岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

写真展「私の岩木山」の案内/引き裂かれた原風景/登山とは…

2007-09-12 06:54:19 | Weblog
(写真は秋10月の岩木山、百沢スキー場上部から山頂を)

      ☆ 写真展「私の岩木山」の案内 ☆

  日時・場所:9月14~16日(10~17時)・NHK弘前ギャラリー
・写真搬入は会場に13日16時ちょうどです。それ以前では受付いたしません。
詳細は、0172-35-6819事務局三浦章男あて、本日、12日までに問い合わせて下さい。
  □■ 会員のみなさんへ □■
・お手すきの方は13日16時、写真展設営のお手伝いをお願いします。
・開催日に会場で来場者の受付・案内等に協力して下さい。係と幹事だけでは、混雑する時などは、とても対応が出来ません。

      ☆ 引き裂かれた原風景 ☆

 「スポーツ」は多くの文化の中の一分野である。「スキー」は多くのスポーツの中の、「屋外スポーツであり、冬季に行われるスポーツであり、自然を対象としているポーツであり、雪を対象にしているスポーツの一つ」である。
 つまり、「スキー」はスポーツの中でも「非常に限定されたスポーツ」と言える。ここまで限定された範囲内の一部としか思えない人たちの満足と関わる一部の企業の営利のために、あるがままの自然を奪い、永遠の自然を取り返しのつかない状態にしてしまうものが「スキー場」の設営と拡張だ。
 かつて、鰺ヶ沢スキー場は「上級者用のゲレンデを拡張して欲しいというニーズに応えるというのが拡張の本意」だと言った。しかし、その「ニーズなるもの」がどの程度の数で、どの程度の信憑性で、どの程度の強さをもったものなのかは全く明らかにされてはいなかった。
 だから「拡張せんがための口実」かと疑いたくもなった。その時点で、すでに10本以上のゲレンデがあるのだから、十分すぎるほど「拡張」してきたのである。
 そして、「拡張」の本当の意味(社会的に隠蔽されていた意味)は、冬季アジア競技大会で「モーグルスキー」の競技会場として使用するということが明かされたのだ。私は鰺ヶ沢スキー場の管理者や森林管理局、青森県、鰺ヶ沢町などからは、「拡張」の理由に「上級者のニーズ」以外を聞かされたことはなかった。ただ、鰺ヶ沢町は「軽薄」にも町の広報誌で「発表」するというヘマをしたが…。
 その当時「冬季アジア競技大会」は、当初の予算を遙かに超える8倍にふくらんで県民から「開催」に対する猛反発が起きていた。知事を主導に、鰺ヶ沢スキー場の拡張のことも「伏せた」のである。この「拡張工事」には青森県も相当な「カネ」を支払ったのではないかと、私は密かに思っている。
 この工事で、ブナが2000本以上伐られてしまった。森林は一部の人たちのものではない。重要な酸素の供給源である。水源を確保維持するものである。動物や植物が育つ生態系と位置づけられたものである。
 いわば、みんなの財産である。国有林でもある。みんなのものなのに、ほんの一握りの人たちの満足のためにのみ伐採されてなくなってしまったのだ。
 「 何々のニーズに応える」ことがすべて許されるとしたら、それは「今を生きている人たちの満足だけのもの」である。その満足が将来とどのように結びついていくのかをしっかり見抜いていくところが行政であるはずなのに、知事も県自然保護課も森林管理局も「未来の自然を放棄し」て、現実との妥協に走ってしまった。
 津軽の人にとっては、これぞ引き裂かれる原風景だ。私たちの「お居往来山」は残れるだろうか。
 断っておくが、私はスキーというスポーツを否定しているのではない。私はスキーが好きである。冬山登山には欠かせないものになっているほどだ。時々、スキー愛好者からまるで仇のような扱いを受けるが、まったくもって心外である。

 ☆登山とは「都市の生活感覚を削ぎ落とした自己を山という自然に置くこと」だ。☆

 何物にも粉飾されていないそのままな自然を、そのままで見ることが大事だろう。
その見方を通して人間社会を見詰めると、人間社会がいかに「論理性に欠け、無責任で、勝手で、ご都合主義で、優柔不断で、曖昧で、利己的な徒党集団で、自己確立や確認のない世界で、持たれ合いの軟弱集団で狡猾」であるということが解るはずである。
植物や動物はまず自然の掟をそのまま守るのである。決して、人間社会の奇妙な「独自性」を持ったり行使することはない。自分のために改竄(かいざん)することもない。
 人間以外の植物や動物は、他を変えないで「自分たち」が長い年月をかけて変わる。これを「進化」という。人は「進化」を止めて、「文明」に頼るようになってしまった。人から「人間」なったのである。
 それは「進化」ということが長い長い時間と苦痛や苦悩を伴うものだからである。人は「楽」を望む生き物だ。
 人間以外の植物や動物は、「掟を守ることが他を支え、自己を支える。」ということを知っている。
 これを人間は「生態系」と言うが、私はこれを「自然の民主主義」と呼びたいと思っているが、どうだろう。だが、呼んだり、説明が出来たり、意味を知るだけでは本質を体験することにはならないということも、背中合わせで理解する必要は勿論ある。
 私たちを自然の生態系の中に置くこと、これが生物・人としての基本である。未来を志向する者ほど、この行動が要求される。
 以上のことを「登山」に当てはめてみると…、登山とは「都市の生活感覚を山に持ち込むのではなく、都市の生活感覚をすべて削ぎ落とした生身の自己を、山という自然に置くことである。」と言えるだろう。