☆「秋の七草」その運命(その1)☆
昨日の毎日新聞、電子版「余録」に「フジバカマの運命」として、『…▲各地に記録を残した残暑も一段落し、気がつけば草木はすでに秋の気配が濃い。東京都葛飾区の水元さくら堤自然保護区域では先週あたりからフジバカマが房状に密集した薄い紅紫色の花を見せている。東京ではここだけという、今ではめったに見られなくなった自生のフジバカマだ▲河川敷などのフジバカマが開発で姿を消し、絶滅危惧(きぐ)種に指定されてからは各地で保護活動も進められている。だが環境省の生物多様性情報システムによると現在自生が確認されているのは宮城県から熊本県までの22都府県で計約6000個体という。100年後の絶滅確率は99%だ▲秋の七草では、キキョウも絶滅危惧種とされている。やがては「秋の五草」になるというのも笑えない冗談だ。人知れぬ悲しみを抱き、野辺をさまよう姫の哀切が思い起こされるフジバカマの運命である。』とあった。
私たち北国に住むものには見ることが出来ないフジバカマだが、「秋の七草」の一つとして、または和歌や俳句、古典(物語)をとおして、日本人には馴染みの深い花である。
オミナエシ科オミナエシ属のオミナエシも数が減って岩木山では殆ど見られなくなっている。「余録」では「秋の五草」といっているが自生を中心に考えると、ハギ、ススキ、クズ、それにナデシコの「秋の四草」となってしまう日は近いかも知れない。ナデシコだって安心は出来ない。秋の野原からどんどん減少していることは否めないからだ。
藤袴はもともと、大陸から渡ってきたようで、中国では「香草」と呼ばれている。開花時に乾燥させたものを「蘭草」といい、糖尿病に効くといわれている。
フジバカマはキク科フジバカマ属の多年草で、秋の七草として有名だが、これは宮城を除く東北地方(もちろん岩木山も含む)では見られないようだ。
そこで、「秋の七草」という時には、これに替えて同科同属のヒヨドリバナ、サワヒヨドリ、ヨツバヒヨドリを代用しているように思える。
ヒヨドリバナやサワヒヨドリ、それにヨツバヒヨドリは、八月から九月末まで淡い紫色の小さな花をフジバカマと同じように、枝の先に集まるように咲かせる。
万葉集にはフジバカマを詠んだ歌は、山上憶良の秋の七種(ななくさ)(このようにも書く)の歌一首だけ登場する。万葉集巻八の中で山上憶良は次のように詠う。
#萩の花/尾花/葛花/なでしこの花/をみなへし/また藤袴/朝顔の花
時代が下がって平安の御代になると、古今和歌六帖には…
#秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふ蟋蟀のなく (作者不詳)
訳:
『秋風の吹く中で露にぬれながら蕾をほころびさせている藤袴の近くで、冬の備えに衣をつづりさせ(縫い繕え)というふうに蟋蟀が鳴いているよ。』 注:蟋蟀は現代のキリギリスのこと。
…というのがある。
俳句では…
・藤袴色と見えつも淡かりし (稲畑汀子)
『藤袴の花の色は、見えないわけではないが余りにも微かであるよ。それにしても何と淡い色具合なんだろう。徹底した観察・写生であり、時間をかけて見ている。』
・藤袴手折りたる香を身のほとり (加藤三七子)
『藤袴の一本を折りとったところ、そのほのかな香りが私の近くで漂ったのだ。動作を伴う嗅覚的な観察描写による俳句。』
香りがいいので、昔は箪笥に入れて着物に香りを移したそうだ。そのような微かな香りが奥ゆかしさや「ためらいがち」な心情を表現したのかも知れない。
山上憶良の「秋の七種」の歌に登場する「あさがほ」は、私たちが知っている現代のヒルガオ科アサガオ属の花ではない。それぞれヒルガオ、ムクゲ、キキョウとする説がある。次にこれらについて見てみよう。
昼顔(ヒルガオ)はヒルガオ科ヒルガオ属の多年草で日本の在来種である。西洋ヒルガオに比べると花付きがまばらであることが特徴だ。
アサガオに似た漏斗状の花を日中に咲かせるので、その朝顔と対比して命名されたものだ。若菜・若芽は食用。お浸し、混ぜご飯として食べる。また、全草を乾して煎じて飲用。利尿剤や膀胱炎、糖尿病に効果がある。
また、全草をそのまま摺って青汁は強壮剤、または糖尿病に効くそうだ。
和歌では…
#ひるがほは何処に見てもわかめきし衣とおぼえてあはれなりけり 与謝野晶子
訳:
『昼顔のその生気あふれる咲き方にはどこで見ても驚いてしまう。何という若々しさ。辺り一面がこの若々しい衣のように見えて心惹かれるばかりだ。』
俳句では…
・昼顔を摘まんとすれば萎れけり (富安風生)
『昼顔を一輪摘もうとしたが、すでに萎れかけていた。ああ、遅かったかなあ。対象の特性をしっかりと把握した句。』
・昼顔に猫捨てられて泣きにけり (村上鬼城)
『昼顔は生命力にあふれた花である。しかも群落をなす。猫が捨てられていた場所は別の生物の命漲る園である。作者はこのことをしっかりと理解しているのだろう。その上で捨て猫との対比で句を構成したと考えられる。哀しくも泣く子猫の運命は…観察が場面的な皮肉をうまく表現した秀句。』
注:和歌と俳句の訳・鑑賞コメントは私の勝手な解釈による。
昨日の毎日新聞、電子版「余録」に「フジバカマの運命」として、『…▲各地に記録を残した残暑も一段落し、気がつけば草木はすでに秋の気配が濃い。東京都葛飾区の水元さくら堤自然保護区域では先週あたりからフジバカマが房状に密集した薄い紅紫色の花を見せている。東京ではここだけという、今ではめったに見られなくなった自生のフジバカマだ▲河川敷などのフジバカマが開発で姿を消し、絶滅危惧(きぐ)種に指定されてからは各地で保護活動も進められている。だが環境省の生物多様性情報システムによると現在自生が確認されているのは宮城県から熊本県までの22都府県で計約6000個体という。100年後の絶滅確率は99%だ▲秋の七草では、キキョウも絶滅危惧種とされている。やがては「秋の五草」になるというのも笑えない冗談だ。人知れぬ悲しみを抱き、野辺をさまよう姫の哀切が思い起こされるフジバカマの運命である。』とあった。
私たち北国に住むものには見ることが出来ないフジバカマだが、「秋の七草」の一つとして、または和歌や俳句、古典(物語)をとおして、日本人には馴染みの深い花である。
オミナエシ科オミナエシ属のオミナエシも数が減って岩木山では殆ど見られなくなっている。「余録」では「秋の五草」といっているが自生を中心に考えると、ハギ、ススキ、クズ、それにナデシコの「秋の四草」となってしまう日は近いかも知れない。ナデシコだって安心は出来ない。秋の野原からどんどん減少していることは否めないからだ。
藤袴はもともと、大陸から渡ってきたようで、中国では「香草」と呼ばれている。開花時に乾燥させたものを「蘭草」といい、糖尿病に効くといわれている。
フジバカマはキク科フジバカマ属の多年草で、秋の七草として有名だが、これは宮城を除く東北地方(もちろん岩木山も含む)では見られないようだ。
そこで、「秋の七草」という時には、これに替えて同科同属のヒヨドリバナ、サワヒヨドリ、ヨツバヒヨドリを代用しているように思える。
ヒヨドリバナやサワヒヨドリ、それにヨツバヒヨドリは、八月から九月末まで淡い紫色の小さな花をフジバカマと同じように、枝の先に集まるように咲かせる。
万葉集にはフジバカマを詠んだ歌は、山上憶良の秋の七種(ななくさ)(このようにも書く)の歌一首だけ登場する。万葉集巻八の中で山上憶良は次のように詠う。
#萩の花/尾花/葛花/なでしこの花/をみなへし/また藤袴/朝顔の花
時代が下がって平安の御代になると、古今和歌六帖には…
#秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふ蟋蟀のなく (作者不詳)
訳:
『秋風の吹く中で露にぬれながら蕾をほころびさせている藤袴の近くで、冬の備えに衣をつづりさせ(縫い繕え)というふうに蟋蟀が鳴いているよ。』 注:蟋蟀は現代のキリギリスのこと。
…というのがある。
俳句では…
・藤袴色と見えつも淡かりし (稲畑汀子)
『藤袴の花の色は、見えないわけではないが余りにも微かであるよ。それにしても何と淡い色具合なんだろう。徹底した観察・写生であり、時間をかけて見ている。』
・藤袴手折りたる香を身のほとり (加藤三七子)
『藤袴の一本を折りとったところ、そのほのかな香りが私の近くで漂ったのだ。動作を伴う嗅覚的な観察描写による俳句。』
香りがいいので、昔は箪笥に入れて着物に香りを移したそうだ。そのような微かな香りが奥ゆかしさや「ためらいがち」な心情を表現したのかも知れない。
山上憶良の「秋の七種」の歌に登場する「あさがほ」は、私たちが知っている現代のヒルガオ科アサガオ属の花ではない。それぞれヒルガオ、ムクゲ、キキョウとする説がある。次にこれらについて見てみよう。
昼顔(ヒルガオ)はヒルガオ科ヒルガオ属の多年草で日本の在来種である。西洋ヒルガオに比べると花付きがまばらであることが特徴だ。
アサガオに似た漏斗状の花を日中に咲かせるので、その朝顔と対比して命名されたものだ。若菜・若芽は食用。お浸し、混ぜご飯として食べる。また、全草を乾して煎じて飲用。利尿剤や膀胱炎、糖尿病に効果がある。
また、全草をそのまま摺って青汁は強壮剤、または糖尿病に効くそうだ。
和歌では…
#ひるがほは何処に見てもわかめきし衣とおぼえてあはれなりけり 与謝野晶子
訳:
『昼顔のその生気あふれる咲き方にはどこで見ても驚いてしまう。何という若々しさ。辺り一面がこの若々しい衣のように見えて心惹かれるばかりだ。』
俳句では…
・昼顔を摘まんとすれば萎れけり (富安風生)
『昼顔を一輪摘もうとしたが、すでに萎れかけていた。ああ、遅かったかなあ。対象の特性をしっかりと把握した句。』
・昼顔に猫捨てられて泣きにけり (村上鬼城)
『昼顔は生命力にあふれた花である。しかも群落をなす。猫が捨てられていた場所は別の生物の命漲る園である。作者はこのことをしっかりと理解しているのだろう。その上で捨て猫との対比で句を構成したと考えられる。哀しくも泣く子猫の運命は…観察が場面的な皮肉をうまく表現した秀句。』
注:和歌と俳句の訳・鑑賞コメントは私の勝手な解釈による。