なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

中途半端な1日

2009-12-31 00:30:36 | Weblog
 新年の初めが元旦・・・これは言葉としてほぼ理解できたのはいつだっただろうか?。
子供の頃は「元旦」と言うものだと思っていたから全く疑問などには思わなかった筈です。
 年賀状にも書初めの名前のところにも書く「文字」ですから、文字としては知ってはいる。
  「旦」は”一”と”日”を縦に並べた。
 午前中と言うか朝だっと記憶している・・・形として水平線か地平線から日が昇って来る形だった筈:中国の文字が始まった頃の文化の中心地の地形を考えたらきっと地平線でしょうね。
 そして「元」ですから一年の始まりを意味する。
  さてさて、暇な事を考えています。
 
 と言うのも、個人的でしょうが12月30日はどうも中途半端な感じの一日なので、考えることもまとまりが無いような気がします。
 一年の始まりが元旦で最後が大晦日。
  普段の月初めが月旦(この言葉に出会ったのは”三国志”の曹操についての記述から)で最後がただの晦日・・・大晦日とか言葉できちんと位置づけられた日と違って30日に名札を付けるとすると「大晦日の1日前」という事になりそうです。
 本来ならば元旦であれ誕生日であれ生涯の中の1日に過ぎない・・・個人的に何かの区切りとしているか、社会全体で区切りとしているかは別として、いつものように日が昇り、いつものように日が沈む、何の変哲もないタダの1日。
 紙と鉛筆で計算するとこれまでに2万数千日繰り返してきた事になる。
  平均値ではあと1万日は続くかも・・・無理かもしれないが。
 なんとなく暇でブルーな日です。

 いつものようにネット碁に接続。
  どうもタイミングが悪いようでしかるべき点数の相手がスタンバイしていません。
 たまに同じくらいの人が「待ち」登録になっても「サンサン棋院」条件(持ち時間45分+時間を使いきったら1手30秒以内)・・・理由ははっきりしないけれど今日は「早碁」の気分なのです。
 一手打つごとに秒読みが始まり・・・「10秒・・・20秒・・・」この緊張感が無いと今日みたいな日は気持ちが高まって行かない感じがするのです。
 サンサン条件ですと初めから45分の持ち時間があるので、気持ちがゆったりは良いのですが、今日みたいな日はそれが弛緩に繋がりそうな感じがしてしまう。
 マア、それでも規定で1手は最長5分以内に打つことにはなっていますが、それでも熟考と言うより気持ちが沈むような・・・。

 対局しないで一時観戦に回りました。
  中盤戦からの観戦・・・両者厳しく戦っているようには見えますが、どうも終盤を前に形勢が傾いているように感じます。
 隅の占有率、辺、中央の模様は、まずは絵柄的な印象で判断(これは後で数えた結果と比較して印象が正しいかどうかのトレーニングみたいなもの)。
 そして確定地と+アルファーの可能性を考察してヨセを考えて行きます。
  これらは実際に打っている人とは別の見物人の作業ですから、着手を横目に見ながら数えると言う感じですね。
 さて、盤上では半コウ絡みの争いが繰り返されています。
  半コウを取って継ぐことが出来れば他に1目出来るので・・・「半コウ取り」・「相手が他に打つ」・「半コウ継ぐ」と言う一連の形ですから取りと継ぎで実際の大きさは2目、それについて自分で2手打つわけですから1手は1目の価値しかない・・・しかも相手が他に打つ手の評価があるので実際には1目以下、ここは一見大きく感じているのかもしれないが小さい場所。
 しかし「相手が譲れないからこちらも譲るわけにはいかない」という心理かもしれません・・・こういうのが実戦心理と言うものだろうか?
 実際には他に先手1目とか後手2目などいくつか転がっているのに・・・更に言うと「ここがどういう結果になろうと勝敗には影響が無い」のです。

 俗に「碁に負けてもコウ負けるな」と言います・・・碁会所ではからかい半分の言葉でしょうが、素人としては気分としては理解できます。
 ともかく最後まで打つと言う事で打っているのか
 コウ勝った時点で投了する感じなのか
 あるいは投了と言う文字は辞書にないのか
  
 いくら暇な見物人としても、最後まで見る気持ちが薄れたところで対局室から離脱。
  年末年始6連休は終わって見ればあっけ無いと思う筈ですが、年末と年始を分けてみると前半は「だらだらと過ごし」後半は「瞬く間に終わる」。
 29日は「さあ今日から連休始まり」というような感じも有るけれど、30日は「大晦日の前の日」。
 結局は「読書」「ネット碁」「TV」の三択の繰り返し・・・これをあと数千日繰り返すかも知れません。

 今年最後の更新になりそうです。
  今年も1年ありがとうございました。
 来年もまた是非お付き合いのほどよろしくお願いします。
 
 

巣籠もり

2009-12-30 00:04:58 | Weblog
 昨日の朝のTV番組で「巣籠もり」と言うキーワードでいろいろなものが紹介されていました。
 巣籠もり「ビジネス」とか「商品」とかがあるらしい。
  時期的には年末休暇で自宅を動かない感じでしょうか。
 これは部屋なら出ないとか家から出ないとかの引き籠りではなくて、「遠出をしない」とか「準備が面倒な外出はしない」と言う感じでしょうか。
  必ずしも旅行しないわけで無くて、例えば「御殿場当たりのブランド店、アウトレットのバーゲン」と三島大社の初もうでをセットにして安いバスツアーとして・・・これが巣籠もり族をターゲットにして人気だとか。
 
 おせち料理などの企画があるらしい。
 豪華だが高価なものでは無くて、1,2日で食べる程度の量・大晦日アタリに割安で買えるセットを売るのだとか・・・何故かこれも範疇にはいるらしい。

 私もここ15年は巣籠もり族だし、性格では巣籠もりの先駆者みたいなパターンを繰り返しているけれど、こういう商品用意されていても、ちょっとピンとこない感じはする。
 単に無精なだけですね。

 ”巣籠もり”というキーワードでネット検索すると・・・レシピの「巣籠もり」がずらりと並びます。
 「巣籠もり卵」類が多い。
 イメージとしては卵を半熟ぐらいに固めた感じ。
 材料の組み合わせで、ホウレンソウならポパイエッグ、ピーマンとか千切りキャベツとかの組み合わせもある。
 調理時間5分でカロリーは110カロリーですから、お勧め的なので何時かやって見ることにします。

 碁会所では何と言っても巣籠もりと言えば「ツルのスゴモリ」
  碁を知らない人が聞いたら、多分第一印象では「奇麗」なイメージでしょう。
 マア成功した方にとっては鮮やか・爽快な手筋ですが、やられた方はその分落ち込みそうな手筋です。
 基本の打って返しの形で名づけられたと思いますが、白石が取られると視覚的にもツルの打ち死に。
  
 そうそう碁会所仲間のKさんなどは、からかい言葉で「豚のスゴモリ」。
 いかにも囲いの中で丸々太らせたイメージ。
  これがもっと口の悪いIさんになると「オッツ!逃げ出したな。わしは養豚業者ジャケンノウ」となる・・・怪しげな方言で。(この場合は巣籠もりではないけれど・・・)。
 「クマの巣籠もり」と言うのもある。
 イメージは熊の冬眠でしょう・・・黒の大石が白い石に囲まれて一応は生きているけれど出ることが出来ない状態。
 雪が解けるみたいに白壁が崩壊しない限り出ることはできない。

 さてさて1月3日までの巣籠もりの6日間は始まりました。

長い休みの前に

2009-12-29 01:22:42 | Weblog
 俗に盆暮れと言いますが、長い休みの時期です。
  サービス業ですと皆が休みの時はそうはいきませんが、一応6連休で、ちょっとした海外旅行も可能な休暇。
 お隣の韓国に行くだけなら1泊2日でも可能ではあるけれど、これは余りにももったいない・・・せめて3泊4日くらいは必要・・・個人的には1週間くらいは時間が欲しいと思っています。
 マア、決定の条件は費用対効果と言うことでしょう。
  但し、幾ら予算に余裕があっても時間が無い人にはスケジュールの制約が優先でしょうし、逆に時間があっても予算が足りない場合もある筈です。
  それと行き先によっては、滞在して見るところ、やれる事の標準みたいなことがあるから、自ずと滞在日数があるかもしれません。
 
 昔ですと、積み立てた資金で職員旅行と言うのがありました。
  これが関東から出発して、「北海道で宴会をして翌日には帰る」とか「飛行機で長崎に行って、翌日ハウステンボスに寄って帰る」など・・・何で飛行機で旅行して宴会をしなくてはいけないのか理解に苦しむ「親睦旅行」もありました。
  マア、宴会と土産物を買うための旅行ですね。
 私は下戸でもあり、こういう意味不明のものは遠慮させて頂いておりまして、こういう日は碁会所で閉店時間まで碁を打って、徹夜・あるいは翌日にはネットで打ったり観戦する方を選択していました。

 ところで盆暮れ
  日本・韓国・中国などでは国によってお正月の設定が違うかも知れませんが、この東アジア方面では新しい年は故郷で迎えたいという習慣があります。
 中国の帰省直行バスの記録フィルムを見たことがありますが、車中泊・2泊3日くらいの急行バスで帰る旅・・・凄いですね。
 私は親不幸と言うかものぐさで、車で2時間のところでもめったに帰ることは有りません・・・学生時代2年くらい手紙・電話音信不通だったこともある親不幸記録保持者?だったくらい。
 そう言えば正月に限って言えば15年か20年は故郷で新年を迎えたことは無い・・・女房殿の場合は毎年日帰りか1泊で行っていますが。

 この時期ネットではいつも忙しい人たちが腰を据えて囲碁を打てるので(推測)、いつもと少し違うメンバーになっていたりします。
 いつもなら休日か夜遅くにしか打てない人が昼間から打てる筈・・・
  推測ではありますが、打ち盛りみたいな人と打てるチャンスでもあり、その分下手な手を打てば一発で吹っ飛ばされる時期でもある。
 本来いつだってそうだとは思いますが特にそう思う時期です。

 今年はカレンダーの巡り合わせがよろいく無くて12月29日から1月3日までの休みに土日がピッタリ収まっていますから、全くの規定通りの6日間です。
 何だか少し損をしている気分ですが、24日25日と休暇を取り合わせて28日も休暇を取ると何と11連休・・・私は30日は年休を持っているのですが、対外的手続き業務・窓口での書類受付業務を担当しているので、実行する度胸は有りません。
 せめて28日を休めば9連休だったのに・・・
  尤も、仕事をしながら体と頭は休んでいるかもしれませんけれど。

 今年は29日のサッカーの試合結果によっては、即1月1日の国立競技場のチケットを買いに走る予定。
 但し結果が悪ければ出かける予定無しで、地元の神社にも詣でる予定無し・・・6日間本とTVとネット漬けになる筈です。
  そして4日の朝にきっと「6日間なんてあっけなかった」と言う筈です。
 

餅つき

2009-12-28 00:20:59 | Weblog
 餅つきをやったと言う話では無くて、子供時代は12月の28日か29日ごろに餅つきをしたものだということが思い出される。
 会社の工場の大きな建物の隅の方を改造して3軒の社宅ゾーンがありました・・・家はそこの一軒です。
 現在ならこういう建物が居住と工場の共用あるいは工場の一部転用は許されるのかどうか疑問ではあるけれど、ともかくそういう空間。
 イメージとしては狭くてゴチャゴチャしていそうですが、これが案外そうでも無かったのです。
 1階の畳の部屋が12畳、6畳、4畳、それに3畳と4.5畳くらいの板の間が
あって台所、それに2階は屋根裏っぽいけれど10畳分くらいのスペース。
 おまけに私の本箱などが占拠している2畳分くらいの板の間。
 畳は今と違って昔サイズですから91×182,3センチある。
 今から考えれば結構な広さですが、要するに夫婦と5人の子供がいたから広くは感じなかったのでしょう。
 でも家賃・電気・水道など一切無料だったのですから感謝でしょう・・・。
  それに家の前には7,8メートル四方の庭がついていたのですから、見てくれボロ社宅でも文句は言えませんね。
 
 この庭スペースで年末は餅つきをやるのです。
 社宅3家族が協力して共同でやります。
  燃料などは薪ならいくらでもあるので、蒸し器でもち米を蒸かしまして、杵と臼で餅つき大会です。
 杵でつくのは各家のオヤジさんと会社の若くて力のある人が助っ人参加、カエシはおかみさん連中・・・私?、過去に一度だけ杵を持たしてもらいましたが、臼の縁を叩いたり杵を壊しそうなので即失格退場でした。
 野球では結構バッティングは良いのですが、これはかなり勝手が違う・・・初めての体験以来50年は杵を握ったことが無いし、今後も無いでしょうね。

 ともかくこの時期は餅をつく時期ですね。
  何でこの時期か?・・・多分ついた餅をのし餅にした場合(地方によってはついた直後に丸餅にするらしいのですが、それだと切る必要は無い)、餅が適当に硬すぎず柔らか過ぎないタイミングで一個づつに切らなくてはいけないわけで、これが多分年内に出来るタイミングだったのだろうと想像できます。
 この地方では鏡餅の他はのし餅にして切り餅とします。

 さて切り餅1個の大きさは近年随分小さくなりました。
  子供時代に都会では一個がマッチサイズと聞いて「嘘だ!?」と思いました。
 田舎のことですからその3倍から5倍はあった筈です・・・まさに「田舎餅」と言うべき大きさです。
 マッチサイズで茶碗1杯分のカロリーだとか・・・子供時代は田舎サイズを一度に3個は食べたものです・・・すると茶碗10から15杯?。

 今は買ってきた切り餅が冷蔵庫にある程度・・・まさにマッチ箱サイズ。
  それで生活習慣病クリニックの先生は「お正月は特にカロリー・栄養バランスに気をつけて・・・」という注意があります。
 当然マッチ箱サイズ1個以内がリミット。
  昨年は・・・1個も食べていない。
 生来のへそ曲がりですから「1個までは良い」と言われると「そこまで言われて食べる気がしない」と反応する心理があります。
 昨年は元旦の雑煮をスルーし安部川餅もキナ粉もパス・・・
  性格です・・・禁煙は一発で成功しましたがこれは日々60本から一気に0本としたので成功したのです・・・禁煙は出来ても節煙は出来ないのですから。
 お餅の場合も1個なら良いと言うのは、私にとって難しい事なのです。
  何事にも呼び水があるので程々という加減が難しい、いっそ「禁止の方が楽なのです」
 お酒の場合はどうなんでしょうね。
  私は下戸ですから当然消費量は料理用以外は0
 父も若い頃はそんな程度だった・・・ビールコップ1杯で真っ赤になっていましたが・・・飲酒習慣と言うか生活が変わった途端、1升~2升に変化。
 マア飲んで性格が変わると言うことは有りませんでしたが、私にしても0宣言を返上すると劇的に変化する可能性を秘めているのかもしれません。
 自分の中にある隠れた遺伝子がいつ表に出るか怖いですね。
  アルコールもカロリーも0と1の間にはこういう恐怖感がある。
 仮に飲むようになったら、多分セルフコントロールが苦手だろうし、持病もあることですから命がけで飲む?事になりそうです。
 この危険を避けるためにも下戸でなければいけないのです。

 ともあれお餅1個なら良いと言う「1」が怖い。

田舎初段?、段級位レート

2009-12-27 06:44:13 | Weblog
 碁会所で碁を打っていると、いろんな会話の断片が耳に入って来る。
  その中で、昔聞いた言葉で正しい意味を理解できないまま記憶にだけは残っているものがあります。
 例えば「田舎初段」・・・これは分かるような分からないような言葉です。
  例えば対して強くないのに田舎では井の中の蛙みたいに「俺は初段だ」と威張っているような事なんでしょうか。
 何十年か前に聞いたのですが、私のその頃の感じでは正しいかどうかは分かりませんが都会の碁会所の方が段位がインフレで地方の方が辛い感じがしていたので、先ほど言った意味との整合性は取れません。
 それに「田舎○○」と言えば見てくれは悪くても中身は充実しているようなイメージがある・・・田舎饅頭なんてその良い例のような気がします。
 恰好は悪くても餡が詰まっている・・・都会風と言うと上品な晒し餡に和三盆の甘み、田舎風は粒餡がぎっしりで禅田茂一回りは大きい感じ。

 ですから都会の初段(勿論アマ)はセンスが良いけれどやや華奢で田舎初段と言うのは無骨で力強い・・・勝負ですから強い方が良さそうで、さてこれも少し違うか。
 考えられるのは江戸時代に秀策が若い頃に打った耳赤の相手・・・あの人が外国に渡航を計って資金稼ぎに九州方面で免状を乱発したと言う話で・・・従って甘い段位で資金を稼いだ(どこかの棋院に似ています)、結果権威ある筈の段位がこの方面でインフレになって因碩初段と言うとか。
 あの例を取って「田舎初段」なんだろうか?良く分からない。

 江戸時代はともかく明治時代なら「段」がつけば相当強かった筈です。
  プロとアマの間で段級を割り切っていなかったところがある。
 秀策の時代に確か仙太夫とかいう松代藩の家老様が2子とか先で番碁の棋譜を残している・・・段はプロもアマも無い時代ですから当時のトップアマでしょう。
 従って明治になって多少甘くなる傾向があったとしても、「隅の1合マス」を基準に考えていたらしいので今の5段くらいになるでしょう。
 と言うことは現代の初段は明治の初段に4つは置かされることになる。
  マア時間を越えた話は現実味がありません。
 しかし、今では所属する団体などで使っている基準がそれぞれ違うので仮に交流戦をハンデ戦で行うとなると不便が生じます。
 タイトルみたいなものを争うのなら、ハンデ無しで良いのでどういう基準で有ろうと関係は有りませんが・・・。

 対局する時に棋力を点数とかレーティングポイントで表わして、その差でハンデを決めて打つなら看板としての段位は関係ありませんから昔ほどは段位を気にしなくなってきているとは思います。
 それでもステータスみたいなところはあるし、囲碁を打たない人との会話の中では「段級」の方が分かりやすいようです。
 「囲碁をお打ちになるのですか?」「何段ですか?」と言う風に。
 それで「何段」と応えたにしても「何処の」がつかないと余り意味が無いわけで、ましてや相手が囲碁を打たない人とか、その辺の事情に関心が無い人には・・・。
 
 ネットではこの段級位の差について考察したページがいくつかあります。
 これを発表している方の体験などに基づいたものだと想像はできます。
  院生クラスの分け方はマア除外します。
 韓国・中国・欧米の段位は其々の国がそれぞれの通貨を持っているように基準が違っていても良いでしょう・・・ネットでのアマ交流の際には主催しているネット事務局の設けた基準で打てば良いのですから。
 この場合は、通貨同様に為替レートがはっきりしていれば問題ありません。
  国内では見慣れない基準としては学生の基準があります・・・これは彼らの基準なので対局する機会があったなら彼らが適当に調整してくれるでしょう。

 関心があるのは観戦出来たり、実際に対局できるところ(リアルもネットも・・・それに韓国ですがタイゼムもネットで打てるので含んで考えます)。
 「日本棋院認定」:これがや曖昧、、、幽玄の間と通常の認定とは差があるような気がします。それとネットで観戦していて、『これが高段者の内容』と思うことも結構ある・・・マアそれは傍目的な判断基準で、自分が実際に打つと違うのかも知れませんから、あまり大きなことは言えないのかも知れませんが。
 「バブル碁会所」:これは基準が他人ごとながら恥ずかしくなるくらい大甘。これも過去に何回か実際に打っているのですが、ある囲碁サークルで10段格の人に互い先で負けていないし、ある囲碁クラブの7段格の人に2つ置かせて・・・これはもう私の棋力は関係なく、そこの段位の指標基準になっている人が問題なんでしょう。こういうところでは有力会員みたいな人が「自分は初段だとか二段」と主張するとその基準にせざるを得ないようなところがある。
 「辛口碁会所」:私が通っていた碁会所では、当初は席亭の営業方針でかなりの甘口になりそうだったところが、席亭交代後辛口とまでは行かないまでも、中辛くらいにはなっていったようです。そうするとどういうことが起きるかと言うと・・・例えば交流会とか各種の市の大会などで対局をする時「あそこの段は辛いとか甘い」などと言う評価が出来るので、他の参加者に一目置かれる。
 「サイバー標準」:一口にサイバー標準と言っても私の感じでは相当に差がある。 KGC>パンダ、タイゼム>=サンサン>幽玄の間、いくつかのネット囲碁クラブ(経験での感想で評価)
 実際に打つ時にある段位を意識し、それを維持するとか上がりたいと思う時に辛い方が苦労は多いのは当然ですが、外からはある意味で尊敬に近い目で見られるかもしれませんから、そういう満足感とか充実感がある。
 
 昔は段級という物差ししかなかった・・・『初段にはイマイチなんだけれど、初段という肩書を貰うと初段にふさわしい内容になる』(本人の努力がこれまでと変わると言うこともありますが)というkとも有りました。
  インフレ系の団体の段を名乗るなら、気が引けるところがあるかもしれませんが、辛口系のところの段なら一般的には低めの段であっても胸を張って言えるようなところがあります。
 インフレ的段位を言ってしまうと「御止碁」みたいに、その段位では打てない感じで、ごく親しい仲間としか打たない傾向になるかもしれません。
 辛めで低段の表示では少し寂しくても「インフレ段位」と言う目で見られるよりは良いと思う筈ですがその辺の気持ちの揺れは微妙。

 私の知っている方は、コミュニティでは「棋院の段持ち」と呼ばれるのを嫌っている・・・否定しないところを見ると何段かは分かりませんが免状は持っている筈です。
 しかしはっきり言わないところを見ると持っている免状の段位とそのクラブでのランクに少し差があるような感じです。
 「免状持ち」と呼ばれるのは多少のからかいと、羨ましい気持ちが半々だとは思う・・・ここはコミュニティには珍しい辛口クラブのようです。
 さて大雑把な私の感想では;「KGS」>「パンダ」、「タイゼム」>=「サンサン」>辛口碁会所、「幽玄の間」、「対戦」>>「バブル碁会所」
 これは経験した範囲での感想(『薬の効果は個人の感想です』みたいなもの)。
  碁会所は相当幅がありそう、それとコミュニティのクラブは一般には甘いところが多い(勿論例外はある)。

 さてある方の棋力換算表では・・・日本棋院の認定のランクが高くて、そこはチョット違和感を感じました。
 その部分だけを取りだして個人的にランクすると、「辛口碁会所」>=「幽玄の間」>「棋院認定免状」=「バブル碁会所」のイメージなんです。
 そう幽玄と免状は連動していないような気がします。

「囲碁初心者さん」

2009-12-26 05:19:09 | Weblog
 今日はもう本年度の業務も残り1日となりまして、今から何か新しい業務に取り組むと言うことはしませんから、あわただしく年内に間に合わせようと飛び込んでくる人はいるものの、全体としては案外業務量は少なくなっています。
 それはそれで結構なことですが、もしも月曜日辺りに「臨時に大掃除」などと誰かが言い出したら・・・私は決して言い出しませんが。
 
 昼休みに久し振りにグーグルで思いつくまま検索。
  「投了」を検索すると、やはり囲碁・将棋では自分の手番で投了するものとされています。
  但し他のボードゲームでは「投了が全てに優先して勝敗が決まる」つまりいつでも投了できるものもあれば、どんなに大差でもその差を数える(例えばオセロ)ものなどでは投了は無いらしい。
  囲碁では目碁ですね・・・目の差10目単位で賭け金が動くらしい・・・マアしかしこれはギャンブルとしてやらない人には縁のない話。
 勿論私は聞いたことがあるだけでやったことなどありません。
 スポーツでは野球・サッカーなど基本的に投了は無い・・・途中で止めれば試合放棄と言う事で処分の対象になる。
 サッカーなどで後半も半ばを過ぎて4,5点も差があったら、むしろ投了が無いのが可哀そうな感じがしますが、最後まで全力でやるしかないらしい。
 アメフトとかバスケットでは残り時間が少なくなった時点で逆転不可能な場合ギブアップもある。
 マラソンなどの場合は優勝を狙っていたのが思わぬ体調不良で入賞も無理な位置を走り続けることもある・・・。
 これは1対1の試合ではないからだろうか?
  1対1の場合、特に碁の場合は逆転を狙っているのならともかく、漫然と最後まで打つことが良いとは思われない。
  ましてや逆転不可能と言う形勢で、なおも打つと言うことは、「ここからでも逆転はあり得る」と言っている事になるので、相当相手を見下している事でもある。
 もっとも、気がつきにくいけれど、僅かではあっても勝負手を狙っている場合はこのかぎりで無いから難しい。
 「粘り強い」と「くそ粘り」の違いでしょうね。

 さて次に検索したのが「囲碁初心者」
 これも気になることがらではある・・・つまり、囲碁人口を減らさないために少なくとも一人に囲碁を伝えなくてはいけない。
 私自身はいずれ打てなくなるのは時間の流れですから、それまでに一人には伝えなくては囲碁少子化みたいなものです。
  今回気になったのは
 「囲碁に興味があるのですが、どこで教えてくれるでしょうか?」とか
 「碁会所に初心者歓迎と書いてありますが、初めてでも大丈夫でしょうか?」のような書き込みがあることです。
  こういう人がいると言うことは嬉しいことです。
 ネットでの質問ですから、ネットでアドバイスなど書き込まれています。
 「碁会所の場合は席亭などによる」
 「碁会所の”初心者歓迎”は”弱くても良いよ”みたいなもので本当の初心者の場合は歓迎されるかどうか分からない」
 「コミュニティの教室とか初心者向けサークルを探した方が良い」
 「初心者向けの本とかネットである程度勉強してから碁会所などに行った方が良い」
 最も直接的には「○○県なら私に連絡して下さい」まで様々な答えがある。
  第一感「せっかく囲碁を覚えたい人がいるのにもったいない!」

  一見唐突な感じがしますが、最後の「私に連絡して下さい」が一番確実なボランティア活動のような気がします・・・但し教わる方が信頼して「教えて下さい」と言えるかどうかが大いに問題ではあります。
  実名を出さないからネットが賑わうと言うことでもある・・・そして実名で無い人間を信頼できるかと言うこともあるから・・・
  マア言い訳めいていますが私はブログは仮名ですがネット碁は実名サイトで打っていますので、対局に関しては顔を晒しています(恥ずかしい面もありますが)。
 もし仮に私が言うとしたら
 「○○市の○○コミュニティの囲碁クラブの場所と道具を借りて、土日の午前中(午後は会員で混み合う)2時間程度は囲碁のお付き合いが出来ます」と言うことになります。
 勿論しかるべき施設があれば土水日の午後でも良いし平日夕方でも良い。
  教材は例えば梅沢先生の超初心者向けの本とかヒカルの碁とか、あるいはパソコンを持っている人でしたら指定したものを見ておいて貰う。
 教授料は無料ですが教材は自己負担で交通費は自分で・・・という事です。
  それと、ある程度打てる様になったら同じようなレベルのサークルを紹介出来ると思う。
  さてそんなことで希望者はいるのだろうか?。
   かなりマジで考えているのですが・・・。
  場合によっては教材とか教え方の情報交換と活動のPRを目的として囲碁ボランティアの会(仮称)みたいなものも必要かも知れないなんて考えたり・・・
 マア形を作っても中身が無くては意味が無いので、ともかく万一希望の人がいたら連絡下さい。
 私は自分が初心者の時に他人から教わったことが無いので多分教えるのは上手くは無いと思いますが、人に囲碁の楽しさを伝えたいと言う気持ちはあります。
 「ところで私は千葉県の千葉市です」
 

  

今年も押し詰まりました。

2009-12-25 00:38:47 | Weblog
 オリンピックとか選手権の試合などで、日本人は緊張した場面で力を発揮しきれないことが多いらしい・・・全部が全部でなくてそういうことが多いような気はします。
 メンタルトレーニングと言うことが言われたのは最近です・・・今でも過度に緊張しているのは真面目さのせいで、リラックスしている方はいい加減な性格みたいなイメージはあるかもしれません・・・だいぶ変わって来ましたが。
 昔、張本選手がプロ野球を引退した後で何かの雑誌に書いた物を読んだことがあります(20年くらい前の話)。
 日本人はいざという時に「袋にこれ以上入らないと言うくらい詰める感じ」「これ以上張れないくらい引っ張った感じ」「褌を締め直す」「ベルトを締める」「気持ちを引き締める」のだそうです。
 つまり「張り詰める」「息を詰める」ということで、これが反って力を発揮させない方向に作用してしまうことも多い・・・適度の緊張とリラックスが大事なのに。

 さて、そういう感覚と関係があるのか、年末の表現としては「今年も押し詰まって」という表現になる。
 昔と違って決算・支払いが大晦日しかないわけではないし、年だって全員が1月1日に年を取るわけでもない・・・それでも12月になると「押し詰まって」と言うことになる。
 これは1年ごとに何かを完了させて置かなくてはいけないみたいな、一区切りしないと気持ちが悪いみたいな感覚なんでしょうか。
 私も幸か不幸かそういう感覚がありました・・・昔は。

 毎年この時期になると「今年も押し詰まり・・・」という挨拶文を思い出すのです・・・もう30年以上は経つのに。
 小さな商事会社の一番若手社員だった頃、大事な折衝ごとは別にしてなんでもやらされた・・・季節ごとの得意先への挨拶文なども、下書き・清書・郵送・・・。
 それで12月ですから一年のお礼と来年もよろしくお願いしますという文面になるのですが「今年も押し詰まり・・・」と言うところにクレームがついた。
 私の指導的先輩であり、遊びでも渓流釣りなどの師匠でもあるSさんから「”押し詰まり”と言う言葉は無い、これは”押し迫り”の間違いだ」という指摘。
 個人的には、子供の頃から「押し詰まり」1本しか知らないので、むしろ『押し迫り』なんて変な言葉の方が間違いでは無いかとは感じたのですが、そこはソレ柔軟と言うかいい加減な性格だし、「押し詰まり」に義理も無いので、あっさり原稿を変更しました。
 マア、それでも意識の中にはこの二つの言葉は残って来ました。

 当時自分を納得させた論法としては・・・Sさんは社長の直弟子みたいな人なので、多分社長の考え方が反映されている・・・この社長は商売上古い習慣に忠実な人で、例えば他社を訪問した際に敷居を土足で踏んだりすると怒る人(敷居は商人のの頭なのだそうで)。
 ですから梨の実をアリの実と言い換えるような感覚で、「詰まる」をきらって「迫る」にしたのかなと思っていました。

 その後辞書で調べたり、NHKの解釈を読むと
  二つの意味は同じ、但し時期的に多少のズレがある・・・「迫る」の方が多少時期が早くて「詰まる」の方が大晦日がすぐそこくらいに来ているのだそうです。
 従って12月の初めころなら「押し迫る」で残り僅かなら「押し詰まる」と言うことになるようです。
 なるほどあの時の挨拶文は「押し迫る」が妥当だった・・・但しS先輩の根拠「押し詰まると言う言葉は無い」は間違いだと言うことが分かりました。

 さてSさん今も元気だろうか?
  私が取引先の重役から誘われた時に「その方が良い」と社長を説得してくれました・・・あれから30年も経ってしまいました。
 今年も・・・イヤそろそろ人生も押し詰まっています。

怪挙7連勝後地獄の4連敗

2009-12-24 02:48:01 | Weblog
 11月の末に少し負けが込み、12月の初めにはいつもより5点くらい下がってました。

 この点数制度って打っていて不思議に感じることがあります。
  点数は一つの対局が終わるごとに変化するので、仮に同じ人と連戦するなら1戦ごとにプラスマイナスで2点差がつきます。
 仮に3連勝すれば6点差になる・・・これはコミが6目半ですから互い先から常先に変わったこととほぼ同じでしょう。
 点数制では無くて段差で打つ場合、1段差置き石1つなので0段差互い先、1段差先、2段差2子・・・となります。
 置き石の価値を仮にコミの倍で12目と仮定すると石を置いた時点で24目差のハンデと言うことですが、2子の置き石があって白が先で打ち始めると考えるとコミを差し引けば(24-6で)18目の実質ハンデと言うことかもしれない。
 互い先から先ではコミ分の6目しか変化しないのですから先と言うのは下手に厳しいハンデと言えそうです。
 但し、1段差と言う棋力差はあって無きくらいの差だと考えれば不思議でも無いのですが・・・ともかく互い先からスタートして3連勝すればそれと同じですから。
 そうして見ると3番手直りというのも案外意味がある事かも知れません。

 点数制で打って同じ人に3連勝と言うのは想像では余り起こりそうもないですが、実際には案外一気に勝敗が傾いて3連勝とか3連敗は珍しくなさそうです。
 1番手直りで同じ人と打って3連勝して互い先が3子になりことも珍しくない・・・これはどうしたことか。
 特にアマの場合言えるのでしょうが、コミが物を言う時もあれば少々のハンデ差など関係なく勝敗が傾くこともあると言うことらしい。
 本来点数制でコミ1個分ずつハンデを微調整している筈なのに、一気に置き石3個分ではコミ30目分などとんでもない話なのに、実際は起こり得るのだから面白い(マア負ける方は溜まりませんが)。
 デリケートな部分もあれば、勢いで流れることもあるのでしょう・・・

 初めに12月の初めにいつもより5点下がっていると書きましたが、その後に・・・ナント7連勝中。
  こういう時は、何故か勝ててしまう・・・それほど良い内容とも思えないのに結果は良いのです。
 まぐれと言うか、コインを投げて7回続けて表を出すのは相当な幸運です。
  打っても打っても勝てない時もあれば、囲碁を楽しみながら勝てることもある。
 イヤ結果がついて来るから楽しいのかも知れませんが、逆・楽しい対局では無いのに勝ててしまうことは無いような気がします。
  ところで、私は生来ノビタ君タイプですから調子が良いと「もしかしたら多少は強くなった?」と思ったりするところがチラチラして来るのですから自分で笑ってしまいます。
 少し冷静に考えれば、多少いつもより盤上が良く見えているだけでしょうし、第一いつもより5点下がったところで7点アップですから実質は2点でしか無い。
 実質は2点ですが、大事なのは勢いでしょうか。
  どこまで続く勢い・・・どこかで止まって負のスパイラルもある筈。

 そして案の定4連敗し、その後3つ負け越し・・・元の木阿弥。
  連敗が始まると、『今度こそ』と打ち始めても、どこかでアホなミスが飛び出して、あっさり致命傷になってしまう。
 こういう時はもう一生勝てないくらいは大げさとしても、10連敗くらいはありそうな予感がするものです。
  そこから、どこかで潮目が変わってただいま4連勝中。
 囲碁の場合コミの設定で勝敗が必ずつきますから、安定的に棋力発揮?(相手の事を棚上げして)した場合1勝1敗の繰り返しが理想?。
 ところが実際は4連勝4連敗くらいが普通に起きてしまいます
  そして7つの勝ち負けの中で上下しているようです。
 

「お手柔らかに」は怖い人

2009-12-23 01:53:53 | Weblog
 夕方帰宅して夕食までに一局・・・これは余裕のある生活と言うより、要するにやらなくてはいけないことが無いだけ。
 下手に手伝わない方がお互いの為という暗黙の了解で成り立っています。
  ですから、本を読むとかパソコンでメールの確認をするとか、ネットで碁を打っていれば良いのです。
 ネット碁で対局待ち一覧表を見ると、これまでに1,2回打ったことがある人の名前が出ています・・・少し危険な匂いがするような(単に強いだけです)。
 手合いは向こう先コミ白から2目半。
  少し危険な相手と言う感じですが、対局条件の範囲には他にいないし、「早碁OK」なので時間的には丁度良い。
 対局開始が6時40分で、夕食出来上がりの予定が7時半。
  正味50分・・・細かな寄せ合いの碁とか、一手間違えば谷底に落ちそうな碁の場合は予定時刻を10から20分オーバーする危険性はあるけれど、その場合は「試合中につき、ゴメン!」宣言。
 対局中につき食卓への着席は遅れますの意味で、「遅れてすみません」「せっかくの暖かな食事が冷めても文句は言いません」の意味でもある。

 さて、対局開始にあたっての挨拶文の交換・・・これは定型文で、私の方は誰と打っても「宜しくお願いします」の一本。
 お互い同じような素人どうしの場合はこれで良いと思っている。
  プロの先生とか師範かくの先輩に打っていただく時も、気持ちはもう少しへりくだった感じかも知れませんが、言葉としては同じでしょう。
 ところが、相手から返って来た挨拶は「お手柔らかにお願いします」・・・これは第一感ヤバイ!。
 経験的にこれは二番目に危ない。
  一番は「宜しくご指導のほどお願いします」なのです。
 この一番と二番の挨拶をする人に”優しい人”はいない。
  相手がプロならともかく、同じくらいの素人に「ご指導」とか「お手柔らか」と言う人ほど、どちらかと言うと「指導する」ほうだし「柔らかくない」のです。

 経験上そういうことが言えます・・・こういう人に勝った記憶が無い。
  案の定、序盤から激しい戦いになりました。
 礼儀正しくて、囲碁に熱心な人ほど?単に激しいのではなく厳しい感じ。

 相手にしてみれば「aizome(勿論ネットでは本名ですが)と言うやつは、ネットでは”穏やかに”なんて言っていながら、言うこととやることが違う」と言っているかも知れませんが・・・マア戦いと言うものはお互い太鼓をたたいているようなものです。
 大きく叩けば大きくなり、強く叩けば強く響く
  この日は、幸いなことに初めて「お手柔らかに」に勝てました。
 何事にも初めてということは起こることはある・・・にしても『良かった良かった』です。

 さて話は変わりますが
  深夜に目覚めてネット観戦・・・ここで不思議と遭遇しました。
 対局中の実戦が少なかったのですが、たまには良いだろうと初段か1級くらいの人の対局を観戦しました。
 どういう感じで進行していくのかを観戦するのも勉強になると思います。
  どういうところに拘るのかとか、どういう事に注意がいかないかとか・・・
 仮にAさんとBさんの対局だとして、現在の点数は同じですがAさんの方が1,2枚上手に見えました。
 結果は2局打って2局ともBさんの投了で終わったのですが・・・どちらもAさんの手番でBさんが投了。
 結果はAさんの中押し勝ちで同じ事ではあるが・・・
  これはBさんのマナー違反です。
 言いたいのは、Bさんがもう一つ強くなるにはこういうマナー違反をしないことでしょう。
 それは単にマナーとかルールの問題では無くて。
  例えば考えて打っているならば・・・それは部分的な手であっても、全局的なバランスを考慮した手であっても、それなりの考えに基づいて打つ習慣を持つならば、相手の応手を待たずに投了すると言うことはあり得ない筈。
 それを、打った直後に相手の着手の前に投了すると言う事・・・しかも2局続けて・・・。
 この習慣を直さないと今後が難しいかナ・・・なんて思いました・・・チョット偉そうにそう思いました。
 そりゃ私だってザルですから、打った瞬間に「アカン」という大勘違いはやります。
 しかし、どんなに恥ずかしくても、どんなに辛くても相手が打つまではひたすら忍耐です・・・で、相手が打ったら?、その時に投了の一手。

 さてさて「お手柔らかに」から大脱線してしまいました。

清見寺

2009-12-22 01:31:50 | Weblog
 突然お寺の名前を出しましたが、お寺の案内ではありません。
  子供時代の原体験と言うか、そのころ見た原風景と言うか、そういうものが半世紀以上の今でも何かしらつながるものがあるのかも知れないと思ったのです。
 家は代々の神主の枝分かれで、尚且つ次男の家で神棚はあっても仏壇は無い家。
 ですから榊の枝などを供えるのですが、お線香とは無縁。
  ではお寺は無縁かと言うとそういうことはありません。
 お寺の墓地には祖母の骨を納めている・・・法律で勝手なところに埋葬出来ないからそうなっているのかと思ったのですが、代々の墓と言うものがそのお寺にある・・・と言うことはお墓はお寺にあった。
境内の隅にでも埋葬すれば良さそうなのに、そうはいかないらしい。
 神社の土地は氏子の共有地と言うこともあるが、古い時代はそういう感覚は無かったと思う・・・おそらく神域には墓を作れなかったのでしょう。
 そういう分業みたいな感じらしい?
  メインの墓石の傍らに小さくて古い石があったので、無縁仏なのかとよく見ると家のご先祖様でした・・・「○○織女 元禄・・・十二月十日」・・・どうも赤穂浪士の時代に亡くなったらしい。
 尤も小さな墓石ですから、もしかしたら幼女の内に他界した人かも知れません。
 ともあれ昔から家の墓はお寺とは無縁ではありませんでした。

 私が就学前に1年だけ通った保育園は、当時はまだ健在だった路面電車の東の終点から歩いて5分くらいにところにあった、お寺の保育園でした。
  わざわざ住んでいる市では無く隣の町のお寺の保育園に子供を通わせたのは、両親が信心深いわけではなくて、単に地元には幼稚園しか無かったと言うことだったと思う。
 毎朝山門のしたの木を跨いで園=お寺の庭に入ったものです。
  保育園はお寺の庭に建てられていたのですが、大きな蘇鉄が印象に残っています。
 そうそう、たまに葬儀があって施主さんの希望があれば園児も列席。
  お線香をあげて、お菓子を戴く・・・まあエキストラ出演。
 4月8日には灌仏会・黒光りした甘茶で濡れて光っている仏様の像を思い出します。
 
 家に仏様はいなかったのでお彼岸とかお盆とかの行事とは無縁でしたので、彼岸のお菓子みたいなものとは縁が無くて、案外羨ましかった・・・ただの食いしん坊ですが。
 
 小学校時代でお寺の思い出と言うと・・・4年生の時にクラスメイトが海で死んでその葬儀にクラス代表として参列したことです。
 台風の日に彼らは海に遊びに行って、彼だけ帰らなかった・・・少年時代の顔ですが今でも思い出されます。

 さてその時代、子供たちは自転車で遠征に出かけるものです。
 10キロくらい西に行けば静岡市の中心街、5,6キロ東に行くと、先ほど書いたお寺の保育園のある袖師と言う町で、そこから僅か東の坂を越すと興津。
 そこに清見寺(せいけんじ)と言うお寺がありました。
  お寺の庭を東海道本線が走っている事で知られているかも知れません・・・そう鉄道を跨ぐ橋を渡ってお寺の庭に入って行くのです。
 庭には五百羅漢がありました・・・「石の仏様が笑いかける」みたいなミステリー話がありましたから、当時の少年たちにとっては案外冒険気分だった筈です。
 当時、この辺りまでしか行かなかったので奥にどんなお寺があるのかは知りませんでした・・・でもここは好きな場所。(実は今でもお寺の中心には行っていません)
  ただ五百羅漢がある庭を歩くだけなんですが、何故か好きで何度も行きました。
 今思うと不思議なんですが、当時は一度もお坊さんと出会っていない・・・単なる偶然ですが。

 ネットで検索してみると、大きくて由緒あるお寺なんですね。
  臨済宗妙心寺派・・・禅宗のお寺だった。
 天武天皇の時代に、この辺りに蝦夷を防ぐ関が置かれてその傍らに作られたのが始まり・・・鎌倉時代・・・江戸時代と続いてきた。
 ここらで駿河湾を望んで歌を詠む場所でもあったらしい。
  私にとっては、そこで教えを受けたわけでもありませんが、そこの庭・庭の雰囲気と言うか空気が好きだったし、この辺りから駿河湾と、海の向うの伊豆の山を眺めたものです。
 こういう経験は案外記憶のどこかに残って行くのではないのでしょうか。

 最近禅語に興味を持ってネットで検索していますが・・・マア言葉を検索すると言う事自体悟りの道とは程遠いとは思いますが、それでも子供時代に経験した気分とどこかで繋がっているのかも・・・こじつけですが。  

日々是好日

2009-12-21 00:01:28 | Weblog
 「喫茶去」を調べていてそれが禅語であることは昨日書きました。
 禅語を検索して一覧表のようなリストを見ていますと、難しい漢字が並んでいると言うのが第一感・・・漢詩のような雰囲気があったり、対聯(こういう名前だったと思いますが)みたいに韻を踏んだ対句になっているものもあったりして、それだけで有りがたい感じが漂うのです。
 言葉は老子の物があったり、高僧の言葉だったりしていますが、意味としては複雑な事を単純な真理で表わすような感じ・・・何にも分かっていませんので、あくまでもイメージ。

 さて、文字を読んでみてなんとなくわかるようなものもあります。
 例えば「破草鞋」:多分草で編んだ草鞋が擦り切れるくらい歩いて探すのでしょう・・・悟りの境地などとは程遠いのですが、なんとなく言わんとする意味が推測できるような気がします。
 色紙に書かれている言葉で良く目にする言葉もある。
 「日々是好日」:第一感穏やかな印象、毎日を”おまげさまで”という気持ちで暮らす・・・まあ単純に言えばそういうことでしょうが、そうそう簡単に言える日ばかりも無いので実際には相当な覚悟が出来てなければ実行できない事でしょう。
 この言葉の説明に良寛和尚の言葉が引用されていました:「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬが良く候」
 
 ここで思い出によぎるものはありました。
  ラジオ番組で良寛特集みたいなものを聞いて、生噛りの言葉の知識でそれを使ったのでしょう・・・恥ずかしいですが。
 昔通っていた碁会所の風景、常連さんのことなどを「碁会所スケッチ」として書き留めていたことがありまして、数年前にブログで「銘銘伝」の形で書いたことがあります。
 K畑先生が級位の方のリクエストで勉強会を開いていた時にお手伝いをしたことがありまして、そのメンバーの一人が31文字の歌が好きな方でした。
 その方の囲碁に関する三十数首の手作りの小さな歌集を戴きました・・・相当昔のことになります。

 ご主人に「続ければ進歩するよ」と励まされて、週に2,3回碁会所に通っていたのですが、時としてからかわれて・・・
 「初段の日いつやと 夫のからかうを 聞くうちが花 ゆるゆる行かん」
 「趣味もてと 我に囲碁を奨めたる 夫が此の頃石持たぬなり」
   対等に打てるのが目標でしょうが、実際にそうなると案外ご主人が逃げ腰になったりして・・・そういう問題もありそうです。
 さて、だんだん囲碁の魅力にはまって行っても、夕方になるとそこは主婦ですから、時間が来ると帰らなくてはいけません。
 「碁に負けて 顔火照るまま急ぎ来ぬバス停にバス発車の直後に」
 これは指導碁についての感想だろうか
 「見落として あっさり諦めて 投げられて もらいし勝を  持て余すなり」
 「腑に落ちぬ 一手続くも おだやかな 面を変えずに 応え打つ上手」
 腑に落ちない手を打っているのは上手か下手か・・・たくさん置いた碁の上手は怪しげな手を打つこともあるのですが、そんなことでは指導碁になりませんね。

 ところでこの方は非常に性格が真面目、何かを学ぶのに真面目さは大事ですし人間性と言う意味では大切なことです・・・が、時に真面目過ぎるのも・・・事・勝負を争う、あるいは目前の勝敗だけでなく将来の棋力と言うことになると、やや違う要素も必要な気がします。
 例えば対局中に自分の大石が危険に陥った時、その石が生きるとか危険から脱出することが大事なことですが、それは単にもがく事とは少し意味が違うと思うのです。
 凌ぐ手があるのか無いのか、可能性があるのか、相手も素人だからやってみなければわからないという面はあるにしても、ただ打っている(もがいてる)だけなのか、、、。
 どういう風に考えようと投了すれば負けは決定するので投げられない?。
 最後まで頑張るのが良い事なので、途中で投げ出すのはいけない事?
 最善を尽くすことが相手に対してもマナー違反にならない?
  確かに、まれには相手に信じられないようなミスが出たり、あるいは考えてもいなかったようなサプライズ的な手が生じたりすることはあるにはある・・・無いとは言えない。
 でも、こういうことは勝敗に関してはそういう可能性があったとしても、それが棋力アップとどういう関係にあるかは難しいですね。
 ましてや指導碁的な碁では・・・
  横で記録を取っていたりして「適当なところで投げて、並べ直して振り返った方が良かったです」という感想も必ずしも当人にはすんなり受け入れられるとは限らないのです。
 実際には投了已むなしの場面から、ではどうすればそうならずに済むのかを考える・・・更に遡る・・・そういう事が大事なのに。
 「敗けること」と棋力とは関係ないことが多い、逆に「敗けることで強くなる」ことだってある・・・「タイミングの良い投了」が身に着くことも大事。
 そういう事って「上手が下手に訳の分からない事を言っている」感じかも知れません・・・何回か話した筈ですが説明能力不足でしたので、何やら禅問答っぽくなったようで、当人から「では、どうしたら良いのですか?」と反対に聞かれたことがあります。
 「勝負事ですから負ける時は負けるのです。負け碁を勝とうするといろんな悪い面が出そうです」みたいな分かったような分からないような説明をしたことがあります・・・『説明になっていない?』
 (不利な碁を勝ちに持って行くと言うこととは違います)
 おそらく、その時のことを詠んだのだと思いますが、説明不足が恥ずかしい。
 「敗ける時は 敗けるがよしと 言われしを 思い出しては 噛み締むるなり」。
 
 やっと良寛様に戻って来ました。
 素人ごですから勝ったり負けたりで楽しんで。
  碁を打って「日々是好日」。
 負け方で棋力向上に資するものもあるだろうし、何より打つことが楽しければ。

 
 
 

喫茶去

2009-12-20 02:09:51 | Weblog
 「喫茶去」と言う言葉は禅語なのだそうですが、予備知識無しに初めて接した時の私の印象は心地良いと言うか、すんなり受け入れやすい語感がありました。
 発音の仕方も、本来の意味も知らないのに大胆な感想を書いてしまいましたが、第一印象と言うかインスピレーションってそういうものではないでしょうか。
文字から受ける第一感では陶淵明の「帰去来」でしょうか・・・での「去」と言う文字しか共通の文字は無いし、やはり「喫茶」の方のウェイトは高いでしょう。
 
 もしかしたら前に聞いたことがあるかもしれませんが、はっきりした記憶が無いので、多分初めてだろうと思います。
  この言葉との出会いは
 先週図書館で借りた白川正芳さんの本を読んでいると、、、場面は第39期本因坊戦の挑戦手合い第3戦の記述。
 これは林海峰さんに淡路修三さんが挑戦したシリーズです。
  立会人・土田正光九段、解説・西條雅孝八段となっているから懐かしい名前が並んでいます。
 記録が吉岡薫四段、記録が水野芳香初段
  部屋に関する記述が印象的・・・林が背にした床の間に小野竹喬の油彩に、備前焼の壺にトルコキキョウと満天星、淡路の後ろには永平寺管長の書で「喫茶去」。

 なんの知識も無い私の恥ずかしいけれど独断の感想を書くと、大きなお寺の管長が書にしたためる文字ですから、やはりこの茶は中国から渡来した当時の意味を持っている時代の飲み物かもしれません・・・勝手に解釈すると「この世にはお茶を飲みに立ち寄った程度のものですから、お茶を飲んだら立ち去るよ」という感じ。
 「未練なく」「あっさりと」「潔く」「奇麗に」と言う感じ・・・これでは意訳すると「お邪魔様でした」みたいです。
  全くいい加減な感想ですので、そういう人はいないと思いますが念のために、間違って信じないで下さい。

 調べるとこれは禅語で「きっさこ」と読むのだそうです。
  意味としては「お茶を飲んで去れ」でも良いし「お茶でも飲もうよ」とか「お茶を召し上がれ」「お茶いかがですか」でも良い。
 ともかく、誰にでも分け隔てなくお茶を勧めているのです。
  
 「去」と言うのはこの場合は強調の意味の助字だそうで「去」の持つ意味では無いらしい。
 ともかく私の勝手な解釈とは意味が全然違いました。
  でも、感じの良い印象は「お茶でもいかが」ですから、感じは良い筈です。

 この年で(60才を過ぎているのにいまさら)言うのも変ですが、知って置いて良かった。
 どこかでお茶を出された時に「喫茶去」とあったならば「飲んだらさっさと帰れ!」みたいに曲解しそうですから、そうなったら自分の無知をさらけることになります。(本当は暗にかけてあるかもしれません)
 せっかく「お茶はいかが」と言ってくれているのにね。

 同様な使い方で「囲碁去」と言うか「対局去」は・・・ないだろうな。
  「一局いかが?」・・・。

 そう言えば昔と違って突然誰かが家を訪ねてくれることは、まずは考えられません・・・前もって携帯などで連絡がある筈ですし。
 私が子供時代なら、知り合いが「ちょっとそこまで用事で来たので、寄らせて貰いました」と言うような感じが当り前のようにありました。
 今はこういう来客は無いですね。
  昔の感覚なら、ひょいと顔を見せた知り合いに「一局去」?というのもありそうなんですが・・・。
「対局去」は「烏鷺去」でも良いですが、私の場合はやはり「この世にはちょっと囲碁を打ちに立ち寄っただけだから、一局打ったら帰ります」みたいな事ですね。
 打てなくなったら去る時・・・と言いながら未練がましく何局も打っています。

必勝法は「不老不死」?

2009-12-19 00:17:31 | Weblog
 TVCMって昔から車にアルコール、家電製品、食品・・・この頃は通販とかネット販売の保険みたいなものも多いですね。
 ショップチャンネルと言うのもたまに見ると、『そういう商品もあるのか』と言う感じで見ることが出来ますが、『またやっている』と思うようなものもある・・・それではダメかもしれませんね。
  健康器具などで「とても効果があるとは思えない」ようなものも堂々と出ている・・・それに加担?している有名人もいる・・・世の中いろいろ。
 尤も私などは『あれば便利かな?』と思っても、さしあたって必要でなければ買いませんし、”これでもか”という感じの値引きにオマケ付き販売は、思わず眉に唾をして敬遠することにしています。
 逆に高ければ良いと言うことも思ってはいませんが、手にとって見ているわけではないですから慎重にならざるを得ない。
 しかし、これくらいショップチャンネルが流行っていると言うことは、ファンも多いのでしょうね。

 最近多いのが健康サプリメントと通販型の化粧品。
  化粧品などは他業種からの参入があって激戦のような感じです。
   CMで流れるような効果があるのなら、これは凄い。
 どのメーカーがどういうものを売ろうと自由ですが・・・CMのパターンとしとては「模式図」を使って目に見えるように効果を説明するか、座談会・体験談型で語るか、大まかに言って二つがあるようです。

 あの摸式図と言うのも、”いかにも”という絵を毎日見せられていると、「あんなに絵に描いたように上手くいけば世の中は楽なんだけれど」から、だんだんそれが当り前の事のように感じるようになるのでしょうか?・・・そうでなければ子供だましみたいなCMを繰り返す意味が無いでしょうね。
 もしかしたら、画像のコマの中に仕掛けは無いでしょうね(密かに潜在意識を植え付けるような・・・)。
 体験談型の方も、結構な良い話ばかりですが、隅っこの方に「効果は個人の感想です」みたいな断り書きがある・・・契約書に良いことがいっぱい書いてあって、小さな字で隅っこに「例外規定」みたいな断り書きがあるようなものですね。
 マア、こういう断り書きが無ければ「過大な効能」を並べていることになるから薬事法に触れるのでしょう。

 そう言えば30年くらい前にあるドリンク剤のCMがありまして・・・すっぽんドリンクなんですが、出演者がぐっと飲み干して一言「元気になるような気がするね」と言う・・・笑ってしまいましたね。
 元気になると言いきったら薬でしょうから・・・

 さて健康サプリ・・・私ぐらいの年になると肩とか腰とか膝、関節の痛み・不具合は切実な問題です。
  日本人の平均年齢が上がっている事もあって、この方面の薬品あるいは効果が期待される食品の需要は高くなっている筈です。
 ・・・こういうサプリメントのCMが溢れています。
  コエンザイムとかヒアルロンサンとか・・・毎日聞かされていると、ビタミンと同じくらい身近に感じて来るから不思議です。
  どんなものなのかは全く分からないのに、毎日聞いていると顔馴染みみたいに慣れっこになって行きます。
 本当に効果があるのなら、保健食品になっても良さそうだし、生活習慣病で鰯の油のサプリメントみたいに薬に準じて処方されそうなものです。

 話は変わりますが、中国の初代皇帝・秦の始皇帝は仙人の持つ「不老不死]の薬を求めて大金を投じた・・・日本に卑弥呼の名前が登場するずっと前の事。
 多分皇帝の側近などは皇帝が騙されているだろうと、薄々は分かっていただろうが、そんなことを指摘すれば自分の首が刎ねられるから黙っているしかなかったのだろう・・・結局「不老不死」は究極の嵌め手みたいなものですね。
  富と権力を持っている人ほど嵌りやす罠。
 現代人は始皇帝よりはいくらか利口になっていますから、「不死」の方は棚上げにして「老を食い止める」方に力点を置いているように見えます。
 確かに現代の化学では相当なことが出来そうな気はしてしまいます。
  人口の細胞で自分の欠陥のある臓器を自分の細胞で修復する技術が・・・そんなことが出来るのなら私みたいな基礎疾患をいくつも持った者には希望の光・・・マア「間に合わネエだろうな」、「きっとべらぼうな請求が来るだろうな」。

 さて囲碁に置き換えると「必勝法」・・・昔から、必勝のテクニックを求めてきたようなところがある。
 しかし矛盾では無いけれど、矛があれば盾もあるわけです。
  どんなに強力な武器でも、使うと言うことは公開することですからその時に秘密では無くなるということですから、ハイテクニックではあっても必勝ではなくなる。
 それに、必勝のテクニックがもし存在するのなら、その時点でゲームとしては存在出来なくなると言う矛盾もある。
  もしかしたら「青い鳥」みたいなものを探しているのかもしれないし、幻を探しているのかもしれない。

 「膝が痛い」「肩が重い」などとぼやきながらネット碁を打つ毎日です・・・。
 

「予防接種・その明日」

2009-12-18 00:07:37 | Weblog
 水曜日に新型インフルエンザの予防接種をしまして・・・((直ぐお値段を考えるところが貧乏人根性)これが3600円もする注射の割に?あっけないなどと、接種を受けながら馬鹿なことを考えていました。
  トンチンカンな貧乏性は抜けません。
 季節性のインフルエンザ注射にくらべると倍以上と結構なお値段なんですが、打ったか打たないかはっきりしないまま、看護師さんが「はい、終わりました。」
 内心『エッ?本当に終わったんですか』と聞きたくなるくらいあっけない。
  確かに蚊に刺されたくらいの感じはしましたが・・・。
 「良薬口に苦し」ですから「飲み易い薬は良薬では無い?」と同様「痛くない注射はありがたくない」みたいな感じ。

 注射を終ったところで「予防接種証明書」みたいな紙を貰いましたが・・・こういう書類を貰うところを見ると確かに接種した事は間違いない・・・そのため?の証明書のようです。
 
 ところで職場では接種については話していません。
  マア、特にその必要も無いので当然ではありますが、仮に話すとすると、やはり「高齢者優先」と言うよりも「基礎疾患」を持っている事を宣伝しているみたいなので、何となく気が引けます。
 基礎疾患が一つや二つでは無いから、何をいまさらではありますが・・・マア最後の見栄と言いましょうか。

 ところで、接種後の「ボア」現象。
  特に接種直後自覚はありませんでした。
 ・・・帰宅後打った1局はマア普通に打てたのですが、夕方打った方は酷い内容でした。
 普通にやっているつもりが、とんでもない方向に進んでいく感じです。
  余りの酷さに投了しましたが、そのすぐ後に同じ人に挑戦して酷い碁を繰り返してしまいました。
  全く連敗する時の典型的パターンですから、特に「ボア」の影響では無い筈ですが、ザル的失敗を後押ししている可能性は否定できない・・・かもしれない。。
 それにしてもこの酷い碁の原因は、ザルであること以外に「ボア」は関係あるのでしょうか・・・。
  一人で何回も接種を体験しないと思うので、自身での比較は無理ですが、同じような経験をした人がいれば影響0とは言えないという間接的な証拠?にはなるかも。
 「打ったら打つな、打つなら打つな」などと言う標語が出来たり
   ともあれ直ぐ自分以外のせいにするような性格が出ています。
  
 さてもうそろそろ、勝敗はともかく普段のザルレベルを回復しているでしょうか・・・。
 二日目はいつも通り風呂に入ったし、気分一新で。
 (相手はインフル打ったばかりの人がイイナ)

何度も「念押し」は不安

2009-12-17 00:49:35 | Weblog
 先々月に新型インフルエンザの予防接種を予約して置きました。
  その後感染が広がったのですが、幸いに感染しないで2カ月経ちました。
 今は一旦ピークを過ぎてこのまま終息に向かうのか、あるいは中休み状態なのか難しいところ。
 それと、これだけ流行ってうつらなかったのですから、ある程度抵抗できる体なのか、それとも単なる偶然なのかもわかりません。
  「かかったら危ない」と言う意味で、当初の予定通り予防接種をして貰いましたが、マアお守り代金3600円と言うところです。
  季節性の方は1500円らしい・・・なんだか病気に値札がついているみたいで妙な気分ですが、一応それが気休め代の相場。

 通っている生活習慣病クリニックでの予防接種が始まったら接種希望予約・・・ここは基礎疾患があるから治療通院するのですから、優先順位が高い人たちが集まって来ていることになります。
 受付を見ていると季節性・新型合わせて希望者が手続きをしています。
  私も問診票に必要事項を記入して、体温を測って提出。
 体調は特に悪いところは無し、体温35.5度・・・普段朝は35.2度か35.3度ですからやや高い感じはするけれどマア問題無し。

 申し込みに当たって受付で
 「接種したからと言ってこれで新型インフルエンザにかからないとは言えません。」
 確かにそういうものだろうし、元々「罹ったとしても重篤化を防ぐ効果」と言う話は聞いています。
 重篤化と言うのは人により差があるらしいから、体調不良から持病の悪化まで随分幅がありそうです。
 私の場合基礎疾患=持病が一つや二つでは無いから、それぞれが少しづつ悪化してもトータルで・・・。
 
 接種の時には
 「今日はお風呂に入っても良いですが、長風呂をしないで下さいね、それと湯ざめには注意して」の念押し注意。
 注意としては当然ですが(昔は予防接種をした日は入浴禁止だった)、、、当然だとは思うが何だか電気製品の取り扱い説明書・注意書きみたいなものを読んで聞かせている感じ・・・
 これだけ注意したのに万が一の場合には、本人も承知していたことでもあり、注意を守らなかった本人のミスあるいは不運であることをあらかじめ了承しておくわけで、確かに説明責任は果たしましたということです。
 マア、今のご時世では仕方が無いのだけれど、同じ事の繰り返し念押し注意は反って不安の呼び水となります。
 
 今、新型インフルエンザは一時の流行拡大から下火傾向になったところ。
  これから終息に向かうのか、真冬に向かって季節性のインフル同様に再度新型も勢いを盛り返してしまうのか・・・そこのところが分かりません。
 ヨーロッパでは拡大をしているそうなので、余談を許せませんから、気休めでも打って置くことに。
 お風呂は「入っても良い」程度だから入ると多少はリスクがあるのだろうか・・・今晩は風呂スルーで、その分ネット碁時間が増えそう。
 囲碁で神経と体力を使うから予防接種の日は禁止?・・・それは聞いていないから多分大丈夫ですね。
 但し酷い碁を打ったら、それは予防接種のせいと言うことに・・・看護師さんの説明では「打った時に人によっては”ボアっとする”事もある」そうで・・・打った瞬間らしいけれど。
 それに「打つ」ってのは石を打つわけではない。
  今日はあらかじめ言い訳付きでネット碁へGO!!。
 (それにしても石を打つたびに”ボアっと”を想像するとなんだか滑稽です・・・もしそういうことが起こるなら何だか病み付きになりそう・・・などと、馬鹿なことを想像したりして)