岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

能郷苺「ノウゴウイチゴ」の花開く(その3)

2009-06-20 05:27:26 | Weblog
 (今日の写真も、バラ科オランダイチゴ属の多年草「ノウゴウイチゴ(能郷苺)」だ。昨日も赤倉登山道を登った。14日にも登ったから5日後ということになる。
 登山道沿いはまさに、「花盛り」であった。だが、今日の写真の「ノウゴウイチゴ」との出会いは少なかった。山頂の直ぐ下には雪渓があって、それを越えた辺り、つまり、頂上に手が届くというところで出会ったのだ。登山口からまさに、長い「登山道」では姿を見せないで、殆ど「山頂」という場所で数株が花をつけていただけであった。
 別にノウゴウイチゴは岩木山で数が少ないという草花ではない。恐らく、赤倉登山道沿いでは「これから」咲き始める場所もあるのだろう。
 昨日は赤倉登山道を登り、岳口に降りた。リフト乗り場近くややスカイラインターミナル付近では「ハクサンチドリ」がまさに満開であったが、赤倉登山道では、赤倉御殿の近くで「たった1本」だけ咲いていた「ハクサンチドリ」に出会った。同じ岩木山でも「場所」が違うと同じ花でも「咲く時期」は微妙に違う。
 「ショウジョウバカマ(猩々袴)」もそうだ。赤倉御殿の下部、石仏26番付近ではまだ花をつけていたし、山頂直下の雪渓近くでは、ようやく背丈が10cmに伸びて、初々しい紫の花をつけていた。だが、山頂から、岳への登山道では1本も見ることが出来なかった。
 「ミチノクコザクラ」は石仏26番辺りから点々と咲いているが、赤倉御殿から石仏30番辺りまでは、すっかり花は終わっている。この場所が岩木山で一番早く咲き出す場所なのである。早い年は5月3日に咲き出したこともあるくらいだ。「風衝地」のなせる業である。
 「正観音」の周囲もすでに花は終わっているが、そこから「ダケカンバ」の疎林までの道沿いにはまだ咲いている。だが、大鳴沢源頭部ではまったくその影がない。しかし、大鳴沢源頭の大雪渓が消えるのに従って、その雪渓の周囲にも咲き出すのである。
石仏32番、33番近くの岩稜では「コメバツガザクラ」や「イワウメ」も咲き出していた。やはり、岩木山では「夏」が始まっているのだ。)

(承前)  昨日に続けて今日も「イチゴの話し」を書こう。

 「イチゴ」の方言には、グイミ(広島)、イチリゴ(和歌山)、イショビ(鹿児島)などのあることが知られているが、ご当地「津軽」にはあるのだろうか。不勉強の所為で「あるのか、ないのか」すら知らない私にとって、この問いは難問である。
 「イチゴ」のことを、漢名では「覆盆子(ふくぼんし)」または「覆盆」をあてる。枕草子の「一五三段」には「見るにことなきものの、 文字に書きてことごとしきもの」(見た目に格別のことはないもので文字に書くと仰山なもの)として「覆盆子」という記載が見える。
「覆盆子」の由来は、「キイチゴ」の実は熟すと食用になる部分がすっぽりとれ、跡にすり鉢状のくぼみが残る。その様子がひっくり返した盆(元々の意味は壷)に見立てられたことによるとされている。「漢方」では、「イチゴ」の未熟果実を「覆盆子」と呼んで、「眼精疲労をとり、肌つやをよくし、気力の衰えを回復する」強壮剤として用いるのだそうだ。「肌つや」が気になる人は、完熟して甘く美味しい「イチゴ」を食べてはいけないようだ。まずい「未熟果実」を食べなければいけないのである。美しくなるためには、古今東西やはり、「耐える」ことが要求されるのである。
 古典ではっきりと「いちご」とあるのは「枕草子」である。「枕草子」には 「あてなる (上品な) ものとして 「いみじくうつくしき稚子 (たいへんかわいらしい幼児) の、覆盆子(いちご)食いたる」 と出ている。
 また、同じ「あてなるもの」として、直前に「水晶の数珠、藤の花、梅の花に雪のふりかかりたる」というのがあげられている。これらと同列の上品なものとして清少納言はとらえていたのだ。
 「万葉集」では、「いちご」とはっきり書いているものはないが「いちし」をイチゴとする説がある。白い花のイメージとしては合うだろう。「万葉集」には次の一首だけが登場する。
 万葉集巻十一
・道の辺の壱師(いちし)の花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は(柿本人麻呂)

訳は簡単に「道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻をみんなに知られてしまいました」とでもなるだろうか。
「いちしろく」とは「はっきりと」とか「目立って」というような意味。「いちし」と「いちしろく」を掛けて詠んでいる。
 これらは現代栽培などされているイチゴではなく、日本古来から自生している野生の「キイチゴ」のことを指しているのである。
 純白で美しく清楚な花、しかも美味な果実なのに、万葉人も王朝歌人も、殆ど「歌には詠まなかった」ことが不思議でならない。
 「壱師(いちし)」は具体的に何をさすのかは、いまだに確定していないそうだ。ギシギシ、イタドリ、イチゴ、エゴノキなどの説があるが、彼岸花(ひがんばな)が最有力候補といわれているそうだが、どうも「まゆつば」くさい。

 和歌を紹介したので序でに、短歌と俳句を紹介しよう。

・赤き苺庭に熟らせて見たき夢吾子も持つらしわが幼日のごと(コスモス短歌会歌集より)
「私もその幼かった時に赤いいちごを庭で育てて熟らせてみたいと思ったように、私の子供もまたそうような夢を持っているようだ」とでも訳せばいいだろう。

 次は俳句だ…。
・忍び来て摘むは誰が子ぞ紅苺(杉田久女)
『そっと忍んで来て真っ赤に熟れたいちごを摘み取っていくのはどこの子供だろう。ふっくらとした小さな手が優しく、これまたふっくらと熟れているいちごの実とゆったりと融合している風情は許されてもいい。』と私は解釈した。久女の優しさ滲み出ている秀句だ。
・太陽のひかりこまかく苺摘み(鷹羽狩行)
『たくさんのいちごが今年も赤い実をつけた。その一つ一つを太陽の光が細やかに優しく照らしている。その中で楽しい苺摘みが始まった。』これも、いい俳句だ。

 ご存じだろうか。イチゴの食用になる部分は花托が肥大化したものだ。本当の果実はその表面についた、「粒々」である。

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