岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

私たちは死に向かって生きている

2007-09-27 07:33:57 | Weblog
(今日の写真は「さくら野・弘前店」で開催されているNHK弘前文化センターフェステバルに出展されているエゾフウロである。最近、岩木山では殆ど見られなくなっしまった。)

        ☆ 私たちは死に向かって生きている ☆

 先日も、季節の移ろいは早いというようなことを書いた。これは時の進み方が早いということだろう。私はこの世に生を受けて以来66年、毎日がまさに「あっ」という間に終わって、過ぎてきたように思う。
 年をとると、一日の過ぎ去る時間が長くなるのではないかと少し期待をしていたが、一向に同じなのである。
 「楽しい一日はすぐに終わる」と言われるけれども、私にとっては苦しいことや辛いことを含めた日々の方が多かったのだが、それでも「一日がすぐに終わってしまう」ような日々を過ごしてきた。まるで、毎日が小学生の時の夏休みように「すぐに終わってしまう」のである。
 今は、朝4時に起きて、21時には就寝する日々だが、その間も「飽きる」ことがない。「したいことがない」とか「今日は何をしようか」などということがない。いつもすることが「目の前にある」状態なのだ。そして、それをし終えると、今日が終わっている。
 このようなことに「協力」してくれるのが、この「ブログ」の変な「※記事編集中に別の画面(他のメニュー/プレビュー画面からのテキスト・画像リンクなど)にジャンプすると記事の内容が失われます。ご注意ください。」という機能である。
 実は6時前に1900字程度でこの、「ブログ」を書き終えたのである。
ところが、例によって「1クリック」で全文消滅である。今書いているのは「空しさ」に耐えながらの「2度目」のものだ。
 これで、今日の時間進行は2時間早くなるというわけである。今日もすぐ終わるに違いない。本当に「アリガタイ」機能である。これで6回目の失敗だ。昨日までは、この失敗を恐れて「コピー」を取りながら書き進めていたのであるが、興がのってしまい、終わったという気持ちで…ポンで一瞬にして「パー」になってしまった。

 私たちは一日の終わり方が早かろうが遅かろうが、日々ある「ゴール」に向かって生きている。その「ゴール」とは「死」である。「死」とは前述の「…ポンで一瞬にして、パー」と同じかも知れない。「電子」の世界はまさに一瞬、何も残さない。これだと電子、すなわち「電死」だ。
 この「死というゴール」だけは身分や貧富の差に関係なく同じである。これは、この不平等きわまりない世界で唯一、平等な「神の業(わざ)」であるだろう。しかし、「死」の形や体様には違いがあり不平等かも知れない。
 「死んだ者」がそれに気づいて文句を言っても後の祭りだ。「死人に口なし」であり「死後の世界は誰も知らない」からである。まさに、「神のみぞ知る」という不平等で理不尽なことなのだ。
 「死」だって「不平等」であるかも知れない。そうなれば生きている中での「不平等や不公平、それに不公正」は当たり前に存在する。
 政治や首相や内閣は、この国民の持つ「不平等や不公平、それに不公正」を是正していくことを仕事とするものだ。代議士先生の仕事は「不平等や不公平、それに不公正」がないように国会で法整備をして立法することだろう。今度の新首相や閣僚からは何一つ、この「立法」に関わること、つまり、どうするのかという具体的な「自分たちの仕事」については語られていない。

 …わき道に逸れすぎたかも知れないので本題に入ろう。
 人は「死」と向きあいながら、「死」に向かって毎日を生きていくものなのだ。毎日がすぐ終わってしまう私などは、その「ゴール」に向かってひたすら「走り続けて」いるのに違いない。もっと、ゆっくり行ってもいいのではないかと思う時もあるのだが、抑えられない。病気だろう。
 さて、「死のない世界」がいいのだろうか、それとも「死のある世界」がいいのだろうか。何をバカなことを言っているだ、「死のない世界」なぞあり得るわけがないだろうとお叱りを受けるだろうが、時には「常識」から外れてものを考える必要もあるものだ。
 おそらく、大概の人は、「死のない世界がいい」と言うに決まっているはずだ。
古来、人々は「死のない世界」に憧れ、不老不死の薬を、不死の身体を求めてきた。いにしえの権力者は、今も変わりがないだろうが、特にこの要求が強かったように思う。そして、そういう要求が、現在の医学や化学の発展につながっていることも、否めない事実でもある。
 しかし、人間はまだ「死のない世界」を経験したことはない。だから、その世界がどのようなものであるかと問われた場合、仮想のかたちで答えることになるわけである。
 さあ想像してみよう。「死のない世界」だから、それは「誰も死なない世界」だ。
 自殺も殺人もない。悲しい病死も交通事故死もない。もちろん、殺し合いという戦争もない平和で、幸福な世の中である。こうなるとブッシュ大統領もその存在価値がなくなり、選ばれることもないだろう。
 死なないから人口が増えて、食糧危機にならないかという疑問には、死なない身体だから食べる必要もないので、その心配は全くないと答えよう。食糧の世界戦略や石油利権争いにおける大国の利己的なわがままも、この世から影を潜めてしまうのである。こうなれば、もう完全なユ-トピアだ。
 だけど、ここで少し意地悪な「死なないんだから人が余ってしまわないか」とか「特に国土の狭い島国、日本では人が海に落ちてしまうのではないか」と質問をしてみる。
 そういう場合のことを考えて、年の順に下から積み重ねて「置かれる」ようにするのだそうだ。なるほど人間は、そこではみずからの意志では動くことの出来ない石造りの置物のように扱われることになるらしい。
 こうなるとまた、その置き場所をネタに面積的に「大国」である、アメリカなどが世界を牛耳るようになるだろう。そして、小国「日本」はアメリカの「ポチ」を進んで引き受けることになるだろう。「死のない世界」になってもこの屈辱的な従属関係はなくならないのだろうか。(この稿は明日に続く。)

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