
「大澤蔵」から古墳通りを南に歩きます。
スターダストレビューの根本要さんの実家(根本医院)が左に見えますが、時差式信号あたりから八幡通りを境に西側が天満地区、東側が向町地区です。
天満には6棟の足袋蔵、向町には1棟の足袋蔵と工場があります。
天満から見ていきましょう。
時差式信号を渡って「みずしろ通り」の入口に見えるのが「松坂屋蔵」です。
昭和24年頃に熊谷にあった軍事施設のボイラー室を解体し、その建材を再利用して建てられたものです。
頑丈な造りの均整の取れたモルタル蔵で、現在も松坂屋建材の倉庫として使われています。

古墳通りを更に南下すると「あんど」という蕎麦店がありますが、これは「奥貫蔵」を改装したもので、ドラマ「陸王」のロケ地にもなりました。
「ほうらい足袋」、「栄冠足袋」の商標で知られた奥貫家が大正~昭和の初めごろに建設したと伝えられる足袋蔵(土蔵)です。

時差式信号に戻って、みずしろ通りに入ってすぐの小道を左に折れると、右手に見えてくるのが「栗原家モルタル蔵」です。
「福力足袋」、「双福足袋」の商標で知られた栗原正一商店が、昭和28年に館林市の農家の米蔵を購入して、ここに移築したものです。
昭和20年代後半の行田の足袋産業の隆盛を物語るモルタル造の足袋蔵です。
近年改修が行われ、外観が綺麗に整備されています。

行田名物フライ考案の元祖で、TVや雑誌で幾度となく取り上げてこられた「古沢商店」(今は閉店)の近くにも、奥貫忠吉商店の土蔵がありました。
これは大正時代に建設されたもので土蔵造り2階建ての足袋蔵です。
「ほうらい足袋」、「栄冠足袋」の商標で、足袋と被服を中心に手広く商売を営んでいた奥貫家は、市内数か所に多数の工場と足袋蔵を建設したようですが、この蔵もその一つです。

その南側にあるのが「草生蔵(くさおぐら)」。
「金楽足袋」などの商標で知られた金楽足袋株式会社が明治43年に住宅とともに建設した足袋蔵だと伝えられています。
市内で最も古い石蔵だと思われます。
現在は所有者が草生家に変わり、倉庫として使われています。

天満の足袋蔵のトリは「鯨井家倉庫」です。
明治41年に、行田随一の足袋商店であった橋下喜助商店より独立して創業した足袋原料商の鯨井商店は昭和3年にこの鉄筋コンクリート造2階建ての足袋蔵を建設しました。
陸屋根の小型の足袋蔵ですが、現存する行田市内で数少ない戦前の鉄筋コンクリート造の足袋蔵として貴重な存在です。

鯨井家倉庫の東側にある2階建ての大谷石造の足袋蔵が、「豊年足袋」などの商標で知られた豊年足袋本舗が昭和29年に建設した「小沼蔵」です。
基礎に長さ10尺の松杭を千鳥に打ち込み、杭頭に大谷石を立てて周囲をコンクリートで固めるなど、堅固な基礎工事を行っているそうです。
この年にナイロン靴下の量産が始まり、足袋の需要は減少していきます。
足袋産業の最後の栄華を伝える足袋蔵と言えます。

「小沼蔵」の北側に位置するこの工場は、現存する行田最大のノコギリ屋根の木造洋風足袋工場と元食堂です。
昭和初期に組合工場として建てられたものを、イサミコーポレーションの前身のイサミ足袋本舗が買い取り、現在まで足袋工場として使用しています。
足袋生産の拡大で、大規模工場が郊外に建てられていった昭和初期の行田を代表する足袋工場です。
次回(足袋蔵シリーズの最終回)は水城公園付近の日本遺産や足袋蔵を見て回ります。
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