1月18日(金)妻の実家に行き新年の挨拶をした後、二人で小石川後楽園に行ってきました。
東急目黒線西小山駅から地下鉄三田線に乗り、水道橋駅から歩いて10分ほどで小石川後楽園に到着です。
「小石川後楽園」は水戸徳川家の江戸上屋敷内の庭園で、寛永6(1629)年初代藩主頼房が庭の造営に着手し、2代光圀に引き継がれました。
明の遺臣・朱舜水(しゅしゅんすい)を儒臣として登用し、中国趣味を取り入れた回遊式築山泉水庭園です。
園名は『岳陽楼記(がくようろうき)』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、後楽園と光圀が命名しました。
西門から入り庭園の中心である「大泉水」に近付くと、枝垂桜の向こうに、見事な松が・・・。
「一つ松」といい、琵琶湖唐崎の一つ松にならったといいます。
近江の琵琶湖を模した「大泉水」に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいるそうです。
季節柄、雪吊りがかけられていました。
小廬山(しょうろざん)の手前にある「丸屋(まろや)」は昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現している建物です。
「茅葺の田舎風の酒」茶屋で、丸の字を染め抜いた暖簾を下げていたといわれています。
現在は休憩所として使われています。
秋には丸屋や紅葉林が趣深い景色となるそうです。
「得仁堂(とくじんどう)」は、光圀が18歳の時、史記「伯夷(はくい)列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉(しゅくせい)の木像を安置した堂です。
得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。
後楽園には現在四つの建物(涵徳亭(かんとくてい)、九八屋、丸屋、得仁堂)が残っていますが、そのうち創建当時のまま残っている建物は、得仁堂だけです。
「円月橋」は後楽園内の旧神田上水跡に架かる橋で、光圀の命により、朱舜水が設計した我が国初の石造アーチ橋です。
水に映る影が満月のようなので円月橋と名付けられたそうです。
得仁堂とともに当時の姿を留める貴重な建造物です。
小石川後楽園の北側、梅林と円月橋のちょうど中間地点にある「八卦堂跡(はっけどうあと)」です。
光圀7歳のとき将軍家光から「文昌星(ぶんしょうせい)」(中国の学問の神)像を授かったのですが、後に光圀は文学を好み文昌星を思い起こし「八卦堂」を造り、その文昌星像を安置したそうです。
小石川後楽園には約90本の紅梅・白梅の梅林があり、花の見ごろには、辺り一面に良い香りが漂い、和やかな趣を感じさせてくれます。
私たちが行った頃は、まだ3~4分咲きでしたが、日差しの暖かくなる2月になると、一足早い春の到来を告げる「梅まつり」が開催されます。
庭園の中には珍しい「稲田」があります。
これは農民の苦労 を、光圀が彼の嗣子・徳川 綱條(とくがわ つなえだ)の夫人に教えようと作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。
「九八屋(くはちや)」は 江戸時代の酒亭を景観に取り入れ建てられたものです。
享保年代は、木製の夫婦像を置いて店主としたと言われています。
建物の名前は、「酒は昼は九分目、夜は八分目が適量」といわれていたことに由来しています。
「内庭」は、かつて水戸藩邸の書院があった所で、昔は唐門によって、大泉水側の「後園」と仕切られていました。
池泉には中島があり、2つの反り橋が架けれています。
藩主や正式なお客様は、内庭から唐門を通って後園をめぐり散策したようです。
内庭の泉水の水が木曽川に落ちるところが「寝覚の滝」と名づけられています。
寝覚の滝のある周辺は今も木々がうっそうとしていて、木曾山と呼ばれています。
南側から眺めた「大泉水」です。
この庭園の中心となる景観で、蓬莱島(ほうらいじま)と竹生島(ちくぶしま)を配し、琵琶湖を見立てて造られました。
昔はこの池で舟遊びをしたと言われています。
小石川後楽園散策の最後は「西行堂跡」です。
藩祖・頼房の時代に、御鞍打師( おんくらうちし )「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられましたが、戦災により焼失しました。
九代斉昭 ( なりあき ) が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かけ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉(ちゅうほせん)」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものだそうです。
以上 小石川後楽園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
この重複指定を受けているのは、全国でも小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、金閣寺など、ごく限られています。
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