服薬中なので敢えてここでは診察しなかったようです。
 健康診断で初めて悪いところが見つかった人が対象だったようですね。
  それにしても、私の場合は「自分がいかに不健康であるか、自覚を新たにしなさい」という日でした。
 と言っても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」タイプですが。
  健康診断のの名のもとに「不健康度」をチェックされました。

 それにしても行きかえりが寒かったです。
  向かい風の中を検査会場に向かいまして、心の中では「向こうに着けばTシャツ1枚で済むくらい暖かいはずだからガンバレ」なんて、自分に変な励まし。
   それにしても、健康かどうかより寒さに弱い。

好奇心

2009-01-22 18:13:26 | Weblog
 好奇は「奇」の字で考えると、奇妙なものとかゲテモノ趣味みたいなものと誤解されそうですが、マア普通に「新しいもの好き」みたいなものですし、それも「私にとって新しい」だけでして、世の中の基準ではありません。
 それでも、年を取るに連れて、世の中では周囲への興味がだんだん薄れていくことになっていますが、おかげ様と言うかオアイニクサマと言うか、私は相変わらず自分なりに面白いものを見つけては楽しむ癖が抜けていません。
 
 数年前からNHKで「宮廷女官チャングムの誓い」を放送しましたが、最初は日本語版、ついで字幕スーパー、そして字幕スーパーノーカット版と完全制覇?
 そして昨年あたりから女房殿の友人から、韓国の連続ドラマのDVDを借りて見るようになりました。
 そこで、「韓国語会話を勉強しようか」と言う方向へ行けばまずはまともですが、そこまでの労は惜しむ性格でして・・・
 ドラマの中のあいさつ言葉とか、「チンチャ」とか「アラッソ」みたいによく出てくる言葉を聞き取れると喜んでいます。
 そして最近は、字幕に出てくる出演者の名前を読み取る練習・・・
  字幕が切り替わるのが早いですから苗字だけで、今のところ「金」を表す「キム」とか「李」の「イ」だとか有名なところを数個の字しかわかりませんが、ハングル講座からダウンロードした一覧表とにらめっこしています。
  会話の方は初めから諦めていますし韓国の囲碁の本を韓国語で読もうなどと言う野望は持っていませんが、苗字と地名、町の看板などが読めると楽しいだろうなと考えて、ハングルに取り組んでいます。
 尤も日本にはないような母音があり、微妙なニュアンスは分りませんから全くの自己満足の遊びです。

 ところで文盲率と言うか識字率の話で、韓国のそれが24%台と出ていました。
  これはショックでしたが・・・でも少しおかしいような・・・。
 ハングルは日本で言えば平仮名・カタカナみたいなもので、音を表していて、且1音節分の表記がハングル1文字分として表せるので漢字の代用にもなっている。
 そして現在は韓国ではハングルのみの表記です。
  日本の文字を使って来た感覚で言うと、同音意義の問題がややこしいと思うのですが、そのあたりの問題で文字の論争は続いしいているらしい。
 あるドラマの1シーンですが、毛筆で書かれた履歴書を見た社長が「あなたは中国人ですか、それとも中国領で教育を受けたのですか?」と質問するばめんがありました。
 質問する人の非常識さを際立たせているとも言えますが、極端に言うとそういう傾向があることを表しているのかも知れませんね。
 ところで識字率、東アジアの日本・中国・韓国あたりで90%以下と言うことは考えにくい・・・
 韓国の場合はハングル以外の漢字表記の識字率なのだろうか?不思議です。
 

エッ!?あの人も

2009-01-21 18:12:05 | Weblog
 深夜にネットに入ると実戦が行われているのは3局しかありませんでした。
  それもみな4子とか5子局だけ・・・
 おそらく対局相手が見つけにくいので、「置き碁OK」の条件で対局相手が見つかったのでしょう。
 多子局もつまらないと言うこともないのですが、白氏が私と同じくらいの棋力の人で、黒さんがたくさん石を置いている場合はどうしても白の立場で考えてしまうのです。
 もしも同じくらいの棋力の人がプロあるいはかなりの高段者に置いて打っている場合は、自然に黒の立場で碁盤を見るようになるようです。
 ですから後者の場合の置き碁の方が、より真剣に観戦することができるのです。
  これは反対の場合はつまらないと言う事ではないのですが、やはり自分の棋力に近い人の立場で考える方が真剣さが違います。

 そういう事で、一時退去してパンダの方に遊びに行きました。
  例によって手数の短い対局を選んで観戦です。
 始まって20手と言うところですから、パンダの途中観戦としてはかなり早い方でしょう。
  2局観戦しましたが、はじめの1局はおそらく日本人同士の対局だと感じました。
 時間の使い方が日本人?です。
  まず、時間設定が25手を10分と言う設定になっています。
 これは前にも話したことがありますが、「時間切れ負け」の危険を回避しながら打つとすると、概ね8分以内では25手打つと思われます。
 1局の手数がアマの平均は知りませんが、仮に280手くらいとすると一人は140手打ちます・・・但しパンダのルールでは対局開始時のはじめの1分フリータイムなのでこの時間に数手打つことができますので、実際の手数は少し少なくなります。
 まあ、125手と仮定すると5×8で40分消費することになります。
  となるとアマチュアの囲碁大会などでの消費時間と同じくらいとなります。

 ところが持ちタイムを一杯に使うと話は違ってきます。
  この日観戦した白黒両氏とも、持ち時間を一杯に使うタイプでしたから、見ている方がハラハラさせられました。
 持ち時間を10分設定で打つのは、私の経験では外国人・特に欧米の人には珍しいし、しかも一杯一杯で打つのもなんとなく日本人的な気がしました。
 何となくですがそういう美学があるような・・・

 さて夜もかなり更けて、いつものネットに戻って見ると、マイフレンド?のMさんが対局待ち合い室にいました。
  時間も時間なので名前は彼だけです・・・点数を見て驚き
 何と私より下になっている。
  これはとんでもない話ですから、こんな時に私も「対局」ボタンを押したら、酷い条件で打つことになるので、うっかりボタンは押せません。
 彼は調子が良い時は私などは2つ置かなくてはいけないくらいの勢いがあります。
 勿論不調の時は私より点数が下に行くのですが・・・それは私の点数が概ね平均の時の話。
 今は私自身が低迷しているのに・・・その、更に下に行っている!
  一体何が起きたのか知りませんが、世の中に「助け合い」と言う言葉はありますが、囲碁ではこういう時は知らんふりに限ります。
 下手に触ると、私を踏み台にして彼は元に戻り、私はさらに沈んでいくような
  それにしても、一緒に落ち込んでいるのは初めてかも知れません。

ベーグル

2009-01-20 18:12:48 | Weblog
 うちの息子は、今なぜかフレンチトーストに凝っています。
  といっても、素晴らしくおいしいとか珍しい逸品と言うものではなくて、ネットに紹介されているもので、自分で出来そうなものに限られます。
 数年前までは袋入りのインスタントラーメンも怪しかったのですから、それから考えれば長足の進歩です。
  その程度のことで褒めるような親馬鹿でもあります・・・
 まあ、ともかく1年の一人暮らしの効果でしょうかね。
  
 それと、もうひとつはべーグルにこだわっています。
  これもネットで見ると何百種類もありますが、そういうものを完全制覇とか、自分で作るとかではありません。
 (自分で作ろうと考えるようなら、それはそれでたいしたものですが)
  以前、彼が高校生の頃に寝坊しても朝ごはんを抜かないように、私が作ってやったベーグルサンドを思い出したらしい。
 食事代わりとしては生ハムにレタスみたいなものが向いているかもしれませんが、家のは少しおやつっぽいものです。
 ベーグルを水平に二つに切って、切った面を軽くトースト。
 そこにクリームチーズとドライフルーツを挟んでサンドします。
  ドライフルーツは、キューイ、パイン、イチゴ、リンゴなどを小さなサイコロ状にしてミックス。
 材料が足りない時は、レーズンで増量します(尤も、レーズンのも赤・紫・緑などいろいろあって味も変化があります)
 この、フルーツベーグルが大の気に入り。
  
 問題は近所のベーカリーや大型スーパーに置いてある店は約半分で、量が少ないのか、売り切れになることが多い。
 そこで、少し離れたベーグル専門店に親子で自転車で買いに行ったり・・・
  片道40分かけていくのですから、変なオヤジと息子ですね。
 女房殿?文句は言いません。
  澄まして出来あがったものを食べている!

そういえば、娘が小さかった頃に、一緒にクッキーなどを作ったのは私の方で、母親では無かった。
 シュークリームの皮とかクリームも・・・
  私の母方の伯父がベーカリーをやっていたり、従兄弟が跡を継いだばかりの頃に学生アルバイトと言う形で、冬休みの手伝ったりしたことがあった・・・
 そういうことが、記憶の隅とか脳の片隅に残っているのでしょうね。
  となると、やがて息子は父親になって、自分の子供に作ってやるのでしょうね。
  そういう流れが自然ならば、どこかで息子に囲碁を植え付けられたかも知れなかったのに、それは失敗。
 もう取り返しはつきそうもない、、、残念。
 

画竜点晴

2009-01-19 18:17:02 | Weblog
 「画竜点睛」の前にお恥ずかしい話を・・・
  この文字をパソコンに入力したのですが、「がりゅうてんせい」では出て来ません。
 この場合は変換すると「我流天声」が出てきます。
  私みたいな素人碁では「我流」ではあるが天の声とは縁が遠いので、ジョークにしても全く意味が通じません。
 ところが「がりゅう」だけですと「画竜」が出るから不思議です。
  もっとも「てんせい」はいくつかある中で「点睛」を選ぶことになります。
 正しくは「がりょうてんせい」のようですね・・・なんと長い間無自覚でいただろうか・・・普段使わない言葉なので、周りにもばれなくて、その代り正しいことも知らなくて来たのです。
 マア「がりゅう」で画竜が出るのですから100%間違いではないのかも知れませんが・・・

 話は昨夜の夜中に飛びます。
  1時半ごろでしょうか、少し強い雨が降り出しました。
 連想と言うか条件反射と言うか、昔聞いた歌を思い浮かべまして・・・イルカの「雨の物語」だったと思います。
  「・・・物語の終わりに、こんな雨の夜、にあいすぎてる」だったでしょうか
 だからどうと言うことでもないのですが・・・
  ここから囲碁の話に連想が飛ぶのですから、私もやはり碁キチのうちに入るかも知れません。

 最近勝率が悪いのは、実力不足・弱いこと以上にストーリーが出来ていないのではないかと考えたのです。
 囲碁は両対局者の自己主張で戦いになりますが、一方でその戦いがどこで始まって、どういう結末になるかを想定できるかどうか・・・そういう構想が大事でしょう。
 構想は自分に都合が良い事ばかりが起こると言う夢物語ではなく、自分の力で自分の未来を描くみたいな・・・
  どうも最近はいきあたりばったりに、喧嘩を売り、売られた喧嘩は買っている。
 話の落とし所みたいに戦いの行く末を考えていない。
  戦争の終結の仕方を考えずに戦争を始めていると言うことです。
 推理小説なら、結末を考えずに勝手に話を進めているうちに、何の話か分からなくなっていくみたいなもの。
 絵で言うと「画竜点睛」・・・本来の目を描かないと言う意味ではなくて
  目を描けていない。
 「画竜点晴を欠く」ではなく「画竜点晴を描く」
   目を描かないと、安心して戦えないですから・・・。

実戦勘

2009-01-17 17:05:27 | Weblog
 ここ数日リアルもネットも打っていませんでした。
  勿論ネットでの観戦は続けてはいたのですが・・・これが、観戦も全く無しよりは良いとしても、疑似体験的な効果は薄かったかも知れないと思いました。
 例えば、外国・碁会所もコミュニティの囲碁クラブなどが無いところで数年暮らしていて、尚且つネットなどで囲碁の観戦もないような生活をしていて、帰国した場合、嘗ての囲碁仲間と再会して碁盤を囲んだ時に相当棋力の差がついていると想像できます。
 数局打つうちに元に戻るものなのか、ある程度時間が必要なのか、あるいは棋院などに通ってリハビリが必要なのかわかりませんが、ともかく嘗ての互い先の仲間とは当面互角と言うわけにはいかないと思います。
 
 私にとって囲碁文化と隔絶した外国暮らしと言うのは起こりそうもないので心配はないのですが、そういう極端なことは起きないとして、数日、あるいは数週間または月単位で実戦が無かったら、程度の差はあるとしても似たようなことが起きるかも知れませんね。
 私の場合は、入院・手術でしょう。
  今のところは幸いに現実の心配にはなっていませんが、以前の主治医からは「必ず将来手術が必要になりますよ」と宣託が下っている身ですから、その将来が徐々に近ずいているものやら、突然現実になるものやら。
 その場合確実に数ヵ月は囲碁どころでは無くなるはずです。
  極端に言えば、手術が上手くいったとしてもベッドから降りてゆっくり歩くところからリハビリが必要ですから、今みたいに切った張ったの格闘みたいな囲碁は禁止に違いない。
 極度の緊張とか興奮はご法度・・・
  中国の古典と言うか「杞の人・・・天が落ちてくるのを心配して・・・」

 さてここのところ数日打っていませんでした。
  ひさしぶりに対局が酷かったのです。
 いえ必勝パターンだと思っていましたが・・・手入れの場所を間違えたのです。
  緊急のメンテナンスを通り越して、2番目以降の心配をしてしまいました。
 こういうの意も実戦から遠ざかっていたためだろうか、マア性格と言うか、、、一言で言えば「弱い」のですが。
  「強い」[弱い]はアマレベルで如何ともし難いのですが、実際には「実戦勘」と言うのも大きな要素があるように思えます。
  
 例えば「毎日リアルで碁を打っている人の実戦を観戦して、”それほど強いとは思えない”と感じたのが、いざその人と対局すると分が悪かったり」します。
 一言で言えば「毎日打っている人にはかなわない]みたいなところがある。
  ザルとはそういうものかも知れませんね。
 では「観戦」は疑似体験として効果が全く無いのか?
  自分の観戦態度にも問題がありそうなことに・・・続きはまた。

実戦勘 Ⅱ

2009-01-17 10:18:11 | Weblog
 子供の頃習字を習っていました。
  当時は地方には小学生向けの学習塾と言うものは少なく、「算盤」塾のようなものならありました。
 ところが住んでいる町が「市」ではあるが、小さな川ひとつ隔てて当時は町だった所とも境界辺りですから、地方都市のそのまた町はずれ、そういう”文化的”なものはありません。
  何のはずみか、町内の数件の親たちが書道の先生に頼んで子供たちのために月に2,3回の出教室をお願いしたのです。
  会場は開催日毎に生徒の家を持ちまわりです。
 家は二番目の姉、三番目の姉それに末っ子の私が教わることになりました。
  そういう事で小学校3年から6年までは「書道」を教わりました。
 自分で言うのも変ですが、なかなか筋が良かったのか、競書会に出品したり市主催の書き初めコンクールなどで賞をもらいました。
 書道では確か三段くらいだったと思いますが、ところが中学生になったところで大きく変わりました。
 私は書道をやめて、普段の字を書く姿勢も大きく変わったのです。
  要するに学校では先生の話を聞きながらノートを取るのですが、きれいな字で書くと言うことを全く考えなくなったのです。
 まずはスピード重視、さらに「このノートは結局は自分しか見ない」「従って自分さえわかれば良い」と言うわけで、文字の持つ暗号性が高まった。
 他人から見た場合は全く読めない(時には書いた自分でも分からない・・・まるで国会の速記録めいた。
  小学生の時代の書道の経験はあっさりと忘れてしまったようです。
 但し姉たちは中高まで書道を教わっていたことになりますから、その効果は半世紀は続いているようで、毎年年賀状が毛筆で書かれているのを見るたびに「書道」のことを思い出します。

 子供時代の経験のその後という話では
  昔聞いた話ですが、日本の駐ロシア(当時はソビエト)大使館勤務の家族・・・小学生が綺麗なロシア語を話すことができたそうです。
 その子供が数年して帰国して日本の学校に通うようになったのだそうですが、昔ロシアで逢った人がロシア語で話しかけると、全く理解できなかったのだそうです。
 まあ、極端なことかも知れませんが、そういうものかも知れませんね。
  頭で覚えることの他に、自然にしみ込んで来るものもある。
 問題は、受け入れる方にそれが固定化できるかどうかでしょう
  
 昨日「実戦勘」のことを考えていて、自分についての問題はその固定化の部分かも知れないと思いました。
 年齢的なことではなくて疑似体験の「疑似」の部分です。
  例えばリアルの観戦では、少し離れたところで対局者の邪魔にならない形ではあるが、気分は対局者みたいに考えながら観戦します。
 ところが、実際に打っているわけではないのですから「自分ならこう打つ」と言う場面で必ずしも対局者とは一致しないことが起きます。
 当然そういうことは起こり得ると言うか、当たり前です。
  それでそれが何手か重なると、自分のイメージしていた碁盤の模様が、全くイメージとかけ離れたものになるわけです。
 それでも尚且つ観戦を続けるとした場合、観戦者そしての気分が「対局者のように考えながら見る」から離れていくように思うのです。

 これが自分の部屋でネット観戦ともなるとさらに”感心しない”・・・
  リアルでは、割合姿勢よく観戦することを心がけるのですが、ネットでは初めから身も心もリラックス状態ですから、そういう姿勢が脳の働きとか観戦する時の心構えに影響があるような気がします。
 こういう時に「対局者の気分で考える」は難しいようです。
  はじめから見物気分ですね。
 そうなると、はたして観戦の効果はかなり薄くなっているような気がします。
  やはりアマは打たなきゃだめかも知れませんね。

見物人のおせっかい

2009-01-16 18:27:05 | Weblog
 縁台将棋などで見物人がやかましいことがあります。
  見物人の口出しなどはもってのほかですから、そういう原則は誰でも知っているはず・・・特に盤を裏返すと、口出しすると首を切って載せるゾと言われる”血だまり”があるくらいです。
 もっとも、縁台将棋では足付き盤は使わないでしょうが。
  それでも素人将棋・囲碁の見物・観戦から”口出し”などのマナー問題がなくならないのですから、これは素人・主に低段以下限定だろうとは思いますが、どこかしら人間性?に関わるものがあるかも知れません。

 ネットでは心配は少ないのですが、リアルでは常に問題になります。
  勿論口に出すなどいけないことですが…野次馬は公平性?を欠くようですね。
 つまり有利な方に乗ると言うか、形勢の良い方の見方でもの言うような感じです・・・そういうところがありませんか?
 見物人が自分の読みの正しさを自慢しているようなところがあったりします。
  ですから毎度被害を受けてる人などは「危ない人」が現れると「シッシ」「あっちで打っててくださいよ」とバリアーを張ります。
 言葉での被害と、ジェスチャーではないですが雰囲気に現れる人もいます・・・ため息をついたり、顔をしかめたり・・・これも口に出すのと効果は変わりませんね。
 
 そういうことですから、観戦は好きですがかなり気を使います。
  口には出さず、態度にも出さないように観戦するとしても、「勝負の行方がはっきりした」時点で盤側を離れるのは、もしかしたら”態度で表している”ことになりはしないかなど考えたりしますから、離れるなら形勢不明の場面が良いですね。
 もしも一方に片向いた場合などは、何か用事を作って席を離れたりします・・・例えば「お茶を取りに行く」[誰かと世間話をするため]とか。

 ネットの場合はリアルのような気の使い方はしませんが、それでも形勢が傾いた瞬間に観戦を打ち切ると、いかにも「もう見るべきところが無い」「つまらなくなってしまった」と言っているように受け取られないだろうかなどと心配をしたりします。
 ですから一方的になってしまった対局の観戦は、離れるのも気を使うし、観戦を続けるのも不利な方の人にはプレッシャーかもしれないと、変に気を回したりするのです。

 尤も昨夜の観戦では・・・
  かなり形勢が離れているように見えるのだが不利な方の人は投了せずに打ち続けています・・・淡々とと言うか、さして勝負にこだわっている様子もなく。
  もしも観戦を打ち切って、他の碁を見るために退席したとしたら、それも何らかの意思表示みたいでマナー違反かも知れないなどと思ったりするので、終局まで見る事にしましたが・・・
 見物人の関心の焦点は、不利に見える方の人がいかに打開策を見せるかと言う点です。
 ところが、「打開策」らしいところが見えない・・・マア本人の自由ではあります。
 となると、私の局面の把握が間違っているのかも知れないと不安になったり、気を揉んだりしました。
  しかし、いつの間にか記憶が薄れて・・・
   やはり眠ってしまいましたが、この方がもっと失礼かも知れません。