なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

無言の行?

2010-03-31 00:04:29 | Weblog
 無言の行と言っても禅僧の修業ではありません。
  話は例によって回りくどくなりますが、御用とお急ぎでない方は寄ってらっしゃい聞いて下さい。

 金曜日の朝は当地は冷たい雨が降り出しました。
  この日はあいにく息子の運転免許の学科試験の日で、本来なら自転車で最寄り駅まで行って、そこからJR電車で二駅+路線バス7,8分という予定でしたが、マア前祝いのご祝儀みたいなもので車で送っていきました。
 出勤前の30分の回り道でしたが、おかげさまで試験は合格・・・こういう朝の大サービスも合格に貢献して居る筈ですね、多分。
  学科試験は昔に比べると難しくなったようですね。
 昔の感覚だと学科試験では9割以上は合格していたように思うのですが、今回は450人中130人は不合格だったそうで、概ね7割の合格率です。
 ということは「受験すれば受かる」ということより、もう少しありがたみが増したようです。

 それでも一旦免許証を手にすると、自分の苦労はともかく他人の協力は忘れる傾向にある。
  格言で言えば「喉元過ぎれば熱さ忘れる」・・・少し違いますね。
 「水を飲む時は井戸を掘った人の苦労を思う」・・・これも少し違いますか。
 ともかく公認ライセンスを手にすると、オヤジのこれまでの協力・・・面白くも無い法規の問題集に付き合わしたことなど奇麗さっぱり忘れてしまうものです。
 マアそれほど恩着せがましく言うほどのものでもありませんが、「子供は一人で大きくなったと思っている」・・・そんな感じ。
 尚且つ、免許証を手にして初運転につきあわせるのですから。

  この超初心者運転の助手席は居心地が宜しく無い。
 まさに若葉マークにふさわしい運転だし、本人も自分では下手だとは思っている・・・ここが難しい・・・これが助手席は修業以上の場所です。
 「アーここで車線変更」「視野を広く・・・」「停止線から離れ過ぎ」「ハンドル切り過ぎ」「思い切りが悪い」という叫びは胸の中にしまって無言の行。
 余程の危険か、危険に遭遇する可能性が高くなければここは黙って見ている。
  これには訳があります。
 その昔、まだ子供たちが幼かった頃女房殿が一念発起して、夏休みを利用して免許を取ったのです・・・しかも当時の事ですのでマニュアルしかない時代。
 今考えるとぞっとしますが。
  ともかく免許証を取得して初めて家族を乗せて運転した時。
 助手席に私、後部座席には娘と息子がいたのですが、この子供たちが大騒ぎ!
 「怖い!」「ダメ!」「止めて」「お父さんと替わって」の合唱。
 確かに子供たちにしたらそうだったかも知れない・・・運転手との信頼関係が無ければ車酔いもするでしょうし。
 おかげで、女房殿はすっかり自信を失い・いや自分の運転を不安だと思いこみ、以来ペーパードライバーなのでゴールドなのです。
 おかげで事故を起こさずに済んでいるのかも知れませんが、ともかく初心者の時の運転は後を引くのでしょう。
 私の場合は免許を取得した午後には仕事で社員の送迎をしていましたから、必要かどうか・やらなくてはいけないのかどうかなどが一つのカギでもある。
 息子の場合は少々の嫌味も気にせずに乗るでしょうが、マア黙って見ている方がすんなり運転に慣れるような気がします。
 でも「言いたい事は一杯あるのに黙って見ている」のは相当努力が必要ですね・・・殆ど修業。
  マア気がついた事を話しても、アドバイスというよりウルサイ小言でしょうね。
 当分は「木の上に立って見ている」=「親」という事です。
  親は修業なんですね・・・祖父・父・私・息子と世代のバトンタッチで修業です。
 

書道三段だった時代があった

2010-03-30 02:43:52 | Weblog
 ふと段級位の事が気になってグーグルで検索すると・・・
  当然と言えば当然ですが段級位というレベルの表示は囲碁将棋だけでは無い事を思い出させられます。
 柔道・剣道・弓道・空手などの武術格闘技などは当然?段級位制。
  これが太極拳でもあると言うと「アレッ?」って言う感じはあります。
 大陸から来てそれほど時間が経っていないと思うのですが、段級位と言うと日本化したのかな?というイメージです。
 それでもこの辺りは未だ普通に段級位で、書道の段級位も「道」がつくものは段級位がついて来ると思えば受け入れやすい。
 尤も茶道・華道では聞いたことは無いのでこじつけなのはミエミエ。
  麻雀も段位があるとので、そうすると「麻雀道」と言えそうな気がしてしまいます。
 マア、遊びでも何でも段級位が好きな国民らしくて「パズル」「けん玉」にも段位があるし、雪かき道場なんて言うのもある。
 そこは雪国の大変な負担をシャレで乗り切りたいと言う気持ちも入っているとは思いますが。

 ところで、段級位制というものはいつごろからあるのでしょう。
  剣道では・・・江戸時代の時代劇では剣道の修業で「○○流目録」という免許、目録で小目録、中目録、大目録という免許ランクと全ての免許OKの免許皆伝は聞いたことがあるけれど、段というものは聞いたことが無い・・・聞いたことが無いだけで存在していたのかどうかは不明ですが、たくさんの時代劇にも時代小説にも出てこないので、その時代には無かったのではないかと想像出来ます。
 柔道の方は創設が明治時代ですから当然段位があっても創設以後。
  
 囲碁では面白い記事を発見しました。
 「囲碁における段位は江戸時代に道策が始めたものである」という。
 それまでは対局する当事者間での手合い割りという形だったのが、統一基準としての段位というものに発展したらしい。
 多分囲碁人口、あるいは囲碁ファンが増えた時代要求では無いでしょうか。

 チェスではレイティング制がありますが、これは置き碁のようにはゲームが成立しないし、将棋のように駒落としに出来ない為に考えられたシステム何でしょうね。
  ゲームの形から見ると囲碁より将棋の方が導入しやすいかも。
 尤も馴れないと計算が面倒な感じがします。
  それに手合い割りとコミ設定が点数差によって細かいので大きな表が必要な感じです。
  それで、想像ですが日本では点数制度が考えられたのだろうか?

 勝つと+1とか10点ごと(あるいはコミ×2で13点で)1段差みたいな簡便法。
  従来と違うのは点数の上がり下がりで段級位も上下しうる事でしょう。
 段級位制は手合い割りを定めるのに役に立った筈ですが、一度獲得した段から下がらないと言う事で現状の実力差のバロメーターとやや違う面もある・・・。
 これが点数制だとやや無慈悲でもあるが、点数が下がれば看板の段位も下がる(アマの場合だけですが)。
 ともあれ段位制は道策に始まって看板の段と実質的な点数ランクの二つを使い分けているように見えます・・・こういう使い分けは上手な民族ですから。

 ところで段位のところでふと昔を思い出しました。
  実は私は書道3段なのです・・・マア個人的には3段というのはやや半端な段すが・・・
 私の3人の姉の内二人は書道6段とかで、毎年の年賀状とか季節ごとのハガキ・手紙は筆の文字で書かれています。
 私は小学校の低学年で書道を練習させられました・・・町内の数軒の家の親が相談して書道の先生に出張教授に来て貰うことにしたのです。
 姉たちもそれ以来の書道歴ですから年齢差はあってもスタートは同じ・・・でも私は小学校卒業と同時に止めたのに姉たちは続けた・・・それと小学校時代に止めたという時期の問題がありました。
 私は中学校以来ともかく早く書くことだけで文字を書いていたので、他人様には判読できない記号しか書けなくなって行きました。
 ですから「私は書道3段」とはとても他人には言えない状態になったのです。
  しかし嘗ては書道3段だった事は事実でもある・・・何やらほろ苦さが滲む思い出です。

 書道の段位は・・・当時の書道の先生の勧めで「書三昧」という書道誌に出品して段位を貰っていましたが・・・これが50年後の今ネットで検索するとヒットした。
 当時と同じものかどうかは分かりませんが、意外な事実。
  その書道誌は私の生まれ故郷の街に本部があるのです・・・すると相当ローカルな組織なのか。
 子供時代はまさに「大会を知らず」ですから自分の出品した雑誌が書道世界の全てだったのが、もしかしたらこんなに小さな世界だったのか可笑しいようなショックな様な気がしました。
 もっとも看板で3段で実力は酷いのですから、これは囲碁の看板と実力での点数の関係みたいです。

あったらきっと参加します

2010-03-29 00:16:38 | Weblog
 高校を卒業して44年経ちますが、この間毎年のように同窓会の案内が来ます、、、そのたびに申し訳ないのですが不参加に○をつけて返信しているので未だ出席をしたことが無い。
  そういう立場で言うのは不真面目な発言ですが「律儀」という感じだし、作業としては事務委託された人が名簿上の宛先に往復はがきを送っているに過ぎないのだろうが、もしかしたら「これだけの月日がたっても完全には忘れ去られてはいない」ような安心感もあるのだから勝手なものです。
  尤も良い事でだけ目立ったわけではなくて、その反対の事も多かったので両方合わせてメモリアルのボリュームはあるかもしれません。
 ともかく未出席、故郷で開かれる時も、首都圏開催の時も・・・
  マア、ものぐさな性格でもあり、出席して「お前は昔から悪い奴だった」と言われるのが落ちなので臆病にも回避しているところもありますが、出席しない事が続くと何か出席するには特別な理由が必要な感じがして来ます。
 若い頃は「昔話をするのには早すぎるのでは」と思っていましたが、年とともに変わったと言っても「昔話は嫌いではないが、そのために出かけるにはエネルギー不足」なのです。

 それと数十人あるいはもっと多いかもしれませんが、そういう大人数の会合が好みでは無いところがある。
 見知らぬ人の中の一人なら特に気にはならないと思いますが、全員嘗てのクラスメイトというのは知っている顔が多すぎる!?
 そこで黙っているのも変だし、話すにしては話題を探すのは面倒くさい,つまり居心地の悪い空間・時間帯を堪える・・・こういうことに疲れる性格なのです。
  いや、誰かとの会話で一時盛り上がる事はあり得るけれど、その波が通り過ぎた時が問題で、この白けた時間・白けた自分に耐えられない。
 こういう波の繰り返しがあると予想できる・・・これは勤務先での忘年会などとも似ていると想像出来る。
 だから、例えば黙って碁を打つだけの同窓会なんてものがあればきっと出席する。

  (想像の話で)
  住んでいるところから東京駅まで45分、新幹線で1時間20分+ローカル先で10分、あるいは前日に姉の家に1泊、それくらい手間暇と経費がかかっても良い。
 それでどういう事をやるかと言うと、、、同窓囲碁会のイメージ。
  会のタイトルは出来たら「同窓囲碁会」より、「富士山を見ながら囲碁を打つ会」なんて言うのが良い。
  ある程度何気ない感じが良いと思う。
 このタイトル通りなら会場は日本平の上にあるホテルとかその辺りの施設を借りることになる。
  ここは毎年遠足の目的地・集合地点でした・・・朝、高校のグランドに集合して徒歩でここを目指すのです(3年間とも同じでした)。
 思い思いのグループで、街の中を抜けお茶とミカンの間を通り抜け300メートルの丘の頂が目的地です。
 そう言えば春の遠足なので田んぼのレンゲ、その脇の用水路のタニシ、遅咲きのサクラが記憶に残っている。
 遠足は日本平の頂上で出席を取り、昼食後に再度出席を取ってから解散し下山はバスでも何でも良いと言う遠足でしたが、ともかくここは街のシンボル的地点であると同時に、高校3年間の遠足とも結びついている場所でもある。
 ここからは晴れていれば富士山が大きく見えるし、麓の街、港、三保、駿河湾と向うには伊豆の山が見わたせるので、他県在住者も含めての会ならここが一番適しているはず、、、2番目は嘗ての学舎の体育館付属施設の合宿所か。
 囲碁会ですから2,3局は打つ、、、マア昼食は各自対局の合間に対局者とか観戦者と一緒に。
  対局以外の企画・・・例えば各自の「囲碁との出会い」、「囲碁との付き合い」などのタイトルで各自の話が聞けるのも良い。
 この辺りはかなり興味がある。
  私の記憶では高校3年間「囲碁」が話題になった事は一度も無い筈であるから、現在どのくらいの同窓生が囲碁を楽しんでいるのかも分からないけれど、楽天的な希望としては10人や20人はいるような気がする。
 実はその当時から囲碁を知っていたのに話題にならなかっただけなのか、あるいはその後憶えたのか、それはいつどういうきっかけだったのかなどなど興味がある。
 こういう話を聞けたなら、自分でもこういう方向で近況を話せたなら決して疎外感を味わうことは無いでしょう。
 マア実際こういう企画があったとして、一体どれだけ参加者があるのか全く分かりませんが、この場合1学年だけでなく、オール同窓生およびオール恩師でも良さそう。
 
 さて誰が世話人的な仕事をする?
  
 ゴルフでも囲碁でも何でも、何かの為に集まるという企画が良い。
  確かに同窓会も一つの目的ではあるが「集まこと」が目的みたいで、どうもエネルギーが湧いてこない。
 知っている人の中で、かえって疎外感を味わうような予感・・・性格が歪んでいるのか尻ごみ。
  もし「囲碁大会」の案内状が届けば、きっと何も考えずに出かけるに違いない。
  

ジリジリ

2010-03-28 01:14:46 | Weblog
格言で「百聞は一見に如かず」をくだけて言えば「見ると聞くでは大違い」。
  これをスポーツや絵画・書道などで言えば「見るとやるとは大違い」になるでしょう。
 私などはTVでスポーツ番組が好きですから、他に特に興味がある番組が無ければスポーツ番組に引っ張られる。
 中でもサッカーなどは土日で5,6試合は見るし、平日も含めると内外合計で10試合近くは見る。
  「見る」だけ、マア見る+解説を聞くのですが、これだけ見ているとだんだん”目が肥えて来る”(気がしている)。
 するとどういうことになるかと言うと、選手のプレーなどにうるさくなるだけでなくレフェリーの質・立ち位置・走力・もしかしたら性格まで目につくようになるようです。
 つまり、性格の悪さとあいまって黙って試合を見て楽しむような可愛い楽しみ方では無くなって行く。
  ハイレベルの観戦というより単に五月蠅いだけですね。
 そういう意味で家族全員が同じチームのファンで良かった・・・もし全員別々だったら家庭内は週末修羅場できっと大変なことになっているでしょう。

 それはともかく、これは自分では出来ない事であり、観戦しかしないからこそ言いたい事を言えるのでしょうね。
 もし自分でもやっているのなら、プロとアマのレベル差を痛感しているでしょうし、TV観戦でも黙って見て楽しむことしかしないような気がします。
 
 大相撲を例にとると、9-6大関と言うと余り印象が良くないのですが、考えてみると毎場所9-6ならそれはそれで立派な気がします。
 大関という地位から考えると横綱には負けるとして、同僚大関には勝率五分とすると、概ね11勝か10勝がノルマという感覚でしょう。
 でも勝負事でランクはともかくどんな相手でも勝ちに行くわけですから勝率で6割から7割を要求するのですから、少しきつい要求かもしれません。
 第一自分では絶対に出来ないスポーツですし・・・
  もし現在の私が相撲、サッカーは心臓から見ると命がけですね。

 さて囲碁で、仮に地方大会で代表決定戦でベストエイト常連の人がいたとして・・・つまり代表には成れないとして、「弱い」とは言えないですね・・・自分は絶対にその人に勝てない。
 しかもそういう大会に参加するレベルでは無いと自覚しているのに、参加している人を批評出来る筈が無い。
 見ると聞くでは大違いだろうし

 ところでネット碁で一時8連勝したがその後連敗。
  問題はその後のトータル9勝8敗・・・つまり勝ったり負けたり。
 9連勝と8連敗ではなく勝ち負けを繰り返す9-8。
  今は個人的にジリジリした展開。
 これを泥沼状況と見るか、安定状態と感じるかで気持ちは大違いでしょう。
  私としては後2,3点上の部分でこういう状態なら「まずまず」と感じるでしょうが、現地点ですと「低値安定」というか「やがて下降する踊り場」みたいな感じです。
 さて、どう変化するのかしないのか、ともかくジリジリ状態です。

此の頃鳥の声が

2010-03-26 06:17:27 | Weblog
 朝目が醒める時、ベッド脇の厚い方のカーテンをずらすと薄いレースのカーテン越しに窓の外は未だ明け切らない程度の明るさ。
この時間帯は好きですね。
 午前3時半から4時半くらいは新聞配達の人たちが走り回っているので、(彼・彼女たちには申し訳ないが)街の中がどことなく落ち着かない感じがする。
 しかし5時ごろともなると
 このくらいの明るさでも鳥の朝は早いようで、「チッチッ」というような声が聞こえます。
  マア、カラス達群れが「これから忙しい一日が始まるぞ」とでもいうように叫ぶ合っているのも許せる気分ですし、他の鳥の声も聞こえる。
 小鳥の囀りを聞き分けることが出来ないので、これが一種類なのか数種類の小鳥の活動なのかは分かりません(カラスとスズメ以外は分からない・・・)ので、脳は全て「小鳥」という事で理解しています。
 ところで「チッチッ」系の声も聞こえるで、囀りを言葉で表わしてネットで探すと「ホオジロ、ノジコ、アオジ、クロジ、カシラダカ、ミヤマホオジロ、コジュリン、オオジュリン、・・・」など8種類の鳥が候補だそうで、パソコンで声を聞こえるそうですが、恐らく私には聞き分けは無理だと思われる。
 勿論この辺りにはいる筈のない鳥もいるのである程度は絞り込めそうですが、でも早口言葉でのカタカナ混じりの歌とか、単語の羅列のラップとかみたいに、音を理解するには・・・
  最近の若者言葉「無理!」といったところ。
 スズメはこの「チッチ」候補には入らないのですね・・・あれはやはり「チュン」なんでしょうか。

 チュンなら分かりやすい・・・最近もう一つ分かりやすい鳥が来てくれるのです。
  どういうわけかウグイスがベランダの近くの木から木に飛び移りながら「ホーホケキョ」、私の寝ている部屋側の外でも「ホーホケキョ」。
 これが不思議と「春が来た」と幸せな気分だし、早朝目覚める頃に聞くと一人だけなんだか得をしたような気分になるのです。
 学生時代に、初夏の時期に登山の途中林の中では良く耳にしましたが、ここではまさに春を告げている。
 この辺りには梅の木はありませんで、サクラが咲く直前。
  初めはもしかしたら誰かのものマネか、あるいはウグイス笛みたいなものかと疑いましたが、実際にあのウグイス色の小さな鳥を目にしましたから生ウグイスに間違いないようです。

 最近ウグイスが来てくれるので、ウグイスについてネットの野鳥図鑑で検索してみるとトリビアにぶつかりました。
 こういうことで寄り道が多いので精神年齢が実年令に追いつかないのですね・・・

 ウグイスはスズメの仲間でウグイスグループ・・・ここまでは想像通りなのですが「ウグイス」には普通のウグイスの他に「チョウセンウグイス」「マンシュウウグイス」という名前のウグイスもいるのだそうです。
 ここまでは普通の”へー”
   そしてチョウセンウグイスの鳴き声が「ホーホケケキョ」なんだそうです。
 つまり「ケ」が一つ多い(羨ましい?事に)。
  ただそれだけのことですが、こういうことにぶつかるから楽しいですね。
 還暦過ぎてもまだまだ新しいことに出会うのですから。
  ところでこういうネーミングって何でしょうね?
   実際に生息域が朝鮮半島中心とか中国東北部何でしょうか?・・・この辺は多少引っ掛かりは感じます。
 これからは韓ドラでウグイスの鳴き声が出て来る場面があったら要注意です。
 マア日本に居るウグイスとの混棲なのかもしれないけれど・・・

 最近野鳥に関して面白い事がありました・・・マア多少の問題はあるかもしれませんが。
  此の頃女房殿は乾燥野菜に興味がありまして、昔からあるポピュラーな乾燥野菜・芋切り干しを自分でベランダで作るのがマイブーム。
  要するにサツマイモを蒸かして切ってベランダで干しているだけですが。
 そこに目をつけた鳥がいるのです。
  カラスなら目をつけそうですが対カラスなら専守防衛。
 ある時野鳥が家のベランダに舞い降りて干してあるサツマイモをつついているのです。
  これには女房殿も困ったようです。
 自分が好きなものですから相手が野鳥と雖も許し難い・・・さりとて追い払うのも可哀そうだし、つつかれたものを分けあって食べる気もしないし。
  という事で以後干すときは坊鳥ネットで、つつかれたサツマイモは気前よく?鳥に振る舞いました・・・餌をやるのは良いのか悪いか難しいですが。

 鳥の名前はヒヨドリ。
  体も小鳥と言うには大柄ですし羽根も奇麗なわけではありませんし歌のサービスも無いし・・・それでもベランダに舞い降りて蒸かしイモをつつく姿はなんとなく癒される。
 つついては飛び去り、また食べに舞い降ります。
  これを窓越しに「来てる来てる」と覗いて・・・何とも暇人の家族です。

広い世間を狭く生きる?

2010-03-26 00:25:11 | Weblog
 日本発でドラマの登場人物が海外で人気になる・・・
  嘗ては「おしん」は中国初めタイなどのアジアをはじめエジプトなどマア世界中で人気があったそうです。
 日本ではいつか通って来た道・共通の記憶として理解できるし、現在似たような過程を歩んでいる地域でも理解できるキャラであると思うので、それは理解しやすい。
 アニメでは例えばドラえもんは東南アジアでも人気があったそうですが、そこは分かるが、でも聞くところによると人気キャラは「ジャイアン」なんだとか。
 ストレートということでしょうか、やや乱暴だけれど強くて憎めないキャラですから、「そうなんだ」とそこも成程と理解できる。

 しかし理解しにくいものもあります。
  これは国とは関係なく私がおかしいのかも知れませんが・・・
 例えばヨーロッパでも日本のアニメが人気がある。
  これは息子に聞いた話です・・・1年ほどの滞在だし、どの程度わかっていたかは不確かですがまあ、、聞いた話という事です。
 少し意外なものでは「クレヨンしんちゃん」が人気があるのだとか。
  但しあのキャラを反対する人も多いのだとか。
 つまり若年層には人気があるが日本で言えばPTAは反対というところらしい。
  成程そういうことなら理解できる・・・厳密に言うとあのキャラが好きな人は理解できなくて、反対する人を理解できる。
  私が頭が硬化しているのか「面白ければ良い」という割り切り方が出来ないのです。
 もしも仮にあのキャラが現実に目の前にいたり私に何か言ってきたら、仮にあれが自分の息子だったらきっと頭をひっぱたいているでしょうね。
 TVの中のキャラなのでそういう行為は出来ませんが。
  ただ、現実にクレヨン的子供がいたら「暴力をふるう人物」として処分されないようにっ自分を抑えるのが大変でしょう。

 ふと気がついたのですが、TVに登場するタレント、お笑い系の芸人の中にも「これは止めて欲しい」というような「芸?」だとかキャラがあるのですが・・・私は嫌いなのに一般に人気がソコソコあったりする。
 まあそういうものでしょうか、あるいはそういうこともあるさとしか言いようは無いのですが・・・見方を変えると私の判断基準が他人様の基準とだいぶ食い違いがあるのか、あるいは世の中の評価基準が私にとっては嫌な方向にずれて行っているか?、、、どちらにしても先が暗い気がします。・・・もしそうだとすると、自分にとって楽しい部分が減り、いやな部分が増大する傾向ということになるのかも知れません。

 その方向なのかCMでは最近気になるもの・・・何が言いたいのか分からないCM・・・こういうのはふと不安を感じます。
 今一番不愉快なCM
  煮豆の宣伝らしいのですが「歌の下手なカナリアは一生結婚できないんだって」という台詞・・・カナリアの生態を通して何を言いたいのか意味不明。
 TVCMって短い時間でも相当な資金が必要なものだろうに、社会的主張なのか自社製品の宣伝なのか、あるいはイメージを伝えたいのか意味が全く分かりません。
 それともブラックユーモアのつもりなのか?・・・ブラックではあるけれどユーモアは感じない。
 でもこういうCMが存在すると言うことは、これを見て聞いて何の事か分かる人がいるのか、少なくとも企画したり制作した人がいる!、、、出発点でこのCMで何かを伝えようと意図した人がいる・・・これが理解出来なくてこのCMを見るたびにイライラする。

 どちらかと言えば私は広い世間を狭くしていきている部類なのでしょうか?

退屈はネコをも殺す?

2010-03-25 00:10:49 | Weblog
 私は今日は心臓エコー検査でした。
  経過を見なくてはいけない要注意人物なので、「今年も春には心臓エコー」みたいな感じで普通に血圧検査をするような気分です。
 でも、考えて見れば初めて医師から「心臓エコー」と言われた時は少し不安感があったと思う。
 「そんなに悪いのかな?」とか「検査結果で即入院となったら困る」とか・・・
 今ではそういう不安は常につきまとうものの「さあ見てくれ」的な俎板の鯉。
  しかし今回は初めに感じたような何か不安な感じを味わいました。
 
 初めに検査室が並ぶ一角受け付けを済ませ、予約した検査室前廊下の長椅子で検査に呼ばれるのを待ちます。
 私の検査は心臓ですからここでゆっくり呼吸を整える時間は必要でしょうね。
  ふと廊下の向かい側の長椅子を見るととこには私と同年輩のご夫婦が順番待ちをしていて、二人の会話が耳に入りました。
 ご主人「少し不安だね」、奥さん無言でうなずく(これだけですから会話とは言えない?)。
  会話の様子でご主人が検査かと思ったら、奥さんが呼ばれ手検査室へ。
 そこの部屋には「内視鏡検査」の札がかかっていました。
  夫婦で検査なら、どこか悪いところがあったと言うより、、年令的に「この辺りで検査をしておこう」の感じ。
 もしも奥さんだけが検査なら、精密検査・あるいは再検査みたいでやや不安が残りそう・・・でもそういう時に旦那が「不安だね」などと言いそうもないナ。
   こういう詮索をするのが好きなんです・・・ただ聞こえてくることからいろいろ想像する・・・ただそれだけですが。

 さて私が呼ばれて検査室に入ると「まず上半身裸になって下さい」と声がかかり、「何度も受けている検査ですから慣れていますね」というわけで、検査の人はこちらの検査履歴は承知なわけです。
 ただし、なんだか若い女性のオペレーター・・・マア先輩の検査技師もついていますが。
  この検査はゼリー状のクリームみたいなものがやや気持ち悪いのと、先に金属の着いた器具を押しつけられる不快感があるのですが、なんだかこれまでと違って押し付け方が弱い感じ。
 これが器具の進化でソフトタッチで検査が出来るように改善されたのなら良いのですが、被検査体本人としては検査院が慣れていないのではないのではないかというイメージ。
 彼女は若そうで、男性の検査にどこか遠慮があるのか・・・尤も男性と言っても還暦を過ぎているので孫娘とジイサマの図に違いないが。
 ということは、単に未熟なだけ?
  結局先輩の検査技師が「寒くはありませんか」と声をかけて来て、「やや見えにくいところがありましたので、そこを見ます」ということになった。
 こうなると疑い深い私としては、未熟な検査員の結果に先輩検査技師がフォローしているのか?
  あるいは、検体たる私の方に念入りに検査を要する箇所があったのか・・・不安になる。
 結果は約1カ月後の「定期検査で発表!」・・・ふざけている場合ではありませんが、マア結果を聞かなくては分からないので、今から心配しても仕方が無い。
  こういう時の諺かな・・・チョット意味が違うような気がしますが「退屈はネコをも殺す」
   なんとなくマッチしていると思いませんか?

 ところで今日のネット対局。
  「基本は詰め碁」という、部分的にせよ真理に違いない事柄を再確認しましたこと・・・多少の自慢話コミで報告します。
 この対局は私の白番で148手完・・・黒投了の短い碁でしたが、その決め手は黒の一団の生死でした。
 この黒の一団の隣の白石にそのまた隣の黒石の生きを確認するための1線のハネツギが打たれまして、通常では打たれた方としては①カタツギ、②カケツギを選ぶ。
 ①は目形の確保の必要が無ければ後からコウ材にならないように堅く継ぐ、②の場合は目形を整える必要がある場合・・・常識の話ですがついでに、①にせよ②にせよ黒が先手なわけで、ここで③として他の継ぎ方を考えて逆に白が先手を取ることが出来る場合もある。
 つまりこの碁の場合直接継では無く、やや離れた反対側の黒との接点を1線下がりで間に合わせる。
 これが実は隣の黒の死活のポイントになる筈・・・なんで結果的に先手で黒から先手を取り返す場面なのに黒は無視して多方面に転戦!?
 という事で折角なので・・・という経過で148手完。

 さて定石にしてもヨセにしても基本は詰め碁であると確認しました。
  単なる生き死にで成り立っている詰め碁と、経済性が含まれる定石、総合的なヨセの場合と、どちらにしても「詰め碁」的要素は大事だと再確認。
 若い頃詰め碁ばかりやって一人遊びの時代もありましたが無駄にはなっていないようです。
  「泣く泣く生かされる」場面もありますが
  「喜んで献上して多方面に先行する」作戦を比較的(独りよがりにせよ)自信を持って出来る事は楽しいですよね・・・自慢話はここまでに。

 
 
 

天文学的数字?ですよね

2010-03-24 02:39:41 | Weblog
 囲碁で出現する形、マア棋譜的な同一の物は無くて天文学的数字の棋譜が出来る・・・ということは俗に言う361!を計算して数字で表すことが出来たとしてもイメージとしてとらえられないくらいの数ということらしい。
 実際に現在みたいに世界中で囲碁が打たれているので本当に同じ棋譜は出現しないのかどうか疑問に思ったりして・・・。
 でもまあ自分の囲碁では同じものはこれまで無かったし、これからも無いでしょう。
  同様に、自分で見たり記録としての棋譜でも同じものを見つけたことが無いと言うことは、これからも発見することは無いのでしょう。
 また仮に、仮に同じ経過をたどる碁が出現していたとして、ある時期ある時代に出現した棋譜Aとどこかの時代のどこかで打たれたBという囲碁が同一であると確認できる人はまずはいないでしょう。
 そういう意味で、確率的に天文学的な数字であると言う意味で同じもなは発生しないと言う事と同時に、仮に発生しても確認しにくいとう感じですね。
 例えが適切かどうかは分かりませんが、世界中の砂の粒を比較して同型同重量同成分を探すようなものでしょうか。
 
 ただ素人的には同型の物が発生しないもう一つの理由も存在して欲しいと思っている。
  それは将棋を例にとると・・・多くの将棋は初手7六歩で始まるか2七歩で始まります。
 たまにはそれ以外の5六歩もあるかもしれませんが、序盤の始まりはパターンが少ないし、手数も囲碁程は長くは無い。
 取った駒を再度使えると言う特殊なルールがあるにしても、少なくともプロの将棋では同じ軌跡を辿って同じ形で終わる将棋は無い筈です。
 つまりある経過を辿った場合、どういう結果になったかという記録が知られている事が多い。
  特にネットで記録を入手できる、その記録を整理できるのですから、過去に指された記録通りの進行で負けると言う愚行をプロたるものする筈が無い。
 ということは途中までは同じであってもどこかで新たな工夫がある、あるいはその棋士なりの変化が加えられている筈なので同じ棋譜は発生しない筈。
 それが進化的に変化している筈ですね。

 囲碁の場合も少なくともプロの場合はそうでしょうね。
  ザル世界の住民には頭ではそうに違いないとは思いますが。
 自分の碁についてはそこまで厳密に研究した結果では無いにせよ同じ碁にならないのは、相手があると言うこともありそうです。
 お互いに別の道を辿ろうとするという意味で。
  但し、例えばネットでお馴染みのMさんとは多分100局くらいは打っている筈ですが、同じにはならない。
 これがたいていの碁で私は2連星、Mさんは星+目ハズシで始まりますから初めの4手までなら同じ碁はたくさんありますが、やはり毎回どこかで変わって行く・・・お互い工夫していると言えれば良いですが。
 それでも勝ったり負けたりしているのですからお互いの努力と工夫の結果ということにして置きたいです・・・無理かもしれませんが。

 ところでネットで久し振りに2子でおしえてもらいました。
 相手のFさんとは先でも打った事はありますが、正直先では黒を持っても荷が重いので、2子は適当な手合いでしょう。
 この立ち上がりは白1で星に打ち黒が残りのアキ隅の星に打ったとして、ここまでは良くあるパターンで白3で黒2の星に小ケイマでかかったとして・・・私はまずは1間に挟む・・・そして白に3三に入るのか1間に上に跳ぶのか、それとも別の手を打つのか訊くのですが。
 これがKさんの場合は違う
 (私とFさんの碁が終わって直ぐ後にFさんとKさんの2子局が始まったので観戦出来たのです)
 Kさんの場合は黒4で小ケイマにかかった白3の石の上につけ白5ハネの時に黒6切り違いが彼流のパターン。
 ここまでで私とKさんで違う道を進むことになります・・・それでも毎回同じ結果にはならないのですから面白いです。

暇な休みの日の朝に

2010-03-23 00:15:27 | Weblog
 目が醒めて、月曜日ですが休みなのでベッドの中で暇な考えです。

 碁会所では語呂合わせ的軽口が飛び交います。
  これを真剣に考えたら誰かが傷ついたりしそうなものもありますが、マア深い意味は無い他愛も無いものが殆どです。
 芸能人や有名人の名前が飛び出したりすることがありますが、それは有名人の有名税という事で御許し願っておきます。
 例えば「アワヤノリ子という時に・・・」・・・単にアワヤだけで良さそうなものですが、ちょっと活劇談的に表現するには失礼ながらノリ子がついている方が話が弾むかもしれません。
 同じように・・・多分ご本人は知らないだろうと言う事で・・・「ダマクラチヨコ」、これには「ダメクラチヨコ」もあって、微妙に意味が違うので使い分けがありそうです。
  そう言えば「フラチナ万年筆」というのもありました。
 「不埒」とか「無礼」で済みそうなものですが、マア万年筆までつけて手間をかけるものです。

 こういう単なるダジャレ系とは多少違って、例えば歌の一節などを使って表現するものもあります。
 例えば「この道はいつか来た道」・・・有名な歌ですが、「いつもの失敗」をからかう時もあれば、誰もが経験するような事だと教訓的に使う時もあるので、使い分けがありますがマアさりげなく表現する。
 それとは違って切迫した場面で相手が美空ひばりの「柔」などを唸りだしたら気の短い人ならカッカさせられます。
 「柔」・・・「勝つと思うな思えば負けよ」「火の粉は避けねば」はまだ良い・・・「馬鹿を相手の・・・」となると穏やかではない。
 相手の歌にまぜっかえすのもある。
  「眼を閉じて何も見えぬ・・・」ときたら「そりゃそうですよアータ、目を開けていても見えない人もいるんですから」となる。

 リアル碁では碁会所にせよ囲碁教室にせよ単に囲碁を打つだけでなく人と人の触れ合いがあります。
 それがレベルの問題とか品性の問題は別にして、ともかく「人」という意味では貴重でして、そこのところはネットはリアルに及びません。
  他の県、外国の人と居ながらにして碁を打てると言うことは夢のような事ではある・・・ではあるけれどリアルには及ばない面もあると言うことですね。
 メールとかチャットとかで幾分補填は出来るとしても・・・
  仮にパソコン電話とを組み合わせて音声と相手の表情と碁盤が同時に見えたとして・・・それでもリアルには及ばないと感じています。
 (決定的に違う条件で、リアルと違って周りに第三者がいないと言うこともありそうですが、それは別の機会に考えることにします)
 イヤ、足りる面とむしろマイナスになりそうなところもある。
  相手の顔が見えて、表情の変化も分かり音声や息遣いも分かるとしたらかなりの臨場感はアップで、これは例えば遠く離れた友人などと囲碁を打つのには良いかもしれません。
  但し、ネット囲碁クラブのようなところで初めての人打つとかの条件ではチョット緊張しますねキット。
 普段実名ネットで在住の県とか実名が表示されていても、マア拘らないと言うか軽い開き直りがあるわけで、普段の碁会所とかコミュニティで他人に覗かれていても気にしないのと余り変わらない。
 それが顔とか声とか出ると・・・碁会所とかコミュニティと同じ事なのにチョット気おくれしそうです。
 
 普段ネットで打っていて、私の出身県の人で知っている名前を見かけます。
  もしかしたら私の知っている人かも知れないし同姓同名の人かも知れませんがその辺りは余り気になりません。
 住んでいる県・市の人の名前も出て来ますが・・・どこかで「あなたがアノ○○さんでしたか、いやネットでは良く拝見しています」なんて言う機会があるかも知れないなどと想像することはあっても、特に近所の人とはネットでは打ちたくないと言う気分にはなりません。
 ところが、顔を出すのはためらいがあるからパソコン電話囲碁クラブは出来そうもない・・・。
  今のところ予想では出来そうもない。
 但し、世の中が変わって感じ方が変わるかも知れない?。

視力の話

2010-03-22 04:45:48 | Weblog
 囲碁で「眼が良い」と言えば細かなところにまで見えているとか、他の人が気がつきにくい所まで見えていると言う意味ですね。
 こう言うことは囲碁に限らず、例えばスポーツ的な視力とか、もしかしたら学問的視力あるいは観察眼としての視力と言えるものもあるかも知れません。
  サッカーに例えるといつも感心して見ているのですが・・・
 例えばスタンドでの観戦にせよTV観戦にせよ、視点は選手のいるピッチレベルより高い所にあるわけで、視野は当然ある程度全体が見える場所にある。
 ですから、ボールを持っている人に焦点が合っていたとしても周囲が見えている・・・当然俯瞰図・第三者的視点というわけです。
 ところがプレイしている当人はピッチレベルに居て平面的視野で周囲を見ている。
  不思議なのは「見えている」のかどうかです。
 平面上の視野では見えるものに限界がある筈ですから、「見える」+「感じる」の部分での勝負なんだろうとは想像はつくものの、そこはその道のプロでは無いので想像するしかない。
 しかもプレイは何分の1秒かの時間差が結果を分けるのですから、野次馬としては「何処見てるんだ」みたいな言いたい放題が許されるとしても当人たちは大変でしょうね。

 囲碁の方でも「見える」=「分かっている」、「感じる」=「何か予感めいたもの」あるいは「相手の隠された意図」とに起きかえれば少しは似て来るような気はします。
 これがカーリングなどでは相手の作戦の意までが見えるところで戦い、いかに作戦通り実行できるかが結果を分ける。
 似ているところは1ゲームでの使用時間の制限がある事で、チェスとか囲碁などに似ているとも言えます。

 さて視力、「見える」という動物としての能力と、「理解できている」というより人間的な力と「感じる」という本能的な要素が強い部分のトータルが見えると言う事なんでしょうね・・・想像で。
 
 話は飛びますが、プロの囲碁棋士と将棋の棋士では細かな統計は分かりませんが、印象では将棋の先生の方が眼鏡を使用している人が多いと感じています。
 羽生・中原・谷川先生・・・を初めNHK囲碁講座にコラムを書いている先崎さん・・・眼鏡を使用していない先生を数えた方が早いような。
 勿論囲碁の先生だって眼鏡使用の棋士は多いけれど将棋の先生たちほどは多くは無いのではないかと見ています。
  昔海外旅行で、「眼鏡でカメラを首にかけていたら日本人」という時代がありましたが、外国の人から見ればそれくらい眼鏡使用の人が多いのでしょう。
 尤も最近はコンタクトという事もあるので、正確には見てくれでは分かりませんが・・・。
  想像では囲碁にせよ将棋にせよプロになるには相当目を酷使している影響もあるだろうから単なる民族的・遺伝的なものより確率は高いかも知れませんね。
 単に目という機能だけでなく目+脳神経という意味でもアマからは計り知れないものも・・・。

 という事で私の眼はこれまでも楽をしてきている筈です。
  中学の1年の時に仮性近視という事で一時教室の後ろの方では黒板の字が見えにくい事がありましたので、母が心配して早速弱い度ではありましたが眼鏡を作りました。
 これが、当時部活で野球をやっていて練習のフリバッティングのピッチャーをしている時の事故で壊してしまい・・・これを両親に言えずに眼鏡無しに戻ってしまいました。
 それで、仮性近視だった為というか、授業中窓の外の風景ばかり見ていたおかげというか視力を回復したのです。
  眼鏡をかけていると多少は利口そうに見えるとか、まじめそうに見えそうな感じなので、本人としては未練がありましたが・・・。
 続けて近視の眼鏡を使っていたら近視状態が固定化してしまったのかどうかは分かりませんが、それ以後近視にはならなかったのです。
 それが数十年後のこと。
  娘が高校受験の勉強をしていてオヤジは少しだけ手伝い。
 (母親の方は職業柄「家に帰っても教えるのは嫌だ」と逃げていますが、本当は教える自信が無かったのではないかと思います)
 ともあれ数学・英語は私が娘にあてにされて・・・教える立場だと父娘喧嘩になりそうなので模範解答作成で手伝い。
  この時数学の高次式の問題を見て驚いた。
 なんとX,Y,Zの次数が書いてあるような無いような感じで読めないのです。
  これはショックでした・・・自分に何が起こったのか直ぐには分かりません。
 それが虫眼鏡で見たら何の問題も無くはっきりと読めるのですから、所謂老眼である事が分かり2度目のショックでした。
 
 直ぐに眼鏡を作りまして、以来、本を読む時は老眼鏡使用となりました。
  遠くを見るのは問題が無いので運転には条件がつかないので、そこのところは楽かもしれません。
 あれから、15年以上経ちまして、こちらの方は仮性老眼は無いようで少しづつ着実に進行している気配がします。
 初めは細かな文字、本を読む時や新聞を読む時だけでしたが、やがて文字を書きつける時にも眼鏡をかけた方がスッキリするようになりました。
 囲碁で言うと、リアルでは眼鏡不使用ですが・・・
  ネット碁ではこれまで接続して相手を確認するところまでは眼鏡を使用し、対局が始まったら眼鏡をはずしていた。
 つまり、パソコンの画面で碁盤の映像と、ハマの数、残り時間が分かれば良いので特に前が寝は必要とはしない。
 それに対局中に眼鏡が無い方が考える時に自然状態だったと感じていたのでしょう。
  これは仕事で眼鏡をかけていても所用で席を立ち、歩く時には反って眼鏡をかけていると不安定な感じと似ています。
 眼鏡をしている時は細かな文字まで読めるので便利ですが、歩く時は眼鏡をしていると物の距離感が狂って来るのです。
 ですから読む・書く・パソコンでの作業以外の時は眼鏡をはずしていたものです・・・ところが、最近では歩く時も眼鏡をしたままでも違和感が無くなって来ました。
 ネット碁も変わってきて、眼鏡をしたまま対局するようになってきた。
  むしろ眼鏡が必要になってきている。
 画面・盤面が見えていると言う事と別に、眼鏡をしている方が考えごとがクリアーになっているのかどうかという問題でしょう。
 ということは、かなり弱い度からだんだん日常性格で眼鏡を手放せない方向に進行しているのかも知れません。
 従って眼鏡=理知的?とは違い、眼鏡=単にジイサマ的方向で変化中なのですが、がっかりはしても必需品なので我慢して慣れるしかないのが悲しいです。

自分が変わって行く?

2010-03-21 04:32:15 | Weblog
 昨日のNHK囲碁講座テキストで「先崎さんの桂馬の両アタリが無くなった」と書いたところ、早速間違いを教えて頂きありがとうございました。
 もし、教えて頂かなければ、かなりの確率で「無くなってしまった」という風に脳の中で「決定事項」的な扱いになってしまい、その後は「無いもの」に分類されていた事でしょう。
 大きな勘違いを起こした原因は、思うにこれまでは右上にあった縦書きのタイトルが上部に引っ越して、且つ横書きになっていた為だと思われます(言い訳めいていますが)。
 雑誌を買って来てまずこのコラムを探す時に、ページ右上部分で縦書きタイトルを探す・・・こういう行為が固定化されているのですね・・・ページ全体が見えていないというか、素直に・自然に見えるものを見ていない。
  固定観念を離れて自然状態で1ページずつ見て行けば良いのに、何か水道管の水垢というか、変な癖がついているようです。
 それに、探すのなら目次を確認すれば良いのに・・・実は目次を見たのに、そこに掲載されている事が示されているのに見えていない。
 気持ちがニュートラルで探していないのでしょうね、例えば「無いと言う事を確認するために探している」。
 こういう予断を持った探し方にも問題がありますね。
  更に今月号から小林光一先生の講座が始まり相手役が穂坂繭三段になっていて、両先生の写真が掲載されています→ここから穂坂さんは先崎さんの奥さんだから、先崎さんのコラムが無くなって奥さんが登場したのかもしれないと勝手な発想が出て来るのですから我ながら恐ろしい。
 自分で自分に根も葉も無い噂話を流しています(他人に言わないので罪にはなりませんが)。

 こういうのは「ヒネクレ性・認知症的・老化現象」みたいな気がして自分に警鐘を鳴らさなくてはいけない。
 身体的には循環器とか血糖とかの持病と別に、はっきりと老化を意識しているのですから不安になって来ます。
 膝の力が無くなった、肩・首筋が痛んで仕方が無い、体のバネが弱くなった感じで、まるで最近のTVCMのターゲットになりそうな感じ。
  フィジカル的に弱ってきているのに反比例して物理的・重力的負荷が加わっている。
 それに心理的な視力とは別にシンプルな意味で目が悪くなってきているらしい。
  イヤ、遠いものはメガネ無しでも何の問題も無いのですが、近くがダメ。
 だんだん虫眼鏡というかネーミングが悪いのですが老眼鏡のお世話になる時間が増えているのです。
 昔なら眼鏡は不要だったのが文書を読む時と地図を扱う時には必要になりました。
  でも歩く時などは眼鏡をかけていると遠近感が狂って反って危険でしたが、今では書く時も歩く時でさえ違和感が無くなって、一日の内で眼鏡使用時間が増えていますから見てくれも実年令もジイサマになっている。
 何と言っても囲碁の対局が変わりました。
  リアルではどうなるかは確認していませんが、とにかくネットでは変わりました。
 以前ではネット碁に接続して入場者・対局待ちリスト確認、ここまでは眼鏡使用で、いざ対局という時点ではメガネをはずしていたものです。
 例が不適切かも知れませんが、若い頃に競馬場でレースを見る時に遥か彼方の向こう正面での馬群の中でも注目の騎手の動きが見えている気がしたものです。
 メガネとか双眼鏡は不要だと思っていました・・・同じように?パソコン画面の碁盤を見るのに、場面を見て何かしら考えるのにこれまではメガネは不要であり邪魔な感じがしていた。
 ですから対局開始と同時にメガネをはずしていて、これが臨戦態勢だった。
  ところが今は逆に臨戦態勢ならメガネ着用になった。
 メガネが無くても見えない事は無いし、自分なりに考える時必需品ということでも無いのだけれど、メガネをしている方が見える世界も思考もクリアーに感じる=はっきりと考えられると言う感じでしょうか、ともかく対局開始と同時にメガネをかけるようになりました。

 要するに身体的にも、感覚的にも、思考習慣も老化進行中のようです。
  まだ若い?のに、いや十分年寄り?
 あと10年は囲碁を打ちたいのに・・・でも10年くらいあっという間だと言う不安もある。

確かに変わったようです

2010-03-20 00:50:02 | Weblog
 何が変わったかって?
  先日他の人のブログを覗いたら、「NHK囲碁講座」(月刊雑誌としてですが)がこの4月号から変わったと言うことが書いてありました。
 そう言えば月半ばを過ぎたのでそろそろ4月号の発売時期でもあるので、夕方仕事の帰りに大型スーパーに寄るついでがあったので本屋に行きました。
 確かに変わりました・・・まず第一感。
  いつもの場所に平積みされているのに一瞬気がつかなかったのですから、これまでのこのテキストの表紙のデザインのイメージが頭に刷り込まれていたのでしょう。
 マア、確かにどんな雑誌でも毎月号の表紙がイメチェンしたら混乱を招くはずで、それぞれのイメージを保ちながらも毎月のイメージを表紙に表わす必要があるから難しいのでしょうね。
 そういう目的に沿ってデザインしたであろう囲碁講座の表紙が定着していた筈で・・・本屋さんの棚にそのイメージの雑誌があって、○に数字が入っていればその月の雑誌ということは一目了然だったわけで、そういう時期が何年も続いたのでしょう・・・それをマンネリというのかどうか素人にはわかりませんが。
 そういう伝統というか、イメージの定着も大事ですが、今回みたいなイメチェンもいつかは必要なんでしょうね。
 
 4月号の表紙は梅沢5段と将棋の矢内理絵子女王・・・お二人が白い服でにっこり。
  一見介護雑誌風?イヤ悪い冗談です・・・考えて見れば囲碁的要介護ですから意外とストレートに編集方針を表わしているのかも知れないです(私にとっては)。
 「囲碁講座」の文字も従来のゴチックから柔らかな字体に変わって、見た感じはソフトになったと思います・・・なんだか自分のノートにタイトルを書いておいたと言う文字です。
 尤も小さく「NHKテレビテキスト」教育テレビ・・・と書いてあります。

 ところで今月号からは「小林光一の攻めの構想」
  内容についてはこれからひと月かかってゆっくり読むことにします(放送に合わせてという事で)。
 ただ、読む前にこういう事をいうのは甚だ失礼でしょうし、レベルの低さを露呈していますが、気分としてはアマ・ザルの攻めと本格派(勿論プロです)の攻めとは相当に違うから、「本格派の攻めとはこういうものだ」というお手本では「従来の攻め講座とはどこが違うのだ?」にならないと良いのですが。
 要するに講師が変わっても、入れ替わり立ち替わり似たような話であったり、あるいは素人にはどうもイマイチしっくりしないこともありました。
 強くなるための勉強ですから、本格派、正道と言われる道で無くてはいけないのは分かってはいます・・・それは、言葉としては。
 しかし分かってはいても、身に着くものが少なかった自分史があるわけで、開き直って自己流でも良いから楽しく打ちましょうと言う感じになっている。
 つまりそういう開き直り気分と、正しい道を学ばねばならないと言う事のはざまで揺れているわけです。

 どんなものでも王道が最も重要な事は重々承知で、敢えて言ってしまうと、たまにはザルを応援してくれる企画もあっても良さそうに思うのです。
 例えば「攻め気分」と来たら、サブタイトルは「取れる石は取ってしまえ」でしょう。
 キャッチコピーというか導入部は絶対これです。
  勿論こんな乱暴な事だけではいけないわけで、「取れる」というところをきちんと分析・解説してくれるのが先生の腕ということです。
 「取る事で優位に立つ方針(つまり捨て石を取らされるのではない)」
 「取りに行く事で他方面にひずみが出ない事」
 「仮に取れなかった時にバランスが崩れない取りに行き方」
 「取りに行く事で(取れなくても)局勢が有利になる事」
 「取りそこなう事で劣勢にならな方法、あるいは状況判断」
   こういう都合のよい講座は無いものでしょうか。
 
 先崎学さんのエッセイが無いのは寂しいですね・・・これはチョットがっかり。
 それから王先生の「ゾーンディフェンス」は終ったのでしょうか?・・・これも好きな講座だったのです。
 ともあれ変わって行くのは仕方が無いのでしょう。

 ところで初めに戻って表紙・・・これを絵として見る時に、これからもこういうイメージの表紙になるのでしょうか?
 すると5月号はどういう風になるのか今から楽しみです。
  介護雑誌のイメージが以外と続いたり。

蒸し鍋大成功

2010-03-19 00:01:58 | Weblog
 先日車の店から「車検が出来ました。」という電話連絡があったので受け取って来ました。
  代金を予め聞いておいて、現金支払い・・・実は女房殿は支払いなどについては昔風の感覚の持ち主なので、分割払い・キャッシュカード・クレジットカードのようなものには多少偏見を持っていますので、私が「概ね○○万円だから用意しておいて」と言えば「○○万円」が出て来るシクミ。
 これって、私の性格が子供の時から余り変わっていない・進歩していない証拠でもある。
  子供時代から高校時代・・・母に「本を買うからお金をくれ」と言えば、まず間違いく
「本代」を貰えたものです。
  本・現物は友達の新しい本を一時的に借りて来て母に見せると言う事で、随分と本の代金を食べたものでしたが、今でも余りやっている事が変わりません。
 車検代金は実際の費用を繰り上げ式で家庭内請求・・・お釣りを返す気持ちは初めから薄い。
  マア自分の家のお金ですから結局は同じ事なんですが、なんだか儲かったような気がするから不思議。
 勿論請求書と領収書は渡しますから、最初に用意した金額との差はミエミエではある。
  ただまあ、この僅かな差額で何やら買って帰るのがお遊びなのです。
 昔お使いに行って、買い物の代金のお釣りをオコズカイにしている感覚です。

 それで今回は車屋さんと同じ敷地にある大型家庭用品店で「蒸し鍋」を。
  なんで蒸し鍋なのかは説明が難しいけれど、要するに野菜や肉・魚をいろいろ料理せずに、単に蒸しただけで食べたいと言うだけの思いつきです。
 もうすぐ春なのに・・・冬の間の方が良かったような気がしますが、ともあれこういうものは思いついた時にやらないと出来ないものです。
 蒸し鍋兼用の土鍋で無く、ホーローの二段式で蓋がガラスの物にしました。
  これが大きな派手な箱に入っていますから、これを持ち帰ったわけですから車検のお釣りがこれだなと見せているようなものでした。

 さてこの道具で初蒸し鍋。
  葉菜・根菜・魚の切り身・チョリソーなどで美味しく頂きましたが・・・思いつきで鶏の手羽元を自家製のタレに半日つけておいて蒸したものが(思いつきですから名前など知らない)評判が良かった。
 酒に塩・砂糖がベースの液ですからこれは燻製の時の漬け汁と同じ。
  ここに先日韓国食堂で買って来た甘辛系のトウガラシをやや多めに入れて・・・非常に大雑把な男の料理。
 これが食感・後味ともに良かったらしい。
  らしいと言うのは作成責任者としてはいい加減ですが、鶏が食べられないのですから仕方が無い。
 作る時は他の肉に置き換えて想像しながらです。
  では何故自分が食べないのに作るのか?・・・これは自分でも不思議ですが、マア敢えて言えば「浮世の義理」というか「家族へのご機嫌取り]といったところ。
  結局宿六なんです。
 
 

足踏み状態だと感じる時

2010-03-18 00:03:08 | Weblog
 囲碁は勝負を争うのですから、勝ったり負けたりが普通の状態です。
  それで対局の結果で勝ったからと言って、相手との相対的な関係もある事だし巡り合わせもあるので、強くなったから勝ったのか、運が良くて勝ったのかは囲碁の内容を、プロや相当強い人に見て貰わないと判断出来ない。
 と、いうのは原則論的な話で、私ぐらいの年のアマが目に見えて強くなると言うことはまづ考えられないのですから、勝敗の原因はお互いの調子・御天気・巡り合わせ・ものの弾みだと思って間違いはありません。
 マアそう断定してしまうのはヤヤ寂しいものはありますが。
  全くの初心者クラスの棋力から現在までの間で、確かに棋力はアップはしている・・・
 専門家の棋力から見て何ほどの事は無くても。
 開き直って言えば進歩は進歩、何年かかったにせよ、僅かにせよ進歩はしていたのですから・・・。

 先日ある方のブログで「最近足踏み状態だ」という記述がありました。
  確かにその人のこの3年ほど段級のランクが変わっていない・・・でも「自分の棋力が足踏み状態」だと感じることが意味のある事だと思うのです。(多分この人は私に比べはっきり若い!)
 例えば私などはここ数年あるいは10年かも知れませんが、棋力がアップしたとは思えませんし、もしかしたらダウンしているのか心配しているくらいですが、「停滞状態」だとは思わないのです。
 イヤ、停滞していると言う焦りに近い感覚は無いのです。
  つまり「アップする事を放棄している」感覚です。
 私も若い頃・・・そうですね30代、40代では棋力のアップを気にしていました。
  例えばある時期勝率5割なら少し焦りを感じる、、、負けが込むと棋力が原因だと考える、、、勝っても内容に問題を感じると素直には喜べない、、、。
 要するに、理由は無いにしろある程度は棋力が上がるものだと思っていた・・・そう信じていた。

 話は違いますが、例えば野球の王貞治氏がインタビューで大記録を残したことについて「親から健康な丈夫な体を貰った」「努力を続けてきた」というような事を話します。
 マアその通りでしょうが、半分はそうかな?でもあります。
  要するに「努力すれば夢は叶う」みたいなところと「努力では乗り越えられない」部分がある事は明白なわけですから。
 だからと言って王さんが間違っているとは言いませんが。
  ともかく「努力すればきっとある程度の棋力には達する」と信じている方が良いに決まっている。
 
 だからというわけでもありませんが、私も若い時期、打っていれば初段(碁会所クラスですが)にはなれると思っていた(全く疑うことも無く・・・こういう点は私は楽天家です)。
 20代の後半、再び囲碁を打つようになり、街の囲碁道場に通うようになった頃、当時は多分3級くらいでしたが、初段にはやがてなれると疑い無く信じていた。
 そして、初段に成れた頃には『自分も3段にはなりたい』し『きっとなれる』と感じていた。
  そして3段に認定された頃には、『憧れの5段クラスに成れる日が来るだろうか?』と思っていました。
 今思うとこういう風に考えることが大事な気がします。
  「成れる」と感じている、あるいは目標があるからこそ停滞を感じるのだと思う。
 「停滞」であるからきっと流れ出す日が来るに違いないのですから、必ずアップする日が来ると自分を信じているから、多少の焦りの部分も生じるのです。
 私はこの年で「停滞感」は無い・・・つまりこれ以上のアップは自分に期待できない事がしみ込んでいるのです。
 そう、確かに伸びシロは残っていない・・・哀しいけれど。

紙縒り・レトロな響き

2010-03-17 02:26:45 | Weblog
 今日は本当に久し振りに仕事で紙縒りを使いました。
  紙縒りでなくてはいけない仕事でも無かったのですが、なんとなく紙縒りでやってみ
たかったので使いました。

 紙縒りと言えば一番古い記憶では亡くなった母の作った紙縒りです。
  材料は和紙が普通ですから、習字に使う紙を1,2cmの幅の短冊にして作りました・・・これを最後まで縒らないで、端を2,3cm残して置いてメモを書けるようにしていました。
 ちり紙のような紙でも作りましたが、これは多少強度に問題アリ・・・和菓子を包むような高級和紙の場合は繊維が長くて丈夫なので紙縒りも強いものが出来ました。
 これを見よう見まねで私がやると・・・ボコボコの変な紙の塊になってしまい見栄えも悪いし強度も問題でぶつ切れになってしまう・・・。
 それ以来つい8年前までは自分では作りませんでした。
  昔は紙縒りを使ったくじ引きとか、矢羽根みたいに作って栞代りというものはありましたが、私は出来ないので利用させて戴いていたのみ。

 インターネットで紙縒りを検索すると、和服を畳んで和紙に包んで置く時の紐とか、紙縒りの草鞋とか手芸工作用のような使い方は出ていますが、書類の束をファイルする時の縛り方は出ていません。
  私にとっては紙縒りの作り方も、紙縒りで書類を綴じる方法も難しかったので、この方法の解説が無い事の方が不思議です。
  紙縒りの作り方の説明は見つかりましたが・・・私の経験では見るとやるでは大違いなのですが。
  ともかくロープなどの結び方とか水引の作り方はあっても紙縒りを使っての書類の綴じ方の説明は見つかりません・・・多分無い。
  私には難しかったのですが、あまりに当たり前で説明が無いのか、それともこの種の情報についての需要が無いのか。

 実は今の仕事では、この用途で紙縒りと関係はあるのです(少なくとも、かつては当たり前にやっていたことです)。
  昔役所では新入女子職員はお茶くみ・接客、空いている時間があったら紙縒り作りをするものだったそうです・・・マア、そういう時代もあったと言うことです。
 それで、紙縒りを何に使うのかと言うと、メインは書類を束ねる時の縛り紐なのです。
  麻紐でなくて紙の紐なのです(これが丈夫な紐なのです)。
  私がこの職場に初めて来た時・・・まず先輩に教わったのが紙縒りの使い方で、接するのは母との思いでの時以来でした。
   紙縒りそのものは今では商品化されていますから自分では作りませんが、道具でパンチングした穴で千枚通しを使って形を整え、紙縒りで書類のファイルを作りキングファイルで保管するのです。
 当然今のご時世ですから100枚くらいの紙でも一度で楽に2穴パンチング出来る道具はあるし、ホッチキスだってキングサイズの針もあります・・・しかしほんの7,8年前までは紙縒りが主流でした。
  何故紙縒りか?・・・この理由も時代を感じさせる考え方かもしれません・・・それは。
 ホッチキスですと曲がるように出来ているので保管している過程で針が折れる可能性がある。
 ホッチキスで留めた時に何かの加減で針の先が扱う人の指に当たる事がある。
 ホッチキスの針が長年の使用の中で錆るので、書類が赤く汚れる可能性がある。
  マアこういう理由ですね。
  こじつければエコですが、当時はそういうことは言いません。
 金属の針を使わないで紙縒りで案件ごとに綴じてそれをキングファイルで保管するか、あるいは紙の表紙を付けて保管する・・・
(必要に応じはハサミなどで紙縒りを切ってコピーを取ったり・・・そして新しい紙縒りで縛り直すのです)
 なんと言っても書類の保存年限が”永年”なのです。
  (今扱っている書類での情報の上限が昭和40年代頃でしょうか)
  つまり期限が無いような・・・1000年も保存するかどうか知りませんが少なくとも100年くらいは保存状態が悪くなっては後世の人が困ると言うことでしょう。

 但し、こういう条件で紙縒りを使うように指導されたのですが・・・実はこの時代には既に自分で紙縒りでファイル出来ない人が増えていたのです。
 紙縒りで綴れる人は当然年配者ですからだんだん停年で数が減って行きます。
  それに、紙縒りでのファイルに自信が無い人は近代兵器のホッチキスを利用する。
 この場合は針が錆びるとか折れるとかは無視・・・商品も改良されているのでしょうし何と言っても仕事も早いから、それはそれでメリットはある。
  という事で、この事務所で実際に書類を保管するのに紙縒りを使うのは同僚のOさん一人になってしまい、そのOさんもこの3月末で職場を去ります。
 彼の場合は土地関係の書類が多いので、まさに長い年月の良い状態での保管は必要・・・
  ともかく、まがりなりにも紙縒りでファイルを作るの可能性があるのは、4月から私一人になってしまうようです。
 マア、紙縒りでなくては絶対にいけないと言うわけではないので、金属針で差し支えは無いでしょうが・・・でも少し寂しいです。
 感傷だけでなく、紙で縛ると言う文化みたいなものがだんだん消えて行く感じ。
  ささやか事ですが、そういう文化みたいなものがひっそりと消えて行く現場の目撃者になっている。
 これは単なる感傷に過ぎないのかも知れませんが、見直される日はあるのだろうか?。