岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

東奥日報掲載「岩木山・花の山旅」今日で終了/山のゴミ(その3)

2007-09-20 06:26:10 | Weblog
(写真は東奥日報掲載「岩木山・花の山旅13回目」のコバノトンボソウである。)

*モノクロ写真にならない日に掲載と言っていたが、そうはならなかった。まるで、「これぞカラー写真で」と思っている日を選んでモノクロにしてくれる。書き手・写し手と編集者とがこれほどミスマッチなことも珍しい。
 これで、決意は固まった。早く「岩木山・花の山旅」(花の数450種)を出版するぞ。
 なお、この連載は短期なので今日15回目で終了である。休載日を含めて20日以上になったが、本当に短い。あっという間に終わった。今度はどのような連載依頼があるか楽しみである。

             ☆ 山のゴミ(その3)☆
(承前)

 その上、誰も見ていない山の中だ。人は簡単に自制心を失い、己の利に従い楽な方向に走る。
 人間はそれほど克己的な生き物ではない。だからといって諦め、規制任せにしてはいけない。または、個人に対する「とってつけたような心がけ主義」だけでこと足り得るわけでもない。
 小さい時から日常的に大事にするべきこと、これだけは絶対にしてはいけないことなど、その理由づけから教えて行動の中で体験させなければいけないものであろう。そこにはそれなりの社会的な規範が必要であるはずだ。
 さらに、それと合わせて、社会の仕組み、経済の仕組み、文化・文明のあり方や求められる価値を根本から変えなければいけないだろう。それをしないで、「ごみは持ち帰りましょう。」のかけ声だけでは空念仏の絵空事になってしまうに違いない。
 他人の目がない時、人はいつも飾らないし、振りもしない地の自分である。心のおもむ
くままに行動することが出来るのである。その「地の自分」があるがままの自然を保守するようになれる時、そこにはごみ等の諸問題はなくなるはずである。

 ゴミは歴史を語る。その時代と人を語り、人々の思想を語る。また、ゴミを出さないことも、歴史を、時代を、人を、思想を語るということを忘れてならない。
 我々は後世の人々にゴミを残さないで、素晴らしい現代を語るものでなければいけない。核の「ゴミ」もまたしかりである。      
 規制のない生き物に優しい自然の中で、自主的に自分を規制出来るようになって、はじめて、人間は社会的な規制が空気のように当たり前のものと感じれるに違いない。
 理想に過ぎるかも知れないが、人目のない自然の中であるからこそ、その場で自己のエゴを徹底して抑制出来た時、我々にとっては「社会の法的な規制も今よりもはるかに緩やかなものになっている」はずである。そうなる近い将来には、きっと入山規制はその求心力を失っているであろう。 
 入山規制は今どのように理解され、どのように運用され、どのようになっていくのだろう。とかく「制度」だけが一人歩きすることは多いものだ。人々の間に思想が浸透していくことが難しいからである。
 行政は「制度」を作って「よし」とせずに、教育も併行しすべきなのだ。「規制」のかげで「規制」を指導する側の「規制」無視の行動が目立っているという報告も後を絶たない。

 自主性は黙って放任していても育たないといわれている。程よい「抗いが出る」ような外的な刺激が与えられることで、自主の芽が育まれるとも言われている。我々はこの意味において、規制を捉え「白神山地における入山規制」を越えなければいけない。南八甲田地域の登山道問題にもこれは共通する。

 それにしても不届き千万なのは「東京都推奨」の大型ポリ袋に入って捨てられていた「ゴミ」であった。
 機会を見つけて、そのうちに「引き取りに行く」つもりでいる。それをしない限り、私には白神山地での素晴らしい感動の余韻が断ち切られてしまいそうに思えるからだ。(この稿は今日で終了する。)