岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

紅葉(木の葉落ちる)のこと / 講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…(その3)

2008-11-20 05:43:30 | Weblog
(今日の写真は弘前公園東内門を出たところの紅葉だ。右が落ち葉のつもった土塁である。内濠の水面もすっかり「落ち葉」で覆われている。この内濠は左にさらにつながっている。そのつながった左側の壕には「敗荷」が無惨な姿をさらして枯れ果てたままで群落をなしている。この紅葉とはあまりの違いの趣に思わず息を飲む。「敗荷」とは枯れた蓮のことだ。)

 ■これらの落ち葉(木の葉)を見て、私は吉田兼好の徒然草第百五十五段の一節を思い浮かべた。そこで、今日は「木の葉」の記述を「徒然草」に訪ねてみたい。

 …まずは、「第十一段 神無月のころ」だ。
『…木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。』

(木の葉は秋の風情を形成する重大な要素である。庭の木の葉は、その庭の持ち主の心情までを語るのである)

 次は「第十四段 和歌こそなほをかしきものなれ」だ。
『 和歌こそなほをかしきものなれ。あやしの賤(しづ)山がつの所作(しわざ)も、いひ出づれば面白く、恐ろしき猪も、臥猪の床といへばやさしくなりぬ。  …のこる松さへ峯にさびしきといへる歌をぞいふなるは、誠に少しくだけたるすがたにもや見ゆらむ。
*〔新古今集:冬の來て山もあらはに木の葉ふり殘る松さへ峯にさびしき・祝部成仲の歌〕

(木の葉が散ってしまうと常緑の松でさえ寂しく見える。紅葉は松の緑をも映えさせるのである。その物事の価値はそれだけでは光るものではない。ドングリの背比べのような人材の中で、それらに選ばれた「日本の首相」など映えるわけはない。「生える」「栄える」というどの語にも当てはまるような気がする)

「第三十段 人の亡き跡ばかり悲しきはなし」
『人の亡き跡ばかり悲しきはなし。中陰の骸(から)はけうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ。そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。』
*中陰:死後の七々四十九日 *けうとき:人けのないさびしい

(積み重なり敷き詰められている木の葉は、ことさら亡き人のことを思い出させ、その寂しさ懐かしさを募らせるものである。枯れるとは「死に直結した」営為だからであろうか)

「第五十四段 御室にいみじき児のありけるを」
『御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、…紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。
 うれしと思ひて、こゝかしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。』
 現代語訳は…『仁和寺の法親王の御所にすごくかわいい男の子の幼児がいた。なんとかして誘惑して一緒に遊びたいと思う坊主どもがいた。そこで、芸人かぶれの坊主をまるめこんで仲間にした。かわいいお弁当箱を特注して、汚れないように箱にしまい、丘の適当な場所に埋めて、紅葉をかぶせてさりげなくした。それから、寺へ戻って、幼児をそそのかして連れ出した。
 一緒に遊べて、あまりにも嬉しかったので、さんざん遊びまくった。さっきの苔むした所にみんなで並んで座って「すごく疲れたぞ」とか「誰か、紅葉を燃やして酒の燗をつけてくれないかな」とか「修行して、変な術が使えるお坊さんたち、ためしに祈ってみてよ」などと言って、弁当箱を埋めた木の根っこに向かって、数珠をすりすりして、物々しく両手で変な形を作ったりした。いくつか芸を披露して、木の葉をどけてみると、もぬけのからであった。』となる。 

(木の葉は子供、大人を問わず、遊びの重要な道具であった。現在の大人に枯れ葉と遊ぶという心境の持ち主は何人いるだろう。この寓話に込められた「必要以上に小細工すると、結果はこうなる」という教訓は現在でも脈々と息づいているように思う)(明日に続く。) 
 
    ●●講座「津軽富士・岩木山」の野外観察でのこと…●●

 16日実施の「野外観察」は帰路を平沢の右岸尾根に採った。平沢の右岸を降りるのではなく、右岸の尾根をジグザグに登って稜線に達してから、さらに横に下って柴柄沢へ続く林道に出たのである。
 このルートは最初から想定していたもので、受講者に配布したパンフレットのコース図にも朱書きで掲載されていた。
 受講者たちは「来た道」を戻ると考えていたようだ。右に逸れてミズナラ林に入ると、皆は一様に怪訝そうな表情を見せたのである。どうも、「私の後ろについて歩けばいい」と考えているようである。地図上のコースの確認もそこそこなのである。
 そのルートを通る狙いは2つあった。1つはこの「ミズナラ林」の斜面に「ナメコやムキタケ」を探すことであり、もう1つは初冬の山の風情を多面的に理解するということであった。
 前者の「キノコ」探しは、少ないだろうとの想定通りで「ムキタケ」を10枚程度しか採取出来なかった。とても全員で均等に分ける量ではない。そのような時には、案外簡単に「独り占め」という結果になるものだ。人の心理とはおもしろいものだ。ある程度の「量」が確保されると、そこに「収奪と競争」の原理が働くらしい。
 ミズナラの葉が敷き詰められている、定かでない山道を登り降りるということは、踏みつけられる枯れ葉の音やその感触、そして、枯れ葉特有の臭いなどを十分感得させてくれるものだった。

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