昨日、ある本を検索していた中で偶然出会ったブログに、
「一生やり続けたいと思えるものに出会うには?」というテーマで以下の文章が書かれていた。
***********************************************************
「…略…
実は、何年経っても変わらず同じことを続けられる人は
自分のやりたいことを見つけた人ではありません。
自分が他の誰かのためにできることを見つけた人です。」
そして、コメントをした人の文章が引用され・・・↓
-------------------------------------------------------
目的を行動のモチベーションにまで高めるためには
個人の持っている能力に拠るところが大きいような……。
目的を継続のエネルギーとするためにやっていることとかあったりするのでしょうか?
-------------------------------------------------------
それに対しての返答が書かれていた。↓
「僕にとって目的を継続するエネルギーとなっているのは、
自分のやっていることが多くの人の役に立っていると思えるものを増やすことです。
増やすといっても、何かを新しく始めるってことばかりではありません。
今の自分のやっていることがどういう理由で誰の役に立っているのかを
想像力を働かせて考えることが一番の方法だと思っています。」
***********************************************************
私は、作業療法を知らない人に、簡潔に分かりやすくイメージを伝えて説明することは未だできない。
けれど、作業療法の考え方や哲学が大好きだ。
だから、一生仕事の基本にしたいと思っている。
上の文章でまず、「誰かのためにできることをみつけた人」という所で留まり、
自分が退職していろいろ考えてきた中で、
再確認できたことの一つとリンクする部分があって、
その言葉が素直に自分の中に入ってきた。
そして、その後のモチベーション~という部分で、
そのブログの中で言われている一生やり続けたいと思えるものというテーマとは少しずれるかもしれないけれど、
私の頭の中では、ご利用者さんのことを思い浮かべていた。
私のやり続けたいことは、作業療法に関わることで、
その作業療法の中で出会う方達は、大半が人生の後半を生きている高齢者の方達。
上述の文章を読んだとき、
ご利用者さん達のご希望や思いから行動化へとつなげていく過程や、
目的に向けて行動を継続するエネルギーを維持していくためのヒントが書かれていると思った。
つまり、「誰かのため」に自分ができることがあると思えること。
ご本人さんがそう実感できる何かがあるかないか。
友人のために、家族のために、町内会の皆さんのために、職員のために………etc.
自分に置きかえて考えてみても、自分一人のためだったら行動しないことなんて沢山ある。
病気になって心身が今までと同じようにいかなくなったらどうだろうか?
病気そのものに対しても何に対しても、自分だけのことに意識が向いてしまう状態だったらやっぱり気力が萎えるだろうし、続かないだろうな。
でも、友達が喜んでくれるかもとか、役に立てるならとか、
自分がやってみることで誰かのためになるんだって思える時にはエネルギーがわいてくるのじゃないかって思う。
私が尊敬しているOTから聴く話の中に出てくる方達は、
私はお会いしたこともないのに、どんな生活をしていて、どんな方なのか、
話を聴き終わった時点で、頭の中でなんとなくその人物像や家族との関係がイメージ化されている。
それはそのOTがその人全体をきちんと捉えられているからだと感じる。
普段の生活の中で、私たちは何のためにその「作業」をしているのだろう。
自分のためだけにおこなっていることはどのくらいあって、
誰かのためにおこなっていることはどのくらいあるのだろう。
誰かのためっていっても、自ら進んで行うことから人から言われてやることまで様々。
心身ともに健康で、日々忙しくて、家族や人に囲まれた環境にいる時には、
仕方なくやっていたことや、煩わしく思ったり、面倒くさく思っていたことなんて沢山あるだろうし。
以前にも書いたことがあるけど、
実習で、ある作業療法士の方から言われた言葉、
「ご利用者さんに、『ありがとう』と言える場面はとても大切だ」と。
デイに来ている方達は心身どこかに不自由を抱えている。
だから、介助してもらってありがとうと人に言うことは多くあっても、人からありがとうと言われるようなことは減っていると。
「ありがとう」って、誰かのやりとりの中でしか生まれない言葉の一つ。
よい言葉だなあって思う。
どんな些細なことでも、誰かのためにできることがあるって
もしかしたら生きる希望を失っている時こそ必要なことかな。
人それぞれだけど、
社会の中で生きてきて、
人とのつながりの中生きてこられた人ならば、
話を聴きながら誰かのためにその人が望むことから
一緒に取り組めていけたらいいなと思う。
「誰かのために行うこと」というのは、
結果としては一種の「役割のこと」なのかな。
今まで言葉を深く考えずに使ってきた節があるけれど、
本当はその言葉の意味を掘り下げて考えて理解して使う必要があるのだろうなと反省。
学生時代には学校で専門用語を習った。
でも、その時点で用語が表す実際のことや現場のこと、病を抱えて生きている人たち自身のことは知らなかった。
実習に出た。
はじめはその現象と専門用語がつながらなかったことも実習で少しずつ知っていった。
卒業して仕事を始めた。
現場では同業種よりケアワーカーさんやご家族と接する方が圧倒的に多くなった。
その環境の中で教わったことは、専門用語を知り理解していることは必要なことだけど、必須でないということ。
ワーカーさん達は頻繁に専門用語を使わないけど、
ご利用者さん達と一番身近に接しているので
その人を見たままの現象を具体的な言葉で表現し捉えることが上手だ。
ただその見たままの事柄が問題点となる場合に、
なぜその事象が起きてくるのかという原因と考えられる知識量に関しては、
人によって違いの格差が大きい職種だと感じる。
そして、専門用語による他職種間の弊害も感じた。
知識や意識の違い。
勉強会をやってみるとよく分かる。
あるテーマに関して取り上げることになったとき、
自分が改めて勉強して発見したことを言いたくなってしまったりするが、
もしかしたらそれは、他職種が多い場合はその人たちにとっては今更とりあげなくても知ってるよというものかもしれない。
それぞれの職種毎に教わってきている基礎部分が違うことを理解していることが大事だと感じることがあった。
なんかうまくまとまらないけど、
考えること、学ぶことは無限にあるなあとまた思えた♪
「一生やり続けたいと思えるものに出会うには?」というテーマで以下の文章が書かれていた。
***********************************************************
「…略…
実は、何年経っても変わらず同じことを続けられる人は
自分のやりたいことを見つけた人ではありません。
自分が他の誰かのためにできることを見つけた人です。」
そして、コメントをした人の文章が引用され・・・↓
-------------------------------------------------------
目的を行動のモチベーションにまで高めるためには
個人の持っている能力に拠るところが大きいような……。
目的を継続のエネルギーとするためにやっていることとかあったりするのでしょうか?
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それに対しての返答が書かれていた。↓
「僕にとって目的を継続するエネルギーとなっているのは、
自分のやっていることが多くの人の役に立っていると思えるものを増やすことです。
増やすといっても、何かを新しく始めるってことばかりではありません。
今の自分のやっていることがどういう理由で誰の役に立っているのかを
想像力を働かせて考えることが一番の方法だと思っています。」
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私は、作業療法を知らない人に、簡潔に分かりやすくイメージを伝えて説明することは未だできない。
けれど、作業療法の考え方や哲学が大好きだ。
だから、一生仕事の基本にしたいと思っている。
上の文章でまず、「誰かのためにできることをみつけた人」という所で留まり、
自分が退職していろいろ考えてきた中で、
再確認できたことの一つとリンクする部分があって、
その言葉が素直に自分の中に入ってきた。
そして、その後のモチベーション~という部分で、
そのブログの中で言われている一生やり続けたいと思えるものというテーマとは少しずれるかもしれないけれど、
私の頭の中では、ご利用者さんのことを思い浮かべていた。
私のやり続けたいことは、作業療法に関わることで、
その作業療法の中で出会う方達は、大半が人生の後半を生きている高齢者の方達。
上述の文章を読んだとき、
ご利用者さん達のご希望や思いから行動化へとつなげていく過程や、
目的に向けて行動を継続するエネルギーを維持していくためのヒントが書かれていると思った。
つまり、「誰かのため」に自分ができることがあると思えること。
ご本人さんがそう実感できる何かがあるかないか。
友人のために、家族のために、町内会の皆さんのために、職員のために………etc.
自分に置きかえて考えてみても、自分一人のためだったら行動しないことなんて沢山ある。
病気になって心身が今までと同じようにいかなくなったらどうだろうか?
病気そのものに対しても何に対しても、自分だけのことに意識が向いてしまう状態だったらやっぱり気力が萎えるだろうし、続かないだろうな。
でも、友達が喜んでくれるかもとか、役に立てるならとか、
自分がやってみることで誰かのためになるんだって思える時にはエネルギーがわいてくるのじゃないかって思う。
私が尊敬しているOTから聴く話の中に出てくる方達は、
私はお会いしたこともないのに、どんな生活をしていて、どんな方なのか、
話を聴き終わった時点で、頭の中でなんとなくその人物像や家族との関係がイメージ化されている。
それはそのOTがその人全体をきちんと捉えられているからだと感じる。
普段の生活の中で、私たちは何のためにその「作業」をしているのだろう。
自分のためだけにおこなっていることはどのくらいあって、
誰かのためにおこなっていることはどのくらいあるのだろう。
誰かのためっていっても、自ら進んで行うことから人から言われてやることまで様々。
心身ともに健康で、日々忙しくて、家族や人に囲まれた環境にいる時には、
仕方なくやっていたことや、煩わしく思ったり、面倒くさく思っていたことなんて沢山あるだろうし。
以前にも書いたことがあるけど、
実習で、ある作業療法士の方から言われた言葉、
「ご利用者さんに、『ありがとう』と言える場面はとても大切だ」と。
デイに来ている方達は心身どこかに不自由を抱えている。
だから、介助してもらってありがとうと人に言うことは多くあっても、人からありがとうと言われるようなことは減っていると。
「ありがとう」って、誰かのやりとりの中でしか生まれない言葉の一つ。
よい言葉だなあって思う。
どんな些細なことでも、誰かのためにできることがあるって
もしかしたら生きる希望を失っている時こそ必要なことかな。
人それぞれだけど、
社会の中で生きてきて、
人とのつながりの中生きてこられた人ならば、
話を聴きながら誰かのためにその人が望むことから
一緒に取り組めていけたらいいなと思う。
「誰かのために行うこと」というのは、
結果としては一種の「役割のこと」なのかな。
今まで言葉を深く考えずに使ってきた節があるけれど、
本当はその言葉の意味を掘り下げて考えて理解して使う必要があるのだろうなと反省。
学生時代には学校で専門用語を習った。
でも、その時点で用語が表す実際のことや現場のこと、病を抱えて生きている人たち自身のことは知らなかった。
実習に出た。
はじめはその現象と専門用語がつながらなかったことも実習で少しずつ知っていった。
卒業して仕事を始めた。
現場では同業種よりケアワーカーさんやご家族と接する方が圧倒的に多くなった。
その環境の中で教わったことは、専門用語を知り理解していることは必要なことだけど、必須でないということ。
ワーカーさん達は頻繁に専門用語を使わないけど、
ご利用者さん達と一番身近に接しているので
その人を見たままの現象を具体的な言葉で表現し捉えることが上手だ。
ただその見たままの事柄が問題点となる場合に、
なぜその事象が起きてくるのかという原因と考えられる知識量に関しては、
人によって違いの格差が大きい職種だと感じる。
そして、専門用語による他職種間の弊害も感じた。
知識や意識の違い。
勉強会をやってみるとよく分かる。
あるテーマに関して取り上げることになったとき、
自分が改めて勉強して発見したことを言いたくなってしまったりするが、
もしかしたらそれは、他職種が多い場合はその人たちにとっては今更とりあげなくても知ってるよというものかもしれない。
それぞれの職種毎に教わってきている基礎部分が違うことを理解していることが大事だと感じることがあった。
なんかうまくまとまらないけど、
考えること、学ぶことは無限にあるなあとまた思えた♪