![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/4c/4cea8f57db72bfdf0ab5db13a7c83134.jpg)
1月18日(金)妻と二人で小石川後楽園の深山幽谷を楽しんだあと、私にとってかなりキツイ安藤坂を上って「伝通院(でんづういん)」へ行きました。
伝通院は1415年(応永22)了誉聖冏(りょうよ しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とし、増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹です。
その後戦火をこうむり衰廃していましたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母・於大の方の埋葬を機に、その法名(伝通院殿)で呼ばれるようになったそうです。
写真は2012年に再建された「山門」です。
山門の楼上には釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には拝観できるそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/8e/e6c9c10eec5a84e35aa5bef994f1726e.jpg)
山門から本堂に向かう左手には優美な建築の「鐘楼堂」があり、そこには、先の大戦の空襲で多くのものが焼きつくされた中で唯一戦火を逃れた「梵鐘」があります。
この梵鐘は、1839年(天保10)に鋳造されたもので、暮れの除夜の鐘では、歴史を感じさせる厳かな音を立てるとのことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/40/f4a85966e3f0a689c3e3b12bbd70b03b.jpg)
江戸時代から残っていた山門や当時の「本堂」はすべて戦災で焼失してしまったので、1949年(昭和24年)に再建されました。
その姿の美しさは、作家・永井荷風がエッセイで、パリのノートルダム寺院に例えたとも言われています。
また、夏目漱石も小説「こころ」で伝通院を描いています。
現在の「本堂」は、1988年(昭和63年)に戦後2度目の再建がなされたものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/d6/c5457bdccf7344aebfcb7e6b51c08cf9.jpg)
伝通院には歴史に残る人物のお墓が多くあります。
墓地北側の徳川家の墓域で一際目立つ大きな五輪塔が「於大の方」の墓所です。
於大の方は緒川城(愛知県東浦町)に生まれました。
父は緒川城主水野忠政、母は於富の方で、14歳の時に岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、 翌年家康を産んだが、水野氏が織田方についたため、3歳の家康を残して岡崎を離縁されました。
しかし、その後、阿久比の坂部城主久松俊勝に嫁ぎ、夫とともに家康の天下統一を支えたと言われています。
於大の方は、家康の天下統一を見た後、1602年(慶長7)8月、家康の滞在する伏見城にてなくなりました。
家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り、伝通院に納骨したと言うことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/57/3dbbd8ac260b883c99acc58f21e195d9.jpg)
その奥の五輪塔が「千姫」の墓所です。
千姫は、のちの2代将軍秀忠を父として、織田信長の妹お市の方の末娘お江の方を母として産まれましたが、その人生は波乱万丈のものでした。
わずか2歳にして豊臣秀頼と婚約、7歳で結婚し大阪城へ。
19歳で大阪城落城し、秀頼とは死別。
一旦、仏門に入った後、翌年20歳の時に桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。
本多忠刻が死後、江戸城へ戻り、剃髪して天樹院となります。
その後、徳川家光の三男・綱重の養母となり、徐々に大奥で力を保持したそうです。
享年は70歳。
以上、伝通院の境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されていますが、そのほかにも佐藤春夫、柴田錬三郎、浪越徳次郎などの墓もあるそうです。
敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚があるとのことです。
ランキングに参加中です。クリックして応援お願いします。
↓↓↓
![人気ブログランキング](https://blog.with2.net/img/banner/m02/br_banner_redcurtain.gif)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます