よい悪いはべつとして企業と学生の双方のブランド志向はそれぞれに必然性がある。学生でいえば、それはいいかげんさや甘さの現われではなくて、無難さの現われなんである。その無難さは、企業社会を生きてきた、お父さんお母さんの生活体験の反映だ。つまり学生の意識とは現代社会をつくってきた中高年の価値観の鏡なのである。
「どんなお仕事をなさっていますか」という質問は「どこの会社にお勤めですか」ということと同義語であって、勤めている会社の知名度が人間を評価するモノサシになったりするのが日本の現実だ。企業社会の度し難さはここにあるが、学生には大勢としてそれに抗う意思はない。
しかし今の大人にこれを批判する資格はあまりないだろう。学生の従順さは親の従順さと比例するのであって、社会の大勢を形づくる中高年が、20年30年という職場生活の日々で育んできた価値観はそう簡単には変わらないのだ。
しかも企業への定着率をみれば大企業志向はなお必然的である。
(略)その理由はたくさんあげられる。中小企業よりも40%高い賃金、定期昇給、長期勤続を前提とした退職金、各種のフリンジ・ベネフィットと、転職は割があわないのである。
こうした仕組みや制度をつくってきたのは、現在退職期を迎えている中高年にほかならないのだが、彼らが仕組みや制度をつくった職場生活とは、言うまでもなく1960年代以降の高度成長の日々の職場であった。
現代の日本人は20歳前後に職業生涯を歩み出すのが普通である。1950年代から60年代は大半の人間が15歳か18歳、つまり中学か高校を卒業して労働市場に登場したが、70年代から80年代、とくに80年代後半になって以降は20歳過ぎてから労働市場に登場する割合が増えてきている。(略)
リクルート社が、学生による人気ランキングを発表しはじめたのは1966年からだが、日本の高度成長が軌道にのり団塊の世代が労働市場に登場したのはこの時代である。そして現在は中高年となった団塊の世代が、職場から排出される危機を迎え、しかもその子供たちが労働市場に登場しつつあるという皮肉な状況を迎えている。
鉄鋼や金属機械あるいは自動車といわれるモノづくりの産業の関係者の話では「かつて工場は人材の宝庫といわれていた」そうだ。60年代から70年代とは、現代でいえば三Kともいえる現場に続々と若年労働力が集まった時代である。工場では技術革新も創意工夫も労働者自身の手によって積極的に担われた。日本経済も産業も労働力もすべてが若かった時代である。
製造業でいえば造船がそろそろ成熟化し、家電や鉄鋼が伸び盛りの時代であった。65年そのものは山陽特殊鋼の倒産や山一証券危機にみられるように不況のどん底に沈んだ年なのだが、事後的にみればやはり高度成長のただなかにあった。
振り返ってみればこの時代の就職活動は今と比べてそれほど難しいものではなかった。悩むほど選ぶべき職場がなかったからである。銀行や損保に代表されるホワイトカラーの職場はまだ少なく、中学や高校を卒業した者にとっては、圧倒的に製造業や第三次産業の現場が就職先であり、彼らを待っていたのは生産食としての日々である。三Kなどという言葉はなく、したがって「企画、国際、広報」の人気の三Kなどももちろんなかった。
だが今日は給与や休暇などの面はけっして悪くはないのに生産職は不人気である。
(略)
不人気の三K職場からもっとも遠いと思われている業種の一つが旅行業である。「人気ランキング」で上位の常連で、とくに女子学生の選ぶベスト1の職場はJTBだが、人気の高さの背景は、男女の差別がないとか、勤務地域を限定するコースもあるといった、実質的な職場環境が知られているところもあるが、「旅行をする楽しさ」と「旅行を売るしんどさ」の格差がみえないところもかなりある。
JTBの場合は資料請求が例年9万通を超え、説明会には男女合わせて1万5000人を超える学生が参加するという。だから不況が深刻化した93年の場合は、応募者が多すぎたため「やむをえず一次試験はペーパーテストを実施し面接の数を制限した」とのことだ。採用数は300人だったが、「学生は就職に関する情報のとりすぎと面接のテクニックなどの勉強のし過ぎ」だとのことで、「結果的にみな金太郎飴のように同じになってくる」という。
「旅行業とは日々セールスが基本である」とよく説明をし、何度もの面接でも口を酸っぱくして語り、それにたいして「そういう仕事こし自分の希望」と言っていた学生が、「いざ入るとじつにヤワだったりする」そうだ。
ミスマッチは企業も個人も不幸だから避けたいのだが、悲劇は毎年繰り返される。これはどこの産業も共通している。
資料請求の数といえば、㈱ダイエーの場合は93年は7万通きたという。(略)
HONDAは93年は若干採用が少なく、大卒は技術系110人文系40人だが、内訳は理系が60大学、文系が18大学と幅広く採用したという。「本当は公務員試験のように最初にペーパーで振るい落すのが一番簡単なのだが」幅広くとるためにはそうもいかず、何千人もの面接をこなすことになるのである。
(略)
「どういう採用方法がベストなのかは答えはないが、ダイエーの担当者のいう「採用にかけられるパワーの限界」というのはどこの人事担当者に聞いても悩みのタネである。
(略)
ともあれ「不況だからといっていきなり採用数を前年の10%にしてしまう企業があるが、三割四割引ぐらいまでは分かるが9割引となると企業の計画とはどうなっているのか」(中央大学関係者)と信頼できなくなってくる、とのことである。
とはいえ昔の就職活動と違うのは、「気に入ったレベルの企業に行けないのなら、就職をしない」などという例が、とくに女子にはでてきていることだ。学生のほうも厳しさもイマイチなのである。もちろんほとんどの学生は必死であり、「20社30社と落ちまくりゼツボーテキ」な学生の方が多いのは事実にしてもだ・・・。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、50-57頁より引用)。
「どんなお仕事をなさっていますか」という質問は「どこの会社にお勤めですか」ということと同義語であって、勤めている会社の知名度が人間を評価するモノサシになったりするのが日本の現実だ。企業社会の度し難さはここにあるが、学生には大勢としてそれに抗う意思はない。
しかし今の大人にこれを批判する資格はあまりないだろう。学生の従順さは親の従順さと比例するのであって、社会の大勢を形づくる中高年が、20年30年という職場生活の日々で育んできた価値観はそう簡単には変わらないのだ。
しかも企業への定着率をみれば大企業志向はなお必然的である。
(略)その理由はたくさんあげられる。中小企業よりも40%高い賃金、定期昇給、長期勤続を前提とした退職金、各種のフリンジ・ベネフィットと、転職は割があわないのである。
こうした仕組みや制度をつくってきたのは、現在退職期を迎えている中高年にほかならないのだが、彼らが仕組みや制度をつくった職場生活とは、言うまでもなく1960年代以降の高度成長の日々の職場であった。
現代の日本人は20歳前後に職業生涯を歩み出すのが普通である。1950年代から60年代は大半の人間が15歳か18歳、つまり中学か高校を卒業して労働市場に登場したが、70年代から80年代、とくに80年代後半になって以降は20歳過ぎてから労働市場に登場する割合が増えてきている。(略)
リクルート社が、学生による人気ランキングを発表しはじめたのは1966年からだが、日本の高度成長が軌道にのり団塊の世代が労働市場に登場したのはこの時代である。そして現在は中高年となった団塊の世代が、職場から排出される危機を迎え、しかもその子供たちが労働市場に登場しつつあるという皮肉な状況を迎えている。
鉄鋼や金属機械あるいは自動車といわれるモノづくりの産業の関係者の話では「かつて工場は人材の宝庫といわれていた」そうだ。60年代から70年代とは、現代でいえば三Kともいえる現場に続々と若年労働力が集まった時代である。工場では技術革新も創意工夫も労働者自身の手によって積極的に担われた。日本経済も産業も労働力もすべてが若かった時代である。
製造業でいえば造船がそろそろ成熟化し、家電や鉄鋼が伸び盛りの時代であった。65年そのものは山陽特殊鋼の倒産や山一証券危機にみられるように不況のどん底に沈んだ年なのだが、事後的にみればやはり高度成長のただなかにあった。
振り返ってみればこの時代の就職活動は今と比べてそれほど難しいものではなかった。悩むほど選ぶべき職場がなかったからである。銀行や損保に代表されるホワイトカラーの職場はまだ少なく、中学や高校を卒業した者にとっては、圧倒的に製造業や第三次産業の現場が就職先であり、彼らを待っていたのは生産食としての日々である。三Kなどという言葉はなく、したがって「企画、国際、広報」の人気の三Kなどももちろんなかった。
だが今日は給与や休暇などの面はけっして悪くはないのに生産職は不人気である。
(略)
不人気の三K職場からもっとも遠いと思われている業種の一つが旅行業である。「人気ランキング」で上位の常連で、とくに女子学生の選ぶベスト1の職場はJTBだが、人気の高さの背景は、男女の差別がないとか、勤務地域を限定するコースもあるといった、実質的な職場環境が知られているところもあるが、「旅行をする楽しさ」と「旅行を売るしんどさ」の格差がみえないところもかなりある。
JTBの場合は資料請求が例年9万通を超え、説明会には男女合わせて1万5000人を超える学生が参加するという。だから不況が深刻化した93年の場合は、応募者が多すぎたため「やむをえず一次試験はペーパーテストを実施し面接の数を制限した」とのことだ。採用数は300人だったが、「学生は就職に関する情報のとりすぎと面接のテクニックなどの勉強のし過ぎ」だとのことで、「結果的にみな金太郎飴のように同じになってくる」という。
「旅行業とは日々セールスが基本である」とよく説明をし、何度もの面接でも口を酸っぱくして語り、それにたいして「そういう仕事こし自分の希望」と言っていた学生が、「いざ入るとじつにヤワだったりする」そうだ。
ミスマッチは企業も個人も不幸だから避けたいのだが、悲劇は毎年繰り返される。これはどこの産業も共通している。
資料請求の数といえば、㈱ダイエーの場合は93年は7万通きたという。(略)
HONDAは93年は若干採用が少なく、大卒は技術系110人文系40人だが、内訳は理系が60大学、文系が18大学と幅広く採用したという。「本当は公務員試験のように最初にペーパーで振るい落すのが一番簡単なのだが」幅広くとるためにはそうもいかず、何千人もの面接をこなすことになるのである。
(略)
「どういう採用方法がベストなのかは答えはないが、ダイエーの担当者のいう「採用にかけられるパワーの限界」というのはどこの人事担当者に聞いても悩みのタネである。
(略)
ともあれ「不況だからといっていきなり採用数を前年の10%にしてしまう企業があるが、三割四割引ぐらいまでは分かるが9割引となると企業の計画とはどうなっているのか」(中央大学関係者)と信頼できなくなってくる、とのことである。
とはいえ昔の就職活動と違うのは、「気に入ったレベルの企業に行けないのなら、就職をしない」などという例が、とくに女子にはでてきていることだ。学生のほうも厳しさもイマイチなのである。もちろんほとんどの学生は必死であり、「20社30社と落ちまくりゼツボーテキ」な学生の方が多いのは事実にしてもだ・・・。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、50-57頁より引用)。
就職・就社の構造 (日本会社原論 4) | |
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