なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

彼はもがき始めたか!?

2007-06-30 20:19:24 | Weblog
 私の勤めている所に限らず、公的機関も民間もどちらにせよ無駄な経費は当然抑えようとします。
 マア鉛筆1本消しゴム1個・・・昼休みの消灯などなど・・・だから昼食は薄暗い穴倉みたいな明るさの事務所で業者さんのお弁当を食べることになります。
 この時期かなり弱くではあるけれどエアコンを使ってたりするので、ただでさえ効きが悪いので窓のカーテンを閉めて(薄い白いものを使って直射日光が窓ガラスから入らないように・・・)いるから、何だか寂しい食事風景ですよ。
明るさから言うと何処かの夕方の公園とかキャンプサイトで、周りに人はいるものの殆ど一人でいるのと変わらない・・・話をするのは電話がかかって来た時くらい。
 食事は各自の執務机で摂っていますからね。
  女性は彼女たちの休憩室に集まっているようですが、男性は皆ばらばらですからただ黙々と食べるのみ・・・
 
 ですから食べ終わってから囲碁部屋(畳の休憩室)に移動すると、ここは普通の明るさの部屋だし、男性職員が何人かいますし、TVから音声が流れているし・・・急に明るくなってムードが全く違うのです。
 先ほどまでの”無人みたいな事務室”から”人がいる所”に移ったという感じというと大げさでしょうか。
  ついでに悪態っぽい話ですが、、、節約の件で。
 私の仕事では毎日外部の機関からS4サイズの角封筒に入った郵便物が届きますので、この使用済み封筒は相当な量になります。
 この使用済み封筒は捨ててはいけない規則・・・それは良いのです
 単なる再生資源ではなくて、他の部署に連絡文書など送る時に(誰かが運ぶならば)再利用することになっているのですが、来る量と使用する量では全く違うからドンドン溜まりま(いつかは捨てるかリサイクルに出す日が来る筈)。
 これが古新聞なら紐で縛ってリサイクルなのですが。
  そこで私はこの資源の山を減らすべくササヤカな努力をしています。
 まず、宅急便ではなくて郵便で来た物には切手が貼ってあるものもあるので、これはハサミで切り取ります・・・もしかしたら古い使用済み切手でも役に立つ可能性もありますからね。
 それ以外のものはペーパーナイフで折り目を切っていくとA3サイズの紙になります、これを更に8分の1くらいに切り分けて白い部分を山折にしてホッチキスでとめると、厚手の紙の手帳が出来上がります。
 これにこのブログの下書き・・・というほどでもありませんが、気のついたことを書き留めることになります。
 一昔前なら新聞に入っているチラシの裏面の利用法みたいなものですが、封筒の裏面は鉛筆でもボールペンでも書きやすいから何かを書くには便利ですね。
 スケッチブックも材質的には出来そうですが、さすがにそれは私の腕が必要としていない・・・

 さて昨日の昼休み碁、さすがにFさんは不機嫌になったようです。
  これは原因が私にあるともいえますが、ゲームで勝ち負けを争っているのですから当然起こりうることであり、彼としては「自分に腹を立てている」という所でしょうね(都合よく解釈すれば)
 彼は私が休んだ水曜日にはKさんと夜のデスマッチ?で深夜まで打ったらしい。
  家に着いたら危うく日付が変わる所だったらしいから、事務所を出たのは11ごろにはなっていたと思われます。
 そういうことで木曜日の昼休みの碁は両氏ともバテていて、5,6月でははじめての碁休み。
 そんなことでその次の日・金曜日はFさんは気合が入っているとお見受けした。
  スポーツとは違うから囲碁の気合は筋肉だとかではないのですが、石を持つ手つき・視線・考慮時間や素振などの雰囲気、呼吸の感じまで”何か違う”と感じます。
 ただそれが”正しい気合の入り方”(わけのわからない感想ですが)かどうかは分かりませんが・・・
 ともかく今日のK氏は最初から考えている。
  5子局の黒さんが2手目、4手目、6手目に時間を使っている・・・
 考えることは当然悪いことではない
  しかし・・・気合が入り過ぎかも・・・競馬で言うとイレコミ過ぎに見える。
 ”今日は考えて打つぞ!”というパフォーマンスとも取れますが、Fさんが自分自身に言い聞かせているのでしょうね。
 それに今日は新しい作戦を試して来たようです。
  それが水曜日にKさんと二人で研究した成果なのか、何処かで仕入れた知識なのか、はたまた誰かにアドバイスを受けたものなのかは分からないのですが、ともかく新しいことを試しているようです。
 それは”5子局必勝法”に出てきそうな作戦です。
  もし名付けるなら「手抜き作戦」というか「碁盤の半分で打つ作戦」というか・・・そういうものです。
 口で進行を説明すると(5子局です)
  白1・右上隅星に右辺側から小ケイマかかり
  黒2・隅を受けずに上辺星に展開
  白3・右下隅星に右辺側から小ケイマかかり
  黒4・右下隅手抜きで下辺星。
  白5右辺星に山型に構え
  黒6左辺星
 これで白は右辺に山形を作ったから、私の師匠のK畑さんなら「これにて碁はオワッ!」と叫ぶ所だが、「白江治彦・置碁戦略」では”黒の必勝形”でもある!。
 ともかく碁盤中央から左にかけての6個の星には全て黒石がある状態。
  左だけ見れば井目というか、ミニ碁盤の6子局というか・・・ともかく本の知識では、私はこの形で黒が正しく打てば勝てることを知っているわけです。
 つまり、「日頃の勉強の成果を遺憾なく発揮して下さい」「ちゃんと打ってくれれば当方にも綺麗に負ける準備はあります」と開き直った形です。
 尤もお互いザル碁クラスでは、山型が結構厄介でK畑師範が言うように黒も打ち方次第では楽ではないことも承知の上ですが。
 
 この形はFさんにとって想定通りであったらしい。
  いや、こんなに雄大な構えを白が許す方が想定外だったかも知れませんが。
 ともかく彼は6手打ったところで「これだけ雄大な形なら、黒の楽勝」と感じたらしい・・・何となく態度で分かるものですよ・・・口笛を吹きかねない感じです
 ただ「これはもうオワ」「黒楽勝でしょうね」などという態度がチラットでも見えたり、言葉の端々から窺えると私の”素直な気持”がザラザラしてきますし元々のへそ曲がりな性格が表に出てきます。
  一般的にはFさんの感想は正しいのかも知れませんが、それは「置碁戦略」を正しく理解していての話でしょうから「どのくらい理解しているのか試して見ましょう」という気持ちに変わります。
 私の感想では・・・「戦略」は正しいのだけれど、Fさんの気風にマッチしているかどうかという点では疑問という所。
 つまり「正しい戦略を使えば必ず結果が出る」というような、「戦略」は便利な道具ではないのでしょう。
 多分、「この戦略を身につける」には=「Fさん自身の碁を改造する」様なことが必要ではないだろうか。
 目先のこの5子局以上にそこが大事な気がします、そうでなくては逆にこの5子の壁は越えられないかも・・・
  ともあれ、黒6の時点でFさんはことが上手く運んでいるので満足だったでしょうが・・・
 白はここで右下隅の星に両ガカリして黒の動きを誘います。
  この辺から「黒のお手並み拝見」というか、最初の星打ちで大きく構えたことと矛盾無く打てるかどうかの様子見。
 マア、白としては「局面を動かしていく」ということでしょうか
  白は稼ぐ所は稼いで、黒の大模様を少しずつ削っていく形。
 Fさんは「白はそんなに小銭が欲しいか」「豆が欲しいかソラやるぞ」という鷹揚な、あるいは白を小馬鹿にした感じですが・・・これは模様が大きいだけに計算が確かでないと・・・
 結局白に11目残ったのです。
  彼としては「作戦通り」であったはずなのに、地は足りなかったということでしょう。
  これで4連敗となった
 5子の置碁必勝法は元々の謳い文句に「5つも置けば、プロ相手でもそうは簡単は負けない」みたいな気分があったと思うのだが、それはアマ高段者レベルの話しとしても、Fさんにしてみれば、お互いザル同士なのだから「5つも置けば・・・」的な気分ではあっただろう。
 しかも出だしは本に書いてある通りに近かったでしょうしね。
  今日のFさんはかなり不機嫌になった。
 碁石を片付けるとサッサと執務室へ
  今のもがきの時期は大事だと思うのですがサテサテ 
 

雨が降ったら濡れればいいさ

2007-06-29 18:19:16 | Weblog
 私の朝は余裕の無駄遣いみたいな・・・
 朝起きて・・・これが老人ですから鶏と朝起きを争うぐらいに早い・・・のに、やらなくてはいけないことは僅かしかない。
 要するに顔を洗って歯を磨いてヒゲを剃れば、後は食事と着替えだけです
  それなのに出かけるのは8時15分前なら充分に間に合うのに、6時には目が醒めるのですからね。
 だからと言って、この時間のネット碁はかなり危ない(私には)
  忙しいわけではないのに朝起きて間もないのと、出かける直前みたいな”ハザマ”感がいけないらしい。
 集計したわけではないけれど、勝率は悪いでしょうね。
  勝率もそうですし、楽しむという気持ちの充実感に問題がありそう。
 これがパンダですともっと酷かったです。
  こちらが出かける前の時間帯が、海の向うでは仕事を終えて帰ってきて、サア打つぞという人が接続してくるのですからね・・・

 さて朝出かける前はそういうことなので余りネットでの観戦も少ない。
  その時間はほぼコーヒーブレイクでTVではBS2の7:30「どんど晴れ」、7:45再放送「さくら」と立て続けに新旧の朝ドラ。
 8:00からはBS映画放送の予告編と言った所
  アサドラに関して・・・
 昼の囲碁対局の休憩室は、畳の部屋でごろ寝をしながらTVを見られる部屋なので、ココでの12:45からの定番が「どんど晴れ」
 しかも家で夕食中7:45分からBS2「どんど晴れ」
  まったく1日に同じものを3回も見てしまうことも珍しく無い。
 特にファンということも無いし、画面をジッと見ているのでもないけれど、筋書きは憶えてしまいます。
 こういうアサドラ評論家・・・はいないしニーズは無いでしょうね。

 朝必ず見るのは、当然天気予報
  今日の予報は午後か夕方から相当な確率で雨・・・但し予報ではたいした降りではないとか・・・雨具携帯が面倒なので雨合羽無しで出かけました。
 簡単なビニールヤッケと帽子、ビニールのオーバーズボンを鞄に入れて。
  この位の用意があれば、もしも予想以上の雨が降ったら濡れればいいさという気持ちです。
 昔ダークダックすの「雪よ岩よ・・・」で「雨が降ったら濡れればいいさ・・・」があったっけ?。
 そういえば今朝のニュースでは高尾山方面で・・・警視庁山岳救助隊があるとか・・・700mの山での超軽装ハイカーの事故対策だとか・・・
 準備の無いハイカーはには困ったものです
  しかし私には大きな声では言えない過去がありまして・・・犯罪などではない・友人たちは皆知っている・・・学生時代山のパトロールのアルバイトをしていた頃、私たちの持ち場は標高1500mから1700mくらい
 マア高原というのには低い丘みたいなところで、私の定番のスタイルは「ハーパン、木綿の長袖シャツを半分折って頭は麦藁帽、サングラスに足元は素足にビーチサンダル>>>だから「海の監視員」と呼ばれていた・・・
 この老人にもそのスタイルで山を走り回っていた時代があったのですね・・・自分のことなのに不思議です。

 さて「雨が降ったら濡れればいいさ」で思い出すこと
  単に語呂というかシチュエーションというか、勝手に繋がって出てくる発想です。
 昔私のお師匠さんのK畑さんの囲碁教室のメンバーで、棋力は2級くらいでしょうか、たいへん真面目で熱心な人ですがそれだけに、終盤形勢が悪くなってから真面目さを発揮してしまうのです。
 どんな状況になっても諦めず頑張ろうとします・・・
  そのこと自体悪いことなど何処にもない
   問題はそうなる前のことでしょうね。
 ある時私がその方の碁を観戦していると、苦しくなってから長考し頑張り始めた・・・確かにその人に限らず私たちザルは、どうにもならなくなってから考えるというところがある。
 その人は万策尽きて投了したのですが、それでよかったのかどうか私に意見を求めた。
私の返事は「少し粘りすぎですね、こうなる前に分かれ道で考え無くてはね」
「でも、投了したらお終いではありませんか、ギリギリでも頑張るのも大事では?」
私;「負けるときは負ければいいのですよ」
 これはかなり舌足らずな言葉だっただろうと今でも思い出す
  真意は「頑張るのはいいのですが、覗ける所は覗き当てられる所は全て当てるみたいなことは頑張ったとは言えません。そういうことは時間つなぎみたいなことでしょうがこれは時計を使っていないしね。それと、何かの弾みで相手が間違うようなことを期待するという打ち方は止めた方が良いのです」
 ギリギリまで頑張るということと、ギリギリを見極めて投了を決断するということはかなり微妙な差です。
 頑張っても結果として手が無かった時、あっさり打ちすぎて後で後悔することもあるだろうし。
 まあでも楽しみで打っているのだから、勝っても負けても気持ちよく打てれば良い
  
 今日の天気は予報が的中して帰り道は雨となりました。
  完全な雨具ではないから多少は濡れます・・・マア「雨が降ったんだから濡れればいいさ」
 街路樹も生き返るだろうしね。 

真似から

2007-06-28 19:06:53 | Weblog
 世の中には物まねの上手い人っていますね。
 私の子供時分では声帯模写ということでは江戸屋猫八、この人は動物や鳥などが上手かった、桜井長一郎などは役者の真似だったろうか。
 形を真似る形態模写というのもありましたね、これは時代は下って春風亭小朝(今でもそういう名前でしたっけ?)、落語の大看板の師匠連の真似が上手かった。
 こういう人たちは、日頃見ているところが他に人と違うのかもしれないし、違いが分かったことを表現する能力があるということですね。
 マアそこまで一流の芸域ではないにしても、素人だって毎日見ているうちに似てくるとか、ファンになって真似るという事はあります。
 私の経験で言えば、子供時代の一番人気は野球ですからTVが普及してナイターが見られるようになってからは、そういうものを通して真似をしました。
 私の一番好きなのは巨人の国松選手でしたから、ああいう癖の無いスィングにあこがれて素振りをしていました。
 私の場合もやや非力な所を無理の無いスィングで補うような感じで、国松選手のバッテイングが好き。
 小学生高学年くらいでは、本来の右打ちと同じくらい左で素振りをしたものです
  親戚で地方の社会人チームで野球をしていたおじさんから「フォームが綺麗だ」と言われたときは嬉しかった。
  要するに憧れ・真似をしていたのでしょう。
 最近ではサッカーを例に取ると、ジダンの○○ルーレットとかヒールパス、無回転シュートなどなど、テクニックの真似、有名選手の真似などがあります。
 こういうものって、身につけるべき、あるいは身につけた方がいいだろうテクニックを誰かの真似をすることを通じて自分のものにしていくということでしょう?
 スター選手の単なる真似で、スター気取りという弊害も無いことは無いでしょうが・・・そこが問題ではありますが。
 例えばイチロー選手のバッティング技術
  彼は何も無い所から、ああいうものを考え出して完成させたのでしょう。
 彼の道を後から行くものが、真似をしてはいけないということは無いでしょう。
  勿論そう簡単に真似できるくらいなら話は簡単
 実はタイミングの取り方、バットの力をいかにしてボールに伝えるかなどの集大成があのスウィングであって、あのスィングが先にあったわけではないのでしょう
 しかも眼・足・体の筋肉・瞬発力などなど密接に関連していると素人は想像しています。
 だからイチロー選手の真似は良いとして、あのレベルのものを真似られたら、それが出来るとしたら相当な能力だろうと思うのです。

 さて囲碁でも真似って大事ではないだろうか。
  私の場合については特にそう思うのです。
 新聞の棋譜だけで知らないうちに何とか打てるようになっていた・・・ということは初めは真似ることしかないですよね。
 最初は隅の小目から打ち始めるのですが、これは「隅は地にするのに効率が良い」とか「守りやすい」「先着の効果」などの理論的な理由ではなくて、その頃の序盤の殆どがそうだったという理由に過ぎないのです。
 だから、「そういうものだ」というくらいで、何故そうなのか疑問に思っても、自分では他にどうしたら良いのか分からないから小目で打ち始めていた。
 よく「打ち出しは、ヘボでも小目なり」と初めだけ見れば、プロ・高段者もザルも皆同じ小目と揶揄したものですが、私はザルにもなっていない・・・
 さてそうは言っても、しかるべき師匠・先輩がいないのなら、新聞雑誌を真似るしかない、今ならTVもネットもあるから良い時代ですね。

 あ、そうそう「真似る」ということについて
「真似」=イミテーション、偽ブランド、オリジナルではないというイメージがあります・・・マイナスのイメージが強い
 プロによっては「人まねではない、自分らしい手を打ちなさい」と言います。
  確かにそうは思う。
 でもそれは要求が高すぎる面は無いだろうか?
  できっこないと初めから諦めているのではありませんが。
「そう打つところ」であるなら個性とかオリジナリティはあまり関係ないでしょう
 「これも一局、あれも一局」という場面での選択とか発想に違いない。
  ところが私らザル碁クラスでは「こう打つところ」でオリジナルな手を打ってしまい「自分らしさを出さなければいけない」部分で、アホな自分らしさを遺憾なく発揮してしまうのです。

 そういうことで、「らしさ第一」は全く危険でもある。
  ただ、だからそれを止めておきなさいではありませんが、もう少し「真似」部分も考えてもいいのではないだろうか。
 私は「自分が好きなプロ」「尊敬する先輩」「自分が当面目標とする人」などの碁をたくさん見ることが大事だと思うのです。
 「真似」をしなさい程ストレートでは無いのですが・・・
 今は結構な時代で、イロイロな棋譜に接することが出来ます、そして早碁など中継も見られます。
 でも、それらは総花的にならないだろうか?
  良い碁を見られることは良いことだし為にもなるでしょう・・・しかし
  これが役立てられる人はそれなりに棋力がありそうな人だと思う
 ある程度の棋力に達していないと効果が薄いのではないだろうか
  いや勉強するのがムダだといっているのでは決して無いのですけれど、その時に適した方法なのかどうか・・・楽しみとしては良いけれど
   それが効果的な方法かどうかという意味です

私がいつも打っているF、Kの両氏、もっと他人の碁を見たほうが良いと思うのです。
 確かにTV早碁とかケーブルTVの放送は見ている・・・これも良いのだが、自分と同じくらい、自分より少し強い人たちの対局をもっと見る事が大事だと思うのです。
 もしかして彼らは自分のことを「放送を欠かさず見ている」=「勉強家」だと思っているかもしれない(イヤミな言い方ですが)。
  見ないより良いに決まっています、でも
 ダイアモンドを見分けるのに本物を見続けるのが大事だそうですが、囲碁の場合もそうなのだろうか?
 自分より少し強い人を目標にして上がっていくのは、案外急がば回れの反対で上達の近道でもあるのではないだろうか?(勿論個人差はあるでしょう)
 勿論真似だって良い
  私の彼らへのオススメはそっちなんです
思いっきり毒舌爺さんで「オリジナルを云々できる腕ではないでしょ!」というのは怖い
 ソックリ自分に跳ね返ってきます 

通院のご褒美

2007-06-27 21:43:48 | Weblog
 今日は3週間ぶりの通院日でした。
 総合病院ではなくて生活習慣病クリニックの方ですが、この先生は元はこの地方の国立大学の病院の教授だったとか・・・総合病院はその大学の医局から派遣されている先生が多い・・・現在の主治医の恩師筋らしい。
 マアやや複雑に関連があるようですが、ようは私の病気が改善されれば良いだけのことなんですね。
 尤もその件になるとお医者様たちの意見は俄然一致するようです、つまり
  これだけ医療が発達し、検査も診療も出来て薬もいいものがあるのに、改善されないのは本人の努力が足りない・・・となるようです。
 口に出す先生と、出さない先生はいますが。
  「要するに患者が自分で治す」「あくまでも医者はお手伝い」・・・そうなる
 確かにそういう面はある。
  幾分逃げっぽい所もあるけれど。
 もう一つ・・・生活習慣病と戦うということは、メインは自分の生活・食事の改善になるのだけれど、御先祖から受け継いだDNAという問題もあると思う。
 同じものを食べて同じような生活をしていて、ナル人とナラナイ人がいるわけで・・・方や全くの健康人であり、方や半病人どころではない。
 全くの不公平な巡りあわせに、文句の一つも言いたいのですが、ぶつける相手が居ない・・・それにお医者さんには「お前さんの問題でしょ!」と言われているようなものです。
 結局は困るのは自分と家族ですから泣き寝入りするしかない。

 愚痴が長くなりました。
  さてこのクリニックは総武線の駅前にあって、近所に碁会所があります。
 時間さえ合えば、診療と碁会所がマッチさせられるのだけれど、問題は調剤薬局です。(調剤薬局は近所の薬局を指定)
 その日のうちに薬を受け取るとなると、碁会所でのんびり碁を打っていられないのです。
 碁会所とクリニックは50mくらいしか離れていないのに・・・この碁会所の隣に整形外科があるから近所に薬局があるかも知れないから研究の余地ありです。
 ただ、今の所は絵に書いた餅みたいに、碁会所の窓の下を恨めしそうに(見上げながら)通るだけです。

 ということで、「碁会所に行きたいのに・行ったつもりで」本を買うのが定石の一手となりつつある。
 国電の駅前ですし、駅ビルの中に大きな本屋さんもあるのでその方は問題がありません。
 家の近所の大型スーパーの中の本屋さんより、囲碁将棋に関しては充実しています。
 だから診察のある日は早めに家を出て、この本屋で本を買ってクリニックの待合で読書となる。
 今日は2冊買いました(但し1冊は厳密には本ではなくて雑誌ですが)

 1冊は月刊誌の「NHK囲碁講座7月号」
囲碁講座が主たる目的ではないのですが、「早碁選手権」の放送が「見捨て」にならないということでしょうか。
 私はかなりいい加減な性格なので、よく日曜日に放送を見逃しますし、この時間家族とのチャンネル争うでは勝ち目はないし・・・
 ともかくTVで見たものと、棋譜と解説があるのが嬉しいのでこれは毎月買います。

 さて迷ったのは、3冊の中でどれを買おうか・・・です
  迷った本もいずれ後になって買うことが多いから、迷ったら買っておいて後で読むという手もありそうなんだけれど、「迷う」「選ぶ」のが楽しみでもある。
 もっとも生粋の貧乏人ですから、本の価格で迷うこともあるから、この場合は「とりあえず買っておく」は無い

 迷って止めた本
「月刊囲碁ワールド臨時増刊号 囲碁年鑑2007(平成19年版)
 2006年に打たれたものでしょうが、張栩、高尾、趙治勲・・・と魅力的
  でも、あれば良いけれど3000円は?
 私の希望で言うと、欲しい棋譜が100円くらいでダウンロードできるのが良いですね・・・トータルすれば本の方が安いでしょうが、欲しいものだけ手に入れば良い。
 
 大いに迷って見送ったのは
「NHK囲碁シリーズ 石田芳夫の やさしく考える布石」
 こういうパターン化というか分類化したものが好きですね
 1、布石の基本 2、二連星の布石 3、星と小目の布石~平行急戦型 4、星と小目の布石~平行持久戦型・・・7、小目の布石
 この本には読んで欲しい読者の棋力を書いていません。
  つまり基本なので棋力と関係なく必要な知識・理解というような意味なら我が意を得たり的に嬉しい。
 少なくともいつも鞄の中に入れておいて、時間があればパラパラ見るとか、寝る前にチョッとめくるみたいで手元において置きたいです。
 それに私はここ数年二連星が多いからきっとチェックが必要でしょうし・・・
  今回は見送ったは他の本を買ったので物理的に読書時間が取れないと思われるからで、きっとこの本は近いうちに買うと思います。

 さて買ったのは
「棋苑囲碁基本双書⑦ 上手のワナ」 韓国棋院編集 2004年
 このシリーズでは⑧の「ごまかし手辞典」を読んでいます
  タイトルのつけ方が上手いのか、基本的に従来の日本の囲碁の出版物と多少のずれがあるのか・・・何処と無く違いを感じる・・・気のせいか
 私など素人だから、それがどういうことなのか、ほんとに違いがあるのか説明できないのですが。
 ともあれ「興味」というか「問題意識」を持ってテーマ図が見れます
  内容は、多分
① 上手のハメ手で、これは従来のハメ手に関する本の復習
② この形でこういう風に打つことの狙いは・・・こう打てばどうなるみたいな
③ 黒が安心しそうな形でも、実は狙いが・・・みたいな説明
 ①はともかく、②③は勉強の価値がありそうです
  例えば置かせ碁で、手にならないと思って諦めた形、正しい手順を尽くせずに手に出来なかったこと・・・そういうもののいくつかが出てきそうです
 下手イジメのスキルを仕入れるということ以上に自分の棋力の幅というか・・・
FさんKさんには「白はひどい手で下手イジメをする」と非難されるかも知れませんが『勉強の成果と言ってください』みたいな涼しい顔が出来るかも。
 本当はそういう白をグウの音も出ないほどの打ち方が出来ればいいのですがね
  さて彼らはどういう努力をしているのかな?  
 

道は二通り

2007-06-26 18:45:08 | Weblog
 上達するのに辿る道筋が二つあると思うのです。
 自分ではそう信じているのですが、但し自信は無い。
  しかも総合力としての棋力の部分の構成かも知れませんしね。
 具体的にどんな話かというと、先日の将棋棋士の先崎さんの話で思い出したのですが・・・彼は囲碁を憶えるのに、自分のレベルより高い解説の定石の本を繰り返し読んだそうです。
 その結果「囲碁は形が大事だと分かった」と言っています。
  プロ棋士が言っているように「定石の丸暗記」は弊害も多い・「定石を憶えて
2目弱くなり」もほぼ事実でしょう・・・しかし・しかしそういう勉強法も無いでは無いとも思うのです。
 茶道・華道や柔道・剣道にしても「道」とつくものの稽古で、全ての意味を理解してから形にしているとは限らないでしょう?
 寧ろ「形を叩き込まれ」、後になって合理性に合点がいく事も多いと思うのです

 丸暗記が絶対に良いと言う意味ではありません
  例えば先日来読んでいる「白江治彦の置碁戦略」のような本を読んで、「成る程」と思う点があれば、参考にする・実戦に活用してみるのも大事なこと。
 私も若い頃は梶原先生の「序盤構想」「梶原先生の布石」を(本ですが)勉強した(つもり)。
 ヨセについては石田芳夫先生の本で、バランスを重視する考え方。
  手を作っていくみたいなことでは趙先生でしょうか。
 ともかく本を通しての一方的な不肖の弟子ですが・・・
  こういう「先生方お奨め」のものを勉強する事の他に、先ほど紹介した先崎棋士のように、全てを・網羅的に勉強するのもあると思うのです。
 勿論、アマのザルですから、全ての形を勉強して憶える事などできませんが、方向としてそういう迫り方もあるのではないかと思っている。
 百科事典を読み物みたいに全部読むみたいなことも楽しくはありませんか?

 それは「定石辞典」とか「手筋辞典」のようなものあるいは「死活の基本形」見ておくことが結構大事だろうと思っています。
 プロなら、ことに臨んで正解を出せるでしょうが、なにせ自慢ではありませんがこちとらはザルですからね、日頃の勉強の幅とか深さの量がものを言います。
 誤解されると不本意なのですが、先ほど「二つの道」といいましたがこの二つは無縁では無いと考えています。
 二つの事柄は反対の方向から対象に迫る方法みたいに見えますが、実はそのバランスを取るというか、融合させる力が棋力ではないかななどと想像しているのです。
  知識と活用法みたいなものでしょう

 話は今日の昼休み碁、Fさんの向う5子で当方の3連勝となりました
  いや勝敗とか、次戦置石が増えるかどうかは問題ではないのです。
 この3戦いや、その前に完敗した対局まで入れると、全て白1は隅の星に小ケイマにかかっている。
 これは、置き碁としては全くのオーソドックスの立ち上がりで、黒はいかようにも作戦というか、対応が出来るはず・・・
 ところが・・・黒は「5子も置けばどう対応しようと、黒が悪くなる筈が無い」と考えているらしい・・・いやもっと悪く言うと「何にも考えていないのかも」
 勝敗という結果で言っているのではありません。
  上手く行ったところ、思わしくない進行となったところ・・・そういうところが次戦で改善されてしかるべき(そんなに堅くなくてもいいのでが)筈なのに、どうも工夫が見られない。
  
 今日は「昨日の隅の形を勉強すれば、白からの攻めを防げるし、他で打つ時の参考になりますね」と話しかけられた。
 確かにその通りなのだが、確かにそれはそれで大事なことではあるのだけれど、そもそもそういう事が焦点になってはいけない気もするので、少し複雑な気持ちでした。
 そんなことで家に帰ってから小さな本棚に残った囲碁の本を確認した。
  数年前に買った本で
「おぼえて強くなる囲碁入門」という定石集というか「パターン集」
1.囲碁・星の定石10パターン50型
2.囲碁・互い先定石①5パターン70型
3.囲碁・互い先定石②10パターン80型
4.囲碁・実戦の死活130
5.囲碁・実戦のヨセ120
6.囲碁・星の両ガカリ定石10パターン70型  というシリーズです。
 もっとも買って読んだのは4,5以外の4冊ですが。
  本で各変化に良い・悪い・互角などの評価もありますし、場合によっては条件が変われば評価が変わることもあるだろう・・・これは知識そのものがパワーではなくて、自分の持っているスキルを裏付けるもの・あるいは自分の道具の部品みたいな感じでしょうか・・・
 最も大事なのは総合的に判断できる力でしょうが、判断の裏づけとなるものが無くてはいけないはずですね。
 逆に裏付けの無い判断は結果はともかく「希望的観測」か「ヤマカン勝負」

 そういう意味でも、私はFさんやKさんにこういう本を薦めたいのですが・・・おせっかいみたいな気がしないでも無い。
 二人とも「NHKの早碁選手権」とかケーブルTVの「流星戦」などよく見ているらしい・・・(それはそれで好いことではある)。
  月曜日などは「放送見ましたか?」と聞かれ「いえ」という返事は意外らしい
 更に「私は放送は時々しか見ませんが。NHK杯は『囲碁講座』を買って読んでいますから棋譜では知っていますよ(少し季節はずれますが)」という返事の方も意外らしい。
 イヤミぽくて口には出せませんが「何か参考になりましたか?」という質問が喉につかえています。
  楽しみに水を差す気は無いのですが、もし「毎週放送を見ていること=多少のレベルアップに繋がる」と思い込んでいたとしたら・・・それも無いでは無いが相当スローだろうな。
 「楽しみながら強くなる」・・・そういうのがいいのですが・・・楽しいことだけでダメなこともあるし・・・。
 勿論トータルとして世界で一番楽しい!! 

蛤碁石の思い出

2007-06-25 19:52:06 | Weblog
 昔々、はるか昔と言っても50年くらい昔の話です。
 父は「紙」関係の仕事に従事していたのですが、これは手漉きとまでは行かなくても、人間の職人技が関与する部分が大きかった時代から勤めていた。
 戦前では徒弟制度みたいな、勤務というより修行みたいなこともあったらしい。
  戦中は召集されたり軍隊から帰ってきたりを何度か繰り返したらしいが、戦後世の中が落ち着き始めてからその会社に復帰して、生え抜きに近い社員として勤めていた。
 社長というより「ボッチャン」みたいなトップの下で、上は修行時代の先輩・兄貴分たち、下は後輩・弟子みたいな弟分みたいな・・・
 寄り道ですが
  社長といえば道楽息子だったらしく、当時としては珍しくスキーが上手かったそうです。
 雪が殆ど降らない土地ですから、冬は長野などに出かけていたらしい。
  昔トニー・ザイラー来日した時ニュース報道の映像で一緒に滑っていたのが社長だったとか、社員としては複雑な気分でその映像を見たらしい。
 さて、私の生まれた町で父は小さなパルプ工場を任されていた。
  隣の町にそのパルプから製品の紙を作る工場があったのですが、そういう工場を統括して一箇所で原料から製品までを扱う工場を作ることになり、紙としては有名な富士の裾野の町に引っ越した・・・その時のこと
  だいぶ説明が長くなりました。
 そこで、良い悪いは別ですが会社に家族的雰囲気を大事にする所があって、このときは家族の「子供大会」が行われました。
 「子供大会」は少々オーバーなんですが、一寸した食事とおみやげ物が出る程度ではあるのですが、昭和30年代の初めとしては、その程度のことでも珍しかったのでしょう。
 蛸足みたいに分散していた工場を統合したばかりですから、いろんな催しを通して社員の交流を図っていたのでしょう、そういう意味では子供はいい名目ではありますね。
 父と父の先輩のオジサンが実行委員長みたいな感じでしたが、どんな食事だったか、お土産に何を貰ったかなど全く憶えていません。
 ところが、ある場面だけははっきり覚えているのです。
  
 会の後何家族か、子供7,8人と親たちが畳の大きな部屋にいて・・・マア遊んでいたのですが、そこに碁盤と石があったのです。
 家にも折りたたみの碁盤と碁石はあったから特に珍しいということは無いのですが、手に取ってみて初めての経験でした。
 つまり石は白が蛤で恐らく黒は那智だったのでしょう。
  碁石を手に取ったといっても当時のことですから五目並べくらいしかできませんが五目並べをやる気にならないのです。
 周りにいる子供たちとその日初対面ということもあるけれど、蛤の碁石で五目並べという事が何か場違いな感じがしたのではないでしょうかね。
 尤も蛤としてはたいしたものではありません。
  厚さが5mmくらいですから打つとペタペタした感じです。
 石もガラスと石を混ぜたものではなくて、多分本物の石でしょうが・・・
  その時の蛤の印象は「多分高いもの」(家にある瀬戸物の石より)だろうと思う反面、「余り綺麗ではないな」と。
 蛤は真っ白ではなく、少し茶色というかベージュというか色がついていて、反対の面は縞模様が浮いていた。
 (模様のある方が表だったでしょうか?)
  高いらしいということは知ってはいるのですが、何故高いか実感として分からないのです。
 持った感じが、なんだか軽かった。
  子供心にその軽さが、手に持った感触がシックリしないという以上に、軽い=安い(たいしたものでは無い)に繋がったのかもしれません。
 世話係の大人から「蛤だから、力一杯打つと割れるから注意してね」と言われたことも「割れやすい」=「良い物では無い」という印象だったかも。
 それに実際欠けている蛤も多少混じっていて、手を切らないように気をつけてねというのも印象が悪いですね。
 こういう薄い蛤は「蛤というだけ」に過ぎないのでしょうが、会社の休憩室に置くにしてはよいものだったかも知れませんね。
  子供にはあの縞も印象が好くないかも・・・ピカピカ光っている方が良い物のような感じでしょう。
 
 子供時代に初めて出合った蛤の碁石の印象です。
 本物の蛤とであったのですが「ホンモノ」ではないですね
  挑戦手合いなどに使われる蛤や、雑誌のカタログ販売などに出てくる「高級品」とは全く違います。
 ところが、今昼休みの職場碁で使っている碁石と材質は違うのですが、持った感じが似ているのです。
 職場の休憩室の碁石は練り物ですが大きさといい重さといい、持った感じがアノ時の石にそっくり・・・アレよりやや重いかもしれませんが・・・持った感じが何だか懐かしい。
  ということは今の普及品は「よく出来ている」?
 子供時代の指先の思い出が50年後も残っているとも思われませんが・・・
  

山型対策は

2007-06-24 18:34:00 | Weblog
 図書館から借りた「白江治彦の置碁戦略」はまだ返却期限には1週間余裕があるので、ゆっくり楽しんでいます。
 こういう内容は”いつか来た道”で、私も自分が置いて打つ機会が多い頃には、かなり真剣に読んだはずです。(「天下五目必勝法」を読んだのもその頃です)
  K畑師匠に4つも5つも置いて負かされるのが悔しくてかなり真剣に勉強したと思う。
 いや、今でも高段者やプロに打ってもらうなら、置かなくてはいけないのですから、置き碁とは完全に縁がないなどとんでもないのですが、この本の趣旨・想定している読者は多分上級者のようです。
 同じアマの有段者にたくさん石を置いて打つ碁が想定されているようで、プロが解説しているということです。
  だから先ほどの”いつか来た道”は、私もそういう棋力の頃読んだ・・・上級から初・二段という所かな(普通の碁会所での段級で)
 最近はこの種の本にトンと縁がない。
  それは著者が設定した読者の棋力とずれたから読まないのでしょうね、”今更自分がたくさん置いて打つ碁を勉強するのも・・・”という気持ちも皆無ではないだろうが、ともかく偶に読んでみると新鮮な気分がするから不思議なものです。
 この本を読む動機は先日も話した通り、昼休み碁の相手F・K両氏と今丁度向う5子なので、折角お相手をするのだから、少しでも彼等のお手伝いになれば良いと思ったことからです。
 勿論”教える”とか”お説教”するというような類のことではない。
  例が適切でないかも知れないけれど、『芝居の書割みたいなもの』というのはどうだろうか。
 お客さん側から見えるものと、裏から見るものは違うし、そういうことはお互いに承知の上なわけで・・・それでいて虚のはずの舞台装置が実としての威力を発揮したりするわけです。
  ともかく、彼らが棋力アップを目指しているなら、折角の昼休み碁でどういう碁が打てればアップに繋がるのか知っておきたかった。
 つまり、”私自身が良いお稽古台になる”ための心得を確認するためというと、少し大がさかも知れませんが。
 結果的に彼らが何年かあと、今の時期を振り返って、「あの時期に強くなった」と思い出してもらえれば本望。
 もっとも、彼らが勝ち負けに拘って・勝った時に大喜びされると、一緒に喜ぶほど私の”人間”は出来ていないから、これは私についてはそういう面での修行みたいなものもプラスアルファーで有るかも知れない。
 但し、もし一緒に喜んだらいかにも彼等の先生みたいな喜び方に取られて、「先生の臭い」がしてしまうかも知れないから、そういうのは彼らにとってやや臭い存在だろうから、負けて悔しい素振をしている方が彼等の励みにはなりそうです。

 さてこの本の最後は4子局でこれは1局のみ
  このテーマは「考える力を鍛える」で多子局のまとめですね
 ここをクリアーしたら3子局ですから一隅空いて、互い先の要素が入ってきますから、ここが大きな関門です。
 ここでは白の小ケイマカカリに小ケイマ受けがでてきますが、興味があるのは白の”山型”対策です。
 これは私の師匠が”多子局でこの形が出来たら、白なかなか負けない”と言っていた形です。
 「置碁戦略」では、この形が出来た時どうするか解説されています。
 これは私にとっても勉強になります。
  私がこのように打ったら、勉強家の黒はどう対応してくるのか、そこのところを私も予習みたいなもの。
 それに当然ではあるけれど「山型」は多子局での白大優勢形でも無いという勉強

 「山型」というのは、言葉での説明になるけれど・・・例えば4子局で白が隅の星に小ケイマでかかって黒が小ケイマ受け、白が背中の隅の星に小ケイマでかかって黒が小ケイマ受けとなった時に辺の星に構えると白の3個の星が「山型」というわけです。
 さて、黒からの「白の山型対策」これは私の受けた印象ではテクニックでは無い
  いやそれはテクニックもあるけれど「考え方」に基づいていないと打てないと感じました。
 そして確かにこういう風に打たれたら白は手も足も出ないで負かされるだろうとも思うのです・・・
 それは「白の山型を地とさせる・・・白に囲わせても周りから寄せれば小さな地
しかない・・・その外側は黒の大地」示されれば簡単なことであり、黒からは接触戦のようなリスクも少ない。
 こういう考え方が出来れば、こういう風に戦略的に局面が見えれば・・・考えたとおりに打ち進めることが出来れば4子卒業なのでしょう。
 それはテクニックだけでは無く、ものの見方考え方を身につけるということ・全体のバランスを見ることでも有り『戦略があって戦い方を決める』ということでもあるでしょう。
 だからこれは単に4子卒業ということではなくて、更に棋力アップする地力をつけることが出来るいうことかも知れません。
 
 ということは、4子・5子局が多い黒いさんは囲碁の成長で大事な時期かも
  私は今F・K両氏と打っている5子局は、この先彼らが地力をつけて棋力が上がっていくか、何年たっても相変わらずの昼休み碁レベルかの分かれ道に立ち会っているのかも知れない・・・オーバーかな?
 オーバーついでに、正しいかどうか自信は無いけれど日頃感じていることを言ってしまうと「彼らは経験をつめば(このままいけば相当な局数の経験を積むと思う)今よりは置石で1目か2目は強くなるだろうが、もしかするとそこ止まり。この時期正しい努力の方法を取ることが大切で、それを怠るとそうなるかも知れない危険性が大きいような気がする。そこのところが日頃”楽しく碁を楽しむ”裏にある落とし穴かも」
 楽しい事は結構だけれど、楽しいこと意外にも大切なことが有る・・・そうだとしたら間接的にではあるけれど私の責任も0では無い。
  さてさて「盤上にこれから起こるであろうという未来を想像してイメージを作る」・・・都合の良い様に夢を見る・見たい夢を描くということもある。
 そういう時もあるでしょう 

その明日

2007-06-23 18:06:16 | Weblog
 「その明日」とは古い川柳から拝借しました。
 「その明日 橋の欄干 傷だらけ」 そうです弁慶が牛若丸相手に橋の上で大立ち回りをした次の日ということです。
 私の場合は、その前日に職場碁で、5子置かしているとは言え、良い所なく負けた次の日。
 
 その日の対局相手も前日に続いてFさんでした。
  囲碁のメンバーは3人なので誰かが手空きになる・・・Fさんはなんだか余裕を見せて「今日はKさんとどうですか?」などと言っています。
 なんだか昨日の余韻が伝わってくるような・・・これも盤外作戦か。
ところがKさんは「今日はダメ、Fさんとの夜なべで充分」と逃げ腰だから、Fさんとの連戦となりました。
 1階の休憩室に下りていく階段で雑談
私:「Fさんの家は近いのですか?」
 これは、よくFさんとKさんが残業?して夜なべ碁を打つので不思議でした。
 偶々先程そういう話が出たので訊いてみました。
K:「○○ニュータウンですから、車でも電車でも1時間半という所です」
 なんと夜10時半まで碁を打ったら、仮に深夜は渋滞が無いにしても1時間くらいかかるだろう。
 それに碁を打つつもりなら、朝車で来るでしょうね。
  そうか、Kさんもまた碁キチの一族でした。
 
 さて前日は向う5子で完璧にノックアウトされている。
  それは相手が5子で、かなり良い打ち方をしていたことが主たる原因だ!
 但し白の私が、やや情け無い手を打ったことも否定できない。
  ということはこの対局とその次が正念場でしょう
 白が気を引き締めて打って、黒のFさんが結果を出せるかが問題。
  昨日同様に白がすっ飛ばされたら、本物に近いと言える。
 そういうことで、三番手直りというのもなかなか合理的かも知れませんね・・・下手が3連勝しなければ手合いが変わらないというのは、やや大変かも知れませんがそこを乗り越えなければいけないハードルで筋肉がつくでしょう。
 さあ、今日もまた昨日同様にやられるだろうか?、それなら嬉しいような寂しいような・・・周囲の成長を喜ぶと同時に「マダマダ若い者には負けないぞ」という声のトーンが下がるような。

 こういう時の白の注意点を確認しながら、”会場”に降りていきました。
白が気をつけるべき点は取り敢えず(私が思うに)
 * 無理に勝ちに行かない
 * 昨日とは違う形で打つ ということだろうか
思うに昨日は白が無理をして・・・黒から「無理している」と見抜かれるほど無理をして重かった。
 だから白らしくないとも言える。
 * 今日は軽く打つが白のテーマ

 黒は昨日の勝利に味をしめたのか、白のカカリに手抜きをして碁盤の半分でがっちり打とうとしているように見える。
 何処かで見たことがある、「五子置き碁必勝法」みたいな気がする。
  なるほど、Fさんはきっとこれを勉強してきたに違いない・・・
 そこで、私も気持ちの上で再確認「白は勝つのではなく、黒が負けるときは黒が負けるように打つのだ!」
 結論から言うと、
  中盤戦で、黒から「当然利く」と打った手を白に手抜きされて流れが変わっていった。
 一見大きい手が、実は絶対手ではなくて、それは選択の範囲だったのです。
  その場面での最重要課題を白に指摘されたようなショックだろうか
  こういう動揺は、黒に連鎖反応的な失着を呼ぶことがよくある
 本当はそんな1手で急に白がよくなりはしないのだけれど、黒にはそれまでにやや損でも固く打ってきたようなところがあるから、気持ちの揺れは大きいのかも知れない。
 こういうことを通して、のっぴきならない戦いになるということでしょうか
  そういうことで今日は白の圧勝だったでしょう
 マア1時になって「ドンド晴れ」のテーマ曲が流れたので、途中で終わりにしましたが、大寄せに入る前に既に白地の方が良さそうでしたからTKOという所。
 今日は途中まではFさんも上手く打っていたけれど、途中で力尽きたという所ですね。
 でも5子がしんどくなってきている
  以前は6子になるかも知れないと思っていたのですが、嬉しい誤算です 

五子局のテーマ

2007-06-22 18:23:44 | Weblog
 今読んでいる「白江治彦の置碁戦略」で5子局のテーマは「形を整えて打つ」で二つの実戦進行譜が用意されていて、一つのサブテーマみたいなキーワードは「封じ込める」「連絡する」「後手の先手」。
 もう一つの局のキーワードは「全局を見る」「弱い石を攻める」「大場より急場」。
 いつも打っている5子局でこの通り打たれたら白は手も足も出ないのだけれど、「置き碁」で打っているという事は、こういう風に打ってもらわなければいけないいという面もある。
 別に私が困るわけではないのですが・・・
  私と打っている相手が、基本的な打ち方を身につけて白をやっつけてくれる・・・これを相撲とか勝負の世界では「恩返し」と言う。
 稽古で胸を貸した相手が力をつけてくれることですね・・・
  
 ところが
  今日の昼休みで、Fさんとの5子局でこの「置碁戦略」に出て来るように打たれて完敗したのです。
 戦いが好きなFさんが接触戦を仕掛けて来ない
  少々甘い所もあるけれど、がっちり守ってつけ込む隙がない。
 従って白は無理をするわけで・・・弱い石が複数出来て、それがカラミ攻めにあって投了となった。
「どうしたんですか、今日は弱い石が幾つも出来て・・・いつもの白と違いますね」
 (内心)こういうことを言わなければFさんはいい人なのにと思います
 黒が概ね正しく打てば、5子局はこうなるの様に出来ているのですから・・・
  「これだけのハンデをやっと正しく生かしたに過ぎない」と言ってしまえば白けるでしょうね。
 こういう負け方をするために5子局の相手をしているようなものなんだから、こうならないと困るわけです。
 でも相手から露骨にからかうようなことを言われると内心”ムッ”とするのですから・・・お互い人間が出来ていないということですね。

 尤も、常にこうなるかどうかが問題
  3番手直りですから、最低でも3回は続かないといけないということです。
 さあそこが問題です。
  これまでに勝敗で言うと5子でFさんが勝ったのは3回目くらい・・・10回くらいは彼が負けているはず。
 だから確率的にはなんとも言えないのだけれど、何となくコツを掴んだような<厭な><嬉しい>感じがします。

 私としては彼が強くなるのは嬉しいのだけれど、勝つと言いたい放題を言う性格に神経が逆撫でされる感じもないではなくて、複雑な心境ではある。
 ともかく、簡単には土俵を割らないところを見せたいのですが、白としては黒が悪手を打たなければ勝てないのですから、勝って喜びたいというのも変な話です。
 全く私が師匠とは言わないまでも”先輩的”な打ち方というのは「気持ちの持ちようが難しい」
 単なる勝ち負けを争う方が気が楽です。

 早く3子まで来てくれるといいですね、3子なら「勝負」という感じが出てきます 

孤独な戦い

2007-06-21 19:09:36 | Weblog
 チョッとオーバーに格好付けたタイトルですが、何のことは無い(何事に付け、よくあることだが)誰にも助けてもらえないということはよくあることという話に過ぎないのです。
 マラソンランナーみたいに42kmをひたすら走る・Qちゃんみたいにとか野口選手みたいに躍動的に、あるいは修行者みたいに・・・とは縁がなく、蜂の成分とかのドリンクCMの「○○ブー」みたいなものだから困ったものです。
 誰に文句も言えないけれどDNAについては両親始めご先祖様には恨み言を申し上げたい!
 尤も高校の頃までは長い距離は得意だったのだから、雲の上から何処からは自分の責任だといわれそうですが(大人になったら自分の顔に責任を持て!!みたいに)・・・
  高校時代は冬の体育の種目はサッカーと長距離(柔道もあったけれど)
 長距離は校内の大会があってこれは距離が約11kmで高校を出発して川沿いに土手の道を遡って蜜柑山の道を通って帰ってくるコース。
 体育の時間はこの大会に照準を合わせて、5,6km走
  本番の大会は1,2,3年全員同時スタート・・・約1000人が一斉スタートという凄まじいものです。
 当然運動系クラブの生徒も一緒です
  例えば野球部が30人くらいサッカー部が30人くらい、それにバスケ、テニス・・・水泳部が意外と早かったり剣道部も侮れない。
 こういうスポーツ系クラブの1年生には上級生から着順にノルマが課せられていて陸上部・サッカー部・野球部はノルマがきつい・・・だから1年生は必死。
 私はそれらには属していないからノルマはないし気が楽です
  山岳部・生物部・弁論部・応援部に重複登録してあり好きなときに好きなところへ顔を出すという気楽な浪人者みたいな部員でした。
 尤も生物は友達とのお付き合いだったし、弁論は部員確保に協力した幽霊部員的だったけれど・・・メインは応援と山岳
 このどちらもスポーツ系部員から見ると仲間はずれみたいなもの、年中近所の神社の石段でトレーニングをしていたけれど、裏山でのトレーニングだから山岳部が走るとは思っていなかったでしょう・・・走るということに関しては「アレッ?」。
 だから1年生の時に20番台でゴールしたのは快挙だったようです。
  ゴールに向かって校門をくぐると、ゴールラインまで残り100mですがそこまでのコース沿いには早くレースを終わった女子学生や先生・職員が声援を送りながら出迎えです。
 先頭争いは毎年野球部かサッカー部か陸上部などの選手たちで、上位は全て体育系です。
 そんなところへ私が混じっていたから、「何であいつがココにいるんだ!」「まさかズルして?」みたいな驚いた顔が並んでいたのを憶えています。
 マア山岳もスポーツの端くれだし、応援も一試合のスタミナが必要だから毎日走っていたのだけれど、誰も知らなかったのです。
    それに、それだけではなくて・・・
  校内マラソンの本番の時、私は「ともかく初めから飛ばしていける所まで行く」作戦だったので最初は100mダッシュ・・・そして出だしは上位グループの後ろについて行った。
 スタートしてから1,2km辺りで背中から声をかけられた
「オイ○○!ついて来い!!」
 それは野球部の3年生、当時としては何となく怖い存在です。
  相手は野球部員だから応援部の1年坊主の顔を知っているというわけです。
 でも名前まで知っているとは信じられないのですが・・・
 上級生に「ついて来い」といわれれば後のスタミナなど考える余裕など無く「行くしかない」
 だからそこから8km地点くらいはその先輩の背中を見ながら走った。
彼は余裕で先行ランナーを抜いていく
 私は先輩が怖いから必死についていく、(何が怖いのかわからないけれど)
  彼は残り2,3kmくらいの地点で「では行くからな、後は自分で頑張れ」と言い残してラストスパート・・・先輩は一桁着順。
 私の方はラストスパートなどできる力は無いから、そこの順位を守るのがやっと
    学校の相当手前で1着が到着の花火が上がる
  更にゴール近くでは”吐き気”との戦い
 戻し気味なのですが、丁度そこは女子生徒が見ているところ・・・顔はいかにも平気な顔をして・・・苦しかったけれど・皆が驚いてこっちを見ているのが今でも思い浮かぶ。
 ジイサマの長い思い出話ですみません 

 短距離は苦手でしたが距離が長いのは苦にしなかったのです
  ところが年令もあり病歴もあり全く走れなくなった。
 歩くのも本当は右足を引きずりぎみなのですが、そこは意地で他人様に気がつかれないように頑張っている。
 だから他の人と並んで歩くのは・・・実は顔は平気な顔でも内心必死なこともあるし、仕事上川の土手とかギャップを飛び降りたり飛び越したりは・・・ギブアップ(何となく遠回り・回り道で・・・いかにも慎重居士のフリ))。
  当然人に言っても良いのだけれど、なんだか意地というつっかい棒が外れてしまう気がするから家族にも言いたくないんです。
 どうも苦しくても、苦しいと言えない性格のようです。
  だから他人から見たら”あいつは大丈夫だろう”と何時だって助け舟の対象外
 
 
 どの道、運動でも囲碁でも、生きていくということは一人の戦いですよね。
  こう言い切ってしまうと、先輩や友人、家族の協力などなどいろんな助けを無視しているみたいですが、結局は・・・
 人生哲学ではありません。
  僻み半分、捩れた気性半分です
  単純に言うと、私が碁を左手で打つのだってそうではないでしょうか。

 昼休みの碁の相手のFさんは左利きで、私もリアル後では左打ち。
私は野球に関しては打つのは右ですが左でも打てた。
 但し投げるのは右、筆は右・・・箸・ハサミなどはどちらでもいいけれどどちらかと言えば右利き。
  そういう下地があったからチェンジしやすかったのです。
 それが病気後(箸とペン以外は)利き手が左になった(せざるを得なかった)・・・マア最近は不自然には見えないでしょうが
  この間も気がついたら左手でホッチキスを使っていた・・・マアこのくらいなら誰でも出来ることですが・・・
 最後に整地して地を数える時はどうしても右手の協力が必要。
   これだけは10年近くなるけれど・・・この作業の時は、自分が元々は右利きだったことを思い出さずにはいられない。
  右手は私に協力を拒否しませんが、どうにも不自然・・・右手の動きには自分自身がしっくりしない(歩く時の右足も)。
  局後に石を片付け碁笥に収める時も同じ・・・だから急いでもできっこないのだから決して急いで手際よくやろうとするのは禁物。
  急げば益々間抜けな手つきか、超ブキッチョなのがばれてしまう。
 おっとりした(スローモーな)性格の人間がマイペースで片付けるフリ・・・それが自分のMAXスピードだったり。
 自分ではそういう、見えないところで戦っている・・・つもり。
  本当はとっくに見抜かれていたり・・・「可哀相だから口に出さないだけ」かも知れないけれど。
 「何かと戦っている気分」がつっかい棒
誰も気にしていないことなのかもしれないから、只の見栄っ張りかも!? 
 

素直な手

2007-06-20 18:10:26 | Weblog
 確か関東地方も入梅したはずなんだけれど、それ以後雨に降られた記憶が無い。
 こういう感覚・記憶は、私の場合自転車通勤で雨具に傘を使わないで雨合羽専門なので、そのことと結びついている。
 家の女房殿の場合は洗濯物を外に干せるかどうか、毎週布団を干せるかどうかが最大の関心事だから、毎朝夕天気予報を見ない日は無いのだからTVの天気予報と実際の天気が結びついているに違いない。
 ともかく私の場合は、天気が怪しければビニールの袋に雨具一色+帽子を入れて持って外出するのですから、これを持って出なければいけないかどうかの選択です。
 さて自転車通勤で、雨の日などは同僚から「雨の日はたいへんですね」と声をかけてもらうのだけれど・・・ありがたいけれど・・・実は大して気にかけていないのです。
 本当のところは雨より風のほうが厭ですし。
  マアせっかく気を使って声をかけていただいたのですから、調子を合わせていますが・・・昔から雨に濡れることは左程に気にしない。
 濡れたらタオルで拭けば済むこと・乾いた服に着替えればいいだけくらいな開き直った気分です。
 但し濡れるのはいいけれど、そのままお店に入ったり、何処かにお邪魔するのは気が引けるので注意が必要くらいです。
 
 それに元々雨の日は嫌いではない
  降り始めると窓の外・町から聞こえてくる音が小さくなるような気がする、音が低くなるような気がする。
 そういう感じで、しっとり落ち着いた気分になる
  激しい雨と雷雨には気をつけますが、これは物理的に危険なことですからね

 ところで昔見たTVドラマで、ある女優さんのセリフが妙に頭に引っかかっていて、何十年も経っているのに憶えているのです。
 ドラマの題名も筋書きも忘れてしまったし、その女優さんが誰だったかも定かではないのですが、セリフの大筋だけは憶えている。
 女優さんの名前は覚えていないのだけれど、概ね加藤治子さんくらいの年配の方のような記憶はある。
「私は自分の子供たちが、雨が降ってきても平然と歩いているような人であって欲しくない・・・」だったか、それに似ているセリフだったか、前後の筋も忘れているのに、妙にこの部分だけ忘れていない。
 何故このセリフが忘れられないのか・・・
  多分私自身が、雨に濡れても平気なタチだったからでしょう。
 寧ろ雨ぐらいでバタバタと慌てるのが厭で、平然と歩くのがカッコイイと思っていた節があるから、なんだかそれを非難されたみたいで「何故そうなのか」引っかかっていたのだと思うのです。

 「自然な反応」「素直な行動」ということだろうか?
 人が喜ぶことを喜び、人が厭なものは嫌がる。
  笑う・泣くのと同じように「雨が降ってきたら、小走りに雨宿りに急ぐ」のが普通ということなのかも知れないから、敢えてそれに反する行動を取るのは人間に何処か問題があるのか・・・私の場合。

 さて強引に「普通」「自然」、「素直」という所へ漕ぎ着けました。
  話は碁に関することです・・・勝手に感じたことですが
 先日図書館から借りた「白江治彦の置碁戦略」で今「五子局」の所を読んでいます。
 これは前に話したとおり、昼間の職場碁に関連して4子、5子の置き碁に興味があるからです。
 まだ目を通すのは1回目ですが、感想で言うとタイトルの「戦略」は寧ろ文字通りの意味での「戦略」ではなく、実は「自然な手」「素直な手」という感じです。
 厚い手、例え後手でもシッカリした手、相手に迫っていないようでも相手からつけ込まれない手・・・そういう手・形を目指しているようです。
 白を「やっつける戦略」ではなく、そこにスッと立っていて動じない感じなのですね。
  しかもそのことが白に仕事をさせないように打ち進めることに繋がる。
 一見消極的な感じがもあるから、この手が良い手だと自信をもって打てるようになるならば、そのこと自体が棋力アップに繋がっているに違いない。
 「ぬるい手」と混同され易いし、その差が分かりにくい所もあるから、実戦でそういう手を選択するのも勇気が要るのでしょう・・・自分にも覚えがある。
 白に激しくぶつかって行くのが上達の道であり、そういう事がトレーニングみたいな勘違い(道の一つではあるだろうけれど)・・・常に激しく打っていないと安心できないみたいな。
 
 昼休みに向う5子局を打っていて、一番困るのは「黒が何にもやってこないこと」です・・・勿論白の打つ手にひたすら言うことを聞いて凹んでくれるのなら苦労はしないのですが。
 少々凹んだくらいでは形勢が動くほど5子局のハンデは小さくない。
  だから黒に動いてもらわないと困るのです。
 その積極性が白の薄みを突いて完膚なきまで撃破する(この場合は黒が強いのでしょう)ような好局となるか、自ら墓穴を掘るのかは微妙な所・・・でもともかく白にとってはチャンスでもある。
 マアこういうのも黒として勉強には違いないが白のチャンスは二分の一
しかし、黒にジックリ打たれるほうがより白のチャンスは小さいように感じている。
 昼のFさんKさんの5子局でも彼らが勝つときは、そういうストーリーのはずなんだけれど・・・
 つまり、白からつけ込む隙が無くて・・・5子の差は多少は詰まっても・・・白が少し無理をした所をやられる>>>こういうことの筈。
 これは黒がファイト満々でやってきて、捻り合った時と多少違うような気がする>>>いずれにしても白は「ヒーヒー」言ってはいますが。
 この辺の違いの「コツ」を掴んでくれると、5子から4子を通り過ぎて3子くらいになりそうなんですが・・・どうでしょうか。
 もしそうなったら嬉しい悲鳴。
  そうなったら、お尻に火がついた感じで頑張るだろう 

時間の使いどころ

2007-06-19 22:00:31 | Weblog
 先日ネットで変わった名前の人と打ちました。
 マアプロにもそういう人は居ますが何処にでも居そうな名前ではないから、もしかしたら一族か、家族だと想像は出来ます。
 ネットで検索すると、囲碁の文化交流にも関わっているとか・・・マアそういう話題ではないのですが。
 この方とは点数が近いからネットでは打つ機会があります。
  先日は悔しいことに・・・
 接触戦で、数手勝っていると思い込んでいたところが、1手負けで投了した。
  途中で手数の錯覚に気がつけば、その時点ではまだ1手勝ちの手順があったことを・・・後で発見した。
 自戦譜の検索で、割合簡単に見つかる程度の・・・
  こういう反省は「熱心に勉強している」とは言いがたい。
 終わってしまっていかんともしがたいこと・・・”覆水盆に帰らず”
  それこそ死んだ子の年を数える気分です。

 終わってからの”熱心さ”はやらないよりいいのだけれど、後でやっても追いつかない!!
 これがザルの哀しい性です。
  肝心のところで”抜け”ていて何度悔しい思いをしたことか・・・
 但し相手がやることもあるからオアイコ?
   ところで肝心なところで”抜ける”のは開き直って言うと”ザルだから仕方無い”のだ。
 ただ時間の使い方で先日気がついたことがあります。

 順序良く話をすると
  ネットに入場すると「対局待ち」にはNさんが居ます。
 深夜のこととて、なかなか相手が現れない模様。
  私も打ちたいのだけれど、なかなか思い切れない?
 つまりNさんのには良い印象がないのです。
  点数は私に常先くらいだけれど、いつもやられている印象があります。
 それも私の方が手も足もでない感じ・・・だからなんでこの人が私に常先なのか不思議でならない・・・対局には思わず二の足を踏みます。
 マア、勝てそうもない相手とは尻尾を巻いて対局を避けるのは情け無いから、清水の舞台から飛び降りる気分で”オファー”
 私が上手で白ですが「負けて元々」みたいなだらしない白
  マア慎重に打ち進めるという点だけはいいけれど、見方を変えれば”へっぴり腰”なだけです。
 中盤では少し・ほんの少し良いかなという感じ
  はっきりしない部分が多いから、あくまでも印象ではあります
 そこでワンチャンスを掴んだようです。
  白と黒の大石が捻り合って白は黒の大きな部分を取っている形・・・但し5手対6手の1手勝ちに過ぎないから、要するに攻め取りだし絶対のコウ立てが5回は利く。
 ココで、白から相手の石を更に分断するアテコミを発見した
  黒分断を拒否して繋がれば白は手順で2眼できるから、この時点で”攻め取り解消・・・現実の2目とダメ5目で後手7目であるし、コウ材も解消。
 もし黒が白に切断されると、大石は攻め合いとなるが、別の黒の石を取って白は生還・・・
 そこまで読みきった!
  間違いがあったらたいへんだから、2度3度確認を入れていると、私の手番で相手が投了した。
 さて私の消費時間は35分を回った所・・・マア残り10分あれば、秒読みを含めて何とかなる持ち時間・・・で、相手は残り37分!!
 ナント8分余りしか使っていない。
  「相手が相手だから時間が要らなかった」のか
  「私が考える時間に相手も考えていたということ」か?

 私が「勝ちきる手順を確認して、何度もチェックを入れている」時間
  まだ決め手となる手は盤上には現れていない・・・その時点でNさんは投了した。
 潔いというか、早見えというか・・・
  もし私が「決め手」に気がついていなかったら?・・・そんなことはないかも知れないが、私なら相手の打つ手を見てから決めるでしょうね。
 もし黒が白の強手を予測して心中に打ったとして結果は白の2目半勝ち、投了せずに終局まで打つと10目半勝ちだったようだけれど、まさか相手はそこまでは読んでいないだろうとは思う。

 ところで時間の使い方
  私はこの碁では割合早くから時間を使ったのですが、普段序盤は早いことも多い
 つまり布石は考えても分からないし、考えているというより迷っていることが多いのだから、考えても仕方ないから決断が早いということでしょうか・・・考えることを放棄しているつもりはないのですが、序盤は考えてもなかなか分からないことが多いから、善悪よりも好み優先になったりしています。
  善く言うと習熟度の高い作戦を選んでいるのですが、このことを反対側から見ると”馬鹿の一つ憶え!!”
 そこのところがプロの諸先生やアマの高段者とは違うのでしょうね。
  彼らは考えても分からないなどとは簡単には諦めない人たちでしょう。
 実際には100%何でも分かるのではないにしても、泥沼・草原に踏み込んだ深さも広がりも違うから、この差はあらゆる面で出て来るでしょうね。
 したがって序盤の時間の使い方が全く違う
  コチトラは困ったことが起きてから時間を使うのだから、全くわかりやすい


ひらめき ネェ

2007-06-18 18:42:31 | Weblog
 「俺は考えて打っていないから・・・」(だから致命的なミスをして好局を落としてしまう)
 これは昼休みのFさんの言い訳的発言。
  この言葉に「肝心な時に」とかついていればまだ良いのですが・・・
 さっきの発言は、「もしミスをしなければ」という意味でなら「当然な
ことですね」
 ミスをした方が負けることになっているのですから。
  但し「考えればミスをしない」という意味が込められていたりすると穏やかではない・・・つまり「考えて打てばアンタには負けない」と聞こえないだろうか?
 考えすぎ・深読みに過ぎるかな?
  少なくとも「囲碁という考えることを楽しむゲーム」を考えない相手に付き合っているということになるから、相手の立場など無視した発言だろうな?
 ここまでは二人で楽しむゲームの片割れの私についてのこととすれば、気にしないようにすればいい

 「俺はヒラメキで打つから・・・」こういう発言に弱い
 ザル同士の囲碁なのだから、言いたい放題も楽しみの内として放って置けばいいのは分かっているのだけれど・・・どうにも居心地が悪い。
 本当は「ヒラメキで打つ」=「単に反射的に打つ」だけのこと
  そんなことは本人も分かっているとは思うのだけれど、万一自覚無しにこの言葉を使っているかも知れないから、Fさんの言葉にチェックを入れたいのだが。
  実際には口には出していません・・・喉元まで詰まっている言葉がある。
 「ヒラメキ」などという言葉は、私らが日常的に起こることとして使うのは、その道の天才に失礼だろう・・・マジでそんな風に考えるのだから私も石頭か?
 いや、素人でも「ひらめく」事はあるだろう・無いとは言いません。
  私だってそう思いたい記憶はある。
   でもそういうことを、「ヒラメキ」とは呼ばなくて、自分のことならば「思いつき」と呼びたいですね。
 
 昔から素晴らしい発明発見が天才のヒラメキから生まれたことは事実としてある
  しかしそれは、日頃の努力という下敷きがあってのこと
 例えば囲碁のことでは、何処かで読んだ話ですが・・・
趙治勲が大一番でも思い切った手を打つことについて、ある棋士が訊ねたところ
「日頃から、早碁などでいろんな形を試しているから、今日急に思いついたわけではない・・・そういう勉強もやらなくては・・・」みたいな返事だったとか。
 「ひらめいた手」を実戦で試しているように見えて、実は裏づけがあるというプロの怖さでしょう。
 現実にその場で思いついた手をそのまま打つプロ棋士はいないと思う(一か八かなら別だけど)
 必ず読みの裏づけを取るでしょう。
  だから「思いついた手」=「ヒラメキ」というのには腹が立つ思い

 確かに私も思いつきで打つことは多い・・・でも「読みを加えているつもり」・・・悲しいかな正確性に欠けるのです!!
 それでは五十歩百歩ではないか・・・確かにその通りなのですが
  でも「今できる最善を尽くす」これがあるかないかでだいぶ違いがあるはずだと考えている。
 厳しい言い方(本人がこれを読んでいないはずなので)をすると、彼と私の5子という置石はその差ではないだろうか? 
 

今週の本

2007-06-17 22:20:50 | Weblog
土曜日は図書館で(隔週)本を借りる日です。
 近所のコミュニティセンターの中に図書館があって、本を借りた後、コミュニティの静養室(囲碁・将棋が使っている畳部屋)に顔を出すという段取り。
借りられる期限が2週間、本は最高10冊までという規則です・・・尤も2週間でそんなに読めませんから、私は本の活字の大きさとか分量とか考えてだいたい1回に4,5冊でそのうちの1冊が囲碁の本というのが定石。
  トートバッグで図書館に行きます。 
 昨日の子供の碁会の話もそこでのことです。
  さて今週借りた本で囲碁関係は
「白江治彦の 置碁戦略」 白江治彦 NHK囲碁シリーズ 2005年
 9子から4子までのことが書いてあります。
  何故この本を借りる気になったかというと、動機は職場の昼休み碁です
 FさんKさんを相手に現在は5子局を打っています。
  白(私)なかなかよく打っている・・・(自分で言うのだから怖い性格)
 でも少し疑問点もある
  嵌め手やゴマカシ手は使わないようにしているのですが、彼らが勝手に間違えた時は、その弱点を突きます。
 そこのところは寧ろ、咎めなくてはいけないとは思っています。
  そんなことで対戦成績は3番手直りで6子に迫る勢いなのですが、”そんなことで良いのか?”という疑問があるのです。
 昼の職場碁ですから「お楽しみ」と「指導碁」的の二つの要素があるわけで、単なる勝ち負けならば勝率が高ければいいのです・・・が
 気持ちの裏側には彼らに”強くなって欲しい”という面もある
  だから、この本を勉強して・・・勿論何子局であっても「その局面での最善・最強を探す」「大きく盤面全体を見る」というようなことで、昼休みの彼らに間接的ではあるが伝えるべきものを確認したい・・・そういうつもり。
 だから「置き碁の本」に書かれていることを学んでもらえるように心して打つための勉強・・・これは思い上がりみたいな感じで気が引けるのだが 
 今までにも、あまりにもひどい間違い・無自覚的な対応についてとか、同じミスをミスとは思わないで繰り返している時、勝手に嵌ってしまう時など、局後に指摘しては来たけれど。
 そういう解説的なこと意外に、黒さんが良い打ち方が出来るような白の打ち方を探すつもりもあるのです。
 マア、彼らは白に良い勝ち方をして自信をつけてもらう・・・「弱い白だ」と思うかもしれませんが。
 あまりに露骨に教えると「友達を無くす」ことになりかねない・・・この辺りが「職場の難しさ!?」

 さて囲碁の本ではないけれど借りた本
「好妻好局」 升田静尾(語り)藤田健二(記) 1996年
 私は囲碁以前に将棋を憶えました、これは5才の時
  5才で憶えたといっても残念ながら天才児ではありません
 ただ駒を動かせる程度で、弱い大人の人の暇つぶしの相手くらいだったでしょう
  その辺のいきさつはこのブログを始めた頃に書いています。
 というのはこのことが、囲碁を憶えるに至った間接的な原因だからです。
  それはともかく
 小学生時代は野球少年でもあったから、新聞のスポーツ欄は必ず目を通します
  (当時の小学生は新聞を読んだのです・・・今は大人も読まない人が多い)
 それでスポーツ欄の下にある将棋欄は必ず読みます(囲碁欄も見ていた)
  その頃は大山さんが強かった、加藤一二三さんが学生棋士として現れた頃だった。
 花村とか灘とか個性的な棋士が多かったのですが、私は升田が好きだった。
  (語りは升田棋士の奥さん)
  理由は憶えていないけれど
 世の中巨人大鵬卵焼き時代かそれに近くなっていく頃だと思う・・・将棋界で言えば「大山が憎らしいほど?強い」・・・でも升田が好きだった。

 さて本の内容は回顧談の聞き書き・・・ゴーストライター形式になっていないところが良い。
 内容はかなり抑え気味・・・つまり升田本人が発言していたり本に書いたこと意外は「実はアレの真相は・・・」みたいな暴露的内容は無い・・・それが良い。
 淡々と回想しています(実際はいろんなことがあったでしょが)
  この本が出てから10年以上たってからこんなことを書いている私も相当間抜けですね。
 この中で二つ面白い話がありました(本当はたくさんあるのですが)
升田さんは囲碁が好きでよく碁会所にも出かけたということです。
 (体調を崩してリーグ戦を欠場して自宅療養しているときなど)
 それで奥さんが「将棋指しが囲碁に夢中になるなんてどういうことでしょう」と聞いたところ
「将棋は命がけの仕事、囲碁は楽しみなんだ。休養しながら勝負勘を養うのはこれしかない」と、もう一つは升田さんの言葉で、オリジナルかどうかは知りませんが「着眼大局 着手小局」
 これは道を究めた人で無いと口には出来ないですね。
  私が言うと、聞いた人の口が少し歪むか、鼻で「フン」だろう

 本といえば(実際は雑誌ですが)NHK囲碁講座6月号
先崎将棋八段のコラムが好いですね。
 「ケイマの両アタリ」というタイトル(囲碁講座ですよ)
  彼は囲碁界から穂坂繭さんをサラッた人ですから囲碁関係の雑誌に書くのでしょう。
 話は「定石の丸暗記」について
  彼は実戦が極端に少ないそうですが碁は形が重要なゲームだと感じ、古本屋で初級者にはふさわしくない定石の本を買ってきてひたすら碁盤に並べ・・・
 こういうところがプロらしい気がします。
  囲碁ではなく将棋のプロでも勉強しようとすると”徹底性”を感じます
 プロの中には「定石の丸暗記はダメ」「定石は覚えて忘れろ」という人がいますが、プロ棋士本人が徹底的に勉強した後に言っているか、常に場面で「最強・最善」を捻り出す訓練をしてきたから言える(つまり定石を打つのではなくて、打つ手が定石となっている)。
 それで、今週借りた白江さんの本では
「定石の丸暗記自体は良いのですが、ノウハウを鵜呑みにするだけではヘボ筋になりかねません」
「手に意味の理解思考力」・・・これが「基礎体力」・・・「上達への早道」

 昔から道と名のつくものは形から教えられてきた(最近は少し違うかも)
 論語も百回読めば自ずから意味が分かる・・・本当かどうか分かりませんが

ショック! アメージング!

2007-06-16 21:52:35 | Weblog
 夕べから今日にかけて驚くことが重なりました。
 夕べはいつものネットで同じ点数の人と対局・・・どういう決め方は知らないのですが、パソコンの中で何かの機能で私が白番になっていて相手が先でコミ6目半出し・・・このあたり何の変哲もない。
 序盤もどうという大きな変化も無い進行ですが、コミを貰えるという立場ではやや打ちやすいかなと思っていました。
 それは、反対側からみた相手の形勢判断も同じだったか、途中から強引というか少し無理気味な手が出てきたように感じて・・・
 マア、言葉は適当かどうかは分かりませんが、白が黒を”いなす”
  それでも無理気味に来たら石を捕獲するという流れ。
 だから中盤の中ごろではかなり大差でのリードを意識した
  こういう時は相手へのお付き合いというか、相手の強引な攻めに付き合ってしまうというか・・・巻き込まれるのが怖い。
 かといって慎重になりすぎるのも、流れを悪くする面もあるので・・・怯みすぎ=凹みがイヤです。
 だから案外持ち時間は使うものです。
  こういう”良い碁”は落とせませんからいつも以上に慎重
 相手もかなり時間は使う>>これは逆転を狙っているのだから当たり前か?
  でも、どうも様子がおかしい。
 ”劣勢のはずの黒が淡々と打ち進めている”
 これは私の地合い計算・形勢判断に何処か大間違いがあるのだろうか?
  それとも、繋がっていると思っている白が何処かで切れていて、実は黒大優勢?・・・他には考えられないのだけれど。
 何度も盤上を点検するのだけれど、どうにもよく分からない
  結局黒は最後のカケ目を継いで終局
 パソコンの集計で「白64目半勝ち」と出た
  手続きとして「結果を承認するかどうか、サインアップ」
 私は当然「承認」ですが、相手の方は時間がかかります
  何処かに勘違いがあったのだろう、だから結果に驚いて確認作業中?
 そして画面が変わって白64目半勝ちから白中押し勝ちになった!
「投了というサインアップ!?」
 盤上の目差を認めたという意味だろうか?、自分と同点の人とこれでは気持ちが良くない
   どういう結果でも1勝は1勝ではあるけれど・・・そこまで打って・・・しかもソコソコ時間を使って。
 もっとも終盤は盤上の戦いは勿論ですが、自分の「何故相手は投了しないのだろうか?」「もしかして勘違いは私の側か?」などと猜疑心との戦いでもあったのですが。

  一夜明けて土曜日は隔週の習慣の図書館です
  わざわざ時間調整して、本を借り終わるのを10時くらいにして、コミュニティの囲碁部屋に行きました。
 部屋には”会長”一人です
  聞くと最近は子供がこなくなったそうで、相手をするおじさんたちの集まりも良くないとか、
 彼に誘われて「一局」ということになった
  ココでは会員同士は点数制でカードを使うので、彼は「カードなら誰とでも気楽に打てます」としきりに薦める。
  本当に私の顔を忘れているのだろうか・・・そんな気がする。
 マア私は久しぶりとはいえ会員なので戸棚を探すと古いカードを発見。
  点数を見て彼は「私の方が6点上だから貴方が先で白から先渡し1目コミで、ジゴ白勝ち」と言い渡された
 <心の中で「!!!」>
何時から会長が私より上の点数になったのだろう?
 彼は私に2つか3つ置くはずなんだけれど、そして彼がいつも互い先で打っているNさんは私に3つの手合い
 いつの間にか点数というレートが変動したのだろうか?
 <でもルールであれば仕方無い、口には出さず、平然と>
「それではお願いします」
 万が一もし負けたりしたら・・・イヤそんなことは考えては・・・
  でも向う3子の相手でも、平手で負ける事だって無いとはいえない!
 結果は、相手がボロボロになって投了
続いての2局目も似たような結果だった。
  やはり向う3子の相手が、白を持っているのだからそれは当然予想されることだと私は思ったのだけれど・・・
 会長は何故そうなるのか不思議だったらしい・・・つまり彼の感覚では「今日は調子が悪い!」ということらしい
 彼は「カードに○を二つ書いて、2点上げておいて」と言って座を立ちました
このとき私の頭に悪魔的よからぬ想像「彼は負けても×をつけないことがあるのではないだろうか?」(彼はカードに未記入だと思う・後で記入するのだろうか?)
 マア、いずれにしてもココでの1勝はあまり意味が無い
  尤も、負けたとしたら「普段偉そうな顔をしていても、だらしが無いんですね」ということになりそうな気はする。
 勝ってもどうということもないのに、負けられない碁を打ったということでしょう

 さて「最近子供が集まらない」とうこと、この方が大きな問題ですね
 自分がたいした手伝いもしていないので言いにくいことではあるけれど・・・
  今までのやり方では遅かれ早かれこうなったでしょう。
 つまり会の趣旨が何となく分かるのですが、はっきりしないのです。
何となく子供とオジサン・御爺ちゃん連中の対局・・・それはそれで交流という意味で無意味だとは言いませんが、長く続けるにはもっとはっきりした意味付けも必要な気がします。
 自然に消滅する方向にあるようです
  お祖父ちゃんが、孫を縁側に呼んで「一局打とうか」ということを、コミュでやろうとしている感じから、一歩も踏み出していない?。
 親御さんにしては、悪いことではないし、碁が打てる子供に「打っておいで」というだろうが
  では打つとどうなるのかという事がはっきりしない
 「子供の碁が成長する」
 「囲碁以外の面でも好い影響がある」
こういうものが全く無いとは言いませんが、それはこのコミュでの子供碁会での結果であって、相当あやふやになっていると思うのです。
 ココでこういう趣旨の子供との碁を打つ企画が行われていることはコミュの掲示板などで公示されていないのですから、最初に戻って、コミュニティセンターに「子供囲碁会」をはっきり作って「碁を広める」「棋力アップ」「作法などを身につける」という目的をはっきりさせて再出発するしかない。
  今ならまだ間に合うだろうか?
   しかしこういうことは自分が中心でやる気で言い出さなくてはいけないだろう!?
 それに今まで何となくボランティア参加していたおじさんたちも目的に沿って組織しないとけないでしょう。
  更にはカリキュラムなど作ったり、子供の相手をする活動の中心になる人が必要だ。
 ムムッ!、となると皆に提案するのにも足場がいる・・・もう少しココに通って自分の存在をはっきりしないといけないだろう・・・めったに来ないのでは物は言えない。
 しかも、流れを変えるのは難しそう