なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

戦略的布石!?

2008-03-31 18:13:55 | Weblog
 本日もまた、引越しの力仕事に追われた。
  マア金曜日ほどではなかったけれど、今日は明日からの新事務所での営業開始にそなえての作業です。
 物を売るとか、お客様の購買意欲をそそるとかは無いから、その点は楽ですが、過去に遡っていろんな帳簿・台帳をすぐに取り出せるようにしておくのが手間がかかります。
 ともかく重い本やら台帳が詰まったダンボールを抱えて階段を登る作業は終った
  全く内心ヒヤヒヤしながらの力仕事です。
 僅か1Fから2Fだとお笑い下さるな
  20kgはありそうな、持ちにくいダンボールを抱えての階段のぼりは、ちょっとした登山並です。
  
 さて金曜日にもばてていて、こういう時に碁を打ったら勝てないだろうと想像していたのですが、やっぱりそうでした。
 「分かっているならやらなきゃいいのに」と言う勿れ、碁を打つ以上は勝ちたいけれど、勝敗以上に打つこと自体が楽しいから、負ける確率が高くてもやめるわけにはいかないのです。
 アマの碁ですから、負けて大変なことが起きるということも無いし
  「楽しく打って」「打つことが楽しくて」・・・そしてできることなら勝ちたい・・・とマアそういうことです。
  
 しかしコンディションと言うか、案の定そこが問題でした
  まず、3連敗した後、やっと一つ勝ったものの、再度連敗
 結局は1勝5敗:勝率1割6分7厘
  プロ野球のペナントレースなら完璧に最下位・間違いない
 これだけダメでも囲碁が嫌いにならないから、しつこい性格かも知れません。
   さて、コンディション不良ににつき不成績と言ったら相手に失礼でしょうね
 「体調と関係なく、単に弱いだけでしょう!!」と言われることは間違い無さそうです。
 相手だって体調が万全ではなかったと言われるかも知れないし。
  確かにそういう面はある・・・実はそうなんでしょう
 
 不思議と、こういう時期に危ない相手と当たる
  イヤ、危ないと言っても切れやすい相手とかいう意味ではなくて、実力者のはずが何故か点数を下げていたり、対戦成績で私をカモにしているような・・・
 何故か巡り合わせが悪いというか、悪い星の下に生まれたというか
  ・・・こういうボヤキはまだ実力不足を棚に上げています
 
 実力と言うと、最近「戦略的布石?」の人が多い
  戦略的布石と言うのも変な表現かも知れませんが、惰性的というか習慣的な布石では無いという意味です。
 それはその人のパソナリティーと言うか・・・多少あざとさも感じる面もあるけれど・・・ともかく”何か”をやって来ようとしている布石
 こちらがおとなしくしていると、どんどん相手のペースになっていくような
  具体的に言うと、、、最近両高目とか、星+目ハズシ、あるいは高目のような布石の人が増えました・・・そんな気がする。
 実利と勢力のバランスなどから見たら、どんな布石でも一長一短はあるはずなので、どういうのも”アリ”な反面、絶対は無いはず。
 しかし戦略的に動いてきた相手に、的確に応じられなければ、相手の戦略は成功したことになってしまいますね
 そこの「対応」に自身が今ひとつ・・・つまり私は弱い由縁

 ところで、今まで昼休に碁を打っていた仲間は、二人とも転勤
  新しい仲間と出会うことが出来るだろうか?

囲碁はザルでも楽しい

2008-03-30 15:09:36 | Weblog
 今日は日曜日ですが、忙しい一日
 と言っても主にTV観戦ですから、リビングのTVの前に居座ることになる。
  普通ですとこの行為は家族の顰蹙、とりわけ女房殿に文句を言われる・・・「目を悪くしますよ」「外にでて少し歩いてきたら・・?」
  家で立ての物を横にもしない亭主は30年以上”耳タコ”
 しかしJの試合なら、この言葉は無い
  あちらは私以上に観戦が好きだから、今日みたいに一日に9試合組まれている日は大変なのです。
 午後1時試合開始、2時試合開始、3時開始、4時開始、7時開始
  それぞれ約2時間かかるから、隙間は6時から7時の間1時間
   夜9時以降だって速報だの、振り返り番組がある
 だから、TV地上波、BS、スカパーと大忙し
  「但し!」自分の贔屓チームが負けてしまうと観戦熱も萎えてしまう
 もう他の試合はどうでもよくなる
  極端に言うと「自分の故郷のチームも、地元チームも出ていない選抜野球というか」・・・興味が、、、
 少なくとも2,3日はそういう状態になる
  だから、話題からサッカーが消える
 そう考えると、私のは種目としてサッカーファンなのか、単に贔屓チームの応援しているだけなのか大いに怪しいところがあると自分でも考えてしまう。
 尤も女房殿は、そういう状況と関係なく観戦しているのだから、あちらの方が筋金入りなんでしょうね。
 マア、仮に贔屓チームが負けたとすると・・・TVの前に居る意味が無いので、自室に籠もって(家庭内引きこもり状態で、食事・入浴・トイレ以外は・・・)本を読むかネットで碁を観戦するか、対局するかのどれか。
 この辺りが、同じ勝負を争うものでも見る趣味とやる趣味の差かも知れない
  自分でやるものなら、負けても負けても、悔しいと思うことはあっても嫌になることは無い
 ところが見る方のスポーツは結果如何ではフラストレーションがたまってしまう
  
 ですから、自分で打つほうの囲碁
 負ければ負けるほどのめりこんでいったところがある。
 囲碁の持つ奥深い魅力と言う言い方もあるけれど、それは当然としても、ヤヤ澄ました表現で、実態は負かされれば負かされる程深みにはまって行った。
 これがザルの来歴なんでしょうね
  ということは、競馬とかパチンコとかを続けていなくて良かったということになりますね。
 コノ種目で”負ければ負けるほど”は我ながら恐ろしいです。
  尤も、競馬に関して言うと”見る”と”やる”の違いがあるし、パチンコにしても最近のものはコンピューター制御されているはずだから、一見”やる”遊びに見えて、実は結果をコントロールされている居るという意味で、実態は自分でやっているということから離れているような・・・

 そういう意味で、囲碁でザルになった理由と言うか、経過と言うか、、、
 ともかく何十年も飽きずに打ち続けているのです。
  ザルでも楽しい?・・・いえ、ザルだからこそ楽しいのでしょうね。
  ザルですから、勝った負けたとお釈迦様の手のひらの上で騒いでいるのが結構楽しい。
  もしも、コノ姿をTVで見ることが出来たら・・・TV観戦みたいに熱が醒めてしまうかも・・・そう思いながらも気持はHOTなところがザルたる由縁。
 

後遺症

2008-03-29 17:46:13 | Weblog
 昨日引越しの話を書きましたが、この後遺症が炸裂しています。
  昨日は睡眠2時間での、私としては重労働だったので、今朝目が醒めたのが昼に近い11時でした。
 少なくとも睡眠不足は一気に解決ですが、こんなに眠ったのは、この時間まで目が醒めなかったのは稀有なことです。
 最近は老人性の早起き症候群ですが、若い頃でもここまでは眠りません
 いや、特に土曜日曜の休みの日にはもったいなくて、寝てなんか居られない性格
 休みの日は寧ろ普段より早く起きて遊び回る方ですからね。
  ソレはともかく、目が醒めたのは良いが、体中に昨日の記念的疲労感・筋肉痛が残っている。
 女房殿に言わせると「日頃の運動不足を解消できて良かったね」・・・
  こういうのは「解消」とは言わないでしょう、、、尤も反論したところで相手にされないのは分かっているので、ここは沈黙を守るしかない
 いや本当は初めから言わなければ良かったのだ・・・話したところで、コノ反応は予想通りなのだから。
 
 しかし、引越しはまだまだ続くが
 いや自分の課の荷物を抱えて階段を上がるという、クライマックスは過ぎたかも
 後は残りのこまごまとした備品などを纏めて持っていくことと、月曜日以降新事務所のロッカー・書棚に書類と記録を並べることが始まる。
 かなり面倒な作業ではあるけれど、あの登山的苦行では無いでしょうから・・・昨日は登山で言うと「胸突き八丁をボッカ」・・・踊り場で一息入れ、階段を上り終わっては・・・これを何回繰り返したか。
 頭の中では「言うことを聞かない自分の体を呪いながら」「筋肉だけなら・・・循環器がストライキを起こしたら困る」・・・それでも「年寄り・半病人とは見られたくない」などと見栄を張って
 本当は実際に年寄りだし、半病人を通り越して完全な病人だから仕方ないのに
 
 さてさて昨日の明日の今日になっても対局意欲が・・・溢れるほどには湧いてこない
 これが年令から来る体力の無さでしょうね
  ネットに入って、他人の対局を観戦するにしても、何処か集中力が無い感じがする。 
 いつもなら、真剣に観戦するか、あるいは見ているうちに自分も打ちたいという意欲が湧いてくるのに、何処か何か違う気がする。
 
 若い頃は疲れていても、対局意欲がカバーしたわけです
  尤も勝敗というか勝負としての結果はどうだったか、問題は別と言うか・・・勝率はどうもよくなかったような気がします。
 ですから、体力面で対局は出来るけれど無いように問題があったかも知れない
  反対にちょっとした怪我などをしている時・・・例えば切り傷を2,3針縫ってもらった時など、肩の力が抜けたというか・・・体力はあり集中力もあり変に力まずに対局成績が良かったような記憶がある。

 では今の年令的・体力的条件ではどうなるか
 実験的なことを試すにはもう少し体力気力が回復しないと。

ついていない日々

2008-03-28 18:20:45 | Weblog
 これは、私にも責任があることですから単純についていないとは言えないが
  夕べは年度末だし、転勤者、退職者の送別会があって、、、つい会場のホテル近くの駐輪スペースでは無い場所に止めておいたのが運の尽き
 訳時間後に、送別会がお開きになって帰ろうとしたら、、、後輪がペシャンコ
  これはパンクか、エア抜けか、、、あるいは人為的な
 理由はともかくこの状態で自転車に乗れば、乗り心地以前にチューブがボロボロになるから、乗って帰るわけにはいきません。
 さりとて再度放置することも出来ないので、今晩預けて帰れる場所まで自転車を押しながら移動です。
 これはただ歩くより面倒だし、こういう羽目に陥った悔しさもある。
  更に自宅にタクシーで帰り、翌朝タクシー出勤するであろうから、もし人為的な仕掛けだとしたら、経済的・労力的効果は抜群だったわけだ
 ですから、悔しくて眠る気になれず、、、それで居て囲碁を打つ気にもなれず明け方4時近くまで起きていた。

 本来なら今日の予定を考えたら、いつもより十分な睡眠が必要
 事務所の引越し開始なのです
 それも、事務所業務のインターバル無しに引越しをしようという、、、私に言わせたら無茶苦茶なスケジュール
 今年度最終日が平日の月曜日で、来年度の初日が1日火曜日
 それで、間で引越しの準備、整理作業などの事務所の休みを入れないで、移転を完了しようと言う命令。
 準備はそれなりに昨日済ませたが、、、引越し荷物の搬送は業者がやってくれたが、、、重い書類が詰まった箱を2Fまで運び、新たな書棚ロッカーに収めるのは職員自身の仕事。
 しかも平常業務と同時進行で
 今回は吸収されての合併なので、人員がかなり減ります。
  転勤者・・・この方々は移転の作業より関心事は次の転勤先の新たな仕事
  退職者は仮に再雇用となったとしても、今の職場の移転作業にはそれほど関心が無い
  従って来年度も引き続き業務に携わる人が主力・・・ソレは半分程度の人員
  重い荷物を持って何度も階段を行ったり来たりするのは、皆でやるのではなく、少数精鋭に任された仕事なのです。
 私みたいなジイサマが少数精鋭にならざるを得ない
 挙句の果てに「体格が立派な割には力が無いのですね」だって。
 何も運ばない奴に言われてしまった。
  もう足はつるような感じがあるし、腰は痛くなる一歩手前
 ふくらはぎもヒーヒー言っている
  一番心配な心臓も一時は音を上げていたし、血管もパンク寸前だった
 それでも、少数であろうとやらなくては終らない・・・

 これは来週の月曜日には終るのだろうが・・・ともかく家にたどり着いて・・・やはりネットで碁を打つ気力は、まだ湧いて来ない。
 もし打てば・・・ボロボロだろうし
 土日の二日で何とかなるだろうか?・・・なんだかこのジイサマは来週の半ばまで無理なような気がする・・・

夕べの2目半

2008-03-27 21:56:37 | Weblog
 よく「半目は運の強い方が勝ち、1目半勝ちは実力の勝ち」とか・・・要するに半目勝負は運で勝敗が決まり、1目半なら実力という意味であるらしい。
 ”らしい”と言うのは、アマとしては実感として分かるような分からない様なところがある。
 これはプロの世界での話でしょうね、、、アマ・それも私などのレベルでは「5目でも、10目でも」運の要素が多いでしょう。
 道を選ぶのに「右を選ぶか、左に行くか、それとも真っ直ぐか」と選択するとき、どれがより確実で、かつ最短で有利な道か、プロ並の確たる自信は無く、、、それでも「打たなきゃ進まない」訳で、、、時計にせかされて、あるいは5分ルールに脅かされて決断せざるを得ない。 
 もっとも、誰もせかしていないのに”自主的に”早いことも多いけれど
  そういうことですから、「運」・「指運」の要素に頼っている感じ
 一気に勝敗が傾くような指運もあれば、小波が続くような指運もある
  何かのメーターの針みたいに、右に左に揺れながら、形勢が傾いていく指運
 
 ところで数えてみたら「半目勝ち」は、確かに嬉しいことは嬉しい・・・しかし、これはあくまでも運の勝利ですから、サイコロで良い目が出たのと大差は無いかもしれない、、、マア数えるまでに持ち込んだということは健闘に値するかも知れませんが。
 では逆に[半目負け」の場合、、、これはそれほど悔しい負けでも無いような気もするのですがどうだろうか。
 サイコロの目がでない、風の吹きようが悪いみたいな・・・
 差は半目だから、「どこかでどうにかなったはず」と考えれば悔しいかも知れないけれど・・・ソレはプロ的な実力を持っている人の話でしょう。
 確かに棋力の裏付けがある人が言うのなら分かるけれど、私の場合なら[結果半目」だから
 マア、自分に腹を立て、自分に情けなく感じるというのも分かるけれど、、、ソレは勝敗の結果、結果の目差に拘りすぎているかもしれない
 というのは、半目差になる前に、もっと大きな問題があるかも知れないのだから

 さて夕べの一局
 相手は本来なら私より少し上の点数の人なんだけれど、どういうめぐり合わせか、その時は1点差なので私の先・5目半コミ出し
 要するに、これはつい最近までの互い先のコミと同じ・・・1目の差などアマにとってあってもなくても同じみたいなものです。
 ともかく格上の相手に互い先で挑戦する気分
 私としては、かなりの善戦でした・・・たぶん
 結果は私の2目半負け、、、盤面黒3目残し、コミを引いて2目半負け
 局後盤面を研究モードにして、問題があったと思われるところを探す・・・
 <私が最後の勝負どころだったに違いないと思ったところ>
  (結果的にの話で、対局中はここで勝敗が決まるとまでは考えていなかった)
 辺でコウを取って味方同士が連絡する手があって、(生き死には関係なく)2手続けて打って4目の手・つまり後手4目
 当然相手はコウ立てをして、取り返すはずですが・・・このコウ立ては結果的ではあるが2目の大きさなら十分
 つまりコウ立ての計算は、私からは4目以上のコウ立て、相手からは2目のコウ立て・・・この計算です。
 このコウに関して時間を使いすぎて、教育的指導では無いけれど5分間ルールの警告が来たので、何らかの決断に迫られた。
 今思うと、いつもの自分らしくない選択でした。
 「かなり細かい」事を意識して「消極策」=コウ取りを選択しなかった。
  こういう負け方は「悔しい」「情け無い」負け方なんでしょうね
 プロならいざ知らず、アマですから「チャレンジせずに負ける」というのは、、、
 やはり、チャレンジした上での失敗の方が気持ちが良い・・・それもアマ的なんでしょうが。
 ともかく自分らしくなかったのが心残り
 尤も、問題の箇所の前にもっと肝心な問題があるに違いない・・・そこが分かればアマにしておくには惜しいでしょう。

覆水盆に帰らず!?

2008-03-26 10:09:44 | Weblog
 若い頃出鱈目な生活をしていた反省?・・・イヤあまり反省していないのが”懲りない性格”ですね。
 しかし、現実はその過去と現在が繋がっているわけで、日々「・・・クライング・オーバー・スピリット・ミルク・・・」を味わっている。
 マア、どんなに反省しても、泣き叫んでも元の昔には戻らない。
 人生が二度あればどんなに良いか、、、イヤ一度きりだからこそ、、、
  どう考えようと変わらない
 この上は神様仏様におすがりして、この次はもうちょっとましな生き方が出来る人間にしてくださいとお願いするしかない。
 尤も、そういう方が居るとして、、、居るならば、、、「こんな不真面目な奴は、次はミミズくらいでいいだろう」となりかねないから、結果はたいした変わりが無いだろう。

 さて「覆水盆に帰らず」これは正しくないですね「盆に返らず」が正しいのでしょう・・・意味も「覆水盆におさめがたし」という方が間違いにくい。
 これを落語・漫才的に言うと「あるところに福水さんと言う人がおりまして、この方が大変な働き者・・・盆も暮れもなく働いて・・・今年のお盆も田舎に帰らない・・・」みたいな
 自分の「覆水・・・」のことを考えたら、この程度に笑っていないとやりきれないところがあります。
 ところで、囲碁の方でも「覆水・・・」はあるわけです。
 一度打ち下ろした石は動かすことが出来ない。
 まるで人生みたいなルールです・・・これが良い・・・時にはこれが辛い
 打った瞬間に間違いだと気がついても、思わず出しかかった手を、宙に舞わせて、タバコに火をつけてごまかす・扇子で風を送ってごまかす。
 相手が腰を落として考えようものなら、ソレは地獄の時間です。
 相手は、わからなくて考えているのではなく、「変な手」について考え、「どう咎めるか」考えているに違いない。
 ソレは判決を言い渡される前の被告人の心境か?、、、経験は無いけれど
 「有罪は間違いないが、懲役○年?、、、執行猶予を期待」
 そしてもっとも厳しい判決が下された瞬間に投了するか、望みを賭けて更正の道を歩むかの決断が・・・表現が適切で無いかな?
 ともかく待っているのは辛い
  ですからネットでは時々あるのだけれど、自分の手番で投了する人が居ます。
 これはルールではどうなんだろうか?
  はっきりマナー違反であることは間違いない。
 着手は当然ですが、手番の時にしか投了は出来ないはず・・・少なくともリアルではそうですよね。
 もしリアルで、相手が考えている時に待っているほうが突然投了したら・・・いないとも限りませんが・・・考えていた人は不機嫌になり、対面しているわけですからトラブルになりかねない。
 「なるべく早く投了すれば相手が喜ぶ」ハズだから「相手の考慮中に投了」というのは大勘違いでしょう。
 自分の都合で「待っている時間が辛いので、耐え切れずに投了した」に過ぎないのですから。

 さて終局後、勝敗の分かれ目について検討とまでは行かなくても、意見を交換するのが普通だと思うのですが、一局終れば「ハイ次!」みたいに始めたがる人も居ます。
 検討しようと思う人は
 「せっかくの碁ですから、振り返ってみたいではありませんか」
 「何処がいけなかったのか調べることで、次に生かせるものがあるはず」
 「そういう積み重ねが大事でしょうから」みたいに思っているはずですが、そう思わない人もいるわけで・・・
 「プロのマネをしなくてもいいでしょう」
 「どう検討しようが、結果は変わらないのだし」
 「次の碁を打って、楽しみましょう」と言う具合だろうか
 そういう人も、同じ囲碁仲間ですし普段顔を合わせて悪い人では決して無い。
 でも結論として
「いつも検討している割にはお互いドングリですね」
「何時まで検討するのですか、死んだ子の年を数えるみたいに」
 もしそう言われたらいささかショックですね(丸っきりの的外れで無い部分もあるし・・)

地合計算機能

2008-03-25 18:05:09 | Weblog
 昔はリアルしかないから、当然初心者だって自分で計算した。
  ですから、終局と言うことが分かり=ダメしかないこと・手入れの必要が無いことが分かって、実際に盤上で”作る”事が出来れば○級とかだった。
 それが、今はネット碁が多いから、終局は分からなくてはいけないものの、自分で”作る”事は必要なくなった。
 ですから、ネット・パソコンで囲碁を覚えた人の中には、かなり強い人でも、リアル碁で地を作るのが不慣れでぎこちない人が居るらしい。
 「困ったものだ」とは思いませんが、なんだかアンバランスなおかしさがありますね。
 でも何回か経験を積めば、慣れるでしょう。
 地を作る時の”手さばき”の綺麗な人はそれなりにいいものですね・・・

 さて、計算のために地を作るのが不慣れな人、ソコソコな棋力があるということは、対局中の目算はかなりなものだと推測します。
 そうでなくては”強い”はずが無い
  尤も、計算機能というものがあるから、パソコン的技術で目算をカバーしている可能性はあるけれど・・・どうだろう?
 私の入っているネット碁でも、「形勢判断機能」なるものがある
  私は、やや邪道な感じがするのですが・・・
   最後の計算は、第三者的な対場で、地合いの判定が必要だから計算機能は必要です、、、しかし「形勢判断」と言う事は対局中に使うという前提です。
 私は、なんだかそこまで機械に頼ることを潔しとしない気分ですから、一度も使ったことが無いのですが、実際はどうなんでしょうね。
 「ついている機能だから使わなくては」とか「慣れればよいものだ」などというのもアリだろうか?

 もし仮に対局中に使うとしたら、対局者が観戦者みたいに計算モードにして行うのだろう?
 その場合、境界線がハッキリしないと機械も困るから、「下がり・下がり」とか仮の境界線を入れるのだろうか?

 ところでリアルでは終局は次のような順序でですね
①「終わりですね」ということに両者が同意して、ダメ詰めを行う
②この場合、欠け目などは取ったりしないで「継ぎ」となる
  つまり欠け目が残っている状態で終局しても、そこは欠け目であるから「継ぐ」事になる。
 さて、ネット碁で、ウッカリして「欠け目を継がなかった場合」「その欠け目にアタリ・継ぎを交換しなかった場合」・・・
 リアルでは起こりえない事が、ネットでは起こる場合もある
  パソコンの計算能力は早くて正確ではあるが、それはあくまでも与えられた条件での話しですね

 夕べソレは起きました
 相手の方は私に先・しかも逆コミ・・・しかし対戦成績は「何で先なの」である
 私の苦手タイプですから、私から稼いだ点を他所で大盤振る舞いをしているに違いない・・・ソレはともかく
 夕べは私も久しぶりに善戦しましてかなり有利な終盤・・・かなりのチョンボをやったのですが(これが苦手意識の表れ?)・・・
 目算では厚い持碁一・・・さて終局して、パソコンが出した答えは黒半目勝ち
  後は「結果を承認するか?しないか」・・・盤面をよく見ると相手の石に欠け目の形が一つあり、欠け目も1目と計算されている!
 これは相手もウッカリして手入れをしていなかったのと同時に、私が終局前に当てを打っていなかったということです。
 ここで「結果に同意すれば相手の勝ちが決定」
 しかし、「対局再開ボタン」があった!
 つまり結果に不同意を表明するボタンが合ったから、対局を再開し、欠け目の所
を「アテ・継ぎ」・・・今度は白の半目勝ち
 こういうこともあるのですね・・・リアルでは当然の手続きがパソコンでは違う
逆に並べてから「再開」と言うリアルでは考えられないやり方
 さてさてこの碁を拾ったというべきか、それとも気付かずに失っていることもあるかも知れないと・・・

思えば無駄をしたかも・・・

2008-03-24 19:17:23 | Weblog
 昨日「学生碁」と言う表現をしました。
  実はそういうものが、あるような無いような曖昧な感じはあるのですが・・・
 学生が皆同じ様な傾向があるわけでは無いでしょうから、やはり棋力のコンプレックスかも知れません。
 複雑化・難解化に意図的な臭いもします・・・これが彼の故人的な特徴なのかも知れないし、彼の属する集団の特徴に過ぎないのかもしれませんから、サンプル一つを取って、全体を論じる事は出来ない。
 それでも、何かを感じます。
  まあ、それが学生囲碁の特徴なのか、アマチュアでもかなりの高段ともなれば、そうなのかは分からない。
 ともかく彼の場合、棋力が上であることと、大学リーグで真剣な対局で、もまれているはずだから、、、この辺の差があるのかも

 ただ、囲碁では無いのだけれど「学生○○」というものを指摘されたことはある
  自分では意識していなかったことなのに、周りから指摘された・・・
 麻雀の話ですけど
  私は、自慢できる話では無いけれど、学生時代に週に3,4回徹夜麻雀を打っていた時期があります。
 大学近くの雀荘から大学に通っているようなもので、下宿にはつきに1,2回しか帰らない生活・・・
 麻雀の腕はプロには程遠くて、素人に毛が生えた程度ではあるけれど、まあソコソコですが、普通の人よりは・・・
 それで社会に出て、麻雀に誘われて・・・当時は社内の付き合いと言うと、飲みに行くか麻雀かのどちらかが多い時代・・・ゴルフはまだ一般化していなかった。
 飲みに行く方は、私は下戸ですから飲めないのに連れて行かれる。
  最後に素面の私が全員家まで送り届ける役目
   周り全員が先輩ですから仕方なく
 麻雀の時は勝負事ですから遠慮はしていられません。
  さて、そんなとき周りの先輩方から「お前のは学生麻雀が抜けていない」と言われたのです、、、殆ど非難に近いニュアンスで
 「学生碁とは違って「学生麻雀」なら分かる気がします。
 つまり、学生は社会人に較べたら、持っているお金が少ない・・・従って負けるわけには行かないから、ガードが固い面がある。
 石橋を叩かなくてはすまないのが学生で、結果を考えずに勝負を楽しむのが・・・
 勝負事ですから、リスクを冒して勝負に行くか、ガードを固めて守るかの分かれ目はあります、そういう時の選択が学生と社会人では違っていたような気がします。
 勝ち負けは即、お金を払う側になるか、受け取る側になるかの問題です
  従って、サラリーマンなら笑って済ませる金額でも、貧乏学生はそうは行きませんから、学生同士の勝負も「渋い勝負」になる。
 ですから、勤め人などが「勝つか負けるかの勝負」=確率2分の一くらいに考えて勝負に来てくれるのを、有り難く待っているような感じというのでしょうか
 それは、それで勝負事の鉄則みたいな気がしたのですが、、、会社員仲間ととなると「いやらしい遊び方」と見えるのですね
 勝負事ですから、「勝ったり負けたりで遊べ」ということでしょうね。
 いつも勝とうとする・一人で勝とうとする・・・たまには人を喜ばせろでしょうか
 いやらしく(おおらかではなく)勝負に拘るのが、先輩の言う「学生麻雀」だったのでしょう。
 私としては当然のやり方ですから、非難めいた言葉はショックでした。
 
 彼の「学生碁」もそういう感じなのかも知れない・・・
 シンプルな・単純な打ち方では、相手も十分に分かるでしょうからチャンスが無い・・・勝機を見出すための複雑化?
 シンプルと言うことは、相手に仕掛けられても決して不利にはならないという自信が無くては打てないのかも
 そう考えると、彼はマイペースに巻き込んで優位に立とうとする作戦だから・・・「待ち」には自信が無いのかも・・・
 イヤ、先手必勝みたいな感じかな?
  さてさて、実態はどうなのか
 彼のパーソナリティーなのか?、その囲碁部の傾向なのか?、あるいは強い人には当たり前なのか?

 ところで、麻雀に埋もれていた日々
 プロ的技は身に付けなかったけれど、唯一会得?したのは・・・モウ牌せずに・伏せたまま卓にこすることで、牌を区別する技
 100%では無いけれど、相当高い確率で理解できる
  しかしこの技を話しても殆どの人は法螺話だと思うらしい・・・それはそれでいいのだけれど。
 私としてはこの経験から一つの教訓みたいなものがあった
 「自分の出きる事・知識を物差しにしてはいけないこともある」
 プロの手品や、トリックを見破れないこともあるのと同時に、理解を越えたテクニックもあるはず・・・
 しかし、社会では何の役にも立たないテクニック
  しかも、私はタバコを止めるために麻雀もやめた・・・これは賭け麻雀でなくてはやる気にならないのと同時に、タバコ無しでは打てない
 今TVなどで紹介されている「健康麻雀」は打てません。
  何にも賭けずに、禁煙ルームで・・・
 それはともかく、アレだけのめりこんだ麻雀から足を洗って十数年経ちます
  今では、やりたいとも思いませんが・・・となると、のめりこんだ年月は何だったでしょうね
 もしも、もしもがあれば、その時期に毎日棋譜を並べていたら・・・
  囲碁だけにのめりこんでいたら・・・
 取り返しはつかない事ながら、もったいない日々だったですね。

「学生碁?」

2008-03-23 17:10:04 | Weblog
 昨日は土曜日ですからマイ図書館の日でした。
 今回借りたのは
 「実力五段囲碁読本 キカシを考える」 囲碁編集部 2000年
 これはソフトカバーですが、割合ずっしりとした持ち応えがある・・・野菜や魚では無いけれど、読者としては、もしこの本を買うとしたらと考えると、内容は勿論ですが、価格と内容のバランスを考えてしまうので、、、前書きを読むこと・内容をざっと見ること・持った感じ・・・私には大事なことです。
 図書館の書棚の前で、初めに「囲碁編集部?」と思いました・・・イヤ、迂闊にもです。
 発行所を確認して、「誠文堂新光社」とあるから、「なーんだ」と言う感じ
 囲碁編集部と書いてあるのをみて「日本棋院の囲碁編集部?」なんて勝手に想像したのですが・・・棋院なら囲碁以外の編集部があるはずが無いから、わざわざ囲碁編集を名乗る必要が無いですよね。
 こういう勘違いを呼んだのは、今の漢字の「囲碁」だからでしょう。
 確か「圍碁」だったはずですよね、、、いつからか新しい字になったらしい。
 私が先入観で物を見ていて、見落としているだけで、相当前に変わっていたのに気がつかなかっただけかも知れませんが・・・
 ネット検索で誠文堂新光社を検索すると、その雑誌は昭和26年に刊行が始まったということです。
 ということは、私が新聞で囲碁欄というものを通して、囲碁なるものに触れる少し前ですが、我が家にも周辺にも囲碁を打つ人は居なかったから全く目に触れることはなかったです。
 もっとも棋院発行の「棋道」も事情は同じで、大学生になるまでは知りませんでしたが。

 学生時代は、囲碁の月刊誌はよく買って読みましたが、たいていは「囲碁クラブ」でした。
 棋院発行では「棋道」と「囲碁クラブ」の二つがあったのですが、前者の方はいかにも棋力が高い人向けみたいな、敷居の高い感じがあって買いませんでしたから、「クラブ」の方が「囲碁の友」のような感じでした。
 しかし、定期購読ということでもないので、たまに何かの弾みで買いそびれる・売り切れることもあって、その時は「棋道」ではなくて「圍碁」を買ったものです。
 回りくどい説明になりますが、そういうことなので新しい漢字の「囲碁」の方が目に慣れていないのです。

 発行会社自体は、他の刊行物で馴染みはありますね・・・ここは実用書関係の本が多いから、「園芸」関係とかペットの飼い方のノウハウ物・・・
 それに、確か後輩がここに就職したような記憶がある。
 後輩と言っても、かなり年は離れていて親子ぐらい違うし、在籍学部も違うし、あちらは真面目に学問をしただろうし、こちらはテンプラで・・・唯一の接点は囲碁ですから、、、囲碁というのは面白いですね。
  彼は大学の囲碁部の学生で、町の碁会所にも出入りしていて、そこでの顔なじみ。
 普通囲碁部の学生は、碁会所に出入りする人は少ないようですが、その碁会所は大学のすぐ近くということもあって、「一般のお客と対局をする事を条件に、囲碁部の学生は無料」という規定でした。
 「私は囲碁部で碁を打っています」と名乗ればいいだけです。
 ですから、部活だけでは対局が物足りない学生、高段者と打ちたい時、あるいは土日祝、新人の練習碁、学生同士の待ち合わせ、、、などいろいろです。
 彼は比較的強かったです、、、
 彼の印象は「学生碁」みたいなものがあるように感じたことです。
 そういうものが、果たしてあるのかどうか問題分かりませんが、やや異質なものとして「学生碁」を感じることは私の弱さの裏返しでしょう。
 ともかく感じたことは
 私も学生時代によく碁を打ったのですが、それは仲間内での話です
 これが囲碁部となると中身がだいぶ違ってくるようです
 勿論レベルが違うのですが・・・そのレベルと言うものが何処から来るのか?
 棋力が高い人同士が切磋琢磨している、あるいは、他の大学とのリーグ戦の場で真剣な対局がある・・・これだけでも町の碁会所とは中身が変わります。
 私はこれにもう一つ付け加えたいことがあります。
 学生碁の全般に言えるのか、知り合った彼の特徴なのか分からないので、断定は出来ないのですが・・・
 難解定石・奇襲作戦的定石・裏定石・・・のようなものに強い感じがした。
 勿論善悪では無い・・・印象としてです
 勿論本人の自由ではあるし、戦いを有利に導くために、自分の土俵で戦うようなことで必要なものかもしれません
が、感じとして「難解な方向へ、複雑な展開へ」導く傾向を感じたのです。
 当時の私としては、「なるべくシンプルに」という打ち方でしたから、彼との対局は厄介でしたから、余計にそう感じたかもしれません。
 私の「シンプル」は全てを理解した上での「シンプル・イズ・ベスト」ではなくて、複雑なことが分からないので仕方なくシンプルに行かざるを得ないシンプル

 ともかく彼はその会社に就職して、囲碁関係に携わっているはずなんだけれど、アレから何年も経っているから、今のことは分かりません。
 ですからこの本も彼も関係があるかどうかは分かりませんが、可能性は高い・・・
 本の初めの方で「利き」「利かし」説明は良いですね。
 素人としてはこの微妙な感じが難しいので、ある程度言葉として整理して理解しないといけない気がします。
 なんだかこの辺りの説明に彼も関係しているような気もしますが、気だけかも知れない・・・

 最後に「実力五段?」・・・毎度ですが
 発行が2000年ですから、遡って文句を言うみたいで言う方も気が引けますが、こういう表現を見るたびに「!?」です。
 実力とわざわざ断っているところを見ると、有名人の棋院への寄付の対価に対する免状・政治家に出される免状みたいなものとは違うと言っているのでしょう。
 (マア、囲碁を社会に向けて発信するのに効果があるということも言えるかも知れないので、一概には批難出来ませんが・・・)
 概ね3つの段位があるような気がします。
 ①例えばアマ大会の県代表を争うレベルの人が6段、代表とか全国大会ベスト16とかなら7段とか・・・としたら、その人たちに先で打てる。
 ②碁会所での5段・・・これにも①と関連して辛いところと超甘いところがある
 ③ネットでの段位・・・これもパンダが標準かも知れないが、これより少し甘いところが多くて、逆に激辛のところもある
 だから「実力五段」といわれても全くイメージできない。
 発行者側は、「読者が自分に都合のいいように勝手に解釈してくれ」なんだろうが、なんだか凄く強そうなイメージもある。
 

自慢話のネタ?

2008-03-22 16:54:34 | Weblog
 若い頃など品行方正とは言い難いような、、、悪いことはしないまでも自分の健康など顧みずに、「やりたいこと」「好きなこと」という基準だけで暮らしていたようなところがあります。
 日本人の平均寿命が延びて、普通に暮らせば70代半ばであったとしても・・・いろんなことを我慢してそうなれるのより、例え半分の年でもいいから、やりたいことをやりたい・・・ナンテ。
 まあ、実際にはナンダカンダ言って、半世紀を過ぎ、まもなく還暦!
  よく生きたと言っても、もしかしたら見えない神様仏様のご加護かもしれないし、少なくとも現代医学の進歩のおかげを蒙っているのは確か。
 だから、「好き勝手なことをやっていても、結構生きていかれるものだ」というのは、自慢話にはなら無いし罰当たり的な話ですね。

 先日NHKの連ドラ「ちりとてちん」の中で「いい落語家になってヤ
、お前の初舞台を見たと自慢させてくれ」という台詞がありました。
 成る程、そういう手もありますね。
 自分に、他の人に自慢できるものがなかったら、、、いえ、何で自慢しなくてはいけないのかと突っ込まれると困りますが。
 ともかく自慢できるような話があれば、一時だけでも気持ちよくなれるでしょうしから、、、その後にやってくる寂しさは考えなくて、ともかく。

 例えば、私は所謂サッカーの名門高校の出身・・・嘗ての名門かもしれません
 しかも現在後輩たちが活躍している、、、と言っても実際には何十年も年の隔たりがあって、先輩顔を出来るようなものでは無い。
 それでも、他人様にはいざ知らず、息子や家族には自慢してしまう(マア、家族内での内輪の自慢話で・・・)
 「三羽カラスも後輩だ・・・」、Jが始まった当初「田舎の家の町内にJリーガーが・・・」、「日本代表に後輩が・・・」まあ自慢にならない自慢話
 更に「東京オリンピック(これだけでもじゅうぶん古い)の時、アノ杉山選手の激励のエールを出身校で・・・会場の講堂への入場では並んで歩いた」
 自分の誇れることではなくて、人さまをダシにしています。
 だから朝ドラの「いつか、自慢させてヤ」と言う台詞はかなり親近感がある
 普通以下の人間ですから、誇れるものは(本当に誇れるものではないにしても)
これしかないのですから。

 そういえば、父が亡くなったとき、火葬場ででの話
 マア、親族縁者でかなりの時間お茶を飲んだり、お菓子を摘んだりの時間がある
 丁度、従兄弟たちも来てくれていたのですが、そのうちの一人が高校サッカーで優勝したことがある監督でした。
 私は、どちらかと言うには不謹慎ではあるが・・・甥っ子に色紙を用意させて、その従兄弟に「何か書いてくれ」と頼んだ。
 従兄弟と言っても、従兄弟の弟ですから兄貴的に威張って・・・
 ですから、当時小学生だった息子が驚いた「え?アノ人が・・・」
  後に彼が自分のクラスメートに「うちのオヤジさァ・・・」と自慢しても、まるっきり信用されない、「『人事を尽くして天命を待つ』という色紙がある」と言っても「色紙は証拠にならない」・・・それどころか嘘つきっぽく見られたりした。
 これだから、他人ネタでの自慢は危ないですね
 それでも、自分に何もなければいたし方無い?

 そういえば大きな囲碁大会の子供部門の会場で、プロ棋士の娘さんと話をすることがありましたが・・・「私は、あなたのお母さんに囲碁を教わった」的な話ですからどうと言うことも無い話、もしも彼女が将来有名な棋士になれば・・・いやタレントでもいいけれど・・・そうなれば「子供時代に、話をしたことがある」と言うエピソード?
 同じ会場で、プロ棋士であるお母さんが、娘と打ち碁を並べ直している場面に・・・それこそ将来棋士になったら・・・「私は見た!」みたいな話。
 やはり自慢話は他力本願ですから、ひとに頑張ってもらわなくてはいけません。
 自力で、多少なりとも誇れるものを身に着けようと日夜(?)努力をしているのですが、こればっかりは結果が・・・
 ブログを何とか連日更新していることくらいか?、、、いやこれも自慢できることではない、何と言っても恥を書いているようなものですから。

成る程、バイタルエリア

2008-03-22 00:06:47 | Weblog
 今日もNHK囲碁講座ネタで始めます。
 4月からの講師はマイケル・レドモンド先生・・・昔教わっていたプロ棋士の関係で、お見えになったことがあり、じかにお声を聞いているので、何故か親しみを感じます。
 直接教わってはいないのですが、じかに触れる・声を聞く・顔を見る・話を聞く・・・こういうことって割と大事な要素ですね。
 それからかなりの月日が経っていますが、記憶に残っているのですから。
 尤も、ささやかではありますが、先生の結婚記念囲碁会があって、参加させていただいたのですから、多少の縁はあるわけですが(夫人の方の関係ですから、先生は記憶に薄いとは思います)、、、

 さて、今回の雑誌の方に出ていた、囲碁に関する英語での表現
  今回のテーマ「格言」を英語で言うと・・・のホンの一部でしょうが、こういうのって、好きですね。
 この年で、外国に行って碁を打つ事は無いと思いますし、日本で外国の人・それも英語圏の人と打つ機会はそうは無いでしょうから、実用的だとは言えませんが。
 それでも、いつもやっていることを、仮に英語で言うとしたら、こうなるのかと分かるという事が楽しいですね。
 同じNHKの番組で言うと、「英語でしゃべらナイト」の気分、あるいは鴻上さん司会の「クールジャパン」みたいな感じです。

 今回その英語表現の中で「Take the vital point before the large point」がありました=「大場より急場」
 なんだか直訳英語みたいな感じがしますが、その分覚えやすいというか、分かりやすい気がします。
 私個人としては、将来役に立つ可能性はかなり低いですが、でもドンドン屋って欲しいですね。
 特に今回の例の中で「vital」
 この言葉はサッカーでよく使いますね・・・ディフェンダーとミッドフィルダーの間のスペースと言うか、ここを制されると相当危険な場所
 私は恥ずかしながら、解説者の話で出てくる「バイタルエリア」を意味としては分かっていたものの、日本語としては表現できないかったので、日本語として置き換えること無しに「バイタルエリア」として受け止め「バイタルエリア」と話していた・・・
 ですからこの言葉が何語の単語かも分かっていませんでした
  サッカーでよく使うから、もしかしたらポルトガル語かなって思っていました
 今回、マイケルからこの単語が出てきたから英語なのかな。
  先ほどの格言の訳「vital pointo=急所」・・・それはそうですね
   日本語にすればそうに違いない・・・
 なんだか訳も分からず使っていたような恥ずかしさと、日本語に置き換えずに、概ね正しく理解して使っていたことの安心感が同居しています。

 さてマイケル先生の第1回目の講座のオープニングが「まずは隅から」
  そうですね、昔からある言い方で言うと「打ち出しは、ヘボでも小目なり」にしたら、碁を打つ人を茶化していますものね
 「まずは隅から」と言うと、かなり真面目さを感じてしまいます。
 ところで、プロのタイトル戦の第1手・・・ここで考えるプロは意外と多い
  そうは言っても長考するわけでは無くて、おそらく気合・棋力が充実してきてから打つのでしょう。
 これは、その対局への意気込みでもあるかも知れませんし、少なくとも恣意的に打たない・相手を焦らすは違うはずですね。
 それで、この第1手目のためらい・・・実は私にもある
  嘘みたいですが・・・私にもある・・・いや、嘗てはかなりあった。
  但しプロ的な理由とはかけ離れていますが
 単に、何処に打って良いのか分からなかったのだからだらしが無い
  「この広い碁盤で迷子になったような」
  「第1手で、その碁の性格がある程度決まるかも・・・と言う怖さ」
 初級時代は、出だしが怖かったです・・・知らないという怖さ
 今は、多少知ってしまったという怖さ
  あまり、進歩していないらしい

 

ゾーンプレス?

2008-03-20 17:16:35 | Weblog
 昨日買ったNHK囲碁講座4月号にゾーンプレス超入門<1>というページがある。
 「ゾーンプレス?」・・・サッカーというより一番初めに浮かぶイメージはバスケットボールですね。
 しかし、この雑誌だし、講師は王銘琬先生だから囲碁の話に違いないのだが
 尤も、この先生は何かを伝えるのに、これまでには使わなかった言葉を用いるところがあるから・・・別の例えを使って分かりやすくする・・・今回もきっとそれに違いないと創造は出来る。
 但し、ゾーンプレスと囲碁との関連がイメージできない。
 バスケットならオフェンスの流動的な動きにどう対応するかという命題で、大雑把に分けてマンツーマンで対応するか、ゾーンで守るかなどあるのですが、この場合鍵は「攻守の動き」ということでしょう?
 囲碁の場合、一度打った石が動かせるわけではないし、この辺りのイメージが言葉とフィットしない気がする。
  しかし、中身を読む前に、タイトルだけで素人なりにいろいろ感じます。
 
 さて、多分今回は連載の1回目だと思われる
 タイトルに超入門とありますから、今月号はほんのさわりだけでしょうが、時として以外にも、この導入部が重要なことがあるから、読む方としては油断が出来ないですね。
 つまり、これまでの囲碁の長い歴史の中で書かれてきた事で、本当に新発見的なものは少ないですから、新しく出てくる考え方とか本だとかは、それらを焼き直したものが多い。
 いや、これは必ずしも悪口ではありません。
 著作・発行する側からは、読者・アマ囲碁ファンを意識して、いかにして分かりやすく伝えるか工夫しているのですから。
 それに私が大事なことだと感じているのは、「どういう考え方で書かれているか?」と言う部分・・・本で言うと前書き・裏表紙の辺り。
 ですから、「どういう考え方を話すのか」の、連載の最初の導入部ですね。
 今回の講座の、話の進行の小見出しを挙げると
 「ゾーンプレス」とは?
 正解があると仮定しない!
 碁は動いている!
 つまらない恐怖がなくなる!
  この話の中にも書かれていますが・・・プロは誰でも「好きなように打て」と言います・・・その好きなように打つのが問題なわけです
 この「ゾーンプレス」の話が、その「好きなように打つための話
 ですから、「ゾーンプレス」なるネーミングに拘ってはいけないですね、ネーミングの問題ではなくて、「ゾーンプレス」という考え方を拝聴するのですね。
 これは必ずしも新しい考え方と言うことではなく、王先生の纏め方・説法の仕方と言う風に受け止められますが、ところどころにナルホドというフレーズがあります。
 着手を選ぶのに「ケーキを選ぶ」話
 正解があるとは仮定しないでは、「選挙戦・選挙活動」の例え
 碁は動いているでは「イチローのスウィング分解写真」
 「最善の手を目指す」のではなくて「自分に一番合った手を目指す」
   なんとなく、分かるような気がするのだけれど、「分かった」というには自信が無い。
 でも、大事な事を言われていると思うので、これからの連載の進行に期待します。
 

プロも数え間違うらしい

2008-03-19 16:46:42 | Weblog
 今日は定期健診日・・・いろいろ悪いところがあるので、いろんな定期健診日がやってきますから、カレンダーに印をつけておかないと危ない。
 さて検診、これは当然自分の健康チェックですから自分のためであることは間違いない。
 そういうことは頭では分かっていても、実際にはそうは感じないのが人情でしょうね。
 私などは定期健診はかかりつけのお医者さんにお小言を戴きに行く日みたいな感じです。
 状態が目に見えて改善されて行く時は”どうだ”と言う感じで胸を張っていけますが、最悪の状態からかなり改善され今は停滞と言うか、少しリバウンド状態なので、キツイ教育的指導が待っているのがミエミエ。
 ですから行く前から、気持ちが後ろ向きだし、先生の前の椅子に座って頭上をお小言の嵐が通り過ぎるのを、ひたすら耐えている・・・

 まあ、唯一の楽しみは・・・病院に行ったついでに近くの本屋さんで、囲碁関係の本をチェックして、丁度この時期ですから「NHK囲碁講座4月号」を買って、待合室で読むことです。
 ですから、少し時間の余裕を持って出かけ、予約時間よりかなり早めに着きます
 「早すぎたので、本を読みながら待ちます」と澄ましたものですが、
 看護婦さんにしてみたら「このジイサマは病院がすきなのかも」と思うかもしれなませんが、決してそんなことは無い。
 ただ、子供みたいに「いい子で病院にいけたら、いいものを買ってあげる」みたいな感じで、自分で自分に買ってあげただけですね・・・いい年をして

 しかし、こういう病院は一人で行くに限りますね
 たまたま、今日は付き添い付きで着ている、私より10才くらい上の夫婦
 奥さんが旦那の心配をして、病院に来たのはいい・・・しかし、余程のことが無い限り一人の方が・・・私なら絶対女房殿とは来ない
 なぜなら件の奥さん、無類の世話好き・話好きのようで、肝心の旦那は世話をされて安心・楽というよりも、寧ろ緊張感が高まっているように見える。
 ましてや初めての病院ではね、、、
 さてさて私自身、こういう事にならないようにという場面を見た感じです
 まあ、うちの場合、私は放し飼い状態ですから、こんなに面倒を見てもらえませんが・・・

 NHK囲碁講座4月号に小さなコラム記事がありました。
 書いたのは万波奈穂さんで、書いていることは数え間違いについてです
 NHK杯のTV対局で、終局して数えた場面で「アレッ」という表情をしたらしい
 プロも間違えるなんてとは思うけれど、プロにもよくあることなんだそうですから、やや驚きです。
 もっとも、江戸時代に何度も数え直したり座布団をひっくり返した?とかで、「確かに半目負けで間違いない」旨の一札を取られた話もあるくらいだから、無いことは無いでしょうが、、、
 「珍しくは無い」と言うところが気になるのですが、それもプロらしいことが原因ではあるみたいな気がします。
 というのはプロは対局中に地の計算をするのに、盤上の形で数える
 当然ですが、抜き後とかコウの形を見て、記憶でハマの数が分かる!
 但し、コウが数多く繰り返されたりした場合に間違うこともあり得る、、、それで居て、碁笥のハマ石を数えるのはカッコ悪いからやらない
  コウいう事が、間違う時の原因らしい。
 私なども比較的数えるのを苦にしない方ですが、記憶ではなくて現実にハマの石数を数える、典型的な素人スタイルです。
 それでも間違える時は間違えるのですから情けない
  尤もコラムを書いた万波さんも、そっと相手の碁笥の蓋のハマを数えるのだとか・・・プロでも数えるのだからザルのジイサマは当然ですね
 それに、昔どこかで読んだことがあるのですが・・・
  中国か韓国のプロと対局した国際戦で、相手の棋士がつと手を伸ばして、こちらの碁笥の石を数えたとかで、非常に驚いたという話を読んだことがあります。
 これはルール違反ではない、、、但し「失礼します」くらいの会釈は必要かも
 でも、その棋士は正確に知りたかったのでしょうね、、、記憶間違いで数え間違うというのは嫌だったのでしょう。
 ですから、「プロたるもの手にとって数えるなんて」という格好よりも、「実際に数える」に数える「実」を取ったというか、正確を期したのでしょう。
  ふと感じたのですが、これは中国の棋士かも知れませんね
 つまり中国ルールでは、碁笥に乗っているハマ石は数える必要の無い石のはず。
 このルールで打っている人が、もし日本式ルールで打つならばハマ石に気を使うでしょうから・・・
 いずれにせよプロでも数え間違うのですから、ザルは当然ですね
  間違う理由が違うのがレベルの差で

先生!ドーピング違反です

2008-03-18 18:17:32 | Weblog
 私はお酒を飲まない・飲めないので、お酒を好きな人の心理を理解できないところがあるし、子供時代からの生い立ちのせいか理解しようとしない面もあります。
 ですから、こと酒に関しては「分からない人間」だと思われているはずです。
 それが「酒を飲まない」=「くだけた話が出来ない」「融通が利かない」ということですと、あまり正しい判断ではないと反論しますが・・・
 自分で言うのも変ですが、年中素面の割には思考がほろ酔い状態と変わらないところがあったり、上司やオーソリティーに思い切ったことを言ったりしますから、飲んでいる人の行動と大差がなかったりしますが、決定的な差があります。
 私には「酒の上の失言」という免罪符が無いのです。
 ともかくアフター5には誘われないから、勤務後は碁会所へ寄るとか、真っ直ぐ帰って夕食前にネットで1局となります
 
 このような行動パターンは、どちらかといえば「堅物的」に思われるかも知れませんが、本当はただ飲むか飲まないかだけでしょうね。
 このようになったのには訳があります。
 最大の原因はお酒を体内で分解する酵素が無いか、あるいは不十分な体質でしょうが、それに加えて子供時代の経験から「ああいう酒飲みにはなりたくない」が「大人になっても酒を飲まない」になったのでしょう。
 体質的にも心理的にも受け付けないのです。
 社会人になって「酒を飲むのも訓練」みたいな言い方をされたり、「昔は吐きながら飲んで強くなったものだ」など言われましたが、心の中で[とんでもない」「何で、そこまでして・・・」と思っていた。
 尤も酒は飲まないけれど未成年の頃からヘビースモーカーだったのですから「健康第一」では無い。
 祖父も父も大酒のみの部類ですが父などはタバコを吸いません・・・だから私には反抗期らしいものがなかったのですが、酒・タバコで反抗していたのかも知れません。

 さて囲碁とお酒
 碁会所などでは平日の昼間はともかく、夕方以降とか土日にはビールなど軽く一杯やりながら碁を打つのを楽しみにしている人はいます。
 まあ、私としてはこの件に関しては異民族ですから、勝手にやってくれですが、そちらの頭目的な方が師匠のK畑さん。
 夜、私などを相手にしてくれる時間ともなると・・・後は帰宅するか、何処かの提灯の下がっているところへ行くだけしかないとか・・・軽く一杯やりたくなるらしい。
 「相手が相手だから一杯やりたくなる」ということでしょうし、相手によっては飲みながらの碁を嫌がる人もいるでしょう。
 その点私なら古い弟子ですから遠慮はいらないのでしょう
  <実は、その弟子が酒を苦手にしている・・・臭いだけでも顔が赤くなるのに>
  師匠はワンカップ派で、必ず「ワシは一杯やると、決断が早くなるぞ」と何やら脅しめいたことを言います。
 確かに、普段でも戦い好きなのに、輪を掛けたように好戦的。
  こういう一連の発言・行動は一種の暗示だろうか・・・どうも苦戦する
 師匠はほろ酔いで碁を打つ仙人みたいなものを理想としているのだろうか、どうも弟子相手にはリラックスしている。
 尤も藤沢秀行さんみたいな・・・それもあまり芳しく無い部分のマネだけの気がしなくも無いが・・・碁会所にはご婦人の会員もいるしハラハラものの時もあります・・・マア踏み外すことはなかったけれど。
  ともかく私にとっては全くお酒に弱いのに、師匠に文句も言えない・・・
 ともかく普段以上に好戦的な先生相手に戦うしかない
 「酒を飲むとエイ・ヤッツ、決断が早いぞ」と嘯かれるのにカッカし、酒の臭いだけでも上気してカッカし、、、更に先生自身のミスは「酒の上のミス」などと言われると・・・
 なんだか勝って当たり前で、負けるとノンベエを喜ばせただけで、だらしないみたいで落ち込みます。
 こういうとき師匠は、ワンカップをお替りして「今夜の酒は美味いぞ」と挑発的
 まるで、本当にお酒の効果みたいな言い方です・・・もし本当なら「先生、それは薬物違反ですよ」
 K畑師匠はタバコを吸わない人ですから、煙で対抗するというよからぬ考えもあるが・・・残念!私は禁煙してから久しい
 マア、もう少し粘れば「ワンカップの副作用」が出るはず
  しかしそれで勝っても喜びは半分?
   反対に酔っ払いに負けたとあっては・・・相手は師匠でも負けられないプレッシャーです
  やはりこの辺りの心理の屈折は、既にアルコールの罠に嵌っているかも

!はて?

2008-03-17 18:04:47 | Weblog
 何時だったか家のTVで駅伝だったかマラソンだったか女子の長距離のロードレースの観戦でのこと・・・
 先頭グループで頑張っている選手のフォームについて「頑張っているけれど、もう少し長距離のロード向きにフォームを改造しないともったいないね」と何気なく感想を言ったところ、たまたま娘が聞いていて「素人の癖にどうしてそんな事が言えるの?頑張っている人が可哀想じゃない」という反撃を食らった。
そう、頑張っている人をクサすというか、ケチをつけるというか確かに娘の言うことにも一理はあるかも知れない・・・しかも素人の・自分ではウォーキングもしないおじさんの言葉だから、どこから反撃が来ても不思議ではない。
 しかしこちらも「見るだけ」なら相当のベテランだし、門前の小僧ではあるけれど専門家の解説もかなり聞いているつもり。
 「そう、走るというより跳んでいるところがロスになっているし、スタミナにも影響がありそうなんだけど・・・」と根拠らしいことは言うには言った。
 素人とは言ってもあてずっぽうでケチをつけたわけではないことの、言い訳ですね
  まあ、それでも娘に指摘されるまでもなく素人も素人
   自分では決して走ろうとしないドン亀ですし。
 ところが直後にTVで解説している人が、私の言った事とそっくり同じ事を言った!
 「どうだ!」と言いたい所だけれど、娘に威張ってもしょうがないし・・・
 たまたま素人の診断が当たっただけかもしれないけれど、内心は・・・チラッと横目で娘を見ると、やはり娘は白けている。

 そんな風に素人でもわかることもある。
  いや、感じたことがたまたま当たっているだけかも知れないけれど
  特に野球とかサッカーなら多少は自分でもやってきたし、生でもTVでもけっこう見てきています。
  但し自分がプロ選手並に出来るわけではないし、指導できるような能力もないので職業の選択肢にはならなかったわけです
 要するに多少は見る目は有るが、哀しいかな自分で自分の体を理想の形で動かせないだけ!?
 マア厳密に言うと「見る目」の方もプロ的センスでは無いでしょうが・・・
  
 以前息子が少年野球のチームにお世話になっていた頃、コーチのお手伝いをしていたことがあります。
  自分で言うのもおかしいですが、バッティングとキャッチングには”ウルサイのです。
 子供たちには、ああだコウだと細かいことは決して言いませんが基本についてはいい続けます
  バッティングについては「最短距離を力強く鋭く振りぬくこと」
  ボールは「グローブの中心で取ること」
 しかし、あまり理解されていないようでしたね
  ティーバッティングで、綺麗にボールを打つだけでは×、

 キャッチングでは少しほろ苦い思い出があります。
  息子には「小さめのグローブ」しか与えていませんでした。
   実はそれは私なりの狙いで、「小さなグローブですから常に手のひらの真ん中でボールを取る習慣をつける」事が目的でした。
 息子の方はそういうことを知ってか知らずか、ともかく何の支障もなかったようです・・・ところが別のところから
 「こんな小さなグローブは、小さな子供用だから可哀想ですよ」だって
   なんだか寂しかったですね、そんな風にしか見えないなんて
  なんだかケチで与えていないみたいで悔しいし
   本当は練習はグローブも無しでやらせたいくらいだけれど・・・
  今は初めから何でも道具を揃えて与える、そんな時代なのかも知れませんね
 
 少年時代からユニフォームはカッコいいですからね
 そういう流れみたいなものがあるのでしょう、今外国にいる息子から、現地の草サッカーチームと試合をするので「フォーム一式を送ってくれ」って・・・
 つまり、サッカーをして遊ぶということが、サッカースパイク、すね当て、サッカー靴下、ゲーム用パンツ、何処かの国のチームのユニフォームでサッカーをするということとほぼ同意語になっているらしい
 運動靴と半袖のTシャツ、ジャージのパンツがあれば運動は出来るのに、それではダメらしい・・・何処かおかしい気がする・・・マア家に引っ込んでいるよりはいいけれど。

 彼らに言わせると、「オヤジだって素人の癖に碁を打つときに扇子を持っているでしょ」となるらしい。
 あれはプロの碁打ちや将棋指し、はたまた落語家の道具くらいに思っているらしい・・・(幇間の道具と言うのは考慮外でしょう)
  だからオヤジが持っているのはそれの形だけのマネに見えるらしい
 確かに扇子なのに風を送ったりしないで、パチパチとうるさかったり、背中をかく孫の手の代わりだったりするから、、、
 真夏でも風を送ったりしないから、、、
 対局のときに手に馴染むものを持つということは、大事なことなんだけれど
 「ウーmm」何を言っても通じそうも無い