なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

勝ちたい気持ち

2008-11-09 14:51:58 | Weblog
 昔中国囲碁協会の上部組織が体育協会だと聞いて「どうして?」と思いました。
 日本で仮に文部科学省が所管するとしても体を動かす体育と囲碁将棋を同じ括りにする発想が無いと思われる。
 中国での発想は「どちらも勝負を争う」と言うことが理由だとか・・・本当かどうかは知りませんが。
 確かに勝負を争うのですが、勝負を争うのは同じと言うのも・・・スポーツと囲碁・将棋、極端に言えば競馬に麻雀だって同じなんだろうかという気もしますし、一方で「確かに勝ち負けを争うという括り方」で良いのかなという気もしないでもない。
 どちらも勝ち負けを争うということで「勝ちたいという気持ち」が大きなポイントを持っているようには思える。
 
 サッカー関連の記事を見ていると「強い気持ち」と言うような表現をよく目にします。
 もう少しわかりやすく言うと「勝利への強い意志」と言う意味で、プレーはそういう意思の表れみたいな事でしょうか。
 サッカーの場合プレイはぶつかり合う「強さ」のほかに「技」と「スピード」と言う要素があると思う。
 体の強さ、心の強さの他に身体能力としての速さと考える速さなどなどいろんな強さ・技・スピードがあります。
 その中で「強さ」一番重要だということなんでしょうか・・・身体能力の強さの前に意志の強さと言う事で。
 (尤も私はスタジアムでの観戦などでは、ぶつかり合う力も大切ですが「半歩の出足」の方を重要視して見ていますが・・・セカンドボールにしてもインターセプトにしてもこれがチームとしてできているかどうかで形勢はだいぶ違うわけです)
 
 さて囲碁の方では
 速さと言う要素は、体のスピードではなくて思考のスピードに関わることでしょうが、大量の情報を処理する能力と言う意味では重要には違いないのですが・・・例えば過去の実戦の類型から考えるというような場合、あるいは定石の形から取るべき手を考える場合。
 巨大記憶能力と情報処理スピードと言うとまるでコンピュータみたいですが、まあ能力は格段に劣りますが似たようなところはあるかも知れません。
 それに対局には時間と言う要素が加えられていますから、スピードと言うものは重要かも知れません。
 でも、一方で「記憶の勝負ではなくてオリジナリティーが大事」と言う表現もあります。
 アマチュアでよくからかわれる「定石を覚えて2目弱くなり」こういうことと関連のあることでしょう。
 その場合は処理を誤った場合の格言ですが、記憶力偏重にならないようにとの格言でもあるのでしょう。
 
 プロ的なオリジナリティと言うものとザルのオリジナリティでは比較にならないのでこのことは置いておくことにして、スポーツで重要な「勝ちたいという気持ち」の問題。
 囲碁では「勝ちたい」ではなく「負けない」と言う形に置き換えられないとマズイようです。
  強い意志の「強い」と言うところは、「不動心」みたいな強さに。
 スポーツでは「勝ちたいと強く思っている方が勝つ」みたいなところがあります。
 単なる結果論的に聞こえる場合もありますが、ほぼそういうこともあるだろうとは考える。
 ところが囲碁では必ずしもそうではないように感じます。
 少なくともわたくしに関してはそうですね。
  「勝ちい」と強く思えば思うほど結果は良くない。
  全く皮肉な現象です。
  それでは対局で勝負は度外視した気持でなくてはいけないのかと言うと、そういう気の抜けた気持で打つなんて自分に腹が立つでしょう。
  「勝ちたい」と言う気持ちが0のはずがないのだから、その気持ちと「強くなりたい」「好い碁を打ちたい」をうまくミックスできるか、あるいは”すり替え”られるかがポイントですね、きっと。
 ザル同士の対局ですから、その辺の作業が上手くできた方が良い結果を得られるのかもしれません。

 経験的に連敗が続くのは「勝ちたい」と言う気持ちが強すぎて空回りしている時だということは分かっている。
 ですから対局の時は気持ちから一旦「勝ちたい」を消去して「勝負を楽しむ」置き換えるような自分に誤魔化しをしなくてはいけない。
 「勝ちに行く手」と言うより「負けない手」・・・それでは十分に勝ち負けを意識しているのですが。
 
 ともあれ、勝ちたいのに勝ちを強く意識する時はまず勝てないとしたもので、「勝ちたければ勝ちたいと思ってはいけない!?」なんとも矛盾に満ちた遊びなんでしょう。