なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

久々、快心!?

2008-09-30 18:54:22 | Weblog
 こういう勝ち方を「快心の勝利」と言う、あるいはそう感じることに疑問を感じながら話しています。
 ともかく、昨夜の勝利は所謂、まさに快心の勝利でした。
 普段ですと、序盤に稼ぎまわりますから、相手は厚みで勝負してくることになるので、後半に薄みを突かれてヒーヒー言うことになります。
 それはあたかも追いかけられるこそドロが、担いだ荷物を少しずつ投げ捨てながら、何とか身の安全を図るのに似ています。
 追いかけっこと言うよりドロボーゲームで、お宝を確保して逃げ切れば勝ち。
 マラソンに例えるなら序盤で飛び出した貯金で、最後に追い上げられても胸一つ前でゴールのテープを切れば良いという感じす。
 最後にこの「胸一つ」が問題なわけで、どんなにカッコ悪くても1cmでも前でゴールできるかどうかが問題。

 見ようによってはみっともないような打ち方であるから、観戦者にしたら「弱い・恥ずかしい」みたいに見えるはず。
 ですから仮に1目半残したとして、aizomechouの勝ちは運が良かったしか見えない。
 下手から見たら、「奴は強いから上にいるのではなくて、偶々運良く勝てるから上にいるだけ」と映る。
 マアその通りですが。
  それに、大向こうを唸らせるような鮮やかな勝ち方で「どうだ」と見得を切るような趣味はないし、逆によろよろしながらもギリギリ粘り切るようなスリルがたまらないとも思っている。
 チョッと脱線しますが、マラソンでも競馬でも(一緒にしても良いのか?)追い込みは嫌いです。
 先行か逃げが好き。
 昔ならストロングエイト、ホワイトフォンテン・・・脱線しました。

 囲碁で勝つときは1目半とか、2目半とか・・・ところが、負ける時は中押しで負けます。
 時には微差の碁を最後まで打って数えて負けもありますが、ともかく勝つときは微差で、負ける時は「降参」みたいな負け方が多い。
 これを盤側から見るとやっとこ勝っても、相手が勝つときは鮮やかに勝つ・・・
 これで「弱い」イメージが定着する。
 確かに「目碁」的には損をするでしょうが、普通の囲碁では「立派に?」5割
   
 昨日は心ならずもいつもの碁とは違う戦いになってしまいました。
 昨日の相手は過去に10局くらい打っているはずですから、私の特徴を知っているのでしょう・・・多分それが裏目に・・・
 私の白番なので、取り敢えずは相手に合わせる感じ
 お互い2連星で、黒さんが小ケイマでかかってきたので、白1間ハサミ、黒3三
 でこの碁の骨格が決まったようです。
 くろの実利先行で白の外勢・・・いつもの逆。
 目がはっきりしない黒を攻めあげて、白の壁にぶつける作戦が見事に決まって、黒は白の2子を取っているのですが、もう1眼が出来ない。
 これは攻め方のテキストに出てきそうな典型的なスタイル。
 周辺の黒に圧力をかけながら中央の白を追い込む・・・

 きっと相手の人は「押し相撲は押し相撲に弱い」=「自分の得意技が最大の弱点」的に私の得意パターンを採用したのでしょう。
 確かに出だしは嫌なムードはあった・・・
 でもどこかで相手はやりそこなったか、やりすぎたと思われる。
 競馬で言えば「スローの逃げ」=「おいでおいでの逃げ」ではなくて「一かバチの逃げ」みたいに。
 あるいはなれないことをやったので破綻があったのか。
 サッカーなどでは良くあるのですが、相手の長所を消すことが出来ても、自分の長所が消えてしまい結局は振り出しで・・・いやなれないことをやっている欠点が出たり。
 マア、自分の長所を犠牲にして相手の良いところを消して尚且つ勝てるなら、多分のランクが違いますよね。

 ともあれ私らしくない勝ち方・・・こういう戦い方もできる?・・・こういうときに限ってギャラリーがいない!
 尤も私にとっての快心の勝利は、微差を保って2目半くらい残す・・・2目半あれば多少余裕があるし・・・こっちの方が「快心」「会心」。

逆水前寺?

2008-09-29 18:11:31 | Weblog
 いや、熊本の有名な公園の話ではありませんで、囲碁の話です。
 最近の成績の悪さを嘆いて、まるで「逆水前寺清子になってしまった」と、ふと思ったのです。
 ネットで調べると彼女は1945年生まれだから私の姉と同じ年・終戦の年に生まれて、1964年にデビューしたとある。
 私が16才の時にデビューしたけれど、丁度ベンチャーズとかビートルズのハシリの頃ではないだろうか・・・ともかく「襤褸は着てても心の錦・・・」ナンテ言われてもピンとこない年頃だから、何でヒットしたのか分かりませんでした。
 そして365歩のマーチも・・・但しこれはやたら勢いが良い感じで、繰り返し聞かされて耳に残る感じ。
 パチンコ屋でも随分流れていた気がする。
 昔は春日八郎の「お富さん」がパチンコやさんでは一番多かったはずですが、365歩も多かったでしょうね。
 勢い良くパチンコ玉を打ち込む為に・・・

 さて、フト思ったのはそういう勢いでは無く・・・いや半分は「負」の勢い。
 歌の文句では「人生はワンツーパンチ、三歩進んで二歩下がる・・・」でしたっけ・・・その通り行けばたいへん目出度い限り。
 サラリーマン応援歌どころか「出世歌」です。
  囲碁で歌の文句どおりに行けば、勝率6割!!・・・夢物語です。
 私などここ3年半くらいのトータルで1200局くらい打って、僅かに9勝の勝ち越し・・・
 率に直せば限りなく5割に近い、今後も漸近線を描くであろうと思われる。
  
 短期的に点数が動きまして
 ついこの間調子が良くて自己MAX間近まで行ったのですが、あえなく急降下です、あっという間に短期間ですが6つの負け越し。
 マア6連敗ではないものの、1勝3敗いや順番として3敗1勝を3回繰り返したのです。
 その間のトータル3勝9敗勝率.250
  これはいくら短期的な期間限定だとしても、相当落ち込む事態です。
 それでも「じーんせいは・・・汗かきベソかき歩こうよ」という調子でドンドン行きそう・・・
 落ち込んでも、めげない性格!?
 いやザルの鏡でしょうか。
  365歩のマーチのテンポで1歩進んで3歩下がる、まるで逆水前寺
  ともかく私は平均1日1局だから年間で365局のマーチではある。
 3歩進んで2歩後退などは望むべくも無いが、せめて「10歩進んで9歩下がる」ぺーすなら赤飯ものですね。
 私にとっては「小さいようで大きな望み」です。
   

テンコール

2008-09-28 16:53:16 | Weblog
 どこかへ用事で電話をかける時、もしかしたら留守かも知れないという可能性もあるとして、、、呼び出し音を数える習慣があります。
 固定電話の場合、5,6回コールしてから音調が変わる場合は、別の電話か携帯に転送しているでしょう。
 10回くらいコールすると、「今、近くに居りません・・・ピーと鳴ったら留守番電話に・・・」などと音声案内が流れて、留守録に入れようか、それとも後でかけなおそうか迷ったりします。
 たまに、留守録のセットがしていない場合、さてどのくらい待つものなんでしょうか?
 マナーとかではなくて、習慣としての話です。
 私の場合は何となく10回くらいでしょう。
 別に決めではありませんが、数えていてきりが良いからと、留守録案内が始動し始める寸前くらい。
 留守録機能がスタートすると、録音しようかどうか迷いますから、迷う前に受話器を置く感じです。
 
 さて土曜日の話です。
 明け方、4時に目を醒ましてしまい・・・休みの日ほど用もないのに元気に目を醒ます習慣は子供の時からです・・・例によってパソコンをスリープから起こして、ネット碁に急行。
 流石、この時間でも打っている人はいるのです(国内向けのネットですが)。
 目覚め直後ですから、対局は危険ですから感染オンリー。
 観戦の基準は、できるだけ自分と点数の近い人通しの対局、あるいはプロのアマ先くらいの対局。
 但し、この時間はプロがアマ相手に打っている事は無いですが。
 そしてもう一つの条件は出来るだけ手数が若いもの・・・対局前・序盤・中盤・終盤・対局終了の5種類の表示では、中盤までのものです。
 できるだけ手数が少ないところからの方が、観戦していて一緒に考え易いですからそういう基準になります。

 さて、たまたま二つの条件に合った対局があったので喜んで観戦。
 両対局者とも対局したことがあるので、ネット入室して観戦者の名前が出れば、「ああ、あいつが見ている」と分かるはずです。
 そして、、、いつの間にか寝てしまったらしい(いつものことではあるが)から、「また、あいつは寝ているらしい」と思われたに違いない。
 事実寝ていたのです・・・対局終了後対局者が退室したのに観戦者が何時までも対局室に残っているのですから、一人で居残り検討より、寝ている確率が高いでしょう。
  次に目が醒めたのは9時半
 玄関に女房殿のスリッパが揃えて置いてある・・・どうやらウォーキングに行ったらしいと早合点。
 例の「朝ですよ」と「部屋の掃除です」と、粗大ゴミ扱いされなくてやれやれと言う感じでまた寝てしまい・・・次に起きたのが12時を回っていた。
 半ば夢うつつで耳元でラウドスピーカーのアジ演説を聞いている感覚。
 波のように大きくなりやや小さくなり、何を言っているのかは定かではないのですが何やら帝国陸軍調。
 私は戦後の生まれですから、そう感じることは不思議です。
 これは多分映画などの記憶で、当時のアジ演説の調子を感覚として記憶しているのでしょう。
 しかし、学生時代の昭和40年代のアジ演説の調子に似ていないことも無いなあと、うとうとしながら考えたのですから、もしかしたら両者は似ているのかしら?
 主張は右と左でも、アジという事が同じなので調子が似てくるのだろうか・・・
 ともかく、完全に目が醒めた。
 あのアジ演説だと思った音は、マンションの壁を高圧水流で洗う音だったらしい。
  そして家の電話機が鳴っている。
 ベッドで寝ている状態から、起き上がって隣の部屋に行くのが面倒くさい。
 しかも、寝起きの不機嫌な声で「もしもし」という声をどこかの誰かに聞かせる気がしない・・・。
 従ってここは「しかと」
 何故か電話のコール音をなり初めから数えている・・・そして10回で止まった。
 緊急な用事なら10回くらいで止めないだろう。
 一旦切ってから、すぐにまたかけるに違いない。
  でもその後電話が鳴らなかったところをみると、どうやら電話セールスだったような気がする。
 電話のコールの仕事で、留守かどうかの判断を10回にしているに違いない。

 さて、目が醒めて頭も醒めて思い出した。
 今日は女房殿が勤める学校の運動会の日だった!
 だからいくら待っていても昼ごはんは出てこないから自分で何とかしなくてはいけない。

「あっと言ったがこの世の・・・」

2008-09-27 16:41:54 | Weblog
 題の続きは「この世の別れ」となっていて、時代劇などでの闇打ちのシーン、信じている相手に裏切られるシーンでしょうか。
全く予期していない重大な事故に巻き込まれた場合は「アッ!」と言う間があるかどうか・・・
 ともかく囲碁では「全く心配していないところを突然切られた場合」、それは読み違いの場合もあるし、相手がその上を行った読みで、密かにタイミングを計っていた場合などに炸裂して「アッと言ったがこの世の別れ」などと大見得を切られて、相手がいい気分になる場面です。
 あるいは、完璧な見落としで打った瞬間、相手がニンマリして・・・
 アマ・ザルではこういうシーンは珍しくなくて、碁盤を並べて打っている碁会所のようなところでは日に何度も出現しそうな場面です。
 尤も、ザル碁ですから切られたらそのまんま地獄参りになるとは限らなくて、斬った方の悪徳侍が地獄に行ったりするから、まことに筋書きの無いドラマが展開されるわけです。

 さて最近打った瞬間に「アッ!」と言いたくなるような場面が多くて困っています。
 勿論「アッ!」というのは相手ではなくて、打ったほうの私だからだらしが無い
 マア、実際には声には出しませんが(もっとも声を出したところでネットですから相手には届かないはずですが・・・)
 自分では完璧な悪手では無いと思うのですが・・・
 例えば、割合考えた末Aと言う手を打ったとします。
 それは、そこまでの流れから言って打ちたくなる手であり、気合から言っても他には行きにくい状況・・・では有るが一旦自分の守備を固めるBという手も捨てがたい。
 あるいはCも地の大きさでは馬鹿にならない・・・
 そういうことを考えた上でのAなのに、それでも打った瞬間『もしかしたらこれは間違いではないか?』という疑念に支配される。
 打ってから悩むのなら、何故その時点で打つのかが問題ではある、それでも
 『もし、相手がAに手抜きしてBの方に来たら・・・』
 『Bもそれなりに価値のある手で、もしかしたらBに対する折衝で、最初に打ったAがぼかされたりすると殆ど半手パスになりはしないか?』
 どうも、悲観論者になってしまいます。
 相手が打つまでの間は、無信心の私が神様仏様にすがりたくなるような気持ち
  ところがAに相手が受けてくれて、当方の読みどおりだとしても形勢がよくなるかどうかは分からないのが素人の面白さ。
 逆に、こちらに手に相手が最強らしく打った手が最善とは限らないから世の中何が起こるかわからない見本みたいなものです。

 それでも、最近考えて打ったはずなのに打った瞬間後悔に近い気になったりする。
 これは一体なんでしょうね。
  もしかしたら、時計シンドローム?=つまり、「あれこれ考えることと」「一定の時間・あるいは時間に制約のあるリズムで打つ事」が別々に存在していて、必ずしも結論に達してから打つのではなくて、ある程度の時間内で打つ習慣。
 だから、「決定後」に打っていないので、打った後も迷いが続くみたいな
 素人レベルで「これくらい考えれば、マア良いでしょう」というのは無いし、考えればよい手が打てるという考え方そのものも真理ではないでしょうから恐いものです。
 考えても「下手な考え」の見本だってあるし、考えなくてもまぐれで最善手が思い浮かぶ時もあるに違いない・・・
 しかし「確率的」に考えなくては酷い手の連発でどうなっていくか分からないし、下手な考えでも考えて打てば崩壊しないで打てるのかも知れない。
 となると、打った瞬間「アッ」は減っていかなくてはいけないのですが、当分これからも続きそうな気配がします。
 
 

そろそろ言い伝え・伝説を創らなくては・・・

2008-09-26 18:12:23 | Weblog
 うちは”古い”のだそうです。
 ご先祖様が私が育った土地に流れてきて、、、その時かその後かは知らないけれど神社の仕事について500年になるとか・・・
 これは、そういう言い伝えがあるということで、郷土史料などの裏付けがあるわけではない。
 そこまで古い昔のことを知っている人はいないわけで、言って見れば「言ったもん勝ち」みたいなところがある。
 但し、「勝」とは言っても、具体的に何か良い事があるかというと、決してそういうことは無いし、多少は羨ましがられる事さえない。
 大体、江戸時代にはインチキな系図が流行ったわけですし、、、その時代にはそれも多少は意味があることだったのでしょうが、今のご時世では「古い」と言っても「アッ、ソッ」なら良い方で、「他に何にも無いものだから、見栄を張って馬鹿みたい」と思われるのがせいぜいです。
 
 それはそうです、今を生きている人は、誰であれ何らかのコースで人類誕生まで遡れるはずですから、「古い」事を自慢するのはナンセンスなわけです。
 でも、そういうことを承知の上で、子ども時代に”ご先祖様”のことを思ったことがあります。
 先祖のお墓といっても、お寺から墓地を借りているだけですが、その中に古くて小さなお墓がありました。
 彫られた年号を見ると赤穂浪士が討ち入りをした年の2年後の12月
 20cm角で高さ40cmくらいでしょう、ウッカリすると無縁の方に入れられそうなくらい地味で、小さい。
 でも墓碑銘に「○○(同じ苗字)織女」とあった。
 ご先祖の記録が記されたノートは無いので、全くの想像でしかない・・・
 名前から言ってやはり女性の墓だろうか?
 墓の大きさからいっても家の主と言う感じはないし、もしかしたら成年に達する前に無くなった女性だろうか?
 ともあれ、500年前の祖先と言う名前だけの人より、こちらの貧弱なお墓の方がご先祖様と言う感じはします。

 私の祖父は大酒のみで、家を飲みつぶしたことが一族の伝説になっていますが、これは反面教師的な言い伝え+その後の祖母と長男・次男(私の父)の苦難の物語として伝わっている。
 そして、祖父が手放した土地に小学校が立って、後に叔父がそこの教師になって赴任したこと、、、私らは皆その小学校を卒業したこと。
 今はその土地を離れているけれど、どこかでそこと繋がっているような。
 そういえば、その土地に家があった頃、「天狗伝説」が有ったらしい。
 町を見下ろす1000mほどの山から・・・(ご先祖様たちの修行の山だったらしいけれど)ある時大音響とともに何かが家にぶつかったらしい。
 柱には鋭い爪あとがあるから、これはきっと山に棲む天狗の仕業だと言うことになったらしい・・・
 これが郷土の共有する話なら、日本昔話になるのですが、残念ながら、家の言い伝えに過ぎない、、、しかもその家も人手に渡り、消滅している。
 
 ともあれ私が”知っている”
 しかし、その後は誰か知っている人が残るだろうか?
 マア言い伝える価値があるかどうかは多いに疑問ではあるけれど。
 更に、私自身の記憶は誰が残してくれるだろうか?
 有名でもないし、地位もないし金も無い、ただひたすら囲碁道楽に励んだ人生だったけれど。

目ざめ、悪ゥー

2008-09-25 18:23:36 | Weblog
 今朝はかなり長い夢を見ていたような気がする。
 夢と言うものはほんの一瞬・数秒でも一生分くらいの夢を見るものだそうですから「長い夢」が長い物語なのか、長い時間なのかは定かではありません。
 邯鄲の夢では、壮大な時代ドラマ仕立てでの栄枯盛衰が「一炊の時間」だそうですし、「走馬灯のごとく・・・」は最後の瞬間に全てを回想するというイメージですから、数秒で一生分のデータを整理し、メイン画像で表す超高速パソコンみたいです。
 そう考えると、脳の中にデータを処理するする部分と、それを受け取ってイメージ化するところがあるのだろうか?
 若しそうなら、受け取る方も高性能でなくてはならないから、自分もなかなかのものかも!?
 でも、実際は、本当に全てではなくて、メインになる部分のダイジェスト版に違いない・・・大幅にディテイルはカットしてあり・・・いやそれよりももっと詐欺っぽく「見たような気にさせている」だけかも知れません。
 一生分の長さの追体験をしたような気分になる・・・
 見ていないかもしれないけれど、見たような気分になる?。
 逆に、既に経験済みのことなどはまた見たことになるかもしれません。
  そう思えるかどうかの問題かも。
  そして、夢の中で見た・やった事の具体性が抜け落ちて、その時の気分だけが残ったりします。
 
 今朝の夢は、自分の経験の追体験ではなく、なにやらフィクションぽいが「集団のリーダー」で苦労している夢。
 どういう集団か、何に苦労しているのかは目が醒めた時点ですっかり記憶から抜け落ちてしまったのに、その時の気分だけが残っている。
 こういう時、以外に苦痛を感じるのです。
 いい夢ではなかったはずなんだけれど、「何に向かって頑張って、どんな苦労をしていたのか」思い出せないことが苦痛になる。
 これが不思議なんですが、悪夢から醒めたことが救いにはならない・・・悪夢であっても内容を失う方が苦痛ですから、目が醒めてから暫くの間イヤな気分が続くのです。

 ブラックジョーク的に考えると、私に関して、夢だと思っていることが現実で、現の方が実は夢だったり、、、実は二つの世界を行ったり来たりしているにすぎない・・・。
 ともかく女房殿の「朝ですよ」で夢から醒め、頭の中には「直前まで夢を見ていた」という記憶と「その夢は何かよく分からない」という曖昧さと「不快感」が残ったのです。
 不快感は、「夢の内容」によるのか「夢を思い出せない」事によるのか・・・
  不快感が先になって、起こされても返事をしない困ったジイサマです。
 多分寝起きの悪い性格・体質だと思われているでしょうが、実は性格が悪いだけでもないところもあるのです(バアサマ!)。
 さて、瞬間に夢を見ることが出来るとしたら「朝ですよ」の瞬間に見たのか?、それとも夢を見ている状態で「朝ですよ」と起こされたのだろうか?。
 
 
 

喧嘩した記憶が無い

2008-09-24 16:27:37 | Weblog
 ここ数日頭の中のキーワードは「囲碁と喧嘩」になっています。
 落語・講談・浪曲などから見ると囲碁・将棋は格好のネタになっています。
 落語に関して言うと、「笠碁」「碁ドロ」などという話があります。
 例えば「お客と旦那が対局中にタバコを吸うので畳に焼け焦げを作るので一計を案じた女中と奥さんが赤く塗った消し炭をタバコ盆においておく話」、
 「碁敵と喧嘩をして数日相手が来ないので寂しい場面」=「碁敵はにくさもにくし懐かしき」
 将棋の方では身分のあるサムライが将棋を指していて、些細な事から(待った、待たない?)喧嘩になり刃傷事件・・・
 いかにもありそうなことだし、きっと実際にも似たようなことがあったのでしょう。
 囲碁・将棋を好む人の心理が描かれているし・・・逆に周囲からも囲碁・将棋を好きな人はきっとそういう性格・心の動きをする人だろうと思われているのでしょう。

 そういう意味では私も「好む人」の一人であるから、似たような経験があるかというと・・・記憶に無い。
 記憶が薄れたのでなくて、経験として無いのです。
  一般的に「ありそうなこと」と思えるのですが、自分については「無い」
 但し、言葉の行き違いなどで口論になったり、何か気まずい事が有ったらしく、ある碁会所に顔を出さなくなり別の碁会所に顔を出すようになったような例は見てきています。
 逆に、相当言いたい放題の発言をする人がいて、よく喧嘩にならないものだと感心するやらハラハラするような経験もあります。
 ですから、囲碁・将棋に喧嘩は付き物的に考えるのではなく、人と人が接触する場面では時には喧嘩と言うこともあり得るという事なんでしょう。
 だからこれはコミュニティでも碁会所でも起こりうると同時に、囲碁将棋とは関係の無い駅のプラットホームだって、ウォーキング中でも、自転車で買い物中でもあり得るし、何かの買い物の行列だって起こりうる。

 だから、あえて「人による」と思いたい。
 では、私は「人によらない部類」なのかというと・・・少なくとも大学に入るために故郷と離れて以来喧嘩というものに縁が無い。
 人より多少は体が大きく、仮に喧嘩をすれば強そうに見えるかもしれないというのが「安全保障?」になっているのか、あるいは故郷の悪口ではないが、特殊業の多い土地で育ったので「恐がらない」事が身についているためか・・・。
 でも、大人の世界ですからそういう要素は少ないはずです。
 少なくとも「イジメ易いタイプ」には見えないでしょうね。
  それでも、腕力の世界ではなくても、気の強い人が気の強さで押し通していくとか、自分の地位とか職を後ろ盾にものを言うような所は大人の世界にはあるような気がします。
 私の場合はそういうパワーに抵抗したくなる気持ちが抑えがたい時もある性格。
 マアそれでもここまで火花を散らして、火種を燃え上がらせたことは無い。
  囲碁に関しては、トラブルが勝った負けたに関して始まるとしたら、自分自身については「負けたのは自分の責任」というのがベースにある以上、この件で他人とは喧嘩にならないと思っている。
 マア最近はネットのチーターとかリアルでもズルをする人もいるらしくて、勝敗は全て自分の責任と澄ましていられないこともあるらしいが、でも基本はそれだから他人と争う気にならない。
 「待った」「二度打ち」「はがし」などについては、ルール・マナーを遵守すれば喧嘩にはならないはず。
 仮に自分の場合だけ融通を利かせてもらって、他人のを認めなければそれは喧嘩になるでしょうね・・・そういうことなら囲碁・将棋だけでなくいろんな生活の局面でトラブルを起こすでしょう。

隣の喧嘩

2008-09-23 18:30:56 | Weblog
 冗談では他所のうちの喧嘩と対岸の火事は大きいほど面白いなんて無責任なことを言いますが、これが関係者ともなるととてもそんなことを言っていられません。 先日「碁盤がない」で書きましたが、これも施設を管理する立場からすれば究極の予防措置みたいなものですね。
 道路から躓く危険性がある小石は排除する、池の周りには人が絶対入れないように柵をめぐらす、料理や鉛筆削りで怪我をしないよう刃物を持たせない、、、転ばぬさきの杖と言いますか、ことなかれ主義と言いますか。
 施設に囲碁・将棋盤を置かねばならないと言う規則はないのだから火種になる可能性があるものは排除するのだろう。
 そういえば、昔公園のゲートボールでもトラブルがあったような記憶がある。
 ともかく囲碁・将棋は喧嘩の種になるので定住型の高齢者施設では囲碁・将棋盤を置いてないところが多いそうです。

 ふと気になったのは、ここで「定住型」と「高齢者」がキーワードなのかな?と言うことです。
 例えば、私がたまに顔を出すコミュニティセンターの囲碁・将棋クラブの平均年齢は所謂老人施設で暮らす人よりはかなり若いと思う。
  年齢制限はないから小学生から高齢者までOKなんですが、実際は現役世代は少なくてリタイア組みが多いようで・・・マアご隠居さんがおおぜいいる感じ。
 ここは、多分自宅に住んでいて遊びに通ってくる人のクラブで公共機関の建物の一室を借りている。
 そして、囲碁、将棋はそれぞれ自主運営で部屋は共同で自主管理。
 要するに、ここの部屋に囲碁・将棋をやりたくて集まってくると言う形です。
 
 ところが近所にここと似たような施設があります。
  はっきりとは知らないのですが、そこも公共施設のようで、運営そのものも公的な機関が関与していると思える。
 コミュニティセンターの隣の敷地にある大きな建物の一部(多分1,2階)が「いきいきクラブ」とか言う施設らしくて、ここは60才以上が利用する施設。
 囲碁将棋だけでなく、ダンスとか他にもあるらしい。
  ところで、私も60才以前の頃、その施設に行ってみないかと誘われたことがある。
 「60才未満だから遠慮します」とは答えたが、誘ってくれた人の口ぶりでは「そんなに厳格に守られていないですよ」でした。
 では、何故隣のクラブに誘ってくれたのか?
 (その人はどちらの施設も利用している人です)
  想像の部分が多いのですが・・・
 棋力的には全体的に「いきいき」の方が下らしい・・・それはマア平均年令的なこともあるし、元々コミュニティの方がいろんな人が来ているから仕方が無い。
 上下は良い悪いでは無い。
 でも、ある程度強い人とが固定化された感じで、「強い」ということから「威張る」という弊害もあるらしい。
 いや、それも「威張られる」人の感じ方の問題もあるかもしれない。
 ともかく、「井の中の蛙」「鳥なき里の蝙蝠」から、新しい風みたいな役割を期待されたらしい。
 
 勝負事のクラブでは「勝ちたい」「負けたくない」というぶつかり合いの他に、集団の中で「強い」「威張る」という形もある。
 そういえば、コミュニティの将棋クラブ(囲碁・将棋の境目は部屋の真ん中にある衝立だけです)では諍い事が多い。
 流石に殴り合いまでは無いけれど、怒鳴りあいは珍しくはない。
 あんなにトラブルがあるのに将棋クラブが消滅しないのが不思議なくらいなんですが・・・続いている。
 もっとも、以前通って来ていた人が来なくなったり、衝立のこちら側(囲碁)に鞍替えしたりはある。
 さて喧嘩の種は「助言」とかマナーに関することのようですが、ここでの将棋の場合は強い人が威張ると言うか歯に衣を着せないで言いたいことを言うところにもあるらしい。
 こういうところは、「助言」「指導」「感想」「威張る」、、、なかなかく別がつかないところもあって難しいから、日頃の態度と言うか人柄と言うか、、、ともかく波長の合わない人とはトラブルになり易いらしい。
 それに、勝った人が思い切り何かを言う傾向があるらしく、、、こういう発言の中には納得できることもあるかもしれないが、どこかに『あっちだって、素人のくせに』という気持ちもあるでしょう。
 だから、「将棋の勝負に関すること」と「人にものを言う言い方」という論点のかみ合わないところでの喧嘩になったりするようです。
 結局はお互いに相手の顔を見たくないと思うのですね。
 
 ところで将棋の場合はハンデ戦がやりにくいと言う事もあるのでしょうか。
 見ていると、ここでは大駒落としの対局は勿論、片香の将棋も見たことが無い。
 つまり、オール平手先。
 だから、勝敗としてはかなり偏るはずで、似たようなメンバーが長い間指せば、お互いにランキングを決めているような感じでA>B>Cみたいな序列が出来て、勝敗の優位性だけでなくものを言う時の物腰に反映したり。
 将棋の持つ「王を捕獲する」という勝負の激しさみたいなものも原因だろうか?
 ともあれ、どんなに激しい戦いをしても、勝敗がつけばお互いに仲が良い友人と言うのが理想なのだが、なかなかそうはいかない場合もある。
 それでも、毎日おおぜいの人が顔を出すのはどうしたことか?
  ただで遊べるところがそうは無いというのも理由でしょうが、喧嘩はともかく人がいるところには刺激もあるのでしょうし。
  さて定住型となると、シコリの出来た人と顔をあわせる可能性が高くなる・・・管理する方の人が先回りしている?。
 もっとも、隣の将棋クラブのトラブルに関与する人は同じ人みたいです。
  つまり、定住型であろうと、通い型であろうと「メーカー」が問題だと思うのです。
 
 それでも囲碁・将棋は脳を刺激するはずです。
 ゲートボールも体を動かして手足を動かし、作戦を考える、、、
  人と接する刺激自体も大事なはず。
  トラブルの方だけを見れば困ったことですが、良い方を見れば大事なこと
 原因者を排除するという事以外の解決法が大事ですね。
  定住型では世話をする人が手をかけられるか、コミュニティなどでは自主的なマナーについての気持ちに鍵があるような気はするのですが・・・
  

 

図書館で

2008-09-22 17:46:06 | Weblog
 図書館に行きまして・・・残念なことに、まだ読んでいない囲碁の本が無い。
囲碁関係の本と言う本は全て読んだわけではないのです・・・ここの図書館の囲碁関係の本が少ないだけでしょうね。
  それに入門書の類、定石・手筋図鑑的な本は殆ど手にしたことはありません。
 加えて、古碁の棋士別の「日本囲碁大系」は約三分の二は未読で残っている。
 前者の場合は読む気力が無い、後者はいつかは読もうと思っているのですが、何となく見送っている。
 これについては停年で完全にリタイアした後に読もうとは思っているのだが、実際はこういう予定が一番危ない感じだとは思っている。
 例えば何かの用事を「暇になったらやる」と言うのは、半分はやる気が無い証だったりして・・・昔の外交官言葉とかで「きっと」→「もしかしたら」、「出来るだけ」→「殆どやる気は無い」と聞かなくてはいけないと書いてある本がありましたが、まさに自分が自分に外交官言葉で言い訳をしているような気分。
 まさに囲碁に関しては、「定年後にヒマになったらやりたい」と言っている人が果たして本当にやるのかどうか疑っているのですから・・・
 
 ともかく2回にわたって借りた「勝負師」たちの対談集2冊は読み終わって返してしまいましたので、囲碁・将棋の本棚の前に立ってため息状態です。
 将棋の先崎さんの本は1冊しか本棚に残っていない・・・その「右回り・・・」は読んでしまったし。
 羽生さんに関する本は何人かの人が書いているようですが、羽生さんが売り出し中に書かれたような感じなので今読みたいという気がしない。
 囲碁の方では呉清源師の本が数冊あるが、それは殆ど読んでいるはず・・・
  藤沢、坂田、高川、、、大体「偉人伝」的なものは読んで知っているような、、、
 では、自分に「どんな本が読みたいのか」というと。
 概ね3つに分けられると思う。
 一つは記録としての棋譜
  古いもの・最近のものの棋譜、国内戦・国際戦の棋譜、、、こういう棋譜の簡単な解説版、あるいは詳細な解説版
 二つ目は、囲碁の基本的なテクニック的なテキスト、及び最新の研究成果と実戦例など。
 ここまでは割合に出版物があります。
 寧ろ手を変え品を変えという印象がするほど、繰り返し出てくる感じもしますので、全て買うかどうかも問題です。
 ですから、この部分は図書館が頼りなんです。
 三つ目は。
 碁を打つ人の世界、棋士の考え方とか日常、交友など、囲碁界の歴史・・・
  それは必ずしもプロでなくても良いから、例えば「席亭日記」みたいなものとか、囲碁関係、碁会所を舞台にしたミステリーとか。
 プロ棋士の日常生活をベースにした随筆とか・・・ 
  特に裏話が聞きたいと言うことではなく、囲碁と囲碁を打つ人、その世界をトータルで知りたいという感じです。
 それで、この三番目が皆無ではないにしても、かなり手薄です。
  そういう企画は商業ベースに乗らないのですかね。
  私には手落ち気味に感じますが。

「盤がない」を読んで

2008-09-21 15:41:58 | Weblog
 NHK囲碁講座で私のお気に入りコラム「桂馬の両アタリ」。
 著者はご存知、将棋の先崎学棋士で、職業が将棋棋士で趣味が将棋・・・奥さんがプロの囲碁棋士です。
 雑誌を買ったらまず一番にみるのがこの欄です。
 出かけた時に買うわけで、病院の診察待ちとか、バスの停留所でまず初めに読むところとしては最適なページです。
 定石とか実戦図面が無い1ページ読みきりですから、立って読む場合もベンチで読む場合も都合が良いのです。
 それに時々は解説などでTVでお顔を拝見しているので、何処と無く親しみがある・・・実際に出会ったら「おひさしぶりです」などと挨拶しそう。
 
 ところで今月号のエッセイは「盤が無い」
 全国の介護施設とか老人のための施設で将棋・碁盤を置いてあるところが少ないのだとか・・・
 囲碁・将棋と言えば社会的には老人の趣味みたいに認知されているところがあるのに(実態とは関係なく)、その老人の施設に盤が置いていないなんて、なんとも皮肉な感じがします。
 実際にはどのくらいの確率でそうなのかは知りませんが、なんとなく分かるような気がします。
 * 一度全国の全ての施設で調査をしたら良いと思います
  ① 将棋盤・碁盤のどちらもある、どちらかがある場合はどちらがあるか。
  ② どちらも置いていない場合は、その理由
  ③ 囲碁・将棋以外の室内ゲームがある場合
  
 世の中の老人の率が高くなってきていて、私もその仲間入りの年令ですからア少し興味がある事柄です。
 上にあげた②・理由について、今回のエッセイでは「居住型の施設には殆どない、、、第一の理由は喧嘩になるから、、、」
 成る程、『さもありなん』と言う気もするけれど、まさか殴りあったり刃傷沙汰になったりするのだろうか?。
 そこのところがどうにも不可解ですね。
 居住型の施設では、毎日顔を合せる人の間に喧嘩の元になるものを置いておきたくないという考え方ですね。
 老人たちがそこまで元気なら結構、とか、それも刺激のうちで良いではないですかなどと言うと、部外者の無責任な発言になりそうですね。
 でも、勝負事ってそんなにトラブルの元になるのでしょうか?

 いや、トラブルの現場を見たことがあるので、、、
 例えばコミュニティの囲碁・将棋クラブで、将棋の方は時に・・・ある。
  理由はよく分からないけれど、大勢でわいわいやっていて
 見物人が口を出したとか、、、勝ったほうが負けた人を見下した態度・発言だったという事が原因だったようです。
 それで、将棋仲間を外れて囲碁に転向した人は一人いた・・・
 大声を出しての諍い・掴みかからんばかりのトラブルはかなり見苦しい感じはするけれど、それでコミュニティの囲碁将棋ルームが閉鎖されたら困りますね。
 コミュニティの隣の建物には「お元気クラブ」のような部屋があって、60才を過ぎるとそこで遊べるらしい・・・囲碁・将棋・ダンスなど。
 居住型と通いとの差なんでしょうか。
 でも、人が集まれば何やるにしても「楽しさ」も「トラブル」も付き物だと思うのですが。
 喧嘩・トラブルが良いことだとは思いませんが、でも
 「喉を詰まらせてはいけないから餅は食べさせない」
 「転ぶと危険だから外出させない」「初めから車椅子を使う」
   オーバーに言えば「失敗するといけないからチャレンジしない」みたいな、危険は無くても刺激のない生活・・・恐ろしい。

毎度驚きのQさん

2008-09-19 18:41:06 | Weblog
 リビングから自分の部屋に引き上げたのが夜9時半頃でしょうか、さして広くも無いマンションですが、老夫婦二人には充分すぎる。
 TV放送もつまらないものが多いと、夫婦の会話は特に無く・・・部屋の自分の世界に戻るしかないという感じです。
 「○○オタク」になる素質は充分にあります。
 この年で寂しいことに・・・という感じもしますが、考えて見ればこれは中学・高校時代から始まっている。
 中2の時両親が家を建てたのですが、兄夫婦の部屋、姉二人で二部屋・・・私だけ自分の部屋が無い!
 腹を立てた私は実力行使して、応接室用の玄関脇の小部屋を占拠。
  夜10時頃から朝まで、そこで本を読んでいたものです。
 多少の違いは有るけれど、なんとなく今と似ている。

 さて部屋に引き上げて、ベッドのゴロっとなるのと同時にパソコンのスイッチを入れる。
 パソコンが立ち上がるまでは図書館で借りた本をめくり、パソコンの方はまずJリーグの贔屓チームのHPを確認し、yahooのスポーツニュースに目を通しましてネット碁に移動。
 ナガラ族ですが、実際に対局となればこんなにいい加減な態度ではないのですよ
 まずは正座はしないまでも、ベッドの上で胡坐で、キャスター付きのサイドテーブルに載ったノートパソコンに正対する。
 さらに右手には趙治勳扇子を持ち、手の届くところにのど飴と湯のみのお茶・・・
 相手がそこにいないだけで、殆どリアルと同じ体勢です。
 
 これは対局が決まって、最初の挨拶を交し、先番なら1手目を打ってから白番なら自分が1手目(通算2手目)を打つ前に用意します。
 ですから、そこのところは概ね20から30秒はかかります。
 ですから「今日は観戦だけ」と言う時にはこういう準備は全く不要ですからのんびりした感じです(観戦ですから当然ですが)
 
 さて昨夜は丁度良い人・・・昨夜の気分で私の先から白番=置き碁ではない・・・そういう人がエントリーしていなかったので、観戦に回ろうかなと対局一覧表を見て驚きました。
 毎度驚きのQさんです。
 Qさんは実名ではありませんが・・・彼は対局数が多い!
  昔私が入会した頃、同じ位の点数なので、よく相手をしてもらいました。
 どちらかと言うと当時は私が鴨にしていた(失礼!)。
  彼は相当な早打ちですから、ミスが出易い・・・アマですからミスはお互い様ですが、先にミスをしてくれれば咎められるし、勝負どころでミスをすれば致命傷にもなるわけです。
 ところがある時彼は一念発起(したように思えた)、碁を替えてきました。
 まず殆どの碁を「星+目ハズシ」で立ち上がり、かなりの好成績をあげて、一時は私などは二つ置かされそうなところまでいきまして、今度は私の方が鴨になってたわけです。
 彼は対局数が多いですから上がる時はグングン上がります。
  ところが、グングン上がってそこで留まれば”上達”なんですが、つい最近は向こう先に戻っていて、今日気がつくと私より10点ぐらい低くなっている!。
 しかも同じ人と打って初めに負けて、続いて2局目を戦っている様子。
  とりあえず、プレッシャーになるといけないので観戦は中止。
   彼は、その対局も落としたらしい・・・
 
 彼の楽しみ方は、ドンドン打つことなんでしょうね・・・結果は二の次で
  勢いに乗ると大変な勢い・・・ですが上昇気流があれば下降気流もあるみたいで・・・さて実力を問われたらどっちのQさんが本物なんでしょう
 勝に乗ると2子くらい上に行き、負けがこむと2子くらい落ち込みます。
   勝つときはともかく、負ける時は「連戦」が主たる原因だと思うのだけれど、それはQさんの楽しみ方に反するだろうし、、、
 
 今はどうか知りませんが、昔タイゼムでは終局の時に「もう1局」と言うボタンがありました。
 負けたほうが、リターンマッチを要請するボタンです。
  私は相手にこのメッセージを出されると困ったものです。
  続けて打つにはスタミナが無いし、断れば「勝ち逃げ」みたいでなんだか卑怯者みたい・・・
 現実にリターンマッチをすれば、タイゼムは一局ごとのハンデの変更はないしリベンジより返り討ちの可能性が高いと思えるのですが・・・
 ともあれ負けたときの連投は、傷を深くする可能性が高いはず・・・
 Qさんは実は私とは同じ県で近くの市に住んでいるらしい・・・もしかしたらどこかの碁会所とか大会で会ったことがあるかも知れません。
 ふと、感じたのですが、彼はリアルでも打っていてネットで試したことをリアルで生かしているかも・・・それにしても点数で上下20点以上の動き幅は驚き。
 今はQさんは鴨になっていますが・・・上昇に転じたら要注意。
 20連勝しても不思議ではないのですから、まるでアメリカのハリケーン情報。

思い込み40年

2008-09-19 17:44:49 | Weblog
 NHK囲碁講座10月号を購入して、中を見ると新しい講座は24世本因坊秀芳の、と来る・・・見た瞬間嬉しい。
 「やさしく考える布石」:受けるとどうなるか?、挟むと?、積極策では?コスミ・・・このような基本的なことを再チェックする講座らしい。
 私ら素人は先輩の碁を見よう見まねで覚えたという要素が占める割合が大きい。
 ですから、自分でやってみて成功するなり失敗するなりの経験でチェックしているはずですが、素人ですから途中の個々の良し悪しと勝敗の結果とは必ずしも連動
していないでしょう。
 結果好ければ全て良しみたいになっていることも多いかも知れないし、悪いと思っていても最後の決定打だけがクローズアップされて記憶に刻まれているかも知れません。
 ですから、基本を繰り返しチェックすることは大事なことだと思っています。
 
 昔・・・少年時代にソフトボールのノックを受けたような・・・
  私はサードですからアノ短い塁間で、ベースより3,4メートル打者よりで構えるのです。
 サードはホットコーナーですから鋭い当たりが飛んできます・・・それと同じ・イヤそれ以上にボテボテも多いのです。
 それをセーフにしたら皆イチローになってしまいます。
 ですから前で打球を処理するのは、アウトに出来るものは確実にアウトにする・・・強い当たりの場合は、とりあえずライン沿いは最低でも体で止める・・・こういう考え方で守っている。
 そして、練習のノックは「緩い・当たり前の打球」のみ・・・それなのに不思議なことに実戦では手の届く範囲のライナーに抜かれたことは無かった。
 こじつけ気味に言えば、囲碁の基本も似ています。
 基本的なことの理解をチェックし、基本の力を高めることで、時に飛んでくる相手からの激しいライナーとかイレギュラーバウンドはその場勝負、あるいはそういう経験を積むことで解決していく。
 イレギュラーな方にばかり気を取られていると、基本がおろそかになっているかも知れないわけです。
 勿論考えられる奇襲戦法を予習しておくことも大事かも知れませんが、いずれにせよ「基本」=「地力」と言うことでしょう。

 ところで石田芳夫先生、私の学生時代に大竹・加藤・石田と木谷一門の中から飛び出してきました。
 計算に明るい碁という評価で「コンピューター」と綽名されて
 囲碁の中の「計算」という要素が取り上げられ、、、逆に「芸」と言うものからは一段低く評価する専門家もいたり・・・
 素人ながら、当時こういう優劣はおかしな評価だと思っていました、「一段低い」とされる碁に「芸を重んじる」碁が勝てないなら、一段低いと言う評価は間違いなのに、「芸」上位を主張する矛盾。
 昔から「強いものが勝つ」と「勝った人が強い」の差があったんですね。
  私は石田先生と同年代と言うこともあり(根拠薄弱ですが)、学生時代からのファン。
  「感覚」「芸」みたいな捉え方はハナから諦めていて、唯一アマレベルではあるけれど、自分で出来る範囲の計算を頼りに打とうと考えた。
 当時私は級位者ですから、年齢的にもミーハーと変わらないですが、学生特有のセコさと言うか、弱いくせに変に計算は得意だったりして・・・。
  ところで、当時から石田先生は私より生まれ年が1年上だと思っていました。
 そう思い込んで、その後40年以上いろんな記事とか著作に触れるたびに思っていました。
 それが今回の講師プロフィールによると、1948年(昭和23年)生まれ
 しかも聞き役の人との会話で「今年8月還暦・・・」とある。
 まさしく同年生まれではありませんか
 するとこの40年以上間違っていた!
 事故が起来たり、誰かに迷惑をかけるような間違いではないけれど、少なからずショックが走りました。

 ところで今月号の記事の中に
 石田さんは昭和45年本因坊リーグに入り・・・とある
 この時のメンバーは坂田・藤沢朋・藤沢秀・・・若手で加藤・石田。
 そして予選1局目は同門同士ということで加藤・石田戦・・・当時は二日制の対局で、それを二日目に木谷師匠が盤の横に座って見ている写真が残っている。
 同門対局で師匠が横で観戦したのはこれが最初で最後かも知れないとのことです。
 貴重な写真かも知れません。

「すごい」の話

2008-09-18 16:55:42 | Weblog
 数日前に、朝TVを見ていたらNHKのアナウンサーが、何かのレポートで「すごく使いやすい」とコメントしていました、
 そのすぐ後の番組のアナウンサーも、何かの花を見て「すごく綺麗です」・・・
 言葉は時代とともに変化していきますから、私らが子供の頃に禁止されていた使い方が、今は当然のごとく通用しているのですね。
 マア私は意識して「すごく」を極力避けていますが、自分でも使うことがあるから勝手な言い分ではあるし、誰かがそういう表現で話している場合は当然理解できるわけで・・・自分では使わないけれど、通用はする。
 仮に先ほどのコメントを「たいへん使い易い」、「とても綺麗」と置き換えた場合、どう変わってくるか・・・多分意味は同じように伝わるはずではあるが、、、
 「たいへん・・・」「とても・・・」という表現を発した場合、それを繰り返せば、「お高くとまっている」「すました表現をする」みたいな評価を受ける可能性が大きい。
 
 同じような言葉を共有しないと仲間になれないと言うほど大きくは無いが、多少隙間が出来る感じはする・・・
 しかしいつの間にかNHKでも認知されていると言うことで、表現が悪いけれど、多数の傾向に合せて”共通意識みたいなもの”を共有しようとしているかの様に感じます。

 少し前に民放の番組であるタレントがホスト役で、ゲストに向かって「こいつ、カッケー」と大きな声で・・・
 意味としては通じなくもない・・・そういう自分が嫌ですが
 しかし、ゲストを「こいつ」呼ばわりすることと、「カッケー」と言う言葉には
 全くのアレルギーです、こういう人は人間としてのレベルが低いとか、知能程度を疑うような気分になるのです。
 マア、嫌なら見なければ良いわけで、すぐにチャンネルを回しました。

 新しい表現方法とか言葉がどこかで発信されると、すぐに広がるようで
 質問でもないのに語尾を上げる・・・いい年をした人が可愛い子ぶって?
  若い女性ならまだしも、いいおじさんまで。
  「全然」も面と向かって使われると、なんだかがっかりします
 仕事で話している若者に「全然大丈夫です」などと言われると、年令を越えて仲間に入れてもらえたような気がしないでもありませんが、なんだか仕事にしては「軽い乗り」と言う感じで、思わず相手の顔を見てしまいます。

 文句ばかり書きましたが、私らの世代もだいぶ日本語を乱したのですよね。
 「ドジ」「ヤバイ」などというと年配者は顔をしかめたものです。
 特殊な業界・職業の言葉だったはずですし
 「つんのめる」の「つん」などは江戸時代の奴言葉が残ったものですから、言葉が変わっていく証拠みたいなものですね。
 ということは「すごい」も「凄い」という凄まじいとか、凄く恐ろしいという意味を含んだ言葉から単に「very」になっていくのですね。
 時代の流れかもしれませんが、言葉の持つ「厚み」みたいなものも無くなっていくような気がしました。
 朝から「すごく」聞いた一日は調子が出ません。
 すごく=「凄く」で、季節外れに怪談:『陰にこもってもの”凄く”』のイメージ。
 ”凄く”キレイと言われれば、何やら恐いまでの・人間離れをした美しさをイメージしてしまいますから『一度出会ってみたい』などと妄想したり。

 碁に関して師匠から「お前はすごく弱い」と言われたなら「凄まじく弱い」の意味で”合っている!”。
 一概に表現間違いでもない・・・

 昔・学生時代の部活の後輩に女性トリオがいまして、三人はいつも一緒に行動している・・・彼女たちに綽名を。
 一人は「ドジラ」、もう一人は「グズラ」、三人目は「ネズラ」
 怪獣調に・・・私も言葉を乱している一人ではある。
 

いたるところに青山?

2008-09-17 18:02:24 | Weblog
 電話セールスに対して、女房殿は全て「電話セールスはお断りしております」が決まり文句。
 そりゃそうです。
 電話セールスの話を聞いて、「それでは試しにお願いしましょうか」と言えるものは無いようです。
 今のところ「オレオレ」はかかって来ていません。
 流石にターゲットにするには未だ若いのか、あるいは鴨にし甲斐が無いでしょうか?
  うちの場合「オレオレ」と来たら、「日本にいない奴が何処で事故ったんだ」と言えるし、あるいはじっくり相手のフィクションを訊いて「役者やナ」と言ってみようと思っているのにね。
 少し前には、外国の商品取引とかの電話勧誘が多かった。
  「そんなに簡単に儲かるなら自分でやれば・・・」という気分と、そんなことに使う資金は無いという現実。
 最近はマンションの勧誘や、リフォームのセールスの他に冠婚葬祭のセールスが増えて来たような気がします。
 どこかで年令が分かるような名簿が流れているのでしょうね、年令に合せてアタックしてきます。
 この年になると「葬」の方のターゲットですね。
 相手は明るいセールストークですが、言外に「お葬式は一時にお金がかかりますからね」ということを匂わせているわけです。
 最近ではもっとストレートに「墓地のセールス」が増えてきました。
 相手さんの言い方では「今のうちに用意しなくては、いざと言う時に間に合わない」と言うことですね。
 ということは、私が永の眠りについた時、しかるべき墓地が無いと安らかに眠れないと脅かされているようです。
 そうなって見ないと分からないのに・・・
 ともあれ「我が家では、まず私が入る予定の場所ですね」とイヤミの一つも言いたくなります。

 話が一寸脇道にそれますが、また今年も高校の同窓会から案内状が届きました。
 今回は立派な同窓会新聞が同封され、同窓会の開催案内と、同窓会への入会案内案内です。
 今のところ一度も参加したことが無いし、今回も出席しません。
 故郷が嫌いなわけではない、それどころか自分の精神的なルーツだと思っています。
 昔の仲間に、特別会いたくないと言うことでもない・・・しかし「同窓会」と言う形で会うのにはどうにも抵抗感がある。
 同窓会は懐かしい旧友に会えるから万難を排しても参加するのが当然というところからかなり離れた・・・捻くれた性格なんでしょうか。
 仮に東京のどこかで旧友にバッタリ会ったら・・・一寸そこで一杯(私の場合コーヒーですが)となってきっと話をするでしょうが。
 集まって宴会形式などというのは・・・ぞっとしてしまう。
  酒を飲みながら話をすると言う設定にアレルギーがある。
  「酒を飲まないと話が出来ないのか?」みたいな
 
 故郷を出てからもう40年以上になります。
 中国の諺で言えば「いたるところに青山あり」でしょう。
 到るところ=行き着いた場所には・・・
  墓地のセールスの言うように今買えないとこの先入手困難かも知れませんが、なに、いざとなれば「散骨」と言う手もあるし、漬物の壷に入れておいても良いし・・・何とかなるでしょう。
 それに自分が関与できないことに、心配してもしょうがない。
  ところで「到るところに”青山”」=いろんなところに”青山(あおやま)”があるから墓地には困らない?。

親の苦労は絶えないもの?

2008-09-16 18:39:01 | Weblog
 全くアホな息子を持つと、親は心配事が絶えないと言うか、ボケていられないから健康の元というか。
 少なくとも女房殿は、停年退職の年を過ぎても、アッサリと止める訳にはいかないでしょうね、2,3年先に停年なんですが「即辞めて、全国を旅行するんだ」と宣言していますが・・・さて大きな脛齧り虫がいますから、『そうはいかない』かも。
 尤も、自分自身のことを考えたなら、息子のあのDNAはまさしく私のものを引き継いでいるような気がしている、、、私はそれでも親に説教や勘当をされなかったのですから、私が息子にだけ偉そうな顔が出来ません。
 正直昔の自分を見ているようなところもあるわけで、時々ドキッとします。
  それでも、「自分の若い頃と同じだ」とは本人には言えません。
 
 それにしても、いくつになっても子供で(現実に家の息子だけかどうか、昔の若者より最近の若者の方が、精神的に発達が遅い部分もあるのでは?)、成人年令の引き下げアンケートで18才に反対の意見が大多数だったのも頷ける気がします。 まもなく帰国予定なのですが、現地でアホな土産話を作ったようです。
 本人の電話での話しによると、「動悸」「呼吸が苦しい」「過呼吸症状」などで、救急車で病院に担ぎこまれたのだそうです。
 これではまるで今にも危ない重病人ですが、、、何と言っても子供の頃「腹が痛い!死ぬ!」とのた打ち回ったのが、浣腸で解決した実績がある子ですから、親としては全く心配は無いとは言いませんが、50・50よりは心配の方が少ないと思っている。
 病院に着いた頃にはだいぶ収まっていて、お医者さんは簡単な診察だけで、治療無しで返された(お代は80ユーロ=12000円強、健康保険というものが無いかららしい・・・)。
 さて、原因は・・・おそらく最近吸い始めたタバコらしい。
 海外で一人暮らしで、将来の不安などから、ついついタバコが増えて、1箱くらい吸ったらしい。
 これが以前からの喫煙者なら、ほぼなんでもない事でしょうが、最近吸い始めたばかりなので、まともに急性ニコチン中毒みたいな感じになったらしい。
 勿論精神的な状況も無縁ではないでしょうが。

 しかし電話で話を聞いても「笑うわけにも行かず」さりとて自分の若い頃、日に3箱くらい煙にしていたのを棚に上げて、「百害あって一利なし」などと、もっともらしいことを口にしにくい
 マア「1箱は悪いが、1日5本までなら大丈夫と言うような考えをしてはいけない」「節煙という言葉はほぼ意味がない・・・0でなくてはダメ」
 つまり、自分がヘビーを越えてチェーンスモーカーだったことを棚に上げて、「現在はタバコを止めてから10年は経っている」「止めようと思ったその日から止めた」という都合の良い所だけを取って、親らしい顔をしたものです。
 「絶対にやめろ」と言うより「止めるのは自分の意志次第」を強調したつもりですが・・・

 しかし、落語ではないけれど、道楽を後から覚えた人ほど嵌りこむ度合いが・・・例えば落語では「遊女」・・・今は時代が違うから比較できません
 お酒の場合は・・・身近な話で、父は祖父の飲兵衛ぶりを見ていたから40過ぎまでかなり控え目だった、現実にビールをコップ1杯で真っ赤になっていたものです・・・ところが仕事内容が変わって接待やら招待が増え、勤務地が列車通勤になって一気に飲兵衛が開花?し、夕飯でなら晩酌2合ですが、毎日ではないにしても外では1升酒を遥かに越えたようです。
 それで、子供心に『いやだな』と見ていた私は未だに全くの下戸
 父の転機となった年令を過ぎたけれど、意固地な性格とややアルコールアレルギーなところが下戸を続けさせているようです。
 人生の途中で大酒のみになった場合も、若い頃からそこそこ飲んでいた人も比べるとトータルで同じくらい・・・だとすると、一生に飲む量は決まっていることになる。
 私の場合はこれから?
  『イヤ、祖父と父が私の分を前借して飲んでしまったのですねきっと。』
 だから私の分は元々無かったに違いない。

 さてタバコ・・・大酒のみ(飲んでも乱れるようなところは見たことがありませんが)の父はタバコを吸いませんでした・・・当時の家族は誰も吸わなかった。
 だから・・・多分そういう反発があったらしくて・・・16才で覚えたのでしょう。
 当時の小遣いが月3000円で、ハイライトが7,80円の時代ですから、小遣いの大半はほぼタバコ代。
 従って、パチンコで稼ぐ・・・(昔は換金率が高かったし、何と言っても釘・腕でやれたですから)
 父のところへ来る御遣い物の「ケント」「ロスマンズ」など、誰も吸う人がいないのですから10箱入りのカートンを失敬して、私が全て有効に・・・
 誰も吸う人がいないのにタバコが消えるのだから、当然分かっていたはず。
 家の中で誰か一人だけ吸えば、臭いが目立つはず。
  しかし、一度もお説教などはなかった。
  すると、家はお説教をしないDNAかも。

 さて、いずれにしてもあと一月もすれば息子が帰ってきますが、一体どうなるのか・・・マア私も若い頃不安を感じたし、親もハラハラ見ていたでしょう。
 本人は、またどこかに行きたいという能天気。
 母親も「それもいいか」という親馬鹿。
 私?「彼の将来はともかく、囲碁を覚えれば良いのに」と思っている、マジで。
 祖父は酒でしくじって家財産をなくした人・・・父は祖父みたいにはなら無いと40過ぎまでは酒を殆ど飲まなかったけれど、結局は”飲む人”になり、その息子である私は父に逆らって一滴も酒を飲まないで、チェーンスモーカー、そのまた息子は酒もタバコも。
 私は現在酒もタバコもやりませんから、息子とは正反対
 親から曾孫まで、4代・・・逆らったり反発したり、心配したりさせたり。