2月13日(木)妻と二人で愛車プリウスに乗って渋沢栄一の生誕地である深谷市のモダンたてものを見て歩きました。
熊谷地方で43センチ、1954年以来60年ぶりで観測史上第2位の積雪となる大雪となったばかりで深谷の町にも、あちらこちらにまだ残雪が残っていました。
最初に行ったのが「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」です。
別名「二層楼」と言い、大正11年に竣工し、現在は国の有形文化財に登録されています。
この「深商記念館」は度々、テレビドラマのロケでも使用されており、数年前は元AKBの前田敦子が主演したドラマのロケがあったそうです。
次に深谷市役所へ行き、パンフレットをもらい、市役所から深谷駅近辺の見所を歩きました。
最初に行ったのが、この「小林商店」です。
左側の煉瓦蔵は大正元年の竣工。右側の洋風の店舗は昭和2年竣工の木造。
砂糖問屋の事務所でした。
材質の異なる2つの建物の対比が目を引きます。
この煉瓦煙突は「七ツ梅酒造」で、株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄でした。
銘酒"七ツ梅"は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた三大銘柄の1つ。
幕府大奥の御膳酒として愛飲されたそうです。
平成16年(2004)に田中藤左衛門商店が廃業した後は、使われなくなっていた酒蔵がよみがえり、今はノスタルジックなロケ地に。
豆腐工房、カフェ、古書店「円の庭」、映画館「深谷シネマ」が集まる深谷のホットな新名所になっています。
古くは宿場町として栄えた中山道深谷宿。
その街道沿いに、煉瓦造りの酒蔵「滝澤酒造」があります。
「菊泉(きくいずみ)」の創業は文久三年(1863年)です。
蔵の建築物は、酒造りに適した地元特産の煉瓦をふんだんに用いています。
「菊泉」の巨大な煉瓦煙突は、全高30メートル以上。
数度の地震や戦争での銃撃に耐え、現在も凛とそびえています。
深谷産煉瓦の外壁の小路がレトロな雰囲気を醸し出しています。
「滝澤酒造」を見た後、深谷市役所に戻り、市役所地下の食堂で昼食を食べた後、愛車プリウスに乗って、埼玉が誇る明治の大実業家・渋沢栄一の足跡をたどりました。
「誠乃堂」(せいしどう)は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築されました。
外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。
「誠之堂」は、大寄公民館の敷地内にある歴史的建造物で、平成15年5月30日に国の重要文化財に指定されました。
これは「誠乃堂」の中心の大広間です。
暖炉脇の窓には、6面のステンドグラスが配され、大きな見所となっています。
次の間の出窓です。
まるで雪見障子のようです。
「誠乃堂」と同じく大寄公民館の敷地内にあるのが「清風亭」です。
「清風亭」は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、誠之堂と並べて建てられました。
屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、設計者の西村好時自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。
埼玉県の有形文化財に指定されています。
八基小学校の東隣りにある「渋沢栄一記念館」は渋沢栄一の書、写真、伝記資料等約150点余りを展示しています。
渋沢の書の他にも、徳川慶喜、勝海舟、大隈重信など明治人の書がたくさん展示されています。
行った日(2月13日)は奇しくも渋沢栄一の誕生日であり、記念館では「第8回渋沢栄一生誕祭」が開催される日で、関係者はその準備に追われていました。
「記念館」のすぐ近くにある渋沢栄一の生家「中の家」(なかんち)です。
現在の主屋は明治28年に栄一の妹婿である渋沢市郎が再建したものだそうです。
屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家のかたちを残しています。
奥の十畳の部屋は、帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせたと伝えられています。
最後に渋沢栄一が明治21年に設立した日本煉瓦製造㈱の「旧煉瓦製造施設」を見に行きました。
ピンクの下見板張りの外壁が印象的な建物は、ドイツ人煉瓦製造技師の住居兼事務所としてつくられたものです。
現在も史料館として公開されていますが、開館日が金曜日のみということで、その日は外から見るだけでした。
第一国立銀行のほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれています。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにあります。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めたということです。
私と妻は渋沢栄一の偉大さに只々感嘆しながら帰路に着いたのであります。