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岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山「桜林」公園での光景 / 駐車場が近くにあるのに…

2010-05-08 05:21:47 | Weblog
 (今日の写真は、「桜林」公園の入り口に駐車してある自動車だ。5月4日、岩木山から降りてきて、岩木山神社前バス停に向かっていた時に撮ったものだ。
 その日は祝日で「桜林」公園には大勢の家族連れがいて、賑わっていた。だが、「ソメイヨシノ」の蕾は硬く、「花見」というにはいささか早すぎる観があった。
 大勢の家族連れなど、とにかく「大勢の人」が集まる場所、またはその周辺は人だけでなく、その人たちがそこまでやって来るための手段としての「自動車」が溢れる。
 その日の「桜林」公園は、まさにそうだった。公園の入り口手前から、緩いカーブが続く蔵助沢沿いの道路左側、そして「左折」して上に行く辺りまで、駐車された自動車が並んでいた。それは、半円で公園を取り囲む「車列」に等しかった。
 今日の写真の自動車もその中の1台である。だが、この自動車の駐車の向きとその場所が「他の自動車」とはまったく違うのである。
 先ず他の自動車は、道路左側に、山側をヘッドにして駐車しているのだが、これは「左側」に駐車はしているが山側に側面を向けているのだ。だから、ヘッドが道に突き出す形ではみ出す。それを避けたのだろう。そのために、バックのバンパーが土留めに接触するまでに近づいている。ここが個人の駐車場だったり、「車庫」だったらこれでもいいかも知れない。
 だが、そこは道を跨いで「神社から続く登山道」であり、「桜林」公園の入り口、つまり、「桜林」公園の玄関なのである。
 この自動車は他人の家の玄関の直近に、ぴったりと「後部」を向けて、その上がり框(かまち)を塞ぐようにして駐車しているのである。)

◇◇ 岩木山「桜林」公園での光景 ◇◇

 …この駐車の仕方は、そこを通る登山者や散策する人の目にはどのように見えるのだろう。
それは「入り口・玄関を塞いでいる」邪魔なものであるということだ。この自動車を運転している人には、全く「登山者や散策する人」のことが頭にない。そこが「玄関口」であり、登山道であるということに気がついていない。だから、自分の「自動車」が「登山者や散策する人の玄関口を塞ぐ」ということが気にならない。
 何事にも「無頓着」で気持ちが大きく、広い人なのだろうか。それとも、そこが「桜林公園の玄関」であるということを知っていって駐車したという確信犯なのだろうか。
 私はこう想像する。この人が「桜林」公園やって来た時には、すでに公園外周の道路左側には駐車スペースがなかった。そして、この箇所だけが「空いて」いた。他の自動車の運転者は、そこが「桜林公園の玄関」であることを知っていて、それを塞ぐような「駐車」をしなかったのだ。だが、彼か彼女かは知らないが、その運転者は、もっけの幸いと、その「空き地」が「桜林公園の玄関」であり、ポーチであることを知りながら、そこに「駐車」したのである。「玄関」というのは人が通れる幅であることが普通で、狭いものだ。
 この自動車の大きさからいって「玄関」に直近で「横付け」することは出来ない。だから、後部から縦に入るような形で「駐車」をしたのである。
 そして、堂々と、「登山者や散策する人」の通行を妨げたのである。何ということはない。「自分だけよければそれでいい。他の人のことなんか知るか」という確信犯なのだ。

◇◇ 駐車場が近くにあるのに…このままだと「桜林公園」は壊れてしまう ◇◇

 「桜林公園」の左側上部には百沢スキー場の駐車場もある。その下部には「桜林公園駐車場」というものもある。この2ヶ所の駐車場の収容能力は、数百台だと思う。
 だが、にやって来る人たちの99%以上は、そこに駐車しない。みんな「桜林公園」外周の道路に駐車する。左側からあぶれた車は反対車線側にも駐車をする。そして、道幅をお互いが「狭くしあって」交通渋滞を招いているのだ。
 このような駐車の仕方は、何も、「桜林公園」に限ったことではない。お盆の時の禅林街や新寺町でもそうである。こっちの方は「今日の写真」の駐車よりももっと酷い。これだと、まだ通り抜ける空間があるが、「お盆の時の禅林街や新寺町」に見られる駐車は、歩道を占拠してしまうのである。きっと、「今日の写真」の自動車の持ち主も、その1人であるだろう。
 歩行者が「歩けない」で車道にはみ出すという「主客転倒」というか「摂理の逆転」というか、そのような状態になるのだ。
 何故そのような「駐車」をして平気でいられるのか。そして、そのことを警察も行政もこれまた「平気」で看過している。
 「駐車場が近くにないものだから」と言うだろう。だったら、歩いてくればいいだろう。私は毎年お盆の時は父と母の墓を訪れる。禅林街と新寺町だ。同じ日に二ヶ所を歩いて回る。少なくとも旧市内在住者は自動車を使わないで「歩いて」墓参りに出かけたらいかがだろう。そうしたら、「歩道を占拠して歩行者を車道に追いやる」というような非道な所業はしなくて済むというものだ。
 だが、「桜林公園」には近くに立派な駐車場がある。そこを使えば今日の写真のような駐車をせずに済むのだし、左右駐車で「渋滞」を引き起こさなくてもいいのである。
 駐車場から「桜林公園」までは100mから200mしか離れていないのだ。その短い距離を歩くことさえ億劫で大儀なのだろうか。
 自動車は便利である。短い時間で長距離の移動と多量の物資の運搬を可能にした。だが、自動車に頼ることはこの「範囲」に留めよう。
 短い距離は歩くべし、少量で軽いものは自分で持ち運ぶべしだ。家族で来たならば、駐車場から手分けして持ち物を運ぶ、これも家族をより意識させる行動になるだろう。何でも自動車頼みの生活をしていると、それは人間の生物的な「退化」を招くことにつながるということを今一度思い直してみることも必要だ。

 道の脇に「駐車」して、そのまま、そこから「桜林公園」に入る人が大半だ。蔵助沢よりは低めだが登りの「法面」になっている。そこを歩くものだから、草が剥げて崩れている。雨が降り洗掘されて、崩れていく。
 反対側の駐車場方面は下りの急斜面の法面だ。そこには、ちゃんとした「通路」があるのだが、そこを通らずに草付きの「法面」を降りる。ここも同様に「剥げて崩れて」いる。
 このような人たちは「桜林公園」に癒されていながら、その「桜林公園」を壊しているのである。

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