岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

NHK弘前文化センター新規講座「岩木山の花をたずねる」 / 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その4)

2008-11-27 05:22:11 | Weblog
(今日の写真は一昨日に掲示したTさんが撮った場所を追子森の山頂から写したものだ。時季は3月の初めである。3月だから大分雪も締まって「積雪」の厚みが減っている時だ。だから、コメツガやブナなどの高木もかなり「姿」を見せている。
 また、稜線上の低木のダケカンバなどの樹列もかなり明瞭にその姿を現している。)

 どうして、こうまで「晴れている」「晴れていない」で写真の趣が変わるのだろう。一昨日のものは「モノクロ・モノトーン」に見えたが、この写真はしっかりとしたカラーである。3月初めというと日照時間も長くなり、太陽の高度も上がってくるので、空全体に明るさが増すという事実はあるのだが、何といってもその不思議さは否めない。
 このようなところにも、私は「自然は美を創り出す巨匠」を感ずるのである。やはり、人は「自然を超えること」が出来ない存在なのだ。
 日本人は古来から、その意味で「自然の中に神」を見出して、「自然そのもの」を神として崇めてきたのである。
 ヨーロッパやアメリカの原住民もそうであったのだが、キリスト世界はそれを否定する。自然が神なのではなく、「神」が自然を創ったという教えとなるのだ。この論理では「神」の許しがあると「自然を人手で変えること」も許されることになる。そして、キリストは「神の申し子」なのである。
 だが、「自然を神としてきた日本」はどうだろう。神の許しを得ぬままに、企業の論理で、スケールメリット追求のために、どんどんと自然を改変したり、破壊してきた。
 自然破壊は今も続いている。自然破壊とは、当然この「地上」に存在しない「物質」をまき散らすことも含まれる。核爆弾、原子力発電、核燃再処理施設などもすべて「自然破壊」を引き起こすことに荷担するものだ。

  ◆◆ NHK弘前文化センター新規講座「岩木山の花をたずねる」(その2)◆◆
 
(承前)
 座講では花々のカラー写真と解説が印刷されているA4判カラープリント2枚程度を使用する予定だ。受講生が相当数になれば、「プリント代」として実費を頂戴することになるかも知れない。これまでは、「プリント代」は徴収していない。
 これまで、2年間48回続けた講座「岩木山の花々」では、岩木山に咲く花々を「感性」で観察して、詩的に読み解くというものであった。
 前NHK弘前文化センター支社長Sさんは、「他の文化センターでは見られないユニークな内容」と評価し、大いに薦めた講座であった。
 花々との出会いを受講生は、プロジェクターによる美しい映像で堪能して、その都度、ため息に近い感嘆の声をあげていたものだ。
 受講生の中には感性で観察し表現・記録した「語句」で、俳句や短歌作りに挑戦している人たちもいた。もちろん教材資料には「俳句や短歌」は頻繁に登場する。
 また、オキナグサやオミナエシなど最近減ってしまった花については、受講者個々の思い出を語り合うことで、たくさんあったその「当時のことを共有しながら偲ぶ」こともした。
 このように受講生参加型の、みんなで作るタイプの講座にしていきたいと考えている。少なくとも、講師である私が「一方的」に語るタイプの講座にはしたくないというのが私の本音でもある。


      ◆◆ 帯状疱疹(帯状ヘルペス)を発症(その4) ◆◆

(承前)
      帯状疱疹を発症・ストレスは一体何だったのか

 今日も眼科の受診に出かける。昨日、今日と痛みは全くなくなった。ただ、右目の「霞み」はとれない。その所為だけで受診するのではない。今日は指定された受診日なのだ。

 数日前のこの稿で…『傍目からすれば「出版記念の集い」は著者にとって、「嬉しく、楽しく、光栄なもの」であるはずと映っているだろう。しかし、当の本人にとっては「ストレス」になることもあるのだろう。不思議なことだ』…と書いた。
少し間遠になったが、今朝はその「不思議」を解き明かしたいと思う。

 これもすでに書いたことだが、私は10年前にすでに「出版記念を祝う」会をしてもらっている。仲間が集まり、発起人会を結成して、「祝う会」の日程や会場などを決めた上で、ハガキで案内、出席の有無の確認、B4判裏表印刷の祝う会パンフレットの作成、座席の配置などという事務的な作業を、すべて「善意」でしてくれたのである。善意でしてくれることに「私情」を夾んではいけない。善意に対しては文句は言ってはいけない。私は強くそう思った。
 だが、「会費」についてだけは「本代を含んで5000円」を頑強に主張した。「祝う会」に来てくれる方も「善意」からである。「善意」に甘えてはいけない。「善意」だからこそ「負担」をかけてはいけないのだ。
 その時の本代は2100円だった。一人あたり残りの2900円で「祝う会」すべての会計を賄わなければいけなかった。
 だが、これは当時の物価事情から、とうてい無理だった。発起人会は会場費の安いところを探し、酒類や飲み物は買い込んで持ち込み、料理も出来るだけやすくするために外注したのである。このような事情はすべて発起人の手間暇を増やし、発起人を思い悩ますものであろう。
 そのような苦労をしながらも、「ハガキ代」や「印刷代」「用紙代」などを加えると、どうしても「2900円」で「祝う会」をすることは出来なかった。私は発起人会に諮って「不足分」は私が補填することを了承してもらったのだ。

 今回も「会費」は同額の5000円であった。ただし、「本代込み」ではない。まるまる、5000円の出費なのである。私のためにまるまる5000円を消費させられるのである。しかも、「集い」に来てくれた方で拙著を希望する人は実費で購入しなければいけなかった。合わせると8000円近くになるではないか。
 私は『善意で、この企画をしてくれた発起人の方々、また、この企画に参加してくれた方々に対して「一方的」な迷惑をかけてしまうのだ。
 お金のことだけではない。私のために特に時間を割いて参加してくれる。貴重な自分の時間が私によって奪われるということだろう。これは本当に許されることなのだろうか』という思いを約1ヶ月間持ち続けていた。

 「ストレス」…私にとって思い当たるとすればこれしかないのである。

(皆さん、本当にご迷惑をかけました。「手前みそ」でなく新聞報道からもお分かりのように、すばらしい「集い」になりました。有り難うございました。)

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