(今日の写真は、キキョウ科ツリガネニンジン属の多年草「ツリガネニンジン(釣鐘人参)」だ。
日本全土の山野に見られるし、千島列島などにも生育するという。変異が多く、葉形の変化には「別種か」と思うほどに驚かされるのだ。
草丈60~70cm。輪生した葉の上方に花序を伸ばして、花も輪状に数段つり下げる。青紫の釣鐘状の花は15mmほどの小ぶりで下向きに咲く。花柱が一本、花冠の外に突き出すのが特徴だ。
花期は7月から10月と長いが、生育地の草原が姿を消す度に、花を見る機会も少なくなってきている。これは岩木山でも言えることだ。
夏から秋にかけて刈り取られると「根生葉を再生し、花茎も」再生する。地下に大きな根があり、これに養分を貯蔵している。
ツリガネニンジンは夏に刈り取られると速やかに地上部を回復する戦略をとっており、これは「刈り取り草原」によく適応した方法なのである。)
◇◇ このツリガネニンジンも減っている ◇◇
昭和30年代までは、岩木山の山麓は原野であり、その大半は「馬や牛の餌」となる「草刈り場」であった。
それぞれの村々に、その場所は振り分けられていたが、戦後は「払い下げられて」民有地となった場所が殆どであるらしい。県道30号線(環状線)から上部も、その所為で殆どが民有地となっている。だが、辛うじて昭和30年代の初期までは原野であったのだ。
戦前、弘前市周辺には旧帝国陸軍第八師団の主力が、集中して配置されていた。
歩兵第三十一聯隊、騎兵第八聯隊、野砲兵第八聯隊など、加えて、明治末から大正期にかけては、歩兵第五十二聯隊も第八師団の管下に入り弘前市に移駐していたこともある。まさに、弘前は「軍都」だったのだ。
「草刈り場」と弘前駐屯の第八師団とどういう関係があるのだろうと訝しく思う人もいよう。岩木山にはその当時、北麓は「山田野」という演習地(練兵場)があり、東麓には騎兵第八聯隊のための「草刈り場(採草地)」があったのだ。「騎兵用の馬」の飼料となる「草」を刈る場所である。
この「騎兵第八聯隊」はその「採草地」を厳重に管理していたという。四六時中、歩哨を立てて監視していたという。もちろん、歩哨舎まであったそうだ。歩哨とは「兵営・陣地の要所に立って警戒・監視の任にあたること」であるから、如何に厳重に「管理」していたかが分かろうというものだ。
「厳重に管理し、飼料として定期的に刈り取る」という原野(草原)では、「夏に刈り取られると速やかに地上部を回復する戦略をとる」ツリガネニンジンにとっては「採草地」は、彼女たちの、まさに天国であっただろう。
このような場所には「キキョウ」も多かった。草原のススキ原に混じって咲く「キキョウ」は園芸種と違って濃い紫色の花をつける。まさに、「草原」を代表する花であった。だが、「岩木山」からはほぼ消滅した。
「ツリガネニンジン」もキキョウと同じ運命を辿っている。致命的な理由、それは「生育場所」の減少である。育つための原野がなくなっているのだ。それに加えて、「草刈り」という物理的な攪乱が行われないということで「生育環境」が激変してしまったのである。
それでも、僅かに「育っている場所」がある。私は、その「ツリガネニンジン」を探してずいぶんと歩いた。時間もかけたし、何年もかかった。そして、思いがけないところで出会ったのである。
それは「環状線」の側溝脇だ。「草原」を追われて「草原の残滓」とでも言えそうな「側溝脇」に生えているのだ。
「ツリガネニンジン」は「キキョウ」とともに、秋の到来を感じさせる植物の1つだ。風に揺られると今にも、花柱を振るわせて鳴り出しそうで、初秋の涼しさを約束してくれるような風情があるではないか。それを思うと「側溝脇」では、あまりにも悲しい。
「人参」という名を戴く植物は多い。ここでいう「人参」は「赤い根菜の人参」キャロットではない。薬草として名高い「朝鮮人参」のことだ。色も赤くはなく「白」である。
「朝鮮人参」は現代でも高価なものだが、江戸時代にはさらに高価な薬草だった。それまでは「朝鮮人参」自体は輸入されずに、それを乾燥または蒸した根が輸入されていた。そこで、日本では、その「根の形」をたよりに日本産の「人参」を探す試みが繰り返されたというのだ。
その頃の名残が今も、「蔓(つる)人参」「栃葉人参」などの和名として残っているのだ。「ツリガネニンジン」は根の形がチョウセンニンジンに似ているというだけで、同じ薬効はない。だが、乾燥させた根(沙参)は煎じて、せき止め・去痰剤になるといわれている。
また、春の若苗は「トトキ(ツリガネニンジンの若芽の俗称)」と呼ばれ、美味しい山菜として知られている。お浸し、和え物がいいそうだ。「トトキ」とは朝鮮語である。
短歌と俳句を次に掲げてみよう。
・おくつきのいさごに萌えて花つけしつりがね人参は抜きてか捨てむ(森山汀川)
「墓地の小石の敷き詰められた庭に萌え出て花をつけた釣鐘人参は、抜き取って捨てようかね」というところが歌意であろうか。
「おくつき」とは「奥つ城」で墓所のことであり、「いさご」は「砂子」で小さい石・砂のことである。
・ひよ渡る釣鐘人参揺れどほし (豊島美代)
「雛鳥が親の後を追って鳴き渡っていく。折しも、ちょうど釣鐘人参に止まってはぴよぴよと鳴く。そのために釣鐘人参は揺れ動いて停まらないのであるよ。」が句意であろう。
「ひよ」は雛鳥などの鳴く声を表す言葉だ。宇津保物語には「ひな鳥の『ひよ』と鳴くらん」という用例がみられる。
日本全土の山野に見られるし、千島列島などにも生育するという。変異が多く、葉形の変化には「別種か」と思うほどに驚かされるのだ。
草丈60~70cm。輪生した葉の上方に花序を伸ばして、花も輪状に数段つり下げる。青紫の釣鐘状の花は15mmほどの小ぶりで下向きに咲く。花柱が一本、花冠の外に突き出すのが特徴だ。
花期は7月から10月と長いが、生育地の草原が姿を消す度に、花を見る機会も少なくなってきている。これは岩木山でも言えることだ。
夏から秋にかけて刈り取られると「根生葉を再生し、花茎も」再生する。地下に大きな根があり、これに養分を貯蔵している。
ツリガネニンジンは夏に刈り取られると速やかに地上部を回復する戦略をとっており、これは「刈り取り草原」によく適応した方法なのである。)
◇◇ このツリガネニンジンも減っている ◇◇
昭和30年代までは、岩木山の山麓は原野であり、その大半は「馬や牛の餌」となる「草刈り場」であった。
それぞれの村々に、その場所は振り分けられていたが、戦後は「払い下げられて」民有地となった場所が殆どであるらしい。県道30号線(環状線)から上部も、その所為で殆どが民有地となっている。だが、辛うじて昭和30年代の初期までは原野であったのだ。
戦前、弘前市周辺には旧帝国陸軍第八師団の主力が、集中して配置されていた。
歩兵第三十一聯隊、騎兵第八聯隊、野砲兵第八聯隊など、加えて、明治末から大正期にかけては、歩兵第五十二聯隊も第八師団の管下に入り弘前市に移駐していたこともある。まさに、弘前は「軍都」だったのだ。
「草刈り場」と弘前駐屯の第八師団とどういう関係があるのだろうと訝しく思う人もいよう。岩木山にはその当時、北麓は「山田野」という演習地(練兵場)があり、東麓には騎兵第八聯隊のための「草刈り場(採草地)」があったのだ。「騎兵用の馬」の飼料となる「草」を刈る場所である。
この「騎兵第八聯隊」はその「採草地」を厳重に管理していたという。四六時中、歩哨を立てて監視していたという。もちろん、歩哨舎まであったそうだ。歩哨とは「兵営・陣地の要所に立って警戒・監視の任にあたること」であるから、如何に厳重に「管理」していたかが分かろうというものだ。
「厳重に管理し、飼料として定期的に刈り取る」という原野(草原)では、「夏に刈り取られると速やかに地上部を回復する戦略をとる」ツリガネニンジンにとっては「採草地」は、彼女たちの、まさに天国であっただろう。
このような場所には「キキョウ」も多かった。草原のススキ原に混じって咲く「キキョウ」は園芸種と違って濃い紫色の花をつける。まさに、「草原」を代表する花であった。だが、「岩木山」からはほぼ消滅した。
「ツリガネニンジン」もキキョウと同じ運命を辿っている。致命的な理由、それは「生育場所」の減少である。育つための原野がなくなっているのだ。それに加えて、「草刈り」という物理的な攪乱が行われないということで「生育環境」が激変してしまったのである。
それでも、僅かに「育っている場所」がある。私は、その「ツリガネニンジン」を探してずいぶんと歩いた。時間もかけたし、何年もかかった。そして、思いがけないところで出会ったのである。
それは「環状線」の側溝脇だ。「草原」を追われて「草原の残滓」とでも言えそうな「側溝脇」に生えているのだ。
「ツリガネニンジン」は「キキョウ」とともに、秋の到来を感じさせる植物の1つだ。風に揺られると今にも、花柱を振るわせて鳴り出しそうで、初秋の涼しさを約束してくれるような風情があるではないか。それを思うと「側溝脇」では、あまりにも悲しい。
「人参」という名を戴く植物は多い。ここでいう「人参」は「赤い根菜の人参」キャロットではない。薬草として名高い「朝鮮人参」のことだ。色も赤くはなく「白」である。
「朝鮮人参」は現代でも高価なものだが、江戸時代にはさらに高価な薬草だった。それまでは「朝鮮人参」自体は輸入されずに、それを乾燥または蒸した根が輸入されていた。そこで、日本では、その「根の形」をたよりに日本産の「人参」を探す試みが繰り返されたというのだ。
その頃の名残が今も、「蔓(つる)人参」「栃葉人参」などの和名として残っているのだ。「ツリガネニンジン」は根の形がチョウセンニンジンに似ているというだけで、同じ薬効はない。だが、乾燥させた根(沙参)は煎じて、せき止め・去痰剤になるといわれている。
また、春の若苗は「トトキ(ツリガネニンジンの若芽の俗称)」と呼ばれ、美味しい山菜として知られている。お浸し、和え物がいいそうだ。「トトキ」とは朝鮮語である。
短歌と俳句を次に掲げてみよう。
・おくつきのいさごに萌えて花つけしつりがね人参は抜きてか捨てむ(森山汀川)
「墓地の小石の敷き詰められた庭に萌え出て花をつけた釣鐘人参は、抜き取って捨てようかね」というところが歌意であろうか。
「おくつき」とは「奥つ城」で墓所のことであり、「いさご」は「砂子」で小さい石・砂のことである。
・ひよ渡る釣鐘人参揺れどほし (豊島美代)
「雛鳥が親の後を追って鳴き渡っていく。折しも、ちょうど釣鐘人参に止まってはぴよぴよと鳴く。そのために釣鐘人参は揺れ動いて停まらないのであるよ。」が句意であろう。
「ひよ」は雛鳥などの鳴く声を表す言葉だ。宇津保物語には「ひな鳥の『ひよ』と鳴くらん」という用例がみられる。