岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「動物学ひろば」開催案内/ 山のゴミ(その2)

2007-09-19 06:13:03 | Weblog
(写真は「動物学ひろば」の企画内容の案内パンフレットです。クリックするといくらか大きくなります。)
           ☆「動物学ひろば」開催案内☆

     ◆本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演◆

 詳細な案内は管理人によって、このホームページで公開されるはずですが、19日今朝現在、まだ公開されていないようですから、このブログで企画内容を表示します。

 9月22日~23日、弘前大学で「動物学ひろば」が開かれます。22日の公開シンポジウムでは15時15分から、パネラーとして本会会長阿部東が「青森の昆虫たち」と題して講演します。
 その他、色々な企画があります。会員のみなさん、またこのホームページをご覧になっているみなさん、動物に対する関心を育てるのに、またとない機会だと思います。どうぞ参加して下さい。
 近々に正式な案内が管理人からあるものと思います。

             ☆ 山のゴミ(その2)☆
(承前)
 この「旅の恥は掻き捨て」云々は道徳心や自制心に欠ける者にとっては、自分たちの無責任な行動を正当化するための弁解や、野放図に責任から解除されるためには、うってつけの俚諺ではあるまいか。
 そして、これがまだ許されている土壌がこの国にはあることも事実である。その根は海外売春ツア-などとしっかりと結びついているとも言える。
 ましてや、この白神山地は衆目のまったくない、もの言わぬ植物と動物だけの世界である。欧米人は恥を重視するものとして日本人を捉えるといわれるが、その日本人もここでは、なにが恥であるのかすら忘れ果てるみたいだ。
 そこには利己心しか見えない。南八甲田の「登山道整備」を声高に叫ぶ者たちの心情も、この「利己心」に支配されている領域がないとは言えない。
 入山規制はこの利己心の規制にほかならないだろう。あるがままの自然を保守する形で入山者のあるがままのエゴを徹底して自制できない限り、規制はその内容と対象をますます細分化して厳しいものにならざるを得ないだろう。そうさせていけないのである。 

 とかく山や川では、「もの採り」ほどゴミを放置する傾向にあるように見える。
純粋に山を登る者の荷物は、時間の経過に従って軽くなる。それに伴いリュックのスペ-スも広くなる。食料や飲料が減っていくからだ。「もの採り」の人たちもそこまでは同じである。
 ところが、「もの採り」の人たちにはリュックのスペ-スの広さが重大なことになる。山菜採りの人は、リュックいっぱいの竹の子や茸などを採りたいと思う。すでにエゴのとりこである。さらにリュック内のスペ-スを確保し、竹の子などを詰め込むことに腐心する。かくして、おやつやつまみ類の包装物、残飯やカップ麺の容器、ジュ-スやビ-ルの空き缶はいうに及ばず、手袋、上着、時として雨具までが放置される。 
 町の中で出来ることだろうか、人目のない、つまり規制のない山の中だから出来ることだ。これでリュックや背負い籠は山菜類で満載される。たくさん採ったという多大な満足感は放置された多量のごみに支えられたものに過ぎない。      
 このまま、ゴミの放置が続くと、そのうちに、ごみの山から細々と山菜を採集するということになるかも知れない。

 岩木山の赤倉沢から左岸の尾根に入る道がある。これは修験者の道だ。ところが尾根の中腹で根曲がり竹が密生しているところまでは、途中鎖場ならず綱場などもある難所だが無理をすれば山菜採りの人でも行ける。しかし、その上部はかすかな鉈目を頼らねばいけないし、非常に急峻で綱を支えにしなければ登れない状態になる。
 以前、この道を降りて来て竹やぶに捕まり、沢に迷い込んだことがあった。沢から抜け出して道捜しをしたが、情けないことに、その道を教えてくれたのが何と「ゴミ」の山であった。
 そこまでの道、つまり修験者だけが通る道にはゴミがなかった。竹の子採りがやって来れる道筋にはゴミが累々である。これでは「ゴミは持ち帰ろう。」は空念仏だ。あまりにも歴然とした、自主規制のあるか、なしかの違いであった。
山菜採りは背の荷を少しでも軽くするために、採ったものを減らさないで自分の出したゴミを置いて来る。なんと素晴らしくも手前勝手な合理主義であろう。
 かれら合理主義者にゴミを置いていかないようにさせるには、「ゴミ」そののもがかれらにとって大切なものであればいいのである。

 昔はこれがうまくいっていた。ゴミとなる「もの」がすべて少なく、希少価値が大きかった。アルマイトの水筒は高価だった。弁当箱も、雨具も手袋も上着も高額だった。みんなみんな大事なものを持って山に来た。そして、大切に使った。だから、だれもそれらを「ゴミ」として山に残さなかったのである。
 ところが今の世の中は、金さえ出せばなんでも手に入る。なくしたものはそのままで、捜しもしないもの余りだ。消費万能のこの世である。
 消費万能主義は人から、質素・倹約の心のみならず、自制の心まで奪ってしまったのである。大量消費時代は、その陰で自然の「大量破壊」に与している。
(この稿続く。)

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