岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

虫は偉大だ。だが、「殺虫剤」のテレビコマーシャルは…

2007-09-29 06:25:24 | Weblog
(今日の写真はクサボタンだ。キンポウゲ科センニンソウ属の多年草で、葉がボタンの照り葉に似ているのでこの名前がある。花の後には属名が示すように「仙人」のあごひげのような毛(種についている)が沢山でる。この写真を「さくら野百貨店・NHK弘前文化センターフェスティバル」に展示してある。秋の草原を飾る花の1種である。草原ならばどこでも見られる花なのだが、岩木山では山麓からどんどんと「草原」が消えていっているので、なかなかお目にかからないものになっている。)

      ☆ 虫は偉大だ。だが、「殺虫剤」のテレビコマーシャルは… ☆ 

 地球上には現在、150万種を越える生きものがいるそうだ。その75%以上が「虫」だそうである。
 そして、地球上のあらゆるところに、「虫」のいずれかが生活している。これだけ各地域に生活する場所を見つけている生きものは、「虫」以外では「人」だけだそうだ。だから「人」と「虫」がぶつかる確率は高いのだと言う。
 その所為(せい)だろうか。テレビでは「ゴキブリ」「カ」「ノミ」「アリ」「ハエ」「ダニ」などを「殺戮」し、「駆逐」するための「殺虫剤」のコマーシャルが盛んである。しかも、、しつこいほど多様で、手を代え品を変えて「殺戮」の対象となる虫を徹底して「悪者」に仕立てていくあの図式は異常である。
 さらに、その画面は原色のイラストや動画で、視聴する者たちの気を引くように、目に焼き付くように造られている。
 しかし、これらは、すべてデフォルメされていて、大げさであり、「真実の姿」ではない。「偽物」や「フィクション」に、真実らしい「ナレーション」で迫るのである。すべてが異常だ。その上、回数がまた多いのである。
 私は「またやっているなあ」と見過ごしているが、「子供」たちの目には、直裁的にそれらが飛び込んで行っているわけである。
 このようなコマーシャルを見て育つ子供たちは、知らないうちに「悪者」は殺されるのが当たり前だ、と思い込んでしまうのではないだろうか。そこには、殺戮の対象になっている「虫」を命ある生きものであり、生命を持つ「人」と同じであるというとらえ方は存在しない。あるのは、ただ単に、無味乾燥な二者択一の図式だけである。
 聞くところによると、鳩山法務大臣は「昆虫少年」だったそうで、今でも蝶の採集に出歩いているのだそうだ。
 先日、この鳩山大臣が「法務大臣が最終決定をしなくても死刑の執行は事務手続きに則ってすみやかにすべきだ」と死刑囚やその家族、執行に関わる人たちの心を逆なでするようなことを言ったのである。
 「昆虫採集」では…
 採集した蝶は三角形の袋に入れられて、虫ピンで背中を刺されて「標本」にされる。…と書くと、そこには痛みも苦痛もない。
 ところが、これは、「人を捕らえて、袋詰めにして、その上磔(はりつけ)にして、槍で刺し殺すという図式」と重ならないだろうか。北朝鮮の拉致よりも惨いことであろう。
 鳩山大臣はこのようなことを、つまり、「虫」のことを「人」に置き換えて考えることがないままで、これまで人生を過ごしてきたのではないのだろうかと思ったりもした。
 殺虫剤のコマーシャルにも「虫の持つ生命」を「人の生命」に置き換えてとらえる心がまったくない。これは限りなく恐ろしいことだ。

 「虫」は「人」という生きものが、この地球上に誕生する遙か昔、まさに気が遠くなるくらい前にこの地球上に現れた「生命」なのである。同じ生物としては、私たちの大、大、大、大、大先輩にあたる「生命」体なのである。私はその意味からも、「虫」を、ひそかに尊敬している。

 人は道具を発明して、その利用によって発展した。ところが「虫」はなんの道具も使わないで、生まれつきの能力にしたがって成功した。そして、自分のほうから「自然の環境にみあう能力」をつけてきたのだ。だから、文明に頼り放しで、生物体として自己「進化」を忘れてしまい、取り巻く「環境」を変えようとする「人」としては、ますます尊敬してしまうのである。
 その「虫」のずっと後を追っかけて登場した「人」が道具(文明と科学)に頼り、生活の場所を広げてきた。当然、「虫」の生活とぶつかるのである。
 「白アリ」が家の土台を食い荒らすのは「人」が木を使って家を建てるずっと前から、彼らは「木」を食べてきたのであり、その生活を今も続けているに過ぎないのである。それがイヤであるならば「人」が「木」に代わる材質で家を建てればいいのである。後から、ノコノコと出現した新参者「人」が、どのような権利を持って、「白アリ」の既得権を奪えるというのだ。
 この「衝突・ぶつかりあい」が、「いい虫だ」、「悪い虫だ」と判定されてきた所以である。
 「虫たち」にとっては、特に農薬が多量に散布されるようになった近・現代には、受難の時が続いている。だが、それでも「虫たち」はめげない。たいがいの「虫たち」は、自然のやり方で自分の立場を主張する。
 ところが、「いい虫」、「悪い虫」という決め方は、実に「人」の勝手な判断から生じている。人間にとって都合がよければ「ミツバチ」や「マメコバチ」のような虫は「良虫」であり、都合がわるければ「悪虫・害虫」となる。
 「アリマキ」は「テントウムシ」の餌になり、木の葉を食べる蛾や蝶の幼虫は「ハチ」類の餌になっている。「害虫」がいないと「益虫」は死んでしまうのだ。「害虫」といえども、生命のバランスの中ではその役割を確実に担っているのだ。

 『害虫は益虫の餌である。稲を食い荒すウンカを「蜘蛛(クモ)」が食べる。1アール当たり「蜘蛛」は6~7万匹いて、1日に20万匹の虫を食べる。』というデ-タもあるくらいだ。肝に銘ずるべきである。