なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

理想の教え方??

2007-03-31 01:07:54 | Weblog
 理想の教え方?・・・職場の上司で囲碁では弟子のTさんが3月末で定年退職になりました。
 4月からは再任用という制度で別の事務所勤務になり、私も別の事務所に転勤。
  恐らくもう打つ機会が無いかもしれません。
 かのTさんとは向う5子ですが、実はこれで手合いが丁度良いとは思えない。
  私が余り多い置石を避けたのと、Tさんのプライドでしょうか「マアこんなもので打ちましょう」で5子でした。
 ですから彼は”段”にはまだ遠いと思われる。
  Tさんが、もしホントに基礎からやり直して3段くらいを目指してみたいというのなら、やってみたいことがあるのです。
 ですから「理想の・・・」は今のところ計画で、実際は「証明されていない誇大広告」みたいなものです。
 もう一つこれには条件・大前提があります。
  これが、かなり重要なんですが、この件については後でお話します。
   最初から言ってしまうとナーンダになりそうなんです。

 さて、近所の大型スーパーの本屋さんに行くと、囲碁の本は僅かなスペース・・・にも拘わらず対象が初心者・入門書がかなりの割合になる。
 これは誰が買うのだろうか?
  つまり囲碁に興味を持った人が買うのか
  親が子供に囲碁でもやらせたいと思って買うのだろうか
  それとも、誰かに教えたいと思った人が教え方のお手本として買うのだろうか
 サアどんなものでしょう
  内容について言うと昔の入門書とは随分様変わりしている気がします。
 昔の本はいかにも教科書的で、まるで昔の中1の英語の教科書が”It is a pen""I am a boy"で始まっているような感じです。
 今なら実践的な日常会話から入っていくでしょう。
  囲碁の入門書もそれに似た変化はあると思います。
 ”ポン抜きゲーム”など面白さを強調しているのもその変化の一つかも

 別な教え方を考えてみた・・・今のところ試していないのですが
  まず第一段階で、6路盤などでの棋譜並べから始めたい・・・
 これは6路でなくてはいけないわけではなくて、7路でも良いのですが、6路盤で教えるやり方もあるということなので、それなりに理由があるのだろうと想像してまず最初は6路からとしました。
 6路盤を使ってルールの説明・・・ではありません。
  それもやるのですが主従が逆、順番が逆なのです。
 まずやりたいのは、6路盤で棋譜並べです。
  模範試合みたいな棋譜を暗譜する事から始めたいのです。
 ルールなど何にも知らなくても良いのです。
  6路盤なら36地点なので手数は30手以内でしょうから、何にも知らなくても盤上の出現順を憶えられるでしょう。
 憶える・慣れる・違和感が無くなる>>>これが大事
  そして棋譜を憶える中でルールも説明するのです。
  棋譜の中で生死・コウ・ポン抜き・地・勝敗などを説明します。
 1局憶えて並べたら説明・・・そしたらそれを忘れても良い・憶えて忘れる
  5局か10局並べると相当囲碁に馴染んでくるのではないでしょうか?

 恐らく「何にも知らない人がこんなことやるわけが無い」と思うでしょうね?
  そこが、問題なことは確かです。
 しかし、これが憶える近道だし、3段くらいにまで上がっていくためのトレーニングだという説明で納得してもらえるだろうか?
 これが最初に断った部分です
  「それでもやる」「信じてやる」ところが無いと続かないかもしれない。
 でも囲碁以外の”道”がつくお稽古事などを考えると、基礎・基本のところで、事細かに説明するだろうか?
 それとも、説明されて納得した人だけが続けている?
  続けていく中で自得する事が多いしそれが大事だと思うのです。

 次は9路盤での棋譜並べです
 9路になると大分囲碁らしくなってきて、ここでは手筋とかヨセも勉強できるはずです
  9路ではタイムトライアルの要素も取り入れる。
 例えば、棋譜を片手に10分以内で並べるとか、暗譜で5分、3分で並べるというようなゲームもやるのです。
 こういう棋譜並べではたくさんの棋譜を憶えなくても良い、一つ出来たら忘れても良いのです・・・そして次の棋譜に挑戦します。
 そういえば問題がもう一つある・・・
  並べるに良い棋譜を用意する事>>>これはプロに甘えなくてはいけないでしょうね。

 9路盤の棋譜を10局くらいできれば、次は19路
  これは全部を憶えなくても良い
 序盤中心に30手くらいまで・50手くらいまでのもの、80手くらいまでのものなどを並べるのはどうだろうか
 この辺りまで来ると、打てるようになっていると思う
  勿論最後までの棋譜も良いけれど、これは全部憶えなくても良い・・・棋譜を見ながら並べる。
  
普通の入門書ですと、用具の説明、用語の説明、ルールの説明、ゲームの説明のように進むのですが、全て一緒に進めるという方法を考えてみたのです。
 「頭で理解できてから」→「碁が打てる」というものではなくて、「そういうものだ」と言う憶えかたもあると思うのだけれどどうだろうか 
 

一手目は何処に打てば善い?

2007-03-30 03:22:36 | Weblog
 「このような局面では何処に打てば良いのか」そんなことに応えられるような棋力は無いのですから、この件に関しては自分のことで手一杯状態です。
 何処に打つのが最善・最強なのか?・・・それがいつも分からないので困っているという現実ではあるが、まずは第一手についてです。

 初めに囲碁を新聞で見ていた時、まずは第一手目は右上小目です。
  殆ど全ての棋譜がそれに近かったような気がします(昔の話です)。
 一手目右上星は記憶が無い・・・但し単なる思い込みかも知れないけれど。
  ともかくそういうものだと思っていた。
 小目の位置は見てくれでは2ヶ所あるけれど、これは対象形ですからどちらの小目でも同じことですね・・・ということは2手目から変わっていく。
  そういうものらしいとは薄々感じてはいたが・・・
 さて、碁らしいものを打てるようになって、第一着を打つときに何故小目に打つのか分からなくて迷ったことがありませんか?
 私にはそんな記憶があります・・・マア今でも似たようなものかも知れませんが
 プロの棋譜を新聞で見ていますから、小目自体が悪い手では無いのだろうということは推測できるのですが、何故そうなのかが分からない
 星に打つか小目にするか、はたまた高目、目外し?
  これらの違いは、違いが分かっていて打つのではなくて「なんとなく」「気分」です。
 漫画チックに一手目を打つ前に、ガマの油のカエルではないが碁盤を前にしてタラーリタラリと脂汗・・・そこまではいかないけれど。
 それでも1手目ならまだ良い。
  1手目が悪手で敗着は無いの筈ですから(1の1などは敗着ですが)・・・
 いずれにせよ、その時期の私は小目専門で、理由は”プロが打っているから”以外にはありません。

 そういうことで、碁を始めたばかりの初心者はこの1手目で”迷っている”というか”しっくりしない”というか「訳が分からないままに打っている」ということを感じながら打っているのではないだろうか?
 一手目を19×19の広い碁盤の何処に打つのか?
 ”何処に打っても良い”という先生もいるけれど、そもそも”何処でも良い”ということ自体理解できない筈。
  ともかく黒が打たなくては碁は始まらないから、分かろうが分かるまいが打たなくてはいけない!
 だから、初めは理由など分から無くても、形を真似るしかないのです・・・プロも先輩諸氏もやっているように、それらしく・・・それでも”面白い”という人は少ないでしょう。
 この訳が分からずに石を置いている時期は誰にもあるのではないだろうか?
 そこを通らないと「囲碁初心者」のスタートラインにつけないような気がしている。
 「誰しも初めは分からないのだから初めは真似で良い」とか「全ての習い事は真似から始まるのだ」と言いたいのですが、「碁は面白いという誘い文句を使った以上”何だかつまらない”と言われたくは無い。
本心で言うと、超初心者でもあってもいや超初心者だからこそ棋譜並べから始めさせたいのですが・・・恐らく今風の民主主義というか自由が尊重される現代では無理でしょうね。
  訳など分かろうが分かるまいがスパルタみたいなことは出来ません。
 趣味の世界で強制は出来ません(碁の初心者は金の卵です)から、この時期を通過できるかどうかが大問題のようです。
 私は家族に教えるときに、この関所を通すことが出来なかったのです。
  ここで大失敗をしています
彼らから「何が何だか訳が分からない」という反応を受けて対処できなかったのです。
 その頃既に私は自分が初心者だった時のことを忘れていましたから「何がわからないのかが分からない」だったので、手の打ちようが無かったのです。
 訳が分からなくても、暫くは続くようにするか?何か面白い要素を付け加えるかしないと、超初心者は初心者になれ無いかもしれません。
 「ポン抜きゲーム」などのネーミングそのものも、こういう”モヤモヤ”を薄れさせる効果があるのかも知れません。
 まずは”一手目の違和感解消”が大事ではないだろうか 
 

落語チックな夢

2007-03-29 05:05:17 | Weblog
 まるで落語みたいな話の展開でした・・・夢の中の話ですが
 今のところ下火になっているでしょうか?、鯉ヘルペスが流行った時がありますね。
 養殖の鯉もそうですが、この病気に罹ると自然の川を泳いでる大きな鯉が動きが鈍くなって数日で死んでしまいます。
 人間には直接の害は無いとか言いますがよくわかりません
  病気に罹った鯉を,敢えて食べて実験する人はいませんからね。
 しかし、もし死んだ鯉が川に沈んでいたりしたら、それを掬って河川の美化及び原因の調査に回さなくてはいけない・・・この春までの仕事の一つです。
 同時に、もし野生の鳥が路上に落鳥などしていたら、速やかに調査しなくてはいけない・・・自分で分析などするわけではありませんが
 この方は、食べるわけではないにしても、触るのも少し怖い気がしますね
  何といっても世界中を騒がせているのですから
 マア現在までにはそういう種類の仕事は無かったし、4月からは転勤です
  
 病気ではないのですが、川を死んだ猫が流れている・・・と言う通報があれば出動して長い竿の網で掬って回収・・・
 子猫がコンクリート護岸に落ちて動けないという通報で、現場に急行して子猫を保護・・・もっとも動物愛護センターに届けるところまでしか出来ませんが
 こういう仕事も・・・仕事ですから、やりがいがあるような馬鹿馬鹿しいような・・・
 でも首都圏で仕事をしている割には気分的には牧歌的?なところもあって、こういう仕事は嫌いではなかったのですが、いざお終いともなると寂しい気持ちです。

 こういう仕事絡み感覚というか・・・理由も何も無いのですが、長ネギに怖い菌がついているらしい・・・と言う夢を見ました。
 (全く科学的な根拠とは無縁の夢です)
 夢の中で、これをしかるべき研究所に届ける義務があるらしい。
  それが同僚の家の入り口付近で発見されたので、当然彼が届ける仕事を負うべきなのですが、それを新聞紙に包んで私の家の前に置こうとする・・・
 それを拒否するのだが、彼もなかなか諦めないから何だか嫌なものの押し付け合いの様相を呈している・・・そういう夢。
 なんとも情け無い夢ではありますが、この4月からはこういうこととは無縁の仕事にはなりそうです。
 いや、嫌なものを他人に押し付けるパターンは変わらないかも・・・

 そういえばこれは落語の噺に似ています。
  題名は忘れたのですが、人情話か誰かの名奉行の政談だったか
 生類哀れみの令に時代だったか・・・多分鹿を誤って殺してしまって、死体を他所のうちの入り口に置くと、その家ではよその家に・・・と言う噺があったと思う
 しかし夢の方は,得体の知れない病原絡みの話ですから結構迫力がありました。
  夢の中では真剣でしたから。
さて、目が醒めると1局終わっていました。
  観戦しながら見る夢が、碁の夢とは限らない
 観戦していたはずの対局と、見た夢の関連は無さそうです。
  ところで、職場で偶に昼休みに打っていた上司ですが、この春で定年退職となります。
 送別会の席上で、彼から「偶には教えてね」と言われて私に否やは無いのだけれど、現実にはどうしたらできるのだろうか?・・・
 単なる外交辞令?、私は宴席でもシラフなので何でもまともにまともに受け取ります。 

「十年一日」・・・でもない

2007-03-28 00:07:04 | Weblog
 また「Mさん話」ですが、それだけたくさん打っているということです。
 ここに書いていることはMさんもご存知無いはずですが(知っていたら誰が書いているか名前は分かってしまう)・・・マア、ネタ元には一応内緒です。
 「十年一日」という言葉がありますが、今のところネットに入会してからの碁縁ですから「二年一日」というところです。
 同じ戦形で飽きもせずに戦っています
  下手な例えで言うなら「シュミレーション・関が原ゲーム」というところ
 失敗したところ、結果的に上手く行ったところでも、もしかしたらMさんの対応次第では難し勝ったであろうところなどを修正していく・・・つもり。
 これが素人の悲しさで、やってみなくてはわからないし、やってみてもそれが「最善」「最強」なのか判定できない。
 私の独善的判断もあるから、相手の反応が予想外だったりするわけです。
  それだから面白いでしょう
 実質5手目からの戦いはマダマダ続くのでしょう。
  さてそのMさんとの深夜の対局に幸いして対戦成績を8-8の五分に戻したところで深夜の入浴。
 集合住宅なのでこの時間の音には気を使いますがそれなりに疲れた体と頭をリフレッシュするのは気持ちが好い。
 子供時代には会社併設の住宅住まいで、会社のお風呂には昼以降深夜まで入れる環境にあったので、ほぼ好きなときに入浴できる環境でした。
 時代劇に良く出てくる奉行所の同心が朝一番風呂で銭湯に入って、一番に髪結いをする(どちらも無料)ほどではないけれど・・・
 普通は夕食後一休みしてからの入浴が普通ですが、そんなことで食前に入るのが一番好きです。
 温泉旅行に行けば、到着してまず入浴で次に食事ですから。
 二番目が深夜か終身直前で食後の入浴は三番目。
さて音には気を使いますが、のんびりゆったり・気持ちも体もリフレッシュ。
 
 風呂から上がってネットを覗くと件のMさんが対局中です。
 これはMさんの白番・逆コミの手合いで、立ち上がりは例によって「星+目外し」
 対する黒氏も私も何度か対戦したことがある人です。
 対局は50手ほど進んでいますが、棋譜を初手まで戻して流れを確認。
 この黒氏は両隅は小目だから私の対戦とは大分違うのですが、それでも「星+目外し」対策の参考になるでしょう。
 結果から言うとMさんの白番中押し勝ちでしたので、何処かに黒氏の問題があったか・・・さすがに深夜の観戦はこれまで、続きは後日「観戦履歴」を検索してみます。

 プロの将棋では戦形・棋譜はリアルにネットで伝わっていて、瞬時に結果を含め”業界2に伝わっている・・・それを各自あるいは共同で研究・工夫しているのだから結果を考えたら同じものは出来ません。
 碁でもプロの世界では同じかと思います。
  「一を知って十を判断する」のがプロの世界
 ザルの世界では大分様相が違います
  「既に起きたことでも善悪の見極めが出来ない」ましてや「将来起こるであろう事を予測して研究する」など・・・
 勝敗の結果から見たことが、ほんとに部分的な善悪と同じかも
  それが出来れば、素人の域からはみ出す?
 起こったことを考えるのがせいぜいだし、それさえ結果からしか見えにくいから真相に迫っているかどうかは怪しいのですが、それでもやらずにはいられない・・・自己満足ですけれど。

 ところで対局者一覧表を見ていたら懐かしい名前を見つけました。
  しかし不思議
 彼Uさんは私がここに入会した頃に良く打ってもらっていて、かなり手ごわい相手だと記憶しています。
 入会時に戴いた名簿に名前が載っていましたから古い会員のようです。
 その会員名簿から見ると、その時より20点は下がっている。
 途中で名簿の点より10くらい上がっていたと思うから、MAXとMINの差が30点くらいある・・・これは一体?
 手合い差で考えたら3子は違うから、単なる好調とか不調の差なんだろうか?
  「成人病デパート」の私としては「脳梗塞」「脳溢血」などの後遺症?などと勝手に心配してしまいます。

 気がつくともう一人
 お名前がI原さんで,フルネームが高校時代の数学の先生と同姓同名だと思う。
 在住県が私の出身県ではなくて、東京近郊の県になっている・・・先生は当時の「東京教育大・現筑波大」出身のはずだから退職後戻られたか?
 全く夜中に妄想的に連想しています・・・第一同一の方かどうかも分からないのに・・・勝手な想像で遊んでいます。
 ネットのI原さんは少し前まで私がもう少しで2子の手合い・・・その時向う先です。
 一度直接対局したことがありますが、こちらが先でもきつかった。
  この方の場合はもう少し様子を見ないと・・・

 逆もあるのだから他人の心配ばかりもしていられません。
 先日まで2子だった人が、互い先になっていたり、何時のまにかこちらが先になっていたりします。
 負けたくは無いけれど、あちらは恐らく若くて伸び盛りなんだろうとイソップ的に自分を慰めるしかなさそう。

 毎日毎日「十年一日」みたいに楽しんでいますが、実際には確実に変化はあるようです。 

Mさんとの対局

2007-03-27 00:39:02 | Weblog
 Mさんとまた対局しました。
 ネットの棋譜倉庫に行って調べてみると、今年になってからでも15局打っています。
 今年の成績は今のところ7勝8敗で、ここのところ私の3連勝・・・といことは2月辺りまではダブルスコアーで負けていたことになる。
 このMさんとはネットに入会して以来たくさん打って頂いています。
  名簿で見ると同じ県ですが、これはネットですから関係ないでしょう
 一番の理由は点数が近いのと、生活のリズムが似ているのかも知れない・・・
 ネットの向うのMさんの生活のリズムまでは分からないので、単にネットに接続する時間が似ているということでしょう。
 点数のことに関して言うと
  上がったり下がったりしていますが、振幅はMさんの方が少し大きいけれど概ね同じような振幅です。
 Mさんの変化軌跡の中に私の軌跡が飲み込まれている感じはします。
  但し、Mさんの対局数がかなり多いのでグラフにしたらサイクルが早いサイン曲線みたいになりそうです。
 
 接続時間については
 私は寝たいときに寝て、起きてネットをしたいときは起きているから・・・本来なら昼間仕事をしているのだから我ながら相当いい加減な生活のように思える。
 マア、こういうのが良い生活かどうかは怪しいのです。
  Mさんとこれだけ打つのだから”時間”が合うことは確かですが、それ以上に気が合いそうな気がしてくるから不思議です・・・ネットですから本当のところは分からないけれどそういう錯覚が。
 しかし、いつも思うのですがもしかしたら性格は似ているかも知れない。
  というのは「いつも同じ立ち上がりで、両者変えようとしない」のです。
 アマのお楽しみ碁ですから、”やりたいようにやる”で好い筈ですが、彼は「星+目外し」で私は「2連星」で少なくともここ1年くらいはこれで50局近く打っているのだから自分でも呆れる。
 この立ち上がりの布石はどちらも白でも黒でも変えないから、5手目からが実質的な開始で、ここから開始の白バージョンと黒バージョンがあります。
 それにしても、どちらも2年近く変えないのですから頑固者同士・・・その辺が気が合うのかも知れない。
 尤もこの立ち上がりで大きく勝率が偏っていないのだから、勝敗の鍵はここには無い?・・・だからこの後運良くカウンターが決まった方が勝ち!・・・かもしれない。
 神様でもプロでも無い身なので、何処で勝敗が別れているのかやってみないと分からない。
 それでも一回毎にマイナーチェンジをしている・・・つもり。
  蝸牛の歩みというか尺取虫みたいなものですが、一局打って反省して・・・そこを変えてみてまた実戦で打つ・・・しかし相手も工夫というか変化を加えてきますから必ずしも研究会みたいにはなら無いけれど、それでもすこしずつ進化している・・・つもりです。
 しかし考えてみると、これはお互いに頑固だからできるのでしょう。
  彼の「星+目はずし」VS私の「2連星」の実戦パターン作りみたいです。

 但し彼の対局を観戦すると白黒にかかわらず「星+目外し」
 私も同様「2連星」
  しかし、私の方は相手が小目の組み合わせとか、秀策流ですと2連星にしないで先にカカリを打つこともあるから、多少は柔軟性が有る?。
 いやいや二人とも相当硬直化しているかな? 

たぶん1000人超か?

2007-03-26 01:18:02 | Weblog
 長いこと碁を打っていると、その内容はともかくいろんな人との出会いがあり触れ合いがあります。
 職業・地位・年令、さまざまな人と出会っていて、中には1局しか打っていない人もあるので、まさに「一碁一会」です。
 これからもリアルでの出会いがあるでしょうし、ネットでの対局もあるでしょう・・・マア死ぬまで続くと好いのですが。
 今まで出会った人たちを考えてみると、もともとの知り合いで、世間話の中でお互いに碁を趣味にしているのが分かって対局したという経験はホンの数人しかいません。
 学生時代のK助教授、クラブの後輩たち、若い頃仕事で顔を合せていたYさん・・・懐かしい方々ですが、その他の圧倒的大多数の人とは碁を打っていたから出会った方々です。
 つまり碁を打たなければ道場にも碁会所にも出入りしなかったのですから、恐らく知らない間に町ですれ違うことはあっても、出会わなかった筈です。

 碁を始めてから今までに対局した人は何人くらいになるだろうか?
  パッと頭に浮かぶの数字は1000人くらいかな?、しかし余り根拠は無い・・・弁慶の千本刀狩?・・・単に切りが好い数字か?。
 プロの先生方、世界アマの代表選手を始め日頃の碁敵、先輩方、こんな私でも弟子みたいな人もいたので全ての人数です。
 指導を受けた先生は人数が分かります。
 碁会所の常連という人たちの数も大よその人数は推定できます。
 しかしそれこそ「一碁一会」で打った人の数・碁会所にぶらっと訪れた人、対外的な大会で出会った人の数は分かりません。
 リアルの他にネットでの対局も出会いのうちに入れれば、”触れ合い”は世界規模?になる!?。
 こういうものを・碁に出会ってから出会った人を全て記録している人がいたら凄いですが、多分記録している他人はいないだろうとは思います。
 そんなことで「○○の桜、一目千本」みたいに1000人くらいかなと勝手に思っています。
 こういう丼勘定ですから、10年後にも「1000人」といっているかも知れません。

 さて、囲碁の内容については、ザルですから相手からも「強さ」というより「どの程度ひどいか」という程度の評価しかないと思いますが、ネットはともかくリアルでは「印象」というか碁盤の向うの「人間像」がイメージとして残るでしょう。
 打っていて気持ちの好い人、軽口は少々憎いこともあるが楽しい人、生真面目な人・・・さまざまですが、私自身はどういう印象をもたれているか確かめようが無い。
 こういうものは相手がどう思おうと「正解」「不正解」とは関係ないから、多少心配な面はあるけれど、直接質問して答えが得られても本当にそういう印象かどうかはわから無いのだから、せいぜい自分にも他人にも恥じない対局態度で臨むしかない
 内容のひどさの指摘は甘んじて受けても、こちらの方は努力というより自然なものをに身につけなくてはいけないと思っています。

 このようなことを頭に思い浮かべる時は、なんと言ってもK藤先生を思い出すのです。
 亡くなった方々とはもう2度と打てないので、反って懐かしく思い出されるのでしょうね。
 春・秋のお彼岸、お盆の時などは特にそうです・・・

 K藤先生:元プロの将棋棋士で囲碁・将棋道場主
 M碁会所のA席亭の奥さん:いつも笑顔で碁キチと接していました。
 顎マスクのT藤さん
 習字の先生のS藤さん
 作家のQのジイチャン
 若くてエリート・ホワイトカラーだった(と思う)Iさん
 江戸弁のM山さん
 世話好きの、囲碁大好き重役のSさん
きちんと思い出せばまだまだいる。
 マイ棋士銘々伝に記録した他人もいるけれど、まだの人もいます。
  「去る人日々に疎し」というような言葉もあるけれど、この方々には当て嵌りません。
 10年たっても昨日の様に思い出されるのです。 
 
 

「お彼岸」から

2007-03-25 03:19:56 | Weblog
 うとうとしているとどこかで「ボタモチ」が食べたいといっている声が聞こえる、「秋はオハギ(=萩)で春は牡丹なんだよ」と息子に説明している。
 ついでに「”粒”より”こし餡”が好い」と抜け目無くリクエストまでだしている。
  私の母の生前の手作りは「粒餡」に決まっていたが、これは田舎のボタモチなのかな?
 「重箱に牡丹の花のように並べて塩を一つまみ添える」「秋のオハギには萩の一枝だったか上に乗せる」・・・それを近所に配ったものです。
 目が醒めきっていない意識の中で、「確かにそう呼ぶけれど、秋の萩は季節に合うけれど、牡丹は花札でも6月だったような・・・」などと考えているうちに、どこかで意識がジャンプして”ああ今は春のお彼岸だった”と気がついた。
 
 この季節はもし個人的に記念日を作るとしたら非常に記念日が錯綜する1週間になりそうです。
 もし勤勉な人なら?近所にご先祖のお墓があれば、墓参りも予定に入ってくるだろうが、我が家は父の出身の家から見ると分枝の分枝なので、まだ仏様はいないので、まずは1番の記念日はは女房殿の誕生日となる。
 これは、年を気にする割には誕生日を祝ってもらうのが好きだから私にとっては不思議、2番目は春分の次の日辺りが結婚記念日、但し三十数回目ともなると大分風化していているから余り気にならないらしく祝う習慣が無い。
 3つ目は私たちの結婚式の1週間後に親友の結婚記念日・・・彼の結婚式では親友代表ということで司会を勤めたのですが、彼は39才で亡くなった。
 彼とは大学の友人で、(学科は違うけれど)同じ学部で同じクラブ、よく二人で山を歩いた仲です。
 彼の奥さんはクラブの2年後輩で家の女房殿とは同じ学部の顔見知り。
  彼の家は県内にあったので、よくお邪魔して彼のお母さんにも自分の息子以上にお世話をかけました。
 その彼の死に目には会え無かった・・・生前、見舞いに行けなかった。
  彼は夏に病気が発見され、その後劇的に進行して年を越すと直ぐに逝ってしまいましたから、健康診断で病気が発見されてから5ヶ月足らずです。
 数度の手術も効を奏さず、いよいよ危ないという時に家族は私に会わせたいと考えたそうですが、私の住所連絡先は彼しか知らなかった・・・
 私のところへ知らせが届いたのはお通夜の前日のことでした。

 駆けつけたときに彼の奥さんの目から涙が一気に溢れ、私にしたってどんな悔やみの言葉も出てきませんでしたから、無言で遺影を見つめるだけでした。
 そういうことがお彼岸・お盆・命日など折に触れて思い出される。
  私は郷里を離れて暮らしているので自分の両親の死に目にも会えませんでした。
 それは地理的な問題もあるし、仕事上直ぐには駆けつけられないこともあるので日頃から「そういうこともある」と話していて兄弟、親本人などから暗黙の了解はあった。
 しかし友人の場合は同じ市内の病院に入院していたという。

 話が替わって「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉があります。
  本当の意味から少し変質して「競馬好きは・・・」とか「マージャン狂いは・・・」と都合のいいように言い換えられています。
 競馬が好きな人は、親が少々具合が悪くても”万難を排して?”出かけてしまうし、連絡しようにもアノ人数ですから・・・
 マージャンの場合も、何処で遊んでいるか解らない場合が多いし、基本的に”徹夜”だから探しにくい。
 でも碁の場合はこういうこととは違う筈です。
  ”親の死に目に会えない”のではこちらが本家かも知れません
 本来は江戸時代の「お城碁」から始まった専業棋士の話ではないでしょうか?
   もともとは素人の碁とは関係ない
  これは寺社奉行の役宅で下打ちしたものを、しかるべき日に江戸城黒書院で並べる・・・この際に時として上様の御成りもある。
 そんなことだからお城碁は勝負であると同時に公務であり、一連の行事から抜けることは許されないのですね。
 碁の家元は幕府に公認され、禄も貰っているのですから「晴れ姿」であり「絶対の義務」だったでしょう。
 親が少々具合が悪くても休めなかったでしょうし、対局中に親が危篤になったとしても家族は知らせたりしなかったでしょう。
 知らせたところでどうしようも無いし、勝負としては寧ろマイナスになりそうですね。

 ともかく私は親の死に目にも親友の死に目にも会えなかった。
 その代わりといってはこじ付けですが、母から「一期一会」的な気持ちを教えられている。
 何かをする時・誰かと会うとき、それが後で振り返って見て後悔が残らないようにということで、もしそれが”最後”であったとしても悔いが残らないように・・・言葉にすると当たり前のことで、特別なことではありません。
 もしそういうことを考えて行動しているのが周りから透けて見えたら逆に怖いかもしれませんが、でもそういう時代が日本にもあったという母の話です。
 母の教えはその時代の教訓です。
  戦争中のことですから、私が生まれる以前のこと。
 朝、家を出てその日無事に家に帰れるかどうかの保障が無い時代・・・明日どころかその日のことがわからない頃、そういうことからの教訓らしい。
 母の教えは「出かけるときは必ず行って参りますと言う事」でした。
  全く当たり前のことですが、「必ず家に戻ります」という気持ちが込められているのだそうです。
 間違っても、冗談にでも「サヨナラ」はいけない・・・本当にサヨナラが現実になってしまった時代からの教訓です。
 母は”言霊”みたいなものには五月蝿い人で、「噂をすれば影・・・」「縁起の悪いことは言わない」ということです。
 小さな頃から五月蝿く言われていたから、この年になっても「サヨナラ」には多少の抵抗感があるのです。
 例え旅先で「二度と出会わないだろうな」と思われる人とでも・・・
  「ではまた(どこかで)」「失礼します」「お先に」「お疲れ様」などなど代わりになる言葉はたくさんあるので、それで間に合わせている。
 イジメの言葉では「サヨナラ」を拒否として使うらしい・・・怖いけれどなんとなく意味としては通じるみたいな気がする。 

ガセネタの話

2007-03-24 03:56:02 | Weblog
 アイススケートのフィギア世界選手権のTV中継(録画編集)をみました。
 金曜日の夜は「チャングムにアイススケート」と張り切って?TVの前に座ってた女房殿に付き合わされる形で見てしまった!
 その女房殿の同僚がアイススケートおたくなんだそうで、国内大会・世界グランプリなどのチケットをゲットして殆どの大会を生で見るのだそうです。
 既婚者ですがお子さんには恵まれなかったそうで・・・成る程という気もしますが、その方が「○○チャンが・・・」と話しても、回りの人は何のことか分からないのですが、彼女にとっては皆「ジュニアの頃から見ている」のだそうだ。
 私たちは今大きな大会に出場しているホンの一握りの有名選手しか見ないのだけれど、ジュニアの大会もみるし、公開練習日もかようのだそうだから碁だけではなく”○○キチ”という人種はいるものです。
 ところで今回の大会で女子で、日本選手では真央(一寸失敗があって出遅れた)・美姫(st2位スタート)となるけれど、最大のライバル、キム・ヨナ(st1位)について
 「キム・ヨナは足を痛めて本調子ではないそうですね」と女房殿が訊いたそうで
 「ウソウソ、そんなことは無いはず」との返事
 「え!ガセネタですか?」
 「そうなのよ、ガセネタを流して安心させる作戦なのよ」ということでした。
  練習まで見に行くくらいの人が言うのだから、ほんとにそういうこともあるのかも知れないし、私の勝手な想像ではマスコミとか番組制作者が勝手に話を作っているのかも知れない・・・要するに話題つくり?

 こういうことはサッカーとか野球のプロスポーツではありそうです
 本人とかその近辺が意識してそういう情報を流すのか、報道が過剰に反応して、針小棒大にネタが一人歩きした結果「ガセネタ」として横行しているとか・・・
 でもまさかそういうネタで一流選手が安心して気持ちが緩むなんて考えられませんけれど、それでも”秒”とか”ミリ”を争っている世界ですから、ホンの少しの気持ちの揺れが結果に出ないとも言い切れません。
 
 こういう”情報戦”は囲碁の世界ではあるのだろうか?
 昔タイトル戦の挑戦手合いの小林光一VS趙治勲で趙九段が交通事故だったかギプスの痛々しい姿で登場したことがありました。
 畳から椅子対局に変わったのが最大の配慮で、日程などは変更無しでした。
 健康な方はこういう相手とは反ってやりにくいかも知れない?
 お互いプロ棋士である以上「思いやり」「いたわり」と勝負は別物と割り切ってはいても、ハンデのある相手対する敵役みたいな役回りです。
 逆に”そういう”相手に負けたくないというプレッシャーもあったり。
  マア親しい間柄とか家族ぐるみのお付き合い合いがあったりすると、そういうことを考えたら打ちにくいでしょうね・・・勝つと負けるとでは収入がはっきり違うから、きちんとしたプロの割り切り方があるのでしょうね。

 これがザルレベルになると事情が変わってくるかも知れません。
 ここでは勝っても(当然ですが)収入とは関係ない
 せいぜい点数制度では点数が1点上がるだけで、長い目で見れば勝った分どこかで負けることになっている・・・
 でも「振り」とか「素振」はある!!
 本人は否定するにしても積極的・消極的、あるいは意識的・無意識的な「演技」はあるように見えます。
 具合が悪い・熱がある・元気が出ない・・・こういうことは口では言いません
 口で言ったら「悪意」とは言わなくても意識して情報を流していることになる
 本当に悪いところがあったら碁会所には来ないかも?
 但し「碁キチ度」によっては・・・普通なら家で寝ている場合でも、会社は休んでも碁会所には来ずにはいられない場合・人もいます。
 家族はともかく本人にしてみれば仕事をするほどには体調が良くは無いけれど、碁なら打てる>>>打てるのだから打ちたい!となる。

 こういうとき体調が悪いことを強調する人と、寧ろ「同情されたくない」と表に出さない人との2種類がありそうです。
 その相手にしても、同情する人もいるかもしれませんが、「チャンス」とばかり張り切る人もいるから面白い・・・いろんな組み合わせがある。
 口での勝負アリ、素振のパフォーマンスアリ・・・「名演技!」「役者やノウ」も素人碁の面白さではあります 
 プロではあり得ないことですが、碁会所とかネットでは楽しむ要素ではあるような気がします。
 ネット素人であっても起きないことではある。
  私はこんなことまで楽しんでいたつもりですが、それこそ針小棒大に自分勝手に「ガセ話」を作って楽しんでいるのかも知れません。 

リフォーム直前

2007-03-23 00:48:26 | Weblog
 前にも話しましたが、我が家は外国人には笑われそうですが日本だけでは通用する「マンション」でして、住み初めは子育ての時期で畳の部屋が多いのが都合がよかったのです。
 もう子供たちも成人して、壁や襖、畳にのいたるところに傷みが目立ち、使い勝手を今風に変えるためにリフォームを始めたのが昨年のことです。
 一度に全部やるのが効率が良いのですが、そうなると一時期引っ越さなくてはなら無い・・・そんなことで、ここに住んだまま部分的に進めたのです。
 台所・洗面所、息子の部屋、居間、妻の部屋・・・全部終わって最後が私の部屋。
 この3月末だか4月初めの予定だそうで・・・
  私は詳しいことは知りません(昔風にいえば一家の主なのに)。
 自分の家の、しかも自分の部屋のことなのに相当無責任なオヤジです。
  これは自分で言うのも変ですが私の性格上どうしようも無いのです!。
 これまでのリフォームに関してもそうでしたが、いろんな相談ごとで「善きに計らえ」ではないけれど、自分の希望とかは言うにしても、メクラ判で済ませてきた感じですから、今回も壁の色というか模様をどうするか程度の話にしか参加していない。
 押入れを改造して、流行のウォークイン何とかにするとか・・・噂程度に聞いているけれど適当にやってよという感じです。
 工事の時期も「いつでも良いよ」です・・・但し、息子に言わせると「春と秋が良い」のだそうで「この時期はラッキーなのだそうです」
  音とか匂いとかが問題らしいが、彼の方がこの件では先輩なので、きっとこの時期は部屋主(?)としては工事に都合が良かったに違いない。
 但し、無責任な態度のしっぺ返しは来ました。
  押入れの中に和紙とかクラフトの材料などがかなりあったのですが、それは何とかダンボールに詰めてお目こぼしでしたが、本の類は処分と決まったらしい・・・
 自分でどうしても手元においておきたいもの以外は・・・
  囲碁関係の本、植物・自然についての本は除外したが、実際に白い荷紐で縛られた山を見ると寂しいですね。
 もう少し抵抗すべきだったかも知れないが、そういう恐ろしいことは考えにくいし、抵抗活動も疲れそうなので、いつもどおり流されていく・・・
 現実的というか合理的に見たら、確かに手元にあっても今後読む予定の無い本を抱えている方が無駄とまでは言わなくても、狭い我が家現状からスペースに限度があるのは確かです。
  もし事情が許したら、余裕のある部屋に大きな本棚を置いて、ずらっと本を並べて「これは全部読んだよ」って言う感じとか、自分の経験というか経歴みたいに背表紙を眺める・・・これは贅沢な夢のようです。
 それでなくても今後も購入する新刊本はあるでしょうし、増える一方になってしまうわけで、「読みたい本で、図書館にあるのなら、それを利用する」のが合理的ということらしい。
 
 ともかく私には自分の部屋とはいえ、いま一つリフォームに興味が無いので、「権利?」も主張せずに居間に移動してパソコンを叩いている・・・
 自分でそのように行動したというより、そのように「指示?」されたのだから、全く当てにされていないことがよく分かる・・・マア「役に立たないのだから、せめて邪魔にならないようにしていなさい!」だろう。
 確かにその通りのような気がするから情け無い

 ところで片付けの途中で2冊の囲碁の本が見つかった
2冊といっても同じ本が2冊です。
 1冊はカバーも綺麗なままですが、もう1冊はカバーなしです。
「こども囲碁教室」 九段 大竹英雄監修 二口外義著  初版は昭和54年 
 カバーの無いほうの本は 昭和60年・第4刷のようです
  ということは娘に教えようと思って買ったに違いない・・・表紙の裏に鉛筆とクレヨンのいたずら書きが残っているので違いないだろう。
  もう1冊の綺麗な本は1993年・第11刷とあるから、これは息子に教えようとした時のような気がする。
 教えたいと思っただけで実際には使わなかったのが、この綺麗なままなのだろう。
 全く同じ本を2冊持っているのは何だか間抜けな気もしますが、二人の子供に教えたいと思った時に、テキストとして使用するのと、何を教えたら良いのかを勉強するために買ったのです。
 実際には子供に教えるのに役に立たなくて、自分の気持ちの記録みたいなものとして残っているみたいです。 
 しかしこの2冊とも処分はしません。
 もしかしたら、私が教えることが出来なかった子供たちの子供・孫に役立てたいという希望を捨てていないのです。 

真似か考えか?

2007-03-22 00:27:31 | Weblog
 ”先日対局中に「定石を打っているのか、碁を打っているのか・・・」というプロの言葉を思い出した”話をしました。
 マア自分の頭で考えたとして、何ほどのオリジナリティがあってどういう碁になるのか考えたら50歩100歩みたいなものではありますが・・・
 実際プロ棋士にしたって、全てがその棋士の独創だけで成り立っているのでもないから・・・と開き直っています。

 日本の習い事・・・いや、世界に習い事があるのかどうか、あるとしたらどういうものなのか分からないで話しています。
 私が子供の頃に習い事で、母親にやらされたのは習字です。
  近所の数家族の親が相談して定期的に習字の先生に来ていただいていたもので、誰かの家が持ち回りの教室でした。
 まず最初は、先生のお手本を真似することでした。
  先生が半紙に書いてくれたものを上からなぞっていくのです・・・これは江戸時代の寺子屋でもそうだったそうですから、伝統的な教え方のようです。
 少し上手になったら、手本帳を見ながら書くのです。
  尤も、どんなにまねても個人差はあるから、同じものは出来ない・・・それがオリジナリティなのかな?
 真似しようと思っていても、結果的に違うから真似しようと思っても思わなくても同じだということか。
 それはともかく、マネをすることが基本を学ぶ定跡のようです。
  お茶、お華に留まらずスポーツでも似たようなことが多い・・・
 マネは、初心者・入門段階で効率よく教育的効果が上がるらしい。
  
 しかし、上達するにつれオリジナリティが求められる。
  マア、ど素人のザルですからオリジナルと言われても困る・・・
 出来上がったものがオリジナルではなくて、自分で考える過程が問題なんですね
  尤も結果があまりにひどいという独自性はあります・・・

 ところで私の碁の憶え方から考える。(このことは何度か話しましたが)
 何にも知らなくて、家族にも誰にも教わらない状態で6年余毎日新聞の囲碁欄を見ていた・・・憶えようという意識は全く無くて、数字を追いかけるゲームのように見ていたのです。
 こういう積み重ねで年月の重みと言うか、知らない間に打てるようになっていた。
 ということは、囲碁欄を見て憶えただけで、序盤は隅から始まって、辺に戦いが移りそれが中盤に及ぶこと。
 最後に一線の寄せと半コウで終わること
  3目中手、隅の曲がり4目、コウの反復禁止ルールなど・・・全て新聞という観戦で憶えた・・・と言うか”そういうもの”と理解したのです。
 だから真似に他ならないのではないだろうか?
  そうしてみると碁会所に通い始めた頃”筋は良いけれど力が無い”と言われていたことがよく分かる。
 真似によって打てるようになったのだけれど、まだ本当に自分のものになっていなかったのですね。
 そういうことがまだ続いているのかも知れません。

 しかし、アマだし時間の制限だってあるのだから,何もかも自分で考えるのは無理・・・と言うか、既にいろんな研究とか定石というノウハウもあるのだし、ある程度のことは知ってしまっている。
 そういうことで、全く無垢の状態で考えるのはナンセンス。
 問題はそこから先ですねきっと。
  ”定石だからかく打つべし”がダメと言うことで、どういう形を目指して打つかというのが問題・・・と、ここまでは言葉では分かる。
 しかし対局中に「定石はどうだっけ?」と考えている自分を発見するのです。
  プロや高段者は「打った手が定石になっている」(定石と同じ)でザルは「懸命に定石を打とうとしている・・・のに、定石はずれになっている」
 なかなかこの状態から抜けられないなァ。 

 






 

優勢パフォーマンス

2007-03-21 03:06:02 | Weblog
 「目は口ほどにものを言い」 これはきっと江戸川柳に違いない。
 「口に出さなくても目をみりゃあ惚れているのが分かるよ」と言うことから始まって、単に艶っぽいこと意外に「考えていることが目を見れば分かる」と言う一般的に通じる道理として根付いた・・・腹芸とか”察する文化”みたいな日本人的な感覚にマッチしていた・・・と、勝手に考えています。
 全く根拠も何も無い想像ですから、信用して他では言わないで下さい。
  間違いを指摘されて恥をかいても当方は一切の責任を負いかねます。
 出典はともかく、言葉の意味は言いえて妙であり、相当に当てはまる確率が高い
100%と言いたいけれど、もしかしたらゴルゴ13とか鉄面皮みたいな人がいるかも知れない、ニュースなどで「当社は一切関係ありません」などと公式コメントを出しておいてから「実はよく調べたら・・・」などと謝罪する人もいるので、断言は出来ないのですが、たいていの人なら当てはまりそうです。
 私の知り合い、”碁知り合い”のSさんの場合は”好い時は隠す気が全く無いので、目を見る必要が無いのですが、口ではいつものように冗談を言いながらも、目は真剣なこともあるから、彼が打開策を考えている時はよく分かる。
 彼は好調を意識すると、盆と正月が一遍に来たとばかり口笛・鼻歌も出かねない・・・気持ちがすトレートに表に手に出て来る。
 口では「そんな失礼なことは、私みたいな紳士になると思っていても口に出しません!」とご機嫌です。
 局面が思わしくない時は黙って考えることもあるにはあるが、たいていはボヤキ節も派手なものです。
 マア、いい時にはしゃいで、悪い時に落ち込む・・・こういうことでストレスを発散させていると言うか碁を楽しんでいるのですね。
 そういう楽しみ方のパターンなのでしょう

 目に出るかどうか・・・目に出れば寧ろ分かりやすいのですね
  尤もアマですから、相手に失礼にならない程度なら問題にならない。
 その基準ははっきりしないから、本人の気持ち次第でしょう・・・例えばYさんの場合は・・・
 彼はSさんの反対に相当にこういう感情を隠す努力をしているようです。
  局面が好転して優勢を意識した時などにソレが出るのです。
 彼はその時席を立つ「一寸失礼、お手洗いに・・・」が彼のパターンなのです。
これは確かに中座の非礼を相手に詫びているが、実は優勢を意識した時の常套句なのです。
 一緒にトイレについて行ったことが無いから、見ているわけではないけれど、きっと誰に遠慮することなく晴れ晴れとした顔をしているに違いない。
 トイレの中では思いっきり顔の筋肉を緩めて、碁席で我慢しているストレスを解放しているのだろう。
 それは、よい碁を勝ちきるための儀式かも知れない。
  だから途中で彼にトイレに立たれたら、「この碁はもうアカンか?」気の早い人は考えるのです
 ということは「トイレに行っている間に、局面をよく見て気持ちを整理しておきなさい」と言う二重のメッセージなのか。
 ソレならば、目でものをいうどころか行動で物を言っている。

 成る程口で言わなくても行動とかからだの部分で意思表示されることがある。
  つまりサインが出ているのです
 目ではないけれど、Y田さんの場合は手に気持ちが現れるのです。
例えば局中、相手の要石を抜く時など・・・右手でリズム好く取上げていって、最後の1個を取った時、手首がクルッと独特の動きがします。
 同時に歯切れの言い石音とともに碁笥に石が落とされる・・・
  これは彼が気持ちよく打っている証拠です>>>見たり、音を聞かされる方は「目を瞑って・耳を塞ぎたくなる」ものです。
 「敵さんの調子が良い」と見せ付けられるのだからたまらない。
  ところで、こちらがカス石だと思っていた石が取られた時にこのパフォーマンスが出たとする。
 「Y田さんがカス石を取って喜んでいる」と一緒に?喜ぶほど人間も棋力も出来ていません。
 もしかしたら???と疑心暗鬼になるのです。
  しかし相手に”手つき”のことで「本当に”そう”思っているの?」と突っ込みを入れるわけには行くはずもない。
  
 これは日光のお猿さんみたいです。
  見なかったこと、聞かなかったことにして、無駄口は叩かない・・・それでは素人の碁はチト寂しい? 

果たして進歩しているのか?

2007-03-20 02:17:43 | Weblog
 囲碁というものに出会って半世紀は過ぎました。
 初めて碁石を持ってから45年は経つ・・・しかし未だに「ヘボ」とか「ザル」の冠がつくのが悲しいです。
 プロとかアマでも相当強い人は、もしかしたら人種が違うのかとも思えるくらい落ち込みがちですが、それでも観戦をしない日は無いし、平均1局は打っているのだから、例え蝸牛の歩みであっても、少しは進歩しているのではないかと淡い望みは持っているのです。
 この点に関しては昔、野沢竹朝師が「君たちは川原で杭を打っているようなものだ」と揶揄したのだそうです。
 心は「打てば打つほど下がる」・・・上手い座布団2,3枚です
 私の場合も似ているかも知れません・・・大いに怪しい
 ネットの場合は周りの人たちの様子が分かりませんが、恐らく半分は私より若いと思われる・・・ということは停滞とかミリ単位の進歩では直ぐに置き去りにされそうな恐怖感が横切ります
 マア、そういう現実を突きつけられる日も遠からず来るに違いない。

 先日の対局での話
 向う先ですから棋譜は逆向きでお話します。
 黒1は左下星、白2右上星、黒3が少し変わっていました・・・左上小目で右上の白の星に向かい合っている。
 これは想像するに、私の布石の”癖”を熟知しているに違いない(多分)
 私は相当な確率で2連星、2連星居士に近いからその場合は左上の小目をケイマか大ケイマで締まると切っ先が右上の星に向いている感じです。
 白がそれで打てないとも思わないけれど、黒の注文通りが嫌です。
 ですから白4は2連星なら右下隅星なのですが、それは保留して即左上の小目に小ケイマかかり(これは自分の星の石をバックにしているから悪くは無さそう)、黒5・2間高はさみ。
 ここで1間跳ぶのは足が遅いのでよくないらしい・・・確かM山さんから説明を受けた気がする・・・したがって白6・2間跳び。
 ここで黒も2間に開けば普通ですが、その時は白ケイマにかけて出切りを誘うつもり・・・それを黒は察しているか?黒7は大ケイマ。
 この手は確か定石の本で見たことがあります・・・しかし思い出せない・・・
  こういうときサンサンの時間は嬉しい:45分+秒読みなのです。
 ここでまず定石の変化を思い出そうとした・・・それが5分
  そこであることに気がついたのです。
 「定石の本を思い出そうと努力していると言うことは一体何なのだろう?」
  それはプロの先生がよく言うところの「碁を打つのではなく、定石を打っているに過ぎない」
 悲しい現実でもあります
  マア思い出そうとしても思い出せないし、仮に思い出したと思っても正しいかどうか怪しいのですから、ここは一番腹をくくって自分で考えるしかないのです。
 どうも大ケイマを出切る手しか思い浮かばない。
  小ケイマなら「ヘボ碁の見本」の突き出しになるけれど、大ケイマだから多分事情が違うはず・・・
 ここで10分は使った。
  45分の内三分の一は白8に使ったけれど、無い頭を絞っての結果はともかく、なんとなく充実感が残ったのです。
ヘボなりにもがいていると言うことです。
  ”お粗末様”でした
 考えていることはたいしたことは無いのですが、私などのクラスではそんなものでしょう。
  強い人たちは考えた結果が大事です、私らクラスなら結果はどうでも良いということは無いにしろ、考えることが大事・・・少し寂しいかな?
 ともかく結果は私に幸いして中押し勝ちだった以上に、自己満足のある碁でした。
  錯覚でしょうがまだ考える姿勢は残っているのが嬉しかったのです。

 次に打ったのが同じ県(ネットだから関係ないけれど)の同じくらいの手合いのMさんです。
 先日来彼は好調で私より10点は上を行っていた。
 うかうかすると2つ置かされるくらいだから穏やかではないのだけれど、この日は彼が先番になっていた。
 彼も私同様に頑固者らしく、黒白に拘わらず彼は星+目外し、対する私は2連星になる。
 彼とは着きに、4局の対局があるがここ1年はこのパターンになっています。
  両者とも反省はしている・・・ある時点から打ちにくくしたと思われるところで次回は変化する・・・そういう対局が続いています
 やはりこれも進歩のうちなのか?
  誰だったか、プロ棋士の受け売りで「得意戦法を持て!」ということにMさんの「星+目外し」は当てはまりそうですが、私の「2連星」はどうだろうか?
 これは戦法と言うより「なまくら四つ」みたいな感じではっきりしない・・・
  私のブログのタイトルみたいで「なんとなく碁」の感じです。
 以前彼をお客さんにしていた時期もあったけれど、ここのところ4連敗はしている。
 今回は何とか勝ち点を頂いたのですが・・・それは単にザル同士が競り合っているだけで、切磋琢磨にはなっていないだろうな。 
 
 

「夢の中」の続き

2007-03-19 00:40:14 | Weblog
 先日夢の中で、必死に考えている夢を見たという話をしました。
 全くボンヤリと暮らしている割には真剣に考えることもあるのです・・・但し夢の中ですが。
  こういうことは・つまり睡眠は体とか神経とかのリラックスとか疲れを取り除くものだと思うのですが、その睡眠の最中で脂汗を流すような場面が出てくるのは、疲れを取るどころか”増す”ようなことになるのだろうか?
 夢の中では真剣に考えているのではなくて、真剣に考えているところを、映像で見ているようにその姿を見ているだけだから、本当の”真剣”の疲れは無いかな・・・
 つまりそういう夢で疲れが増すということは無さそう
  しかし逆はあるかも・・・疲れているからそういう夢を見る。
 この方が納得しやすい
  「精神的・体力的に疲れている時は疲れる内容の夢を見る」?
 マア仕事ではいい加減なことはしていませんが、疲れるほどでもない?から、「何時疲れた?」とからかわれそうですが
 
 ところで、あの夢に関して妙なことに気がつきました。
  昔見たコミックの「ヒカルの碁」でも確か出てきたと思うのだけど・・・何巻だったかは憶えていない・・・確か六段くらいの売り出し中の棋士の話しだったか・・・「一色碁」と言うのが出てきたと思う。
 碁を白黒の石で打つのではなく両者白石で対局するものです 
 この夢はそれではなかったけれど・・・つまり、はっきりと両者が白石ではなかったけれど、色が無かったと思うのです。
 モノトーンと言うのだろうか、白でもないし黒でもない
  中間の灰色と言うことでもないのです・・・色についての記憶・考えていた碁盤のに置かれた石の色の記憶が無いのです。
 囲碁の対局の棋譜を例えれば分かりやすいかも知れませんが、棋譜には数字だけを記録するのであって、石の形の丸は書かないのが普通。
 それで記録は白石のほうは赤、黒石の方が黒か青ということになっていて、その色の違いで白か黒かは分かる。
 でももし、鉛筆が一本しかなくても数字が奇数が黒で偶数が白だから、視覚的には煩雑でも再現は出来るはずです。
 そういうことに少し似ていたかも
  夢の中でああでもないこうでもないと考えていた内容は、夢の中での碁盤の上で並べては崩していたのですが、座標的存在と言うか、位置はあるのだけれど、石はない。
 その場所に石を置いて見た、視覚的な絵で考えていなかったと思われる。
  
 これは寧ろ当たり前のことのような気もする。
  実戦で考える時、碁盤を見ながら・既に石が置かれている場面をベースにして、これから起こるであろうと言う近未来の変化を重ね合わせている時、未来分については位置を認識することで、現実に既にある石と同様な感覚で見ている・・・と言うか頭の中で認識しているのでしょうね。
 そう考えると、夢の中で石に色が無くても不思議ではないかもしれない。
  
 昔推理小説に出てきた少女・・・全盲だけれど、特殊な石を使って碁が打てる。
  位置を読み上げることで頭の中の棋譜にインプットされていくらしい(小説ですが)
 それで進行が分かり、コウも処理出来、地合い計算から勝敗まで分かる・・・そういう設定でしたが
 その場合、石の”色”と言う概念は無いはずだから、「自分の石」「相手の石」という区別だろう・・・となると、位置が分かればいい。

 昔中山先生の「実録囲碁講談」で読んだ・・・真っ暗闇の中での棋譜並べの話も次元はともかく似ているかな?
 珍しく部屋の片付けをしたら、その「実録囲碁講談」を見つけました。
  昭和52年刊行のハードカバーです。
 もう何度も読んでいるはずですが、久しぶりに読み返しました・・・何度読んでも面白いので、近いうちにその本の話をしたいと思います。 

土曜日はコミュニティ

2007-03-18 00:17:46 | Weblog
 今週の土曜日は私にとって2週間に1度の図書館の日です。
 3月もそろそろ下旬と言うのに寒い日でした。
  加えて、ポツリポツリ雨粒も落ちてきます・・・傘を差すほどでは無いのですが、さりとて頭の天然カバーが減ってきているのを思い知らされる天気です。
 図書館では例によって4冊借りて、そのうちの1冊は囲碁の本です。
  2週間という期限ではこれが丁度良いみたいです。
 さて図書館の囲碁将棋の棚の前に立っていつも思うのです。
  この図書館の蔵書が何万冊かは知りませんが、囲碁の棚は3段のみです。
 これでも先日の整理前は2段半だったから少し増えている・・・のですが、どの本が増えた分か分かりません。
 マ、いつもは貸し出し中のものがこの日は戻っていたのでしょう。
  囲碁の本は大きく分けて4つになるでしょうか
 1、棋譜集:各種棋戦、タイトル戦、古棋譜、現代プロの個人棋譜
 2、ノウハウ的な本:入門書など、定石、テクニック、作戦、棋戦・定石の研究
 3、問題集:詰め碁、中盤などの問題集
 4、読み物:歴史、棋士の随筆など
大雑把に分けるとこんな感じかなと思います。
 2,3などは混ざった物があるけれど概ねこんなものかな
  ところで、4に当たる本が少ない気がします。
 勿論全く無い訳ではない。
  例えば呉清源師の「中の精神」とか、古いところでは岩本薫師の「囲碁を世界に」などの他に、江戸時代の家元本もあるにはある。
 囲碁普及の話とか、お稽古話もある
 これら専業棋士のでは無くて、アマチュアの立場から書いた物もある
観戦記者の立場から書いたもの、遠藤周作さんの本も・・・
 しかし、もっとあっても良いのではないかと思うのです。
  今トーナメントで活躍している棋士が、その一方で著述を残すのは無理だとは思うけれど、この場合ゴーストライターでも良いでしょう?
 それより、小林光一、趙治勲両九段の回想記などを期待しているのですが・・・ご本人たちはまだまだ現役ですから回想記など書く気にはならないでしょうか?。
 囲碁棋士という職業は一般の人間には普段の生活そのものが謎の世界ですから、そういうものが窺えるものが読みたいし、棋士を生業としている人がどんなことを考えながら暮らしているのか読んでみたい・・・
 別に暴露本とかフライデー的なものを期待しているのではないが、将棋界の同様なものと比べると少ないような気がしてさみしい。
 それと、フィクションでも物語の進行に囲碁が絡み合っているというものも期待しています。
 特に新聞棋戦などで活躍していなくても、棋士と言うことだけで充分に希少価値なので、興味がある・・・きっと囲碁を知らない人も面白いと感じると思うのだけれど、どうだろうか?
  以前に棋士の方が深夜に対局を終えて帰宅する時に、歩いていると警察官の職務質問にあったとか・・・名前を言って、「職業・棋士」これがお巡りさんには理解できなかったとか。
  遊びの囲碁で生活しているのだから「遊び人」だとされたという話があった。
   今でも社会全体から見たら、数字的な存在は限りなく0に近いのだから、認知度を上げる・・・棋士の認知度だけでなく碁の普及にもなると思うのだけれど。

 昔「囲碁クラブ」だったか、囲碁に絡んだ推理小説が連載されたけれど、ああいうものでも良いですね。
 文句を言っていないで、大きな図書館・私の住んでいるところでは市の中央図書
館か県立図書館があるのですが、未だに行ったことがない。
 また新しいシステムでは他の図書館の蔵書を検索してリクエストできます
(これらは、IDを登録したカードを作れば、館内のパソコンからできる)
 しかし、以前に話したことがありますが・・・
  新刊でこれは良さそうだという本があればなるべく購入することにしていて、
既刊本に関しては棚に並んでいるものを手にとってみたい。
 他の方から勧められれば是非読んで見たいと、他から取り寄せたり、ネットの本屋さんに注文するかも知れないけれど・・・

 今日図書館から借りた本は
「武宮流・白番の勝ち方」 武宮正樹 平成12年
 サブタイトルが良いですね「思い込みは禁物!自由な発想で広く打つ」
 この本は日本棋院有段者特訓塾となっている
 恐らく読んで見ると、何だか分かっている事柄が並んでいるように感じるかもしれません。
 多分私はそう思うでしょう、しかし一方で「基本」とか「当たり前(プロとしては常識)」のことは繰り返し勉強するべきだと思っています。
 こういうことは「読んだからそう思う」のであって、もしかしたら忘れていたかも知れない・・・
 それはコロンブスの卵かも知れないから、繰り返しチェックしていないと、<思い込み>の部分が拡大されそうです。
 ですから「勉強」と言うほどの本を読む態度ではないかもしれませんが、雑誌を読むよりずっと良いと思っています。

 ところで図書館の次に同じ館内にある囲碁クラブを覗いた。
  土曜日の午前中は「子供と打つ日」
 部屋の入口に靴が4足脱いで並んでいました・・・襖の隙間から覗くと・・・会長とほぼ同格の年配の方が打っている。
 その隣に少年の背中が見えます、今日の生徒は一人らしい。
  相手は私が先で打つTさんです。
 この方ならこの間話したような機関銃おじさんとは違うから、少年にとってきっと勉強になることでしょう。
 Tさんは胡坐でしたが、少年は正座で打っている・・・成る程相手が変わるとやはり違うのかも。
 但しチョッと前後に大きく体が揺れている。
  それは思考する時のリズムかも知れないが・・・見てくれはよくない・・・でも、小言を言うほどでもないか。
 ともかく今日はTさんだったから、盤側には行かずに入口でUターンしました。


夢の中で

2007-03-17 00:20:49 | Weblog
 深夜、正しくは未明だろう・・・正しい時間は分からないが
 私はここ20年は腕時計をしていないし、自分の部屋には壁掛け時計も目覚まし時計も無い。
 (仕事ではさすがに時間が命ですから、腕時計をポケットに入れていましたが、最近では携帯電話があるので時計は持ち歩きません。
 車の場合は車内に時計があるし、ラジオを聴いていればおおよその時間が分かるわけで・・・
 話を元に戻して、未明に目が醒めたら枕元で充電中の携帯を見るか、パソコンの画面で確認するのです。
 その時も例によって半端な時間に目が醒めた・・・起きるには早いし、どうしても寝なくてはいけないという程でもない。
 そういう時は例によってネットでサンサンに接続
  しかし時間が時間だけに「対局」が無い
 対局リストには4局あったが、3局は既に終了していて、在室者は1名ずつ・・・これは研究中か、パソコンをつけっぱなし・・・
 残る1局は「打ち掛け」となっていたので結局は対局中は0でした。
  終局したものの中に高段者の対局があったので、棋譜を再現しようかなとは思ったのだけれど、思い止まったのです。
 寒かったのです
  ベッドで横になって布団に包まってパソコンで棋譜を再現するには、どちらかの腕が布団から出たままになります・・・要するに”ものぐさ”で”寒がり”。
 そうサンサンの棋譜再現は一手ごとにクリックしないと進行しないのです。
  こういうときはオートに限る!?
 対局した人には申し訳ないのだけれど、こういうときは本当に真剣に棋譜を再現して見ている訳ではない。
 どちらかと言えば、BGMみたいな感じです。
  時には本を読みながらチラチラ見です。
 布団に包まってパソコンを眺めているのです。
つまり全くの暇つぶしでもないけれど、勉強ともいえない・・・中間ぐらい
 ですから自動再現機能を是非つけて欲しい・・・1手1秒から8秒くらいに調整可能で。

 観戦は出来ず、棋譜再現も寒いので諦め・・・思い切って「自分で打てば良いということに気がついた」
 対局待ちリストを見ると私が先番くらいの人がいます・・・が条件が早碁オンリー。
 これはなんとなく気が進まない。
  と言うのも、そうでなくてもミスが多いのに、更にミスを誘発する条件のような気がするのです
 私の個人的な感じかもしれませんが、余程「遊び心的」でない限り早碁は避けています。
 もう一人いましたが、この方は多分向こう4子か5子の手合いになりそう
  さっきまで眠っていて、今でも半分怪しい頭では恐ろしくて打てない
 まさに1手目で考え込んでしまいそう・・・初手から「絶望的」な気がします。
  グズグズするうちにその人に同じくらいの方との手合いがついた
 ということで私も初期の希望通りに観戦としました。
  但し対局が始まって数手経った頃何気なく目立たないように入室
   実際はパソコンですから、私の気分が”何気なく”なだけです
 さてその碁は序盤からくんずほぐれつ
  どちらも相手に絶対に大きな地を作らせないと言う方針のようです。
 だから、自分の守りの以前に、とりあえず割っておくと言ううち方です。
  私も観戦ながらハラハラドキドキしていたはず・・・なんだけれど途中から記憶が無い
 「そろそろ6時半ですよ」で目が醒めた。
  またまた観戦睡眠?を取ってしまった。
 さてこの朝は、起こされた時に見ていた夢を憶えていました。
私の模様の中に相手の石が割ってきた場面
 これをどうしようかと考えているのです。
  割られた以上連絡は出来そうもないけれど、割って入った石を楽に治まらせてはいけないし・・・ある程度の攻めはあるが、取るところまでは無理二見える・・・ではどうするのが最善か???
 その場面で「朝ですよ」だった。
  夢の中で真剣に考えていた!
   観戦中の碁に刺激されたのだろうか?
 自分の本当の対局でこれだけ考えれば、もう少し碁の内容が良くなりそうなのに
夢の中でしか考えられないとは情け無い