岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

即物的名称のミゾカクシやアゼムシロ / 白神山地ぶな伐採問題に関するメールの紹介(その3)

2009-09-07 05:01:35 | Weblog
 (今日の写真は、キキョウ科ミゾカクシ属の多年草「ミゾカクシ(溝隠し)」だ。別名を「アゼムシロ(畦蓆)」という。
 水田のあるところならばどこでも、北海道から九州、沖縄まで全国的にお目にかかれる花である。だが、最近の人には馴染みのない花ではなかろうか。
 昨日の写真「サワギキョウ」の仲間だ。草丈が10cmほどにしかならないし、淡い紫色を帯びた花も1cmほどで非常に小さいので目立たない。
 茎は地面を這い、葉は披針形で互生している。園芸品種の「ロベリア」に似ていて、花冠は深く5つに裂けている。
 茎は「中空」で傷がつくと「白い乳のような液」を分泌する。これには、有毒物質「ロベリン」が含まれている。食べると血圧効果、脈拍降下、痙攣、心臓障害などを起こすので注意が必要だ。
 名前の通り水田周辺の「溝が隠れて見えなくなる」ほどに、または、「畦に蓆(むしろ)」を敷いたように群落を作る。花期は意外と長く、夏から秋の「6月頃から10月まで」である。
 「ミゾカクシ」属の植物は、日本には、サワギキョウ、ミゾカクシ、タチミゾカクシ、マルバハタケムシロ、オオハマギキョウの5種がある。このうち、もっとも普通に見られるが「ミゾカクシ」である。)

       ◇◇「ミゾカクシ」「アゼムシロ」とは何と即物的な名称であることよ◇◇

 「ミゾカクシ」のことを「水田の雑草」と呼称した図鑑もあった。水田を中心に据えて「稲」や「米」を大事にすると、それ以外の草本はすべて、「雑草」となる。だが、これは、人間の都合からの「呼称」であろう。
 「稲」も元来は「雑草」であったのだし、「野菜」も元々は「野の菜」つまり、「野の雑草」であったのだ。私は、「雑草」という呼び方に「人の自己中心主義」と「ご都合主義」を見ている。
 それにしても、「ミゾカクシ」は強靱な野草である。とにかく夏から秋まで、6月頃から10月までという5ヶ月間、花を咲かせて「蔓延(はびこ)る」。しかも、蓆のように敷き詰めるように増えていく。これだと「水田の雑草」として「嫌われて」もやむを得ないかも知れない。ところが、近寄って見ると、淡い紫色を帯びた小さな花は、とても可愛らしい。だが、普通にはこの花を愛でる人は先ずいない。
 それなのに、最近、この仲間の園芸種が多数、学名の「ロベリア」として販売されていて、これを買い求める人が増えているのだそうだ。
 自然に野に咲いている学名では「ロベリア」と呼ばれる「ミゾカクシ」には見向きもしない人たちが「花屋」に、「ミゾカクシ」である「ロベリア」の鉢植えが並ぶやいなや「まあ、可愛い」と言って「愛でる」のだ。因みに、学名の「ロベリア」は16世紀のイギリスの植物学者「ロベル」の名前によっている。
 この態度は一体何なんだ。「外国名」で花屋に並ぶものが上品で、上等でということか。何という「ご都合主義」ではないか。その前に「野生の本物」の「ロベリア」を見てみろと言いたいくらいだ。在来種は下等ではない。
 
 それにして、「名前の由来」は「即物的」ではないか。
「ミゾカクシ」は「田んぼの畔道などで溝が隠れるほど繁殖する」ところから名付けられた。別名の「畦筵(アゼムシロ)」は「田んぼの畦に蓆を敷き詰めるように生える」ことによる。和名も別名も、生育場所と繁殖力の旺盛なことを、「そのまま」表しているのである。
 溝に生えると「ミゾカクシ」だ。畦にも生えるから「アゼムシロ」だ。昔の人は別な名前もちゃんと用意してくれていた。見たとおり、見えるとおりだ。一番素朴な「命名」は即物的であり、感性や情念は介在しない。実にいい。
 そして、彼女たちは水の張られた田に苗がそよぎ、畦にも湿潤さが豊富になると、一気に活気づくのだ。彼女たちは「畦の妖精」か、薄いピンク色に染まった白い羽を広げた小さな「朱鷺」が飛び立つ姿にも似ている。自然はまさに、「造化の妙」だ。それに比べると2つの名前はやはり、「即物」に過ぎるだろう。
 まだ、咲いている。「花屋」で「ロベリア」を買う前に、一度田んぼの畦を歩いてみてはいかがだろう。「鉢植え」でなく、地上を這い群生している優しいピンク色の花が一面に咲いている様子はいいものだ。
 因みに「変わっている花の形」から、中国では、花が下方だけに広がるところから「半辺蓮」と称し、「生薬名」も「ハンペンレン(半辺蓮)」である。こちらも、「即物的」だが、「蓮(はす)」の花に喩えたところは、いくらか、感性的であろうか。

  ◇◇ 白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」での巨木ぶな伐採問題に関するメールの紹介(4) ◇◇

                     ◎◎ 私からの返信 ◎◎
 Mさんへ
 …今、本日のブログを書き終えたところです。あなたの全文をよく読みました。驚きました。
 「お節介」「余計なお世話」「何と失礼なことを…」「言葉によるストーカー」「人の心を踏み躙っている」「自然の仕組みを深く考えているのかな」などと、…これらはあなたの書いたものを読みながら、次々と思い浮かんだことです。
 この人が「本気であるとしたら」大変な人に目をつけられたことになりますね。非常に偏った上に狭くて、しかも自分にとって都合のいい価値だけを根拠に「主張」しているように思われます。
 私だったら、一通り言わせたら、最後に「もっと自然に抱かれる気持ちを大事にして下さい。自然を深く勉強して下さい。多様な自然がなくなってしまったら、あなた方の仕事もなくなってしまいますよ。」と言いますね。

 腹が立ちますね。もしも、この人が「本気」で言っているのでしたら、こちらが本気で相手しても何の得もないでしょう。乾燥しきった不毛の砂漠に一滴の水を垂らすようなものです。本気になって「論じあっても、議論にならない」のです。議論とは共通する土台がないと構築出来ないからです。
「迂回路を作るという手もあったのでは?と言ったら、言下に否定され、そのためにまた若いブナを切ることになるのだ」という言い分などは、今日の私のブログをよく読んでもらえると、明らかに「生物の多様性」や「多様な生態系」について「よく知らないままの都合のいい主張」ということになり得るものでしょう。

 元気を出して下さい。どんな問題でも「素人の目線」は大事です。だから、ずぶの素人である私も「自然保護」に関わっていきたいと考えているのです。
 それに、「自然保護」は平和主義、平和主義は博愛です。人に対する思いやりや優しさのないものは「自然」を愛することは出来ませんし、優しく接することは出来ないでしょう。この「人」には、この言動からすると「誠意」や「優しさ」に欠けているように見受けられますね。もしかすると「本音」は違うかも知れません。
 「生物の多様性」や「多様な生態系」をそのままの形で残し保護することに「腐心」出来ない人は「自然保護」などと言う言葉を口にするべきではありません。
(メール内容の一部は表現を変えているところもあります)

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