(今日の写真はヤマナシの実である。昨日、自然観察会で岩木山赤倉沢に出かけた。夏の初めに清楚な白い花を咲かせていたヤマナシは写真のような立派な実をつけていた。秋である。ナシのおいしいシーズンになった。私たちが食べる「ナシ」の原種がこのヤマナシだ。「自然への感謝」は至る所に転がっている。)
☆ スズメバチは厄介者か…(その1) ☆
山登りをする者にとっても、スズメバチは厄介な存在になることがある。
昨年、岩木山の百沢登山道、姥石にスズメバチが大きな巣を作った。そのことを岩木山を担当している弘前市岩木総合支所の担当課と岩木山日赤パトロール隊に連絡したら、早速、専門の「業者」に依頼して、「巣」を撤去した。「撤去」とはいえ、その実態はスズメバチの皆殺しである。
これから寒くなり、スズメバチたちの活動は鈍くなり、2週間もすれば「活動」を収束させるのであったし、その間「登山者」の方が、スズメバチとの「対応」に注意すれば事故もなく済むことなので、私は複雑な気持ちだった。
スズメバチは昆虫とその幼虫や樹液を好んで食べる。時にはミツバチの巣を襲って幼虫や蜜を奪うこともある。
怒らせると「人」や「家畜」、さらに「獣」さえも攻撃するという。毎年のようにスズメバチに刺されたという「事件」が報道されているのは、「人」がスズメバチを怒らせることをやめないからであろう。
私は登山道の近くで、スズメバチが巣作りをしている時や気の荒くなる「秋の初めから中秋にかけての時期」を避けて、そこを通らない。もし、どうしても通らなければいけない時は、ハチの体温が上がらない、たとえば早朝など時間を考えて、しかも静かに腫れ物にさわるかのように行動する。
昆虫類は日光を浴びて、体温が上昇しないと行動が鈍いからその時間を狙うのである。どうしてもそのような時間帯でない時にそこを通る場合は、やぶこぎなどをしてでも、離れた別ル-トを採る。
ある年の9月上旬、山道を歩いていた小学校の四年生ら十四名が、スズメバチに「襲われる」という事件があった。「襲われる」と書きたくないのだがマスコミも多くの人もこのように表現する。「襲われた」とすると、みな被害者となるのである。そして、そこには蜂に対する「加害者としての人」という視点はない。このような「視点抜け」のバランスに欠けた論理が世を挙げてまかり通っていることに、少なからず憤りを感じている。
蜂に刺された小学校の児童の中に「蜂が怒って刺した」のだとする者はきっといたであろう。刺されていない児童の中にも、もちろんいたと思われる。
こういうふうな「蜂を怒らせた」加害者としての認識は、蜂の立場を理解しなければ絶対に出てこないはずのものである。
つまり被害者であるのに、相手に主観的な見方ができるのは、多様性に満ちた自然を丸ごと受け止めているからであり、純粋に子供であるということを意味している。
それは蜂の世界のあり方を、蜂の論理を認めていることでもある。「蜂が怒って、侵入者を刺した」とする結論は、蜂の論理からは当然であり、偏見のない感じ方からしても当然のことであろう。
私たちが登山道沿いのスズメバチの巣に出くわした時に抱く「厄介だがどうしようもない」という思いは、基本的には、この子供たちの感じ方と同質であると言える。
ニュ-ス報道でその晩に、テレビ画面に映し出されていたものは、半ば壊された巣であり、殺虫剤を噴霧され断末魔にあえぎながら、うごめいている無数のスズメバチであった。無残な殺戮現場や戦場を見ているような気がした。子供たちの目にはどのように映っていたのだろう。
小学生側にスズメバチの怒りを誘発させる最初の行動があったのである。「スズメバチの怒り」と書いたが、事実は怒りでなく、「巣」を守るための「防衛行動」なのである。「自己防衛」の場合、刑法ですら罪は減じられる。
子供たちが、「人を襲うことは悪であり襲わなければ善」という二者択一的な基準で見ていなければいいなあ、とひそかに願わずにはいられなかった。
それにしても、社会の大人(行政や教育委員会、父母たち)にとっては、いったん攻撃されたら、どんな理由があれ、相手は敵であるらしい。
そして、敵ならば抹殺するか、敵の勢力範囲外に逃げ去るか、どちらかを選ぶようだ。今回は大人がハチを敵として、抹殺するほうを採った。
子供たちから「なぜ殺してしまったの」と問われたら、自分の側に主観的な「人が襲われることは危険だ。それを避けるためだ。」と答えるつもりだろうか。
ここに私たち大人の子供たちに対する課題があるような気がするのである。(この稿は続く。)
☆ スズメバチは厄介者か…(その1) ☆
山登りをする者にとっても、スズメバチは厄介な存在になることがある。
昨年、岩木山の百沢登山道、姥石にスズメバチが大きな巣を作った。そのことを岩木山を担当している弘前市岩木総合支所の担当課と岩木山日赤パトロール隊に連絡したら、早速、専門の「業者」に依頼して、「巣」を撤去した。「撤去」とはいえ、その実態はスズメバチの皆殺しである。
これから寒くなり、スズメバチたちの活動は鈍くなり、2週間もすれば「活動」を収束させるのであったし、その間「登山者」の方が、スズメバチとの「対応」に注意すれば事故もなく済むことなので、私は複雑な気持ちだった。
スズメバチは昆虫とその幼虫や樹液を好んで食べる。時にはミツバチの巣を襲って幼虫や蜜を奪うこともある。
怒らせると「人」や「家畜」、さらに「獣」さえも攻撃するという。毎年のようにスズメバチに刺されたという「事件」が報道されているのは、「人」がスズメバチを怒らせることをやめないからであろう。
私は登山道の近くで、スズメバチが巣作りをしている時や気の荒くなる「秋の初めから中秋にかけての時期」を避けて、そこを通らない。もし、どうしても通らなければいけない時は、ハチの体温が上がらない、たとえば早朝など時間を考えて、しかも静かに腫れ物にさわるかのように行動する。
昆虫類は日光を浴びて、体温が上昇しないと行動が鈍いからその時間を狙うのである。どうしてもそのような時間帯でない時にそこを通る場合は、やぶこぎなどをしてでも、離れた別ル-トを採る。
ある年の9月上旬、山道を歩いていた小学校の四年生ら十四名が、スズメバチに「襲われる」という事件があった。「襲われる」と書きたくないのだがマスコミも多くの人もこのように表現する。「襲われた」とすると、みな被害者となるのである。そして、そこには蜂に対する「加害者としての人」という視点はない。このような「視点抜け」のバランスに欠けた論理が世を挙げてまかり通っていることに、少なからず憤りを感じている。
蜂に刺された小学校の児童の中に「蜂が怒って刺した」のだとする者はきっといたであろう。刺されていない児童の中にも、もちろんいたと思われる。
こういうふうな「蜂を怒らせた」加害者としての認識は、蜂の立場を理解しなければ絶対に出てこないはずのものである。
つまり被害者であるのに、相手に主観的な見方ができるのは、多様性に満ちた自然を丸ごと受け止めているからであり、純粋に子供であるということを意味している。
それは蜂の世界のあり方を、蜂の論理を認めていることでもある。「蜂が怒って、侵入者を刺した」とする結論は、蜂の論理からは当然であり、偏見のない感じ方からしても当然のことであろう。
私たちが登山道沿いのスズメバチの巣に出くわした時に抱く「厄介だがどうしようもない」という思いは、基本的には、この子供たちの感じ方と同質であると言える。
ニュ-ス報道でその晩に、テレビ画面に映し出されていたものは、半ば壊された巣であり、殺虫剤を噴霧され断末魔にあえぎながら、うごめいている無数のスズメバチであった。無残な殺戮現場や戦場を見ているような気がした。子供たちの目にはどのように映っていたのだろう。
小学生側にスズメバチの怒りを誘発させる最初の行動があったのである。「スズメバチの怒り」と書いたが、事実は怒りでなく、「巣」を守るための「防衛行動」なのである。「自己防衛」の場合、刑法ですら罪は減じられる。
子供たちが、「人を襲うことは悪であり襲わなければ善」という二者択一的な基準で見ていなければいいなあ、とひそかに願わずにはいられなかった。
それにしても、社会の大人(行政や教育委員会、父母たち)にとっては、いったん攻撃されたら、どんな理由があれ、相手は敵であるらしい。
そして、敵ならば抹殺するか、敵の勢力範囲外に逃げ去るか、どちらかを選ぶようだ。今回は大人がハチを敵として、抹殺するほうを採った。
子供たちから「なぜ殺してしまったの」と問われたら、自分の側に主観的な「人が襲われることは危険だ。それを避けるためだ。」と答えるつもりだろうか。
ここに私たち大人の子供たちに対する課題があるような気がするのである。(この稿は続く。)