『アンナ・カレーニナ(中)』-第三篇-31より
「兄の発った翌々日、リョーヴィンも外国への旅にのぼった。汽車の中で、偶然、キチイの従兄(いとこ)のシチェルバッキーに会ったとき、リョーヴィンの暗い顔は、ひどく相手を驚かせた。
「きみ、どうしたんだい?」シチェルバッキーは彼にたずねた。
「いや、べつに。ただ、この世の中にはおもしろいことってあまりないからな」
「とんでもないよ。それじゃ、そんなミュルハウゼンなんてとこよりも、ぼくといっしょにパリへ行こうじゃないか。この世がどんなにおもしろいか、わかるよ!」
「いや、もうぼくにはなにもかも終ってしまったのさ。そろそろ死ぬ時分だもの」
「いやあ、こいつは驚いた!」シチェルバッキーは、笑いながらいった。「ぼくなんか、これからはじめようとしているのに」
「ああ、ぼくもついこのあいだまでは、そう思っていたけれどね。今はもうじき死ぬってことがわかったのさ」
リョーヴィンは、近ごろずっと真剣に考えていたことを口にしたのである。彼はなにを見ても、ただその中に死か、死への接近だけを見るようになっていた。しかし、いったん計画した仕事は、そのためにかえって、ますます彼の心をとらえていった。死が訪れるまでは、なんとかしてこの人生を生きぬいていかなければならなかった。暗黒がすべてのものを彼の目からおおいかくしてしまった。しかし、ほかならぬこの暗黒のために、彼はその中の唯一の導きの糸は、自分の仕事であることを感じ、最後の力をふりしぼって、それをつかみ、しっかりとそれにしがみついていたのであった。」
(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、216-217頁より)