岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山を見ることの出来る幸せ…あなたには毎日岩木山が見えているか (3)

2008-11-30 05:47:06 | Weblog
(今日の写真も岩木山である。さてどこから撮ったものだろう。この場所の雪のない時の写真は、このブログの2008-09-19と2008-09-20に貼り付けてある。
 雪によってどれほどの変貌振りなのか、雪のない時の写真と比べてみると楽しいだろう。これは岩木山白狐沢下流域山麓から見た岩木山である。
 この撮影地までの道順だが…
 岩木山環状線から大石神社に向かって入り、大石神社の少し手前から右の車道に入る。しっかりした砂利道を移動して草原に出たところで下車する。この風景を見るには自動車は使えないから歩くしかない。
 車道の下部には原野や草原が広がっている。標高は350mほどである。下車地点の遠景は岩木山の北東面である。左から赤倉登山道尾根、赤倉キレット、 1396mのピーク、1250mのピークと続いている。この1250mピークが扇ノ金目山に連なっている。右の深い沢が白狐沢、左の沢が赤倉沢だ。
 弘前から見慣れている岩木山とは、あまりにも違う「変容」振りだろう。ここは五所川原市と直線的に結ぶ「線上」である。五所川原市から見える岩木山は鋭角的で厳しく屹立している。もっとも男性的で荒々しい山容、まるでマッターホルンのように見える。ところが、同じ直線上にありながら、ここから見える岩木山は横広がりで「立ちはだかって」はいるものの、気高く鋭く立っている山ではない。
 広がりはあるが低い。峰を連ねてはいるがその連なり方も何となく「優しい」。ただ、赤倉沢や白狐沢の深い谷を見せているだけであった。この「変貌」を為す理由は、見ている場所の「高さ」と「距離」にある。見ている場所の標高は350mほどである。山頂までの直線距離は2km程度だろうか。)

 ◆◆ 『毎日新聞「東京版の夕刊」「しあわせのトンボ」』「夕の祈り」は何を語る(その3)◆◆

(承前)
 「昨日、テロリスト、「小泉毅」はお天道様のような「山」を持つことなく46歳まで生きてしまったのだ」と書いた。
 それは「小泉毅」が「アイデンティティー」としての「山」を持っていなかったことでもあるだろう。「小泉毅」はその意味で哀れなのである。
 それに比べると、何と私は幸せ者だろう。67歳の現在も、未だに「不動にして泰然としている岩木山」を「アイデンティティー」として、日々生きていることが出来るからである。

 S氏が言ったように、私にとって岩木山は、まさに、「アイデンティティー」であったし、今もなお「アイデンティティー」なのである。
 すなわち、岩木山にこだわること、岩木山を愛すること、それは私が自分自身を知ることであり、自己確認を意味しているのである。
 岩木山との最初の出会いは5歳の時だった。この年齢だから、その当時の記憶は曖昧でかつ断片であるに過ぎない。それまで育った満州における記憶はさらに少なく、さらに、断片でしかなかった。
 満州での記憶の中に「山」は存在していない。満州の入り口、大連には山がなかった。引き揚げてきて、岩木山を見た時に、人生で初めて、「山」の実景を見たのである。
 5歳の私は「山」という「漢字」を知っていた。象形文字などという難しい知識はなかったが、まさに岩木山は3つの頂を示して「山」の「字」を私に「直接」教えてくれたのである。そして、私は、その時から「津軽の人の原風景としての岩木山」を持つようになったのである。
 私はこれまでどのくらい岩木山と対峙しただろう。それはもはや数えられる者ではない。大げさに言えば、「毎日数回」である。直接、対峙するだけではない。見えない場所にいても目をつぶっても、私には岩木山が見えるのである。
 嬉しいことがあった時も、悲しいことがあった時も、何事かで悩んでいる時も、私は岩木山に対峙してきた。そして、語りかける。
 その晩もまた、私の父と母は喧嘩をしていた。私は吹雪の中、表に飛び出して見えない岩木山に向かって大声で泣いた。
 秋、稻束の棒掛けが規則正しく並んでいる田んぼの畦に腰を下ろして見る「岩木山」は穏やかで優しい。そんな時は、岩木山に向かって自分の将来を語った。自分の夢を話した。岩木山はひたすら「黙って聞いてくれる」だけだった。それでよかった。
 私は小学生の時から「高校の先生」になろうと決めていた。それが夢だった。しかし、現実は「貧しさ」であり、高校進学も危ういものだったし、到底大学に進むことは経済的に無理だった。だが、岩木山に向かってその夢を語る時、いつかそれは達成されるような安堵感を持つのであった。
 私の「アイデンティティー」が「岩木山」であると思えるのは、引き揚げ直後から小学校時代を含む時期までのいろいろな体験が、反発や悲しみ、寂しさなどを包括しながらも、すべてを、この「原風景として岩木山」にスライドされ、収斂・象徴されているからなのである。

 「しあわせのトンボ」-「夕の祈り」は続く…。

 『それにしても何事もないかのような富士山の大きさ。その超然とした姿を詠んで、今は亡き城山三郎氏に年賀状を出したのは確か2000年の元旦である。思いがけず「その思いで生きたいものです」と添え書きのある賀状をいただいたが、城山氏は富士への畏敬(いけい)の念とともに、穏やかではいられない世の中を暗におっしゃっていたのであろう。

 江戸の人々が六根清浄を唱えつつ山頂を目指したのは、霊峰への信仰心からだ。町から富士を仰ぎ見ては、日々の仕事にいそしんでいたことだろう。日本人の勤勉さや正直といったものも、富士信仰とともに培われた面があるのではなかろうか。』
 この2つの節には「人々」が自分の心に「山」を存在させるという意味についての言及があるだろう。(この稿は明日に続く。)

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