なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

下戸から見た不思議

2007-07-31 18:15:15 | Weblog
 今週はいつもの図書館へ行く日。
 今週はやや”軽め”の本にしたのでいつもより1冊増やして5冊借りてきました
 軽めと言っても本は本なのでボリュームはあるのですが、マア週間誌的と言うか、「読み飛ばし可」みたいなことも出来そうと言う意味です。
 それでいつもの「囲碁テクニカル」は今週は無しです。
 その代わりと言っては変ですが将棋の先崎学さんの本を借りてきました。
  <借りた本>
世界は右に回る 先崎学 平成9年 (社)日本将棋連盟
山河太平記   陳瞬臣 1979年 
春砂      赤木駿介 1990年 
小ばなし歳時記 加太こうじ 1987年
昔も今も 笑いのタネ本 宇野信夫 1982年
 並べて書いて見ると私の嗜好がはっきり出ていますね。
 陳さんの中国物・歴史物が好きで、ほぼ全部読んでしまったと思い込んでいた(推理物とか小説的なものは読まないのですが)と思っていた所、図書館の作家別ではない分類でこの本を発見したので、早速借りました。
 春砂と言う言葉はアラブ系の馬を指す言葉として作られたらしい。
 要するにペルシャの意味のようです。
 作者の赤木さんの名前が余りに懐かしくてついつい・・・
 この人は競馬の解説などしていたので昔は競馬放送・競馬新聞・競馬週刊誌・スポーツ新聞などではお馴染みさんだったのですが、「本業は作家でしたよね」と言う感じです。
 笑いのタネ関係は落語ファンとしてはベーシックな知識の確認みたいなものでしょうか。
 落語といえば古典
 落語的なおかしさ・・・そういうものが好きなんですが、古典的な世界ともなると背景になるものを知らないと本当のおかしさが理解できないものも多いので、やはりそこの所は勉強?が大切。
 『気持ちよく笑うには知っておきたいことがあります』
 さて先崎学さんの本です
 月刊誌の「NHK囲碁講座」で「桂馬の両アタリ」というエッセイのページを持っているので、将棋の棋士ですが囲碁とも因縁浅からず。
 奥さんは囲碁棋士ですからね。
 ご本人も囲碁ファンだそうでそんな縁で繭さんを掻っ攫ったらしいのですが、その辺のことに触れているかと期待したのですが・・・残念。
 でも将棋棋士の生活のようなものを少しだけ垣間見ることが出来たような気はします。
 将棋にしろ囲碁にしろ「棋士」と名がつく先生たちの生活はこういう感じでしょうか・・・棋士も独身時代はと言う限定で
 それとも先崎さん(羽生さんと同じ世代)の同世代限定?
 今では棋士の方々のブログが有って、棋士の生活とかどんなことを感じているのかを垣間見ることが昔より多くなってきたようですが・・・先崎さんの本に描かれているようなことが平均的なんでしょうか?不思議に感じました。

 マア博打打ちではないけれど、「勝負事」で生活が左右される世界でしょうから、普通の人間では理解を越える部分が多いでしょう・・・神経をすり減らすのですからメンテナンスも必要でしょう、それは想像できる
 但し私みたいな下戸からするとどうにも理解できないこともあります。
 藤沢秀行さんの本やTV番組でも感じたのですが、「何であんなにお酒を飲むのだろう?」・・・お酒を飲む機会が多すぎる・・・いや、飲んだ時のことが記事にしやすいだけなのか?
 あるいは、棋士の世界に全くの下戸はいないのだろうか?
 もしいたとして、その先生は酒ではないメンテナンスをどうしているのか?
 また愛飲家の棋士ととそういう先生の同席のエピソードは?

 ともかくコレは善悪とかの問題では無くて純粋に理解できないのです。
 先崎さんの話の中でもそういう場面がたくさん出てきます。
  私は「もう少し控えれば、更に凄い棋士になれる」とは言いません。
 本当にそうなのかどうか分からないですからね。
 寧ろ芸事は小さな枠に収まってはいけないのかも知れないし
  清廉潔癖の人が大名人になれるとは決まっていません・・・そこまでは分かる。
 でも何でだろう

 最近の民放TVのコマーシャルでは相変わらずビールの宣伝が多いですね
 いや季節柄増えているような気がする
 それに日本酒・焼酎などをいれるとかなりの露出度
 ごく当たり前にゴクゴク飲んでいます
  若い娘さんの凄い飲みっぷりを見せられると、CFと分かっていても飲めない「オジサン」にとは恐怖です。
 お酒はジュースとは違うから同じ様な飲み方に抵抗を感じてしまいます。
 ココ数十年でトータルコップ1杯程度の消費量の人間としては理解を越える
 誤解されるといけないのですが、飲酒に反対しているのではありません
 ただただ理解できないだけで、飲む人から見たら逆に私みたいな人間が理解できないのかも知れません。
 「飲まないのではなくて、飲めないのでしょう」と言うのも当たっています
 昔は宴会などで乾杯には形だけ付き合っても、献杯など断るのに相当苦労した。
 相手に納得されやすいようにアルコールアレルギーと言うことで通してきたがこれは理由の半面で、半分は少年試合の酒飲みの姿のトラウマが焼きついている。
 今のお酒の飲み方はその頃とは比べられないほどスマートになったような気はします。
 
 ただ、酒に限らず昔と今との違いは「ハレ」と「ケ」の違いが無くなりつつあるということでしょうか。
 着る物、食生活などにハレとケがあって酒もそういう範疇に入る場合も有ったものが、嗜好品みたいになっているから、マア飲料水と変わらない位置づけみたいなものでしょうか。
 実は我が家でも酒といえば料理酒しかなかったはず・・・頂き物の外国のお酒も料理に入れるか、お客が有った時にお出しして、ついでに残ったらボトルごと持って行ってもらいます。
 だから普段のストックはゼロです
 ところが最近は我が家の冷蔵庫にも新しい風が吹き始めて、成人した愚息が缶ビールをストックしてある。
 まさに隔世遺伝の恐れアリ!
 彼から見て祖父・曽祖父はかなりの酒豪だったから・・・
 (私の育った家では来客用と言うこともあり、酒は1升ビンで10本単位、ビール瓶は大瓶20本単位で配達してもらっていた)
 そういえば、血を受け継いでいないのか飲まないのは私だけ
 私が彼らを理解できない以上に彼らもまた・・・
 ともかく私に関しては「酒の上の言い過ぎ」はありえないし、「人生の中の一瞬でも酒を飲んでいて記憶にない時間があるということは自分に許せない」的な感覚がありました。
 ところが実際には素面でも酔っ払いみたいな事を言っているし、肝心な場面では寝ているし・・・囲碁を打っている時は囲碁に酔っている状態かもしれないし・・・飲まなくても困った爺様にはなれるのですから、そういう意味では私も訳わかんない人の仲間かもしれない 

ご先祖様

2007-07-30 18:43:53 | Weblog
 今日の天気の変わり方はかなり激しかったのですが、夕方帰る頃に爽やかになっていたのでこれはラッキー。
 しかし今の時期コレでいいのだろうか?
 今朝はポツリポツリと今にも泣き出しそうな嫌な予感のするお天気なので、大きなレジ袋に帽子・合羽の上下を入れて持参です。
 怪しい雲行きは昼になると激しい雨となりました
 事務所の窓ガラスに大きな雨粒が一杯でした。
 雨具を持ってきたから、帰りにはそれを使う羽目になるか?・・・通気性が悪いし蒸し暑いと雨に濡れなくても、中から汗で濡れるのでこの時期雨合羽は憂鬱です
 尤も私の場合は競走馬の汗取りではないけれど、汗と油を絞るには偶にはいいかもしれませんが・・・でもボクサーではないしね。
 ところが帰る時期になると、さっきまでの雨が嘘のように上がって、所々日がさすものの風が爽やかでした。
 自転車には最高に近い
 ところどころの水溜りさえ気をつければいい(車が水溜りに突っ込むのも)

 さて通勤路の水路脇での風景です
 老夫婦がススキ狩りのように見える
 おじいちゃんがあちこち指さして、おばあちゃんが刈っている
 ココは水路脇で松並木みたいな所ですが、地面は芝生もあるけれど所謂荒地もある。
 そんなところですからところどころにススキの草むらがあるように見えます。
 そういう風景っていいですね・・・但し考えるともうその季節なんだろうか?
 そういえば本当にススキなのか自信が無い・・・自転車での通りすがりですから
 もしかしたらジュズダマみたいな葉っぱかも知れない>まあどちらでもいいか?
   このあたりから同時にいろんな思い出がいっぺんに押し寄せてきました。
学生時代はまだキャンパスが整備されていなくて荒地が一杯残っていました。
 だからススキとはお馴染みさんで、部室の窓の日除けはセイタカアキノキリンソウ・2m近くにはなります。
 大学祭には後輩3人が掘ったクズの根・葛根湯の減量
 さてさて荒地とキャンパスと若い日々はつながっている。

 そういえばこの風はまるで秋風・・・夏休みも8月になると土用波が立つから、子供時代は母から海水浴は禁止されていたっけ。
 勿論言うことは聞きませんが
 その両親が死んだ年、8月のお盆に田舎の兄に電話したら兄嫁が電話口に出た。
「あっ姉さん?、今度お盆に帰ります」
「何しに?」(そんな)
「お墓参りもしていないしね」
「でもこっちでは新暦ですよ」(ガーン!!)
  何てこった、両親の生前も親不孝だったけれど、死んでからも立派に親不孝を続けています。

 さて家に帰ってパソコンで旧暦と新暦の差を見てみた。
 今日は新暦で7月30日、旧暦では6月17日・・・と言うことは旧暦で七夕にもなっていない
 ちなみに今年の旧暦7月7には新暦で8月19日になる
 別に七夕に拘るのではないが、私のご先祖様に七夕に関係のありそうな人がいたと思われる。
 いや関係は無いかも知れないが、誕生日が7月7日とかだったかも
 その人の名前は「織女」だから多分女の人だろう
 娘のうちの死んだのか、ココに嫁いで来てからなのか全く分かりません
 ただ墓碑に○○織女と享年で元禄年間の年が刻まれている
 それも小さな粗末な墓石だから、一族の墓の周りの柵代わりにされそうな感じです・・・
  マア、いくらこの人に興味をもっても多分石に刻まれたこと意外の記録は無いだろう。

 このお墓の存在は私が高校の時に知りました。
 当時の新潟大地震の時に私の住む太平洋側の町もフォッサマグナでつながっていて墓石に被害があったので私が見に行って知った。
 以来七夕になるとご先祖の「織女」さんの名前を思い出します。

 ところで今日の昼休み碁Fさんとの向う4子
 星に小ケイマカカリに黒が2間高ハサミで来ました。
 今日は少しお手並み拝見と言うムードで、大ケイマに飛び出してみました。
 コレがFさんのファイトに火をつけたか、黒乱戦に陥ったようです。
 4子の置き碁ですからFさんが正しく戦えば決して悪くはならないはずなのですが、白も乱戦は望む所では有るし・・・
 それにどうしても力自慢の黒さんですから、地を稼ぎながら白を苛めてやろうと思うようです。
 この辺に落とし穴があるかも知れません
 ともかく40個近い黒石を捕獲
 だから残りのスペースを全部黒地にしてもどうかと言う情勢。
 この時点ではまだ「どんど晴れ」が始まっていなかったから時間が半端なのでFさんは投げなかったようです。
 でも投げて欲しかったのです
 そうすれば時間があったので、凌ぎの勝負手などの話が出来たのですがね。
 休み時間の最後まで打ってしまったから、チョッともったいない
 勝負のついている碁を時間潰しに打っただけです
 尤も石を片付けながらFさんが「だいぶ違っていました?」と訊いてきたところをみると・・・数えていなかったのかな?。
 私の大雑把な計算では30目以上の差があったと思いますが、敢えて「だいぶ」としか言いたくなかったです。 

 

三度の飯より好き

2007-07-29 17:04:43 | Weblog
 先日息子がTVで見たとかいうことで「コロッケ蕎麦」が話題になりました。
 出所は「爆笑問題」らしいのですが、”意外とおいしい”といと言うことを聞き込んできた。
 だから彼はともかくやってみたいと思ったのです。
 しかも彼は秋には家を離れるので今はスーパーでせっせとアルバイト中で、そこには「蕎麦」も「コロッケ」あるわけです。
 そこから先が今風と言うか、実生活の感覚がおかしいというか
 彼は蕎麦とコロッケを昼飯用に買って来たのだが・・・
 この蕎麦がザル蕎麦!
 どうも季節柄と言うか、冷たいほうの蕎麦しか考えが及ばなかったらしい。
 だから冷たい蕎麦にコロッケを乗っけて・・・
 尤も本人は自分用に+海老天を買ってきていたから、自分だけは「天ザル」
 息子の作った昼飯がありがたいような・・・奇妙なものを食べたような

 実はコロッケ蕎麦、コロッケうどんは遥か昔、私の学生時代には生協食堂の定番でもあったのです。
だから今の時代の○○グルメではなくて、貧乏学生の定番みたいな・・・掛けうどんにコロッケを乗っけた贅沢みたいな物で、せいぜい50円くらいだったと思う
 ともかく、彼が「爆笑問題」の話として聞いたものを40年は昔に食べていた。
 素うどん・掛けそばのトッピングとしてコロッケを買って蕎麦・うどんに載せるものだったのではある
 油揚げならキツネ、テンカスならタヌキ、かまぼこならオカメ、卵なら月見とするとコロッケはなんなんでしょうかね?
 ともかく冷たい蕎麦は考え付かなかった。

 ところで、最近はカロリー制限がきついので揚げ物を食べる機会がかなり少ない
 脂身・脂分を抜く、肉より魚と言うことで、カロリー成分の表を持たされている
 しかも、脂分は目の敵かと言うと「油断は禁物」なんて言う駄洒落ではないが、無しでもいけない!!
 私はこういう「バランスが肝要」と言うものを苦手としているのに。
 碁では積極策・消極策あるいは全体と部分など「バランスが大事」など自分でも後輩には言うのに・・・自分の体・生活・行動などバランスが問題

 ともかく今の最重要課題は血圧など低く抑えつつ(塩分調整なども含め)、なるべく速やかに体重を落とすこと。
 心臓の負担を軽くし血管を守る・・・となるのだが
 そのための”バランスのいい食生活”・・・コレがね
 バランスでは”火急的速やか”になるかどうか
 それにジリジリとした努力を延々と続けるイメージ>コレが苦手
 私は降れば土砂降り的な集中には強いタイプだと思うのですがね、毎日のミリ的進歩・着実な歩みはどうも・・・

 学生時代にマージャンに凝っていた時代は、それこそ三度の飯よりと言う感じでした。
 下宿時代ですが、私は初めから雀荘でやっていたので、寧ろ学生アパート・下宿での経験は少ない。
 ですから飯時なら店屋物を取れるのですが、夢中になっているから相当いい加減な食生活でした。
 「食生活」という表現に値しないでしょう。
 たいていは徹夜ですから夕食は雀荘で店屋物、朝は寝ているから無し、昼は大学の裏門そばのパン屋さんの縁側でパンとコーラ・・・
 だから1年で7,8kg減ったのです。
 決していいことではないのですが、減らすという目的を考えたらバランスなど無視すればそういうのも・・・
 しかし若いときと違い体力がついてこないかも
 
 今はマージャンから足を洗ったから、残るは囲碁だけです
 ですから碁会所・コミュニティ・ネット碁とひたすら打ち続けるのは・・・
 三度の飯より好きなのですから三度のうち一回や二回は抜いても
 そういう極端な事の方が気持ちの方はすっきりしますが、体の方も”世話要らず”になってしまうかな?
 禁煙の方は1日60本から、ある朝から0に出来たけれど、コレは節煙ではなく0だから出来たと思っています。
 さてカロリーの方は・・・
 0に出来ないというところが困りますね。
 0の方が楽なのに
 今は「好きなものを好きなだけ食べる」のは許されない
 ですから食べることは「どうでもいいようなものを時間が来たから食べ無くてはいけない」様な気分
 誰に対する義務かよく分かりませんが、そうであれば食べても食べなくてもと言うようなムードですが、現実に何か食べなくてはエネルギー補給も、体調調整も無いわけです。
 全くややこしい、わずらわしいような。
 食べることの楽しみを取り返せるだろうか?  
 

一手目の謎

2007-07-28 16:57:09 | Weblog
 昼休みの碁でFさんの置石の置き方で言おう言おうと思っているのだけれど、こういうことは時期を逸してしまうとなかなか言い出すきっかけが難しい所があります。
何だか偉そうに「常識を教えてやる」みたいに取られるのが怖いし
 もし「あっそう、それがどうした?」と切り返されら二の句が無いし・・・
  彼は[両手に夫々石を持って上辺の左右の星に同時に置いて、次いで下辺側の左右の星に同時に置く ]・・・確かにルールでの規定は無いから自由ではあるらしいいし、両手で合理的な作業とはいえます。
 ただ、彼の場合は合理性を追求しているとは思えない・・・時に片手で置石を置く時もあるのだが、これはそのときの気分で置くから毎回違うやり方になる。
 コレはルール違反でもマナー違反でもない。
 但し、石を置いていく途中での美しさと言うか、置く人の所作の美しさみたいなものは感じられない。
 いつものコミュニティでは6子置くのに左右に3子ずつ石を持って、両手で両側の星に石を配るみたいな置き方をする人がいる。 
 私よりかなり年上の人だし、多分キャリアも私より上だろう
 だから置き方を教えるというのはおこがましいし、かといってあんなにキャリアのある人が・・・と言う感じで少し寂しさも感じるものです。
 こういうことに違和感を感じる感性と言うか拘りは日本人的?・・・
 でも目の前でやっている人も同じ日本人だし、かなりの年配者もいる
 多分誰にも教わらなかったか、「合理性」から見て意味の無いことだと思っているのかも知れないですね。

 例えば芸事で茶道・華道などで動きは無駄なことをしないという合理性と、見た目にも美しいという形だろうと想像しています。
 碁において両手で石を扱うというのは終局して碁笥に石を収める時以外は決して美しいとは感じないと思う。
 対局中の所作として、一度に石は片手に一つしか持たないのが原則?とすれば対局直前ではあるけれど、両手を使って置くのは有り得ないと思うのですが
 更に置石を置く順序から言うと、2子から井目まで置く順番は決まっている。
 誰が何時決めたのか追求されると困りますが・・・
 繰り返すけれどルールでは無くマナーとも言い切れるかどうか分からないけれど、そこに様式美を感じるし、私としては上手に対する下手のマナー的なものも感じるし、それ以上に碁を楽しむ人の「碁」に対するマナーみたいに思うのです。
 だから勝手な言い分で言うと、こういうことを知らないのか、出来ないのか、やらない人を見る時に、何だか底の浅さを感じてしまう。
 マア、現実の世の中で何がどう変わるというものでもないですがね。

  さてもう一つルールでもマナーでも無い話
 ある囲碁のHPで詰め碁のトレーニングをしている人の感想から
「基本的な問題が役に立つし、場所や向きを変えて繰り返し出題されるので勉強になる・・・」みたいな書き込みがありました。
 確かにそういう面はあるだろうな、急所とか筋は同じなのに向きが変わると混乱したりするらしい
 元の問題をA0とすると場所や位置を変えるとA1からA8まで出来そうですね
 それでA1はよく出来てもA5とかA6になると怪しいみたいな・・・
  そういう意味で場所と向きを変えて繰り返すのは正しいかもしれない。
 
 私はFさんの向う4子で白1手目に星に小ケイマでかかるとしたならば、右上の星に右辺側からかかることに決めています。
 同じ意味の・同価値の位置が盤上に8箇所ありますが、目先を変えるような打ち方はしたくない。
 敢えて同じ位置から始めるわけです。
 変えると、白自身に小手先の作為を感じてしまいます。

 それこそ何処に打とうと自由なのですが右上に拘りがあります。
 日本の棋譜では黒の1手目は右上と決まっているのですが、それは何時ごろからでしょうね・・・誰がきめたのでしょう?
 昔の地下鉄漫才ではないけれど、考え始めると眠れなく・・・そんなことは無い
 スタート時点で天元は一つしかない場所ですが、その他は同価値の場所が複数ある・・・ならば1手目は右上から・・・と言うのも棋譜を取ったり囲碁を研究する上での合理性でもあろうか。
 ということは囲碁が進歩して行った時代、戦国時代だろうか江戸時代の家元制度が整っていく時代だろうか?
 たった1手なんですが研究するときっと面白い
 私には文献も資料も無いからただ空想するだけですが

 ところで1手目の方向を決めるとして、それは何故右上方向か?
 コレは相手に打ちやすい場所を残していく・・・例えば3子の置き碁で白の右手前を空けて置くみたいな意味だろうか?
 今でもそうですが古くから右利き社会だったから右を空けて置くのかも
 それでは何故左とは言え白の側の星を空けないのか?
 白に敬意を表する意味があるのなら黒は自分の手前の右の星でもいいはず。
 私の勝手な想像では、コレは見た感じと関係が有るような気がする
 もし盤上に1個だけ石を置くとしたら・・・それを黒から見た棋譜として記録し絵として見るとしたら・・・
 ポスターの視線を引きつける位置ではないけれど、それは右上か左上の星あたりでしょう。
 黒1が右上星方向以外で(天元は別として)置かれていたら、なにやら落ち着かない気分になりはしないだろうか。
 それはそういうものに慣れさせられた結果だろうか、それとも位置の持つ意味がそれを表しているような気がする
 ともかく相手の右手での着手を考えて左上は空けておくとすれば、右上に限られてくるのかも。
 
 さて何処に打っても同じなら右上からと言う感覚と、何処に打っても良いのだからほんとに何処に打っても・・・もし予想外の所から始まったら、石数が増えてくるまで何となく落ち着かなかったり、気持ちが悪かったりしそうです。 
  

「君はやれば出来る人だ」

2007-07-27 18:25:55 | Weblog
 「お前はやれば出来る子なのに・・・」子供の頃よく母親に言われていた。
 面白いことに家の出来の悪い息子に女房殿が「お前はやれば出来るんだよ」と言っている。
 出来の悪い息子は母親にそういわれるものらしい。
 何だかおかしくて、笑うのも憚られたので、背中を向けてこらえていたものです
 成績が悪い時の小言の常套句で「やれば出来る・やらなければ出来ない」と言う厳然たる事実を「脅かし半分」「励まし半分」で言っています。
 コレは相当昔からある言葉と言うか論法?だろうか
 「今時の若い者は・・・」の次くらいに古いかも

 でもねやる気になればやる時は有る・・・但しその気になるものが母親の期待とは大きく違う
 例えば競馬で双眼鏡など使わずに、向う正面での騎手の動きを観察できる・・・
 マージャンで指でモー牌などせずに裏返したまま卓のラシャに擦って牌を感じ取るとか
 馬鹿馬鹿しい所ではテーブルにコップを置いてその横に置いたスプーンを指1本でコップに入れるとか・・・
 やりたいことと他人から見てやらなければいけないことが必ずしも一致しないということらしい

 さて今日の昼休み碁、Fさんの向う4子局です。
 対局会場の休憩室へ下りながらF・K対決デスマッチの近況
 昨日は深夜近くまで十数局は打ったらしい。
 こういうマッチは結果が偏るもので、一時4子まで行っていた置石がKさんの2子にまで寄せ返したらしい。
 熱心なのは結構なんだけれど、こういうデスマッチで弊害も無いとは言い切れないのでは?と爺様の老婆心が出掛かるのですが、口には出せませんね。

 さて今日の対局
 中盤で黒の一団が切れると大石が凌げるかどうかの局面
 私の読みでは黒コウにして凌ぐしかなさそうですが、その場合コウ立てが難しいから、このあたりで地合いが細かくなりそうな感じはしていた。
 つまりその辺のことを考えながら打ってきているわけで、その場になって考えたのでもないのだが・・・。
 私もいい加減な性格では有るけれど「切れる所はみんな切る」と言う乱暴ばかりでもないのです・・・自分ではそのつもり
 さてFさんは勝負手のコウのコースを読んでいたかどうか、その前にアテコミで白に「切るぞ」と打ってきた。
 コレは私の読みには無い手。
 コウ味を消しつつ、攻め合い1手勝ちを確認・つまり切断は意味が無い
 この辺りの一連の進行を確認するのに確かに時間は使った
 しかし昼休み碁で有るし5分は使っていないでしょうが、Fさんから軽くではあるが非難されたのです
 「白にあんなに考えられたら黒は勝てない」
まるで白は考えたらズルイみたいな言い方です
 私「考えたというより考えて置いたところを、正しいかどうかチェックするのに時間がかかったのです」・・・何だか言い訳みたいで変ですね。
 白には置石だけでなく考慮時間もハンデだというのかしら。
 そういうのを碁と言うのだろうか?
 頭でなく単に指先で打つだけみたいな。

 確かに私が彼と同じペースで打ったら、仮に棋力差で8:2なら6:4くらいまで迫られそうな気もします。
 でもそういう碁がお互いに楽しいとは言い難いと思うのですが・・・
 だからここぞとばかりFさんに提案
「昼休みに打ち切るという暗黙の了解を一旦解消しましょう。打ち終わらなかったらこの部屋に碁盤をそのままにしておくか、磁石碁盤に写しておく。あるいは棋譜に採って置くか最初からパソコンで打つ。」「そういうのも楽しいと思いますよ」
しかし今の所Fさんは「必ずしも翌日打てるとは限らないし・・・」と及び腰
 説得には時間がかかりそうです

 さて今日は大プレゼントでFさんに「隅の石は外ダメが詰まると手がありそうですよ」とヒントを出しておいたのですが、そんなものは一切無視「手は無いでしょう」とダメ詰め。
 3三に置いてセキだから本来手入れで8目の地が0に・・・
 読んでいないか読み間違い!
 こういうものはヒントとでも対局中には言ってはいけないと反省しました。
 彼はきっと「白が手の無い所に手を入れさせるために脅かした」と思ったに違いないのです・・・私が信用無いのかも知れないけれど
 いずれにせよ今日に限らず「考えない碁」の弊害は体験しているのに・・・どうも提案を受け入れる道のりは険しいようです。
 彼も私もザル仲間ではあるけれど、考えて打てばそれなりに今までとは違う碁が経験できると思うのだけれど・・・それは今までとは一味違うはずなんだけれど
「君ならやれば出来る」と言ってもその気にならない人には無理か・・・ 

ファ爺の思い出

2007-07-26 19:14:34 | Weblog
 この話もマナー違反に関するものだけれど、作為あるいは悪意と言うより「困った爺様話」でもあり、今は懐かしく思い出される。
 (尤も似たようなことで、少しわざとらしさを感じる人もいたけれど・・・)
 面と向かって綽名で呼べる相手では無いと、密かに自分の心のうちでは綽名で呼ぶときもある。
 あちらは社会的にも名があり、地位もある場合でも囲碁と言う遊びの世界では同好の士と言うことでして・・・
 ですから綽名をつけたり、綽名で呼んだりは心の中の話ですから周囲も相手当人も知りません。
 多少人の悪さを感じる後ろめたさも有りますが、マア許される範囲でしょう
 
 そういう人の一人で私が密かに「ファ爺」と名付けた人がいました。
 昔コンピューター的処理の話で「1でも0でもない」状態、色で言えば白でも黒でもない・まあ灰色の状態をファジーと呼び始めた時代です。
 「どっちつかず」と言う意味で「ファ爺」と呼ぶにふさわしい人がいた。
 実を言うと「ファ爺」と呼びうる人は何人もいたのだけれど、全く本人の意図的なものを感じない人はその人だけでした。
 つまり真性ファ爺とファジイ的な爺様の違いでしょうか。
  その方はすでに鬼籍に入っておりこの時期になると(お盆近くでもあり)懐かしく思い出される。
 ファ爺のファジイたる所以の話が供養代わりになるといいのですが・・・

 さてコンピュータのファジーは難しい問題でしょうが、囲碁に関しては至って単純・要するにどっちつかずの手、いやどっちつかずの場所なのです。
 攻めるか・守るかのどっちつかずではなく、「1間トビ」なのか「2間トビ」なのかはたまた「小ケイマ」にも「大ケイマ」にも見える位置に打つ、そういう手なのです。
 コレは意図して打っているのではないと思う・・・そう思いたいし、そうであってはならないけれど、後で実戦の進行上都合の良い所に確定されてははなはだ迷惑なことではある。
 こういうことは後で問題にすればトラブル必至だと思うから私は常に相手に場所の特定を要求しました。
 マア少し砕けた言い方で「後で都合の良いところへの移動は嫌ですよ」
 実際は、碁盤のほぼ交点に石をずらしてもらうまでは断固打たない態勢です
 本人も意識的な行為では無さそうなので、逆にいつも繰り返される・・・だから私も小姑みたいに要求を繰り返すと言うわけです。

 着手の石の位置については交点に石の中央が来るように心がけているのですが、私自身も多少ズレます。
 このズレは法則性があって・・・例えば1間飛んで早く中央へ逃げたい時はその方向に幾分ズレるし、横に展開したいときはその方向に・・・つまり気持ちが石のズレになって現れます。
 コレは数ミリの問題、多分2,3ミリのズレだと思いますがはっきりと出るような気がします。
 それは自分では分かる程度だとは思うが対局相手が注意してみていれば分かる程度・・・しかしあれ程の大きなズレは珍しい
 彼は人生の大先輩でもあったし、意図的にそういう打ち方をする人でなく、言ってみれば大雑把な性格の表れでもあっただろうし、超早打ちの弊害でも有っただろう。
 
 私以外の人が彼と対局する時、私ほどは拘っていなかったのは、「しょうが無い爺様だなあ」というおおらかな気持ちだったのでしょうね・・・私は1手毎に拘っていたけれど。
 しかし似たような人同士が対戦すると傍目にも凄まじい様相を呈する
 ・・・と思うのは第三者の私だけのようで、当人同士は平然と打っている。
 私などは平衡感覚がおかしくなるような目眩を感じるのですが・・・
 偶には対局者同士が「コレはどっちだ?」とやっています、が、お互いの主張を認めてトラブルにはならない・・・そこのところも却って不思議。
 いずれにせよどういう認識力なのだろうか?
 ああいう状態の碁盤を見て考えられるのはきっと私など及びもつかないのだろう
 私などは碁盤の交点の中央に石が無いと気持ちが悪いので気に入らない石があると直したくなるのです。
 ただルール的に持ち上げて打ち直す形は問題があるので、親指の背中でオハジキをずらすみたいにソッと動かす。
 自分の石でもそうですから、相手の石でも時として「失礼かな」とは思いつつも直したくなってウズウズするのです。
 だからファ爺との対局は彼の「おおらかさ」対私の「ちまちま」の戦いでもあったと思う。
 私は生前かなり爺様に可愛がってもらったと思う。
 勿論実生活とか仕事ではなく囲碁のザル社会での話ですが。
 爺様はやって来て、私が手空きだと前の席に黙って座り碁盤に石を2つ置いてからタバコに火をつけニコッと笑います。 
 
 

思わずマメアジ

2007-07-25 17:48:09 | Weblog
 先月の話ですが、生まれ育った田舎にサッカーの試合を見に行った時に見た風景が気になっている。
 (変な表現になってしまいましたが、生まれ育った町がサッカーで知られた町ということです。私は囲碁とサッカーがすきですが、どちらとも直接の関係は・・・宜しくお付き合いの程お願いします。)
 これは東名高速のインターチェンジを降りてから、市内を抜けていく道筋の風景
  実はこのインターチェンジ付近からまさに「故郷の町に帰った」という感じが始まるのです。
 インター付近に死んだ母が骨折で入院したことがある病院があるし、この近くの道は高校のときのトレーニングのランニングコースに近いし高校そのものも直ぐ側で、その高校の前には私の一番上の姉の家がある。
 そういえば、小学生のときに子犬を譲ってもらった叔母の家もこの近くだけれど、その当時農家が点在していた頃と比べると何と様変わりしていることか
 それに両親の墓のあるお寺もこの近く・・・墓参りせずに素通りでサッカー見物・車中合掌
  ココからまっすぐ海の方へ出る道が、市内の混雑を避けてスタジアムに早く行く道らしいのですが、海にぶつかった所が私が少年時代に暮らした町であり遊び回った場所なのです
 小さなタンカーが出入りする、護岸で囲まれた入り江、海に突き出した突堤・・・
  その辺りは住んでいるところから自転車で10か15分で来れたから、夏から初秋は毎日のように通っていた所です。
 釣りにボートに海に潜ってワタリガニ(ガサミ)取り、勿論堤防からのダイビングも
 しかし、今は様子が違う
  昔はココは東亜燃料の製油所が埋め立てた土地に並んでいたから、そこには海水の水路などあったはずだが、見当たらない。
 海の水も何処と無く・・・いやハッキリ違う。
  子供の頃も既に製油所があったから、その影響で海が綺麗だとは言えなかった。
 水面のところどころに油で光る帯が漂っていたりした。
  だからその頃でも既にココではアサリとか釣り餌になるゴカイなど取れなくなっていたけれど、突堤で釣った魚は食べるのに支障は無かった。
 マアその程度には綺麗だったというか、当時が限界だったかも
  バスの窓から見た限りではここで釣った魚をとても食べる気にはならないのであろう・・・という感じの海に見えた。
 何だか海水の表面がねっとりしているような・・・これは凪だからと言うことではなく、綺麗な水と動きが違うように見えた。
 実際にバスを降りて海を見たのではないが・・・
 だから、本当は同行の息子にこの海で私が子供の時にどんな風に遊んだのかを話そうと思っていたのが、急にその気が萎えてしまった。
 この風景は「何処か違う」程度なら、「間違い探し」的な差だけれど、まるで印象が違うに近いかな
 バスは駅の裏口から漁港の横を通って走っていく
  このコースそのものは子供時代から熟知した場所
 沿道の干物屋さんも死んだ両親の知り合いの店のはずだし・・・
  そういえばこの近くに友達の家があって、生涯でまだ1度だけなんだけれどヤギのミルクを飲ませてもらったっけ・・・もう彼の家もあるはずが無いだろう。

 少年時代はこの海で釣れたのは、アジ・12cmくらいだからマメアジというべきですね。
 それにコハダ(コノシロ)、ギンダイ(この地方ではギンダベラ)などで偶にアナゴとか鰻、イワシと言ったところ。
 海水浴場の沖にボートを出せばキス、グチなど。
  突堤での釣りは小アジが主で生シラスを餌にかなり釣れた
 兄と二人でバケツに一杯釣ったことがあるから恐らく100匹どころではないでしょう
 1本の竿にハリス3本で一人で竿二本、兄弟で釣りまくったから・・・
  マア持って帰って母を困らせた・・・マメアジの開きなど作らなければ消費しけれなかったのです。
 高校時代には、深夜一人で家を抜け出して(翌朝の味噌汁用のアサリなど少し戴いて)ココの突堤で黒ダイを釣ったものです。
 明け方に帰ってきて知らん振りして高校へ行ったけれど・・・釣れればどこに行っていたかミエミエ
  さてさてそういう場所
 息子のオヤジの育ったルーツ的な場所なのだが、何だか話す気がなくなってしまったから、黙って通り過ぎた。
 だから息子にとってはただの通りすがりの風景。

 マア私みたいな故郷を離れた人間と、ここで生活している人では条件が違うでしょうが、風景と水が違うのにはショック・・・予想はできたけれど。
  こういう、ショックを受けた下地があったせいか、先日近くのスーパーの生鮮売り場にマメアジが並んでいるのを見て、懐かしくてつい買ってしまいました。
 大きさも12,3cmですから丁度思い出のマメアジサイズ
   一山198円で15,6匹かな
  唐揚げ・煮物・焼き物と書いてあるけれど、当方はカロリーの関係で唐揚げは避けたいメニューだし、小魚でも頭から食べるのは苦手
 母はマメアジで干物を作ったけれど、季節的にベランダの干物作りは夏場は苦しそう。
 残るレシピ?は焼くか煮る(酢にするには鮮度が不明)
  私は海の側で育ったけれど魚を食べるのが下手
 直ぐ上の姉などは「猫泣かせ」と言われるくらい食べた跡が魚の骨格見本になるのだけれど、私は「食べているのかかき混ぜているのか・・・」
 それに昔喉に骨を引っ掛けた記憶が残っているから背びれ・胸鰭を綺麗に取らないとダメ・・・元々小さなマメアジが。
 さっと焼いてから煮てみる
 
 今日はマメアジの話になってしまいました。 
 

肉付き・ずらし

2007-07-24 18:46:51 | Weblog
昨日、終局時に地を数えないでサッサと一方的に崩す”乱暴者”の話をしました
 今日もその続編みたいなものです
  「毎度馬鹿馬鹿しいお話にお付き合いいただきます」という出だしにピッタリかも知れません。
 前にもお話したかも知れませんが、グーグルで「囲碁マナー」と検索すると高野さんのページが出てきます。
 たいへん分かり易くまとまっていまして、私が昔道場に入門して師匠から教わったこととほぼ同じ・・・僅かに違うといえば「碁笥と碁笥の蓋の置き場所」くらい。
 「碁笥は右手に置き」と有りましたが、私の教わったのは「利き腕側」で、私など途中で利き腕を変えざるを得なかったものには「利き腕」あるいは「石を打つ手の側」となっていると有りがたい。
 マアこの辺は本質的な違いではない。
 要するにマナーは「ルールに則って、お互いを尊重し気持ちよく打つ」ためのものだから、そういう気持ちさえあれば難しいことは何も無い。
 常識から見たら当たり前の事とばかり・・・

  ただ、気持ちは有っても、「ついつい」もある
 その一つに石音がありそうです
 先ほどの高野さんのページで紹介されているのは菅原道真の漢詩で大要は
 「唐の人の言うには、日本人みたいに石音高く打ってみたい・・・」ということは当時の唐では大きな音で石を打ってはいけなかったわけですね。
 それは盤をいためるとか、大事な石を傷めるとかの現実的な理由か、あるいはマナーとして石は打つものでは無いとされていたのか・・・「君子は石音高く打つものでは無い」みたいに想像する。
 つまり石は「打つ』ものではなく「置く」のだと
 私はこういう感じは好きですね、気合が入っているときほどソッと置きます。
 でも周りには「何であれほど」というくらいに「打つ」人がいます。
 よほど手首の機能が良くてスナップが利いてしまうのか、狙った所へ勢いよく打つコントロールが自慢なのか・・・
 でも時として「この人は何か怒っているのか?」とか「形勢がいいと思って石音で表現しているのか?」あるいは「何か私を威嚇しているのか?」と考えてしまうこともある。
 ある程度は気持ちが乗ってしまうのは仕方が無いかもしれませんが、程度問題で、それは絶対値と言うより個人差がありそうです
 私などは勢いよく打たれると、それだけで「辟易」する方ですから、相手にとっては思う壺なのかも知れません。
 でも合理的に考えれば、石は位置を表せばいいのですから打つ必要はなく、表すという意味で置けば用が足りるのでしょう。
 相手に対する心理的圧迫感と言う作戦もあるのだろうか?
 
 ザルレベルではあると思う 
 必要以上に自分の優位を強調し相手の焦りを誘うみたいな・・・
 ともあれ私たちの使っている道具は安物ですから多少の傷はいいとしても、でも
スプルース盤なら確実に凹みが出来ます。
 良い材質の碁盤なら硬質の石で傷がつくだろうし、逆に石がハマグリとか那智だったら、そちらが欠けるかも・・・
 自分の極上の道具ならやらないだろうなァ

 石を置く姿で私の印象に残っているのは、杉内寿子先生の打ち方ですね。
 序盤か中盤の前半しか出来ないでしょうが、「着点のやや前に石を置き、スーっと目的地にずらす」コレが一連の打ち方ですが、着物姿で姿勢よく”決まって”いた。
 こういう打ち方、それを美しいと見る感覚は日本人的なのかも知れません
 確か中国の人からクレームがあったと聞いている・・・どうなったかはしりませんが
 要するに「初めに置いたところが着点であって、ずらしたのはルール違反、あるいは2度打ち」
 ルールを字句通りに解釈すれば違反になるかも・・・でも全部が一連の動きと見れば「一つの様式美」みたいな感じがするのですが・・・コレは国際的に解釈しなくてはいけないから難しいでしょう。

 コレは棋士の国際的な問題・・・ザルには次元が低い問題があるのです
 「着手はどういう形で着手と言うか」
 つまり持った石が碁盤に触れた時で、そこの場所が着点となるか、
 碁盤に置いた石から指が離れた時が着手で、その地点が着点となるか?
 先ほどの先生の場合は大別すると後者に入りそう
 でも、ザルはコレを勝手に解釈して悪用するのです・・・
「指が石から離れない内は着手が完了していない」>「肉付き」と言うらしい。
 (コミュニティの相部屋の将棋クラブも・・・)
 何となく説得力があるのだろうか・・・「指が離れない内は打ったことにはならない」と一方的に宣言、あるいは「常識」として、盤上に石を置いて指をつけたまま考える人もいる。
 つまり考えた結果一旦盤上に置いた石を取上げてに戻す権利を保留しているというわけです。
 全くルール以前に見っとも無いと思わないだろうか?
 「着手が決まるまでは石に触れない」という戒めがあります。
 「着点が決まってから石を持つ」のですから、置いて考えるなど論外
 それでも迷う時はあるとしても、盤に触れてから止めるとは・・・
  対局姿に美しさを感じたり、その人の品性とか人間性を感じないのだろうか?
   リアルではそういう人も意外と多いのです
  お前もその仲間だろうと言われると・・・
 自分が打った瞬間、相手が石を持つよりも早く碁笥に手を突っ込む人、いつも数個の石をジャラジャラさせている人、そういう人種には多いかも 
  
 

「数えるまでも無いでしょう」

2007-07-23 18:23:14 | Weblog
 最近ネットでマナー違反の人とぶつかってしまいました。
 よくあるといえばよくある・・・有ってはいけないのですが。
 「247手・白中押し勝ち」>この意味が分かりますか?
 欠け目や半コウを全て処置した後の話です。
 黒247手目は黒石が切断されないように繋いだ手です
 (コレは黒4目半コミ出し・私は白番)
 それで、もう打つところが無いので、本当にそれでいいのか、相手に「終局要請を出すかどうか」点検中。
 地合いはかなり楽勝だとは思っていた・・・油断!?した
 突然ゲームセットです・・・白中押し勝ちだから勝敗は変わらないにしても、本来ダメ以外は全部打ってしまったのですから、後は数えるだけのはず。
 しかも私の手番で相手が投了。
 この辺はソフト改良の余地が有りますね。
 ココまで打った人が何故投げるのだろうか?
(検討モードで地合い計算をすると、白31目半勝ち・・・相手は私の考慮時間に計算結果を見ていたのかも)
 どれだけの差が有ろうと、自分で最後まで打ったのだから、地合い計算までやるのが「男らしさ」(ご婦人方の悪口ではありません)と思うのだが。
 それとも白はボケ老人だから、何処で何が起こるかわからないと思っているうちに最後まで来てしまったのだろうか?

 こういうことの裏側で、例えば「勝った時は思いっきり相手に精神的ダメージを与えたくなる」というのが有りはしないだろうか?
 終局後の挨拶で、中押しで勝った人が「パソコンの調子が悪いので投了させて戴きました」というアレ。
 勿論結果は変わらないのだし、相手をおちょくっているセリフ
 何だか日本人が寂しくなっていくような・・・オーバーかな?

 でもこれらを最近の若い者は・・・とは言いません。
 実はリアルではこんな経験があるのです(何度も)
 <例えば4子くらいの置かせ碁で>
終盤に入ったところでははっきり白がリードしていて、相手も劣勢と思っていたらしいが・・・もしかしたらそれほど深刻ではなかったでしょうね。
 白が余裕のありそうな態度だから黒が悪いかも知れない程度の感覚かもしれない
 だから終盤では黒自身が「ココまで来たから最後まで打ちましょう」と言う
 どちらでも相手の決めることですから私は黙って頷きます。
 局面は進んで、半コウは繋いで、リアルですからダメも全て詰め終わる・・・
 ココで地合い計算の筈・・・が
 相手は碁笥の蓋に乗ったハマ石を碁盤にバラバラ>>>「何をする!!」と言う感じ
 相手はすまして「数えるまでも無いでしょう」「!!」

 もしはっきり勝っている碁でも・・・5目10目ではなく30目くらいリードしていてもコレはやらない。
 もし勝っている方がやったら、相手は反則勝ちを宣言するかな>そこまで意地の悪い想像をしてしまう。
 マアそこまではしなくても勝った方にやられたら、「貶められた」「馬鹿にされた」と感じるに違いない。
 そして私がやったとすると、あっという間に悪い評判が立つに違いない・・・評判の問題ではないですが。
 もっと恐ろしいのは、そういう事が出来るのが勝者の特権みたいに・・・そこまでは思わないとは思うけれど。
 少なくとも「アイツとは二度と打たない」といわれることだろう。

 相手はいまどきの若者ではない・・・私より10才は先輩なのです
 黒さん大差で不利なのを承知で最後まで打ったことを後悔しながらやっていたか?
 しかし負けている方が「数えるまでも無いでしょう」はまるで勝っているような口ぶりにも聞こえる・・・
 まさか結果が分かっているのだから、つまり20目負けも30負けも同じと言う意味で、お手間は取らせません・・・か

 もしも、もしも私が反応よく、碁笥のハマ石をばら撒こうとする手を一瞬早く抑えて、「ココまで打ったのだから是非数えましょう」と言ったとしたら・・・
 「お前は降参した相手を二度負かせる気か!?」と怒りそうな気もする。
 ココまで来ての投了の権利はあるのだろうか?
 いやルールでなくマナーならば元々権利は関係ないか
 さてさて仕事先ではボケ老人だが、ココではマダマダ若僧・・・相手は年長者の特権をフルに使っている?
 いずれにせよ若くてリアルの経験が少ない人はマナーが悪いなどと、とんでもない話です。
 マナーの悪い人は年令に関係ない。
 経験を積んでいるだけに許しがたい所もある 

ネット碁のこと

2007-07-22 18:38:28 | Weblog
 私は今お世話になっているネットに我慢が出来ないほどの不満がある分けではありません・・・が、3年は同じところで打っていると、外の世界も見てみたくなりますよね。
 ネット碁の履歴で言うと、パンダネットから始まってTAISENなどを経てサンサンに至っているのですが、その間にダブルでYahoo、タイゼムとかハンゲームで打ったりしています。
 マア結論から言うと今住んでいるサンサンが一番自分に向いているかなとも思うのだけれど、もしかしたら他にも素晴らしい世界があるかも知れないとも考えるのです。
 コレは”井の中の蛙”、”牛と大きさ比べでお腹を膨らませた池のカエル”みたいなものの丁度反対で”青い鳥探し”みたいな物かも知れません。
 「何処だって大して変わらない」そうは思っても・・・そうでもないかもという考えは否定できない

 それで他にはどんなネットがあるか検索してみた
 「何処だって」というのは言葉のあやで、実際はIDで打つのはやや敬遠気味なので・・・でも一つだけありましたね(今サンサンで打っているので、それ以外にという意味で)。
 「将碁友の会」・・・このHPから説明を調べました。
 ココも実名サイトで更に顔写真も登録するのかも知れない?
   なかなか面白そうですが・・・ふと考える・・・

 会則というか運営は面白そうですが、実際の会員数が問題
 今の所でもかなりの会員はいると思うのですが、3年も経つと同じくらいの人は”顔馴染み”みたいになってきて、何となく新鮮味がなくなるような・・・
 だからどうだといわれると困るけれど。
 そういう観点からすると、住みやすい場所が一番だけれど、ある程度規模が無いと直ぐに息苦しくなるような気がします。
 馬鹿な性格なのかも知れませんね、実際にも若い頃には毎年みたいに引っ越していた(実生活の話ですが)・・・だから所謂マンションを買うときは「引越し権」を放棄するみたいな一大決心でした・・・関係ないか。
 ともかく住み心地が良くて規模がある程度あることが大事・・・
 
 リストみたいなものを探していたら「もけもけアイランドblog」で発見
 勝手に引用します、2004年9月24日の記事ですから、だいぶ時間のずれがあるので、現状は分かりませんが概ねの感じは掴めるような気がします。
 そこで、無料サイトが21、有料サイトが19紹介されています。
 無料サイトと有料サイトが関連していたり、パンダネットにつながったりはありますが、マア入り口はこれだけあるらしい。
 コレだけの数のネットを一覧にして、紹介文までつけているのだからたいへんだったでしょうね
 おかげで参考になりました
 そして別に、連語もネットで打てるとか
 あるいは「ボードゲーム」とか言う楽しみか方もあるとか>知りませんでした。
 
 さていろんなネットでパンダみたいに世界とつながっているもの、日中韓が中心のもの、日本国内が中心、あるいは韓国中心で日本からも入れるなどなどイロイロあることが分かりました。
 そしてヨーロッパで立ち上げたもの、アメリカのものもあるらしい・・・
 興味はそそられるのだけれど、これらはやはりIDネームで打つものですね
 昔、パンダとかヤフーで嫌な思いをした「トラウマ?」が蘇る
 そういう人ばかりではない、寧ろホンノ一部なのは分かっているから、その辺はある種の割り切りと言うか思い切りなんだろう
 やはり私は気持ちが弱いのかな
 住み慣れた所でヌクヌクもいいし、いろんな所にも行って見たいから困った性格です。
 
ところで、こんなにネット碁会所があるという事は、リアルの碁会所はどうなって行くのだろうか?
 当地では昔ながらの碁会所は公営のコミュニティなどに影響された思われ、何軒か店を閉めました。
 それにネットでしょう。
 ほんとにビッグなリアルとか道場・教室的な特徴が無いと生き残るのが難しそう
 まず家賃を払っている所はきつい
 メンバーの高齢化が進んでいる所も
 更に年金問題も無縁では無いでしょう
  世の中の流れは私などの目に見えてきたときは、すでに大きな流れで見ることしか出来ないのですが、ネットの流れはどうなんでしょうね?
 これから切磋琢磨というかシェアの奪い合いというか、そういう事が起きるのでしょうか?
 どう考えても40は要らないと思えますが、夫々が特徴を強調するとそうなるのでしょうか?
 それとも囲碁はそれだけの数のネットが生き残れるほどのパイなんだろうか?

 さてさて旅に出ようかどうしようか迷うのです
 今の所実名ネットは他には1つしかなかったから、選択肢は1つあるいはダブル登録?
 それともID問題をジャンプするか・・・ 

夏休み・何日から?

2007-07-21 17:12:44 | Weblog
 8月21日土曜日・今日から夏休みの始まりだろうか?
 隣の団地では早速夏祭りみたいで、朝から分けの分からないダンスミュージックがエンドレスで流れています。
 当方は隣の団地の催しでもあるし、この種の音楽にも興味はないから全く迷惑なことだと心の中では叫びたい。
 でもマアお互い様みたいな事だってもしかしたらあるかも知れないから我慢するしかない・・・でもギブ&テイクにしたって随分貸し越しだと思う。
 それに今は恒例のビンゴ大会・・・あれはやる人は楽しいかも知れないけれど部外者には騒音でしかない・・・
 ということで、ネットの観戦も対局も乗らないのでブログと取り組んでいます。
 それと今日は生活習慣病内科クリニックの日なので、ついでに駅ビルの本屋で「NHK囲碁講座8月号」を買ってきたので、何とか外の騒音に耐えてみようと頑張っています。
 「心頭滅却すれば火もまた涼し」・・・んなわけには行かないけれど。
どう思おうと外から騒音は押し寄せますし。
 今は分けの分からない音楽と、ただただ騒音としか思えない意味不明の人の声、
 それに世話人さんらしき人のラウドスピーカー
 んー、私はきっと隣の団地住民で当事者であっても我慢できなくて、何処かへ出かけるだろうな・・・無秩序的な音には耐えられない。

 さて、「今日から夏休み?」・・・つまらない、どうでもいい疑問です
 例えば今日明日は普通の土日で、週末の休日
 だから夏休みは月曜から?・・・どうでもいいけれど、どっち?
<夏休み> <白い紙> <夜景> の三題話
 コレは勤め先で使用済みA4角封筒を切り開いて再利用しています(私だけですが)
 だから机の上にその白い紙を乗せて、「この紙で何が出来るかな」と想像する瞬間が楽しい時間でもある・・・一瞬ですが。
 そしてお題の三つのテーマは今でも学校が夏休みになると必ず思い出す話なのです
 
 今でもあると思うけれど昔は夏休みの宿題がどっさりあった
 夏休みの前に生活スケジュールを立てて早めにコレを片付ける・・・筈
 マア私は序盤・夏休みの出だしは模範的な子供でしたから、最初の1週間で宿題の8割は終わっていました。
 後の2割・・・それが問題
 ココから私は宿題は全くやらないで、毎日岸壁で泳ぐ、魚釣りに行く、近所の友達と自転車で遠征・・・などなどで、次に宿題に取り組むのは8月31日なのです
 コレは毎年そうなっています
 学科の宿題は概ね終わっていますがその残りと、「作文」「日記」「天気・気温記録」「工作」「習字」「写生」などが残るのです。
 コレを1日でやってしまうのだから我ながら凄い! 自慢できないけれど
 ともかく「やる」となったら「やる」
 それでも、最後の習字・写生になる頃は夏とはいえ既にあたりは真っ暗
 川に面した低い窓の側に机を置いてラストスパート!?
 習字は周りが暗くても関係ないけれど、写生は困りますよね・・・
 そこは開き直りのaizomechou毎年夜の風景を描いたのです
 暗い夜の川に映る水銀灯・川につながる運河と船・くらい貯木池に浮か材木・石油精製塔の灯り・・・テーブルの静物を描いても背景の窓の外は夜景です
 毎年夜景の写生ですから夜の風景が好きだと思われていた・・・止むを得ない事情もあったのです。
 夏休みといえば8月31日以外の楽しい思い出と夜の風景画
 それに、今年は何を書こうかなとテーブルに広げた白い画用紙
 絵を描く前は軽い緊張感と何かしら期待感がある・・・数秒後には紙を汚してしまったという落胆に変わり、提出用のヤッツケ仕事に変わっていくけれど・・・
 でも白い何も描いてない紙を前にすると、何か楽しくなります。

 コレはホンノ少し碁盤を前にしたときの感じと似ているような気もする 
 毎日打っている時は余り感じないのですが、例えば退院後の初めの一局だったり、そこまでブランクがなくても2,3日ぶりだったり、あるいは出張明けだったり、そんなときには初めの1局は軽い緊張を覚える
 ネットの時より、リアルで碁石を持つときのほうが感じます。
 「久しぶり」という緊張感と「どういう碁になるやら」という期待と不安・・・
 マア、ヘボのザル仲間ですから、たいていは1時間もしないうちに「何てヘボだ」とか「全く不注意」、「見るべきものを見て!」自虐的になるとしてももスタート時は「白い紙を前にした時」と同じでしょう。
 
 大会等ではローカルの小さな大会でも最初の一局目の第一着を打つときは、軽く胴震いがしたり、指が震えたり・・・
 気が小さな証拠ではあるけれど、私本人としては新鮮な気持ちの証拠だと思うことにしています。
 いつもの昼休み碁・・・あれは足付き碁盤でリアル>>>震えが来ない>それは問題かも知れない!慣れ過ぎは良くないだろう。 

 
 

お言葉ですが・・・

2007-07-20 18:19:12 | Weblog
 当地、今朝は曇天ながらまあ雨の心配は無い天気で、通勤の自転車を走らせていて「チャリ通日和」だと思いました。
 多少湿気は感じるものの、さして暑いというほどではないし、直射日光は無い・あるいは弱い。
 そして何よりなのは「匂い」です。
  恐らくこれは朝のうちだけで消えてしまうと思うのですが・・・
 ベランダで夏の夕方植木鉢に水遣りをしたときに感じるあの匂いです。
 以前はベランダにいろんなハーブを置いていたので、真夏は早朝と夕方の二度水遣りをして、手間はかかったけれど、夕方の水遣りにはハーブからお返しにいい香りがあった・・・あの匂いに似ている。
 私は鼻が利かないのですが、それでも分かるというのは相当ですね。
  これは朝からご機嫌

「白にあんなに考えられたら黒はかなわない」「あれだけ考える所を見ると黒がイイ所に打っているのかな」
 これは昼休みのF氏終局時の弁
 (囲碁そのものは終盤直前で、白が凌いでヨセ勝負になりそうな気配の場面で打ち掛け無勝負)
 確かにそうかもしれないけれど、少し違う所もあるような気がします。
「黒さんも遠慮なく考えて下さい」というしかないですよね。
 でも私はそんなに考えるかな?・・・違うでしょう。
 比較的の問題であって、私など時間を使わない方だと思うのです。
 私は「黒が最強に打つとどうなる?、その時白も頑張ると攻めあいになるのでその結果は?など前から考えて置いた手順を確認していたのであって、黒が打った手の1手1手で考えているのと少し違う・・・それに黒の最強の手はそうではなくてコレですよ・・・」などと説明
 「エッ?黒からそんな手があったのですか」となったけれど・・・黒が考えたら思いついたか、今の棋力では無理かは分からないけれど、少なくとも考えなくてはそこに到達しないでしょう。

 確かに4子の棋力差があって、読み比べをしたら多分結果は想像できるけれど、しかし囲碁は考えるゲームであるし、「考えることを楽しむゲーム」でもあるはず
 4子のハンデを克服するのに白が考えずに打つなど考えられない
 また、黒だって白に対抗して考えることが大切な事の筈・・・結果ではないでしょう。
黒氏「白は勝負どころで考えるんだもん」・・・『おいおい』
 4子で序盤は概ね同じような立上がりだったり、似たような展開なのである程度スピードアップしても打てる(マアプロの序盤とは違います)、だけれど、中盤ともなると毎回初体験の場面になるのだから考えずに打つのは無理というものです。
 この点についてはF氏も『確かに・・・』という同意はあった
 要するに「Fさんも考えるべき所では考えればいいのです」と思う
 その場合、昼休み碁で1日1局打ち切りみたいなことを考えない方がいいですね
 昼休みの囲碁タイムを実質40分としたら、仮に1週4日で160分ある
 ココから前日の進行を並べるのと、その日の棋譜整理で10分を引いてもトータルで120分残ります。
 だから週1局のペースで打つ気になれば、相当きめの細かい碁を打てるはず・・・マア、ザルの限界はありますが。
 彼がそういうことに同意すれば、何処かの囲碁ゲームソフトをダウンロードして対局室にパソコンを持ち込んで・・・オフラインで使えば問題が起きないでしょう?
 私が棋譜を入れてもいいし、K氏などと順番に当番でやってもいい
 その日の分までをプリントアウトすれば結構な宿題になりますね。
 こういう記録はとかく素人は敬遠する(私も素人ですが)
 何だか「素人のくせに」みたいな気分があるのだろうか?
 でも、「着手に責任を持つ」みたいな打ち方は重要なことだと思う
 賭け碁では無いからお金を取られるわけでもないし、点数制でも打ち込み制でもないから「責任」というのも変ですが、少なくとも考えて打つ癖がつく筈
 私も他人に威張れるほどのシッカリした碁では無いけれど、少なくとも4,5子の相手に悪い影響の出そうな碁は打てないと思っているわけで、記録があればその検証にはなる。
 黒さんから見ても、折角打った碁をそのままにしておくのは、垂れ流し的なもったいなさがあるでしょう。
 そのままでは後に残るものが殆ど無かったり・・・
 自分の対局を記録するとか、他人の碁を記録して後で考えるとか彼らにしたら「革命的」な出来事になると思うのです・・・飛躍的に伸びるきっかけになると思うのだけれど・・・
 「お遊びの場で余計なことを考えるな!」と叱られるだろうか? 

典型的な昼休み碁?

2007-07-19 18:04:35 | Weblog
 その日の昼休みF氏はフライング気味にお昼の準備・・・配達された弁当を取ってきて、サービスのインスタント味噌汁とお茶の準備だけですが、昼休みではこの1,2分が貴重な時間。
 私の方はいつも2番手ですが、味噌汁もお茶も飲まないから準備は早い
  それに醤油もソースも使わないから・・・これも減塩作戦です・・・もう慣れてしまって味覚中枢がそんなものかと思っているらしい。
 いや元々「神経」も本人と同じで、出てきた物をただ胃の中に移すだけみたい
 作ってくれる人には申し訳ないけれど、美味しいとか不味いなどよりカロリーという数字が食道を通過していくだけで、粗食もグルメも無くただひたすら飼葉を食べているような・・・
 さて今日もお弁当の蓋を開けて、中身を簡単にスケッチして、内容をメモって後日の栄養指導の先生へのレポートの準備をしてから食べる。
 値段が値段だからカロリーの心配は無さそうですが、問題があるとすればバランスと塩分でしょうね
 
 昼食を終えるのはFさんとほぼ同じ時間で、今日はFさん目の前を通り過ぎていく・・・「これから銀行に行ってくるので、今日はKさんと打ってください」
  成る程、この事務所の近くに銀行の本店が2つもあるし、支店もあるから便利な所です
 FさんとKさんは興が乗れば、夜10局くらい打つらしいから、そう言うときにスケジュールが決まっているようです。
 Kさんは遠慮がちに5つ置きます・・・Fさんとの碁は今4つに打ち込まれているらしいから、自信が無いのかも知れません。
 でもFさんと私の4子を足して8つも置かれたら・・・私の方が目を回しそう。
 彼は「あんまりたくさん置いたら白も楽しくないでしょうから・・・」と言っているけれど、これは半分は正しいけれど、半分は間違いかも知れません。
 
 私としては彼に勝ちたくて打つわけではないから、勝敗はどちらでもいい
 いや、勝つほうが負けるよりは善いかも知れないが、それが第一の目的ではない
 盤上で拮抗した感じというか、緊張感というか・・・それが大事ですよね
 それと偶にはKさんが「これだけ置けば絶対に負けない」という置石を置いてもいい>>>好きなだけではなくてKさんから見て「ギリギリ勝てると思う石数」

  さて1局目(昼休み正味45分ですよ・・・)中盤でKさんが体勢を失った所で、Fさんが銀行の用事を済ませて観戦に来ました。
 Kさん第一声「これはダメだな」「まだ時間があるから打ち直し」宣言
 Fさん早速投了して、第二ラウンド
 このペースで夜に10局も打つのでしょうね。
この2局目で、相手のKさんではなくて観戦のFさんについての感想
 彼は碁会所などのリアルの経験が多分殆ど無いのだろうという事が分かった
  いや前々から本人はそう言っていたのですが・・・
「さあ、そこだ」「シッカリ打って反撃!」などの声が掛かる。
 縁台将棋(将棋ファンには失礼かも知れないが)の気分です。
 いつものコミュニティの将棋コーナーでも偶にこういう声が飛び交っていた・・・
 なんともやかましいサポーターですが、こういうのがもしかしたら典型的な昼休み碁の一つかも知れないけれど、碁会所などではトラブルになりかねない
 Kさんは自分が4つに打ち込んだ”弟子”を声援している気分かな?
 ともかく彼は今”傍目八目”ですから棋力差を乗り越えて、今は私と同じくらい盤上が見えているのかも知れない・・・煩いのは困るけれど
 
 Kさんが放った勝負手(らしきもの)、Fさんから「それはいい手だぞ!」の声が掛かる・・・
 「傍目八目でよく見えるかもしれない」は間違いでした・・・残念!
『あのー、凌ぎは読んであるんですが・・・』
   第2局もKさんの投了となった
 TV画面はまだ「どんど晴れ」進行中で、残り10分もある
  ということはやはり1局20分ペース
 彼も早いけれど、相手をしている私もなかなかのスピード・・・自慢にはならないけれど
 Kさん「堅く打ったつもりなのになァ」とややしょげ気味です
それが彼の実感かも知れないのですが・・・彼の感想と盤上で実際に起こったこととはヤヤ違うと思うのです。
  彼は堅く打ったつもりなのです>>>それは多分こういう進行からの思い込み
 時間があるので少し序盤を並べて彼に説明
<5子局> 白1:右上隅の星の黒に右辺から小ケイマカカリ、黒2:小ケイマ受け、白3:反対側の(背中の)右下隅の星の黒に右辺から小ケイマカカリ、黒4:小ケイマ受け、白5右辺の星(山形)
 この5手までで黒4が一つのポイントですね、白が山型に構えた辺の星の所に挟んで打つのもあったから・・・
 私としてはハサミがオススメなんですが、これはいきなり激しくなる可能性もあるから、マア小ケイマに受ける手も勿論ある・・・これがKさんが言う「堅く打った」ということらしい。
 確かに堅いとはいえます・・・
 さてここまでで、白は一応”地らしき”根拠があるような無いような形ですから、他の場所である程度思い切って打てる気分です。
 ですから黒が「堅く打つ」つもりでも、そうはさせない手を目論むことが出来そう・・・
 白として困るのは「黒が堅く打ってつけ込めない」というのも困るけれど、そういうことはめったに起きない、それより「黒から堅く打たされること」の方が心配です
 つまり”山型”を地にさせられるのが困る。
  この辺りの呼吸というか・・・Kさんは「堅い」と「消極的」を混同しているのでしょう
 黒の実戦での6手目は、白の小ケイマでかかった石にコスミツケ、白立ち・・・
  これってもしかしたら置き碁の黒悪手の見本みたいな進行
 このあたりを説明<黒の意図と現実とのギャップ>
  黒さんが思っているほど黒陣は強化されていないのに、白陣は堅くなっている・・・本人がこれを「堅い」打ち方だと思っているとしたら・・・
 だからKさんが「善いと思っている手」が実は悪手だという説明
  説明者の力量が問題だからどれだけ理解してもらったかは心もとない・・・しかしこういうところから目を見開いてもらうとか、認識を転換してもらうとかが無いと、このマンマ・・・それはいけない。
  こういう説明は勝負としてみたら後日の対局では白が自分で自分を苦しくするのですが、典型的な思い違いを放っては置けないでしょう?
 半分自殺行為的大サービスなんですが、これを説明されて直ぐには納得して実行できたなら凄い・・・焦らなくてもいつか近いうちにきっと分かってくれるはず。
 
 置き碁で「堅い」と言えば、程度の問題はあるけれど「白に地を作らせるのが一番堅い」・・・何だか逆説的な説明ですが、横で聞いているFさんはその辺分かって来ているみたいです。
 但し、戦うことも必要だし、地を作らせる作戦もあるから、その辺の使い分けが4子辺りの課題かも知れません。
 マア、教える方もザルですからの寝言で会話しているようなものかも
  寝言ついでに、「堅く打ったのに・・・」というKさんの発言に、「5つ置いた黒が守るだけで勝てるのなら、その人は置き石が3つでも打てるでしょうね」
 分けの分からないことも言ったかも知れませんが実感です。

藪の中

2007-07-18 19:17:00 | Weblog
 タイトルだけで言うと芥川龍之介のムード・・・そこまで文学的ではない・当然
 さて例の対局「ハッタリ」なのか「ウッカリ」なのか・・・この結論が藪の中でした。
 対局者同士が隠しているとか、どっちかが途中で対局放棄したとかではなくて、結果的に分からないのは私の責任だったのです
 あの対局の時、いいところで私は夕食休憩のコール、夕食をとりながらアジアカップを観戦し、その後韓国で行われているピースコリア観戦予定だったから、パソコンも一旦休憩とした。
 それに自分の部屋を空にするので、接続を切って、電源を切っておくのが・・・
  それが間違いだった。
 考えてみれば、当たり前なんですが・・・
 後日ネットに繋いで、観戦履歴から棋譜検索>一覧表を見ると
 日付の古い順に並んでいるのですが、アノ対局が無い!!
  一瞬不思議だったが、自分の思い込みに気がつきました
 一覧表の夫々の対局記録の最後尾に「結果」が出ている・・・と言うことは最後まで見ていないと記録されないのですね。
 それはそうだろう、チョコっと見て次の対局室に移っていく場合、それらを全て履歴に整理していたらたいへんなことになりそうですものね。
 
 そうなると想像しかないけれど・・・どうなったのだろうな?
 どちらかが先に気がついたか?
 それとも何となくヨセを打って、どちらも気がつかずに通過したか・・・

 さていつもの昼休み碁
 Fさんは自主的?に4子に変更してきた
 私としても「どちらでもどうぞ」という気分なので、彼の選択に任せている
 それで先週から4子で打っていて、黒から見て○×○×で2勝2敗
 だから彼から見ると4子が丁度善い手合いと考えるらしい
 でも、そうかも知れないし、そうでないかも知れないと考えるんです・・・相変わらずファ爺ですが。
 彼から見て5子で4勝7敗ですが最近の成績だけなら3勝2敗、そして4子で2勝2敗

 私から見ると「そんなもの」かと思うのですが
 5子の成績はともかく4子で互角なんだと見る、あるいは多少棋力アップしたと感じるのか・・・さあどうだろう。
 
 私が「そんなもの」かなと思うのは、白の立場で「何子でもそれなりに」打っていて、ゲームとしては真剣に打ってはいるものの、「勝つこと」を第一目的にはしていない・・・
 そういう気分も口に出しては言えない
 何だか言い訳見たいに取られるとシャクです。
 ただ、多少はFさんが強くなったのかも知れないとは思う・・・
 それは対戦成績という結果では無くて、打ち方が少し変わってきたような気配があるということ
 打ち方は当然結果にも結びつくとは思うけれど・・・F氏も少しその辺を自覚しているらしいのですが、それは主に勝敗という結果で考えている傾向があるみたい

 彼は勝つと「この碁はずっと白が無理をしていたからね」と嬉しそう
「白は多少の無理は承知で無いと打てないですからね」と応えるしかない・・・
 彼の顔から察するに「この白は弱い」と言っているみたいにも見えるから私は性格が悪い
 で、黒が負けたとき「ココで格好をつけてしまった」「肝心なところで考えていない」となり、『それさえ無ければ黒の勝ちだった』と聞こえる
 置き碁はその通り、黒が間違えないと白は勝てないとしたもの
  <ココで、心中反論>
 『勝敗はある程度バロメーターにはなるけれど、イコール棋力でもないでしょう。内容が問題でしょう。少なくとも1手でひっくり返る所まで迫られていたのだしね』『それと、地合いで白に追いつかれていたり、既に怪しいから逆に黒が無理をしたのでしょう?』
 
 さてF氏他で打つときに棋力を訊かれたらどうするのでしょうね。
 私との手合いを基準にするか、Kさんとの手合いを基準にするか・・・
 私との場合でも3子でも5子でも好きなように判断すればいいのだけれど、もしK氏との今の手合いを基準にすると、4子だからココから複雑な関係になる。
 私とK氏は5子・・・これはK氏が置く石の数で打っているだけとも言えるけれども。
 もしF、K両氏の置石を考えて私がK氏に8子置かせることになったらそれこそ大変・・・実は私は打ったことが無い未知のゾーンです。
 ともあれF氏は段級を聞かれたら何と答えるのだろうか? 

「ブラフ」なんだろうか?

2007-07-17 19:12:51 | Weblog
 今はいつも以上に集中力が足りなくて、ネットで打っても負けてばかり・・・どうにも勝てる気がしない。
 勝敗はともかく内容が酷すぎて、「細かい」と思って打っている碁が、思わぬ大差だったりするから、碁盤が見えていない状態です。
 目は開いているけれど節穴状態。
  お医者様の指示のせいなのか、いろいろ飲んでいる薬の副作用なのか自分の弱いのは棚に上げています。
 マア、理由はともかく現実に勝率が悪いし、勝つことだけが楽しみではないにしても余りに納得し難い負けが多いから観戦を多くしています。
 それはだいたい自分と同じくらいの人たちの対局が多い
  
 そこで先日観戦した対局についてお話します。
  チョッと不思議な場面に遭遇したのです。
 いや、もしも両対局者ともの見落としならば、かえって不思議ではないのですが、私の経験でも似たようなこともあるし・・・
  事件現場?はこういうところ
 左辺の白石が包囲されていて、この白8子の生き死にが問題のはず・・・なんだけれど。
 白から打てば3,4目で生きは間違いない。
 では黒から打つとどうなるか?
 一見黒先でも白生きに見える・・・でも何だかおかしい・・・それでいいのか
 狭い場所ですし、周囲の利きも無い所ですから・・・私の結論では「黒先白死」
 ところが両者ともココは打たない
  戦略的にはそれも大いにある・・・寧ろ今はココに手をかけられないのかも知れない。
 つまり黒が白を取るとこのあたりに30目くらいの地が出来るから出入りで34目くらいの価値があるのだけれど、そうなるとこの白を犠牲にした利き筋も1,2あり、反対方向に白の超大模様が出現するかも知れないのです。
 だから、黒としては取に行く手は「目先の利益に拘った手」ともいえる・・・そういう意味で取に行かない手も、生きを確認する手も打たれないのは分かる。

 だから戦いの焦点は黒にすれば白に大模様を作らせないということでしょう
  そうなれば確定地の多い黒が有利なのは間違いない・・・
 戦いは進むが左辺はほったらかしで、丁度碁盤の反対側半分で進んでいく。
  観客としてはスリルを楽しんでいます。
 右辺の戦いそのものと、何時左辺に手を戻すのかという両者の読みが見れるはず
  戦略的価値判断というか、純粋に大きさの問題か・・・そろそろ決断の時期のはずなんだけれど、両者手が戻らない!
 もしかしたら忘れている?
 いや問題にされていない・つまり二人とも「黒先で白生き」だと結論しているかも・・・いや事ここに至ってはそのように見える。

 こういうことはザル碁ではよくあることではあるに違いない。
  見ている私もザルですが、何といいっても「傍目八目」ですからね
 プロだってこういうことはあるのでしょう?
  勿論レベルが違うから「先手で1目減らす手があったのを見落としていた」みたいなことで、いかにも名誉と生活を賭けて1目だって疎かにしない話が多い。
 でも素人的に開き直って言うと「間違いは間違い」・・・ザルがプロを非難しているのではなくて、両者とも見落とすのが面白いと思うのです。
 挑戦手合いなら約二日、普通の手合いでも朝から夜まで向かい合っていて・・・だからこそなのか・・・
 それこそ素人の身では分からないのだけれど、ずっと向かい合っていると見えるところと見えないところまで共有される?
 
 さて素人のザルレベルの碁に戻ります。
一番単純に考えると、両者「黒先で白生き」だと思い込んでいたか?
 もし途中でコウ争いなど発生したら、コウ立てを考えることで手が発見されたかもしれないけれど、この碁ではそうはならなかったし
 但し、意地悪く考えるとどちらか片方は分かっていた可能性もある。
  こういうことは昔「碁会所」などのザル同士の対局でたまに見た覚えがある
 例えば白氏の立場で「黒さんは黒先で白生きと思い込んでいる」と判断したとしましょう。
 「相手が”生き”だと思っているのだから、わざわざ1手かける必要があろうか?」と考える人もいる。
 だから白としては「黒氏が途中で気がついてしまうかどうかも勝負の内」です
  白さんは手を戻すタイミングを見ることになるが、これは手の大きさもあるけれど「相手に気がつかれないうちに」がポイント。
 更に、黒氏が「白さんが白生きだと思い込んでいるのだから、少し泳がせておこう」などと思っていたら・・・まさに狐と狸ですね。
 このような手を駆使する人は、精神的にもタフな人が多くて、仮に途中で相手に気がつかれても「30目丸損」ではなくて、まだ20目の手も打てたと考えるおおらかさ(?)もあるようです。
 さて私など出来ない芸当です
ともあれあの対局は実際にどういう結果になったのだろう?

 実は途中で私は夕食タイム、そしてサッカーのアジアカップ予選に、ピースカップと続いてしまったから結果不明。
 でも、今夜あたりネットに繋いで「観戦履歴の棋譜」で検索すると分かるはずなので大いに楽しみです
 もし、白先手ハネツギで生きは全くつまらない
 白ハネた瞬間に「打ち欠き」で、白「ギャー」なら少しは・・・
  観戦は勉強だけれど、こういう楽しみもあるから止められないですね
 さてこれがリアルだと非常に居心地が悪くなります。
  もし私が一箇所ばかり見て考えていたらそれがヒントになってしまい、対局に影響が出ないとも言えない。
 だからそういう時は何気なく盤を離れて、遠くから様子を窺うことになりそう。
  「ブラフ」使いの人はこういう時になると、急に世間話などが多くなったりするから、見ていて笑いをこらえるのが大変なときもあります。
 全くザルの落語的世界です。
  これもあるから止められないですね。