たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出写真_ヴェルサイユ宮殿

2018年04月30日 16時47分37秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 今日はちょっと曇り空、先週の睡眠不足を取り戻すかのように眠る休日、よかった、眠れたよかった。明日はまた稼働日で緊張感が少し高まりつつある月曜日、断捨離は少しずつしか進まず部屋のなかでちっそくしそうになってきたのに耐えられず、つかれてしまってまだまだ荷物ありますがまたスパに逃げ出してきた月曜日。

 ツアー中の2007年10月27日、一人で日帰り英語ツアーに参加しヴェルサイユ宮殿をはじめて訪れました。久しぶりに旅日記、といってもヴェルサイユ宮殿はとてつもなく広いので通常のツアーでプチトリアノンまで行くのは不可能。近くに一泊して自転車で回らないと無理なんですね、見学できるのはほんの入り口部分に過ぎません。だからここまで来たのに、という未練が残りながらも奥の奥までの道のりは果てしなく遠く、現地で購入した日本語ガイドブックからの振り返りです。先日の舞台で、ポリニャック伯爵夫人の「王妃様、お仲間がプチトリアノンでお待ちです」ということばをきいて書きたくなりました。

 二年前の『1789バスティーユの恋人たち』の観劇日記になんども書いたように思いますが、この壮大なヴェルサイユ宮殿を築いたブルボン王朝の負の遺産を背負うことになったのが、アントワネットの子どもたち、とりわけ長男の王太子が病気で亡くなり、革命後次男のルイ・シャルルの人生は悲惨なものだったことを思うと胸がいたみます。その想いを先日の『1789~』の観劇で思い出しました。政略結婚によって嫁いだアントワネットもまた大きな運命のうねりにあらがうことができずにのみこまれてしまいました。舞台では「悲しみの報い」を歌うときの、なにもかも失い、潔く運命に受け入れて天に召されようとする王妃の姿が一番美しいと思いましたが、肖像画でも質素な装いの王妃が美しいなと思います。この肖像画は、2017年1月の「マリー・アントワネット展」にもあったかな。ほんとにきれいな人だったんだあと。王太子が亡くなったあとの、王妃の「わたしは盲目だった」ということばがずんと胸に響きました。語り始めると長くなってしまうので、あとは観劇日記にいつかまたあらためて書ければと思います。

 とにかく広いヴェルサイユ宮殿、鏡の間とその広さを二度も体感できてよかったかな。振り返れば、あの時しかありませんでした。旅もまた一期一会。今のわたしには海外に飛び立てるだけの気力と資力がありません。行っておいてほんとによかったです。まだまだ写真を整理し切れずですが、休日の時間はかぎりがあり今日はこんな感じかな・・・。



旅の思い出写真_スイス・グリンデルワルド

2017年09月11日 19時30分01秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 失業者となって11日目、短期集中のエネルギーのそがれ方は半端ではなく気力が戻ってくるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。自分の部屋にずっといるとちっそくしそう、一日中ひきこまったまま部屋にいるなんてわたしには考えられず、歯医者さんの通院を兼ねて息抜きに外出して、食事とお茶。お金がかかっても、ストレスになっても外に出て人と会うことは大切。

 部屋の中は思い出と共にまだまだぐっちゃぐっちゃであちらもこちらもモノ、モノ、ほこり、ほこり。少しずつがんばって断捨離中。

 スイスで購入した絵葉書が出てきました。自分でもすっかり忘れていました。グリンデルワルドからスイスアルプスをのぞむ絵葉書。きれいですね。ここに鉄道を通そうなってすごいことスイスの人は考えたもんだとあらためて思います。20歳の頃、今井通子さんの『私の北壁』『続私の北壁』を愛読し、講演を聴いたこともあるので、アイガーのお腹を登山鉄道で抜けた時は本当に不思議な心持ちでした。この旅の前に本を読み返したかったですが時間がありませんでした。今ならできるかな。




上のはがきの住所欄








上のはがきの住所欄







上のはがきの住所欄






上のはがきの住所欄



旅の思い出写真_ルーヴル美術館

2017年06月09日 18時43分05秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 2007年10月26日(金)、日本人向けのルーヴル美術館の鑑賞ツアーに参加しました。

「12世紀の終わりごろ、パリはセーヌ河をはさんで南北に広がり、ヨーロッパでも有数の都市に発展していました。時の王、フィリップ二世は十字軍遠征で首都を離れるにあたり、この街を全長5キロの堅牢な市壁で囲うように命じます。しかし東西に流れるセーヌ河が中心部を貫通しているかぎり、街全体をぐるりと壁で囲いこむことはできない。そこで1190年頃、外敵の侵入にそなえ、セーヌ河の出入りを監視するための城壁が築かれました。これがルーヴルのはじまり。」

(『一日で鑑賞するルーヴル美術館』、新潮社発行より)。


 迷宮。とにかく広いし、天井が高い。出口がいくつもあるし、同じような雰囲気の部屋が続いているのでツアーが終わって一人になると、出口がわからなくなってしまいそうでおそろしかったです。ちゃんとホテルまで帰れるのかな、緊張。フランス語の「出口」と「お手洗い」の単語は、指差し単語帳で覚えていきました。出発前、ガイドブックを読んでここのカフェに行こうなんて考えていましたが、広くて広くてとても無理。とにかく自分が今どこにいるのかわからなくなってしまわないようにするだけで必死の冷や汗ものでした。

 美術を鑑賞するには、一日ひと部屋かふた部屋まで。そのペースでルーヴル美術館の全作品を鑑賞しようとすると何年もかかる、これだけの作品があると、駄作もあるというガイドさんの説明でした。何年だったかな。ちょっと忘れてしまいました。天井が高くて広いので、混みあっていても真ん中に置かれているソファに坐って絵と対話しながら鑑賞できる余裕あり。ルーヴルではじて、ゆっくり絵と向き合い対話するという経験をしました。この時以来わたし美術館を時々訪れるようになりました。
 
 鑑賞ツアーで出会ったのは、3階フランス絵画、2階絵画部、1階彫刻部のほんの一部。ドラクロワの『自由の女神』(『レ・ミゼラブル』でガブローシュのモデルとなったとされる少年が描かれています)、ラファエロの『聖母子像』、『ナポレオン一世の戴冠式』。サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスにも出会いました。女性の日本人ガイドさんの説明する姿があつかったです。もちろん何もみることなく、全部頭にはいっているんですね、素敵でした。

 『モナ・リザの部屋』はさすがの人込みでした。(この部屋、日テレがお金だしているんですね。)モナ・リザを囲む半円形の手すりは人、人、人。その間をぬって小さいわたしは手すりを周りを端から端へと何度もゆっくりと往復しました。照明がいいんでしょうね、不思議ですが角度によってモナ・リザの表情が違うように感じられたんです。いい絵は鑑賞するその時々の心情によっても違ってみえてくるとか。なにか今もダ・ヴィンチがそこに息づいているような、ほんとにモナ・リザが微笑みかけてきてくれているような、モナ・リザと、ダ・ヴィンチと対話しているような不思議な感覚でした。なんとなく想像していたよりも小さい絵でしたが、ものすごいエネルギーを放っている感じがあって心が揺さぶられました。わたしの稚拙な言葉ではうまく言い表せませんが、感動のひとときでした。傷んできているので、もう海外に貸し出されることはないとのこと。日本からはるばる飛行機に乗ってここまでこないと出会うことができないというのも希少価値を高めますね。

 モナ・リザと対話するひとときを過ごしたあと、振り返れば『カナの婚礼』という壮大な絵が。作品ひとつひとつ突き詰めていこうとするときりがありません。やっとここまで書けました。 

チケット。



パンフレットは、フランス語・英語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語・中国語・日本語の7か国語が用意されていたかな。日本語版があるのを当たり前みたいに思うのこわいなって思いました。翌年だったかもしれませんが仲間とはぐれてしまったらしき韓国人女性に声かけられました。なにもできませんでした。韓国語版のパンフレットはありません。



















買い物袋、B5サイズのノートを購入しました。





旅の思い出写真_パリ市内

2017年06月07日 16時31分38秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 ぐちゃぐちゃになっていた10年前の旅の写真の整理がついてきて、わたしの気持ちの整理もついてきて、最終地パリへとたどり着き、旅の終わりがみえてきました。

 パリへたどり着いた翌日、2007年10月26日(金)、日本を出発して7日目、午前中はツアーに組み込まれたパリ市内観光ツアーに参加しました。シャイヨー宮、コンコルド広場、ノートルダム寺院、シャンゼリゼ通り、凱旋門、オペラ座、エッフェル塔、マドレーヌ寺院とバスに乗り点で移動。10月のヨーロッパ、小雨が降り、ものすごく寒かったです。日本で真冬に着るコートを着ていました。日頃の疲れもあって、体がきつくなってきた記憶が・・・。

 オペラ座周辺はものすごい人だかりで騒然としていて、いつどこでスリに遭遇するかと気が気でなく、オペラ座をゆっくりとめでる余裕はなかったような記憶が・・・。

 エッフェル塔のすぐ近くに立った時は、写真などであまりにも触れる機会がありすぎたからか、なんだか本物の近くに立っているという実感がありませんでした。わざわざパリまできたのに不思議な感覚でした。パリにきたんだと実感がわいたのは、シャンゼリゼ通りを歩いたとき、凱旋門がみえてきた時だったでしょうか。

 午前中のツアーが終わったあとは、ライン川クルーズでご一緒させてもらった女性の二人連れと一緒にお昼をいただきました。中華だったかなあ。すぐお隣のテーブルでは、あでやかな赤いお洋服を着こなした、白髪の美しいご年配の女性が旦那さんと一緒に好奇心いっぱいの瞳で箸を使って食事されていました。パリへやってきたんだと実感したひとときでした。

 パリはそれほど広くないので歩く街。食事が終わると地図をみながらわたしはルーヴル美術館の鑑賞ツアーに参加するため、日本人向けツアーをやっている旅行会社へ歩いて向かいました。お二人も地図をみながら徒歩で観光へ。地図の通りの名前はフランスなのでストリートではなく、アベニューなのだとお二人に言われて、そうでしたと納得。細かく思い出すことはできませんがデパートの角を曲がったところにあるツアー会社までドキドキしながら一人で歩いて行きました。ルーヴル美術館の鑑賞ツアーが終わるとシャンゼリゼ通りを足が痛くなるほど歩き、ホテルまで戻ったかな。ルーヴル美術館を出たあと、観光客に道をたずねられたような記憶が・・・。わたし、馴染んでいるようにみえたのでしょうか。

 地下鉄に乗ったのは翌年再びパリを訪れた時だったので、この時は全て徒歩でした。シャンゼリゼ通りを歩いていたとき、足元からなにか人が生きているエネルギーが伝わってくるような感覚がありました。パリは基本宵っ張りの街だという説明でした。ホテルに戻ると歩き疲れ、お腹もすいていたので一階のレストランで食事。前菜、スープ、パンを注文して、これで全部ですとおぼつかない英語で伝えたらお店の人がびっくりぽんな表情をしていましたが小さい体の日本人にはこれで十分。メインディッシュのお肉を、大柄なヨーロッパの方々が召し上がっているのをみただけでお腹いっぱいになってしまったんです。翌年安いツアーで再びパリを訪れた時、このホテルを素通りしなければならなかったのはつらかったです。お値段の差は、ホテルのランクに歴然とあらわれるのだと知りました。

 そんなこんなでルーヴル美術館鑑賞ツアーに参加した翌日、旅の最終日は午前中ヴェルサイユ宮殿の日帰りバスツアーに一人で参加、パリへ戻ってきてからは午後ツアーメンバーの女性ふたり連れとたまたま一緒にセーヌ川クルーズに参加。たどたどしい英語でなんとか乗り切り、夕刻ドゴール空港へ。20時発の成田空港行きの飛行機に乗ったのでした。成田空港の文字が見えた時、現実が戻ってきた時、「いよいよ日本へ帰っちゃいますね」「現実ですね」「帰りたくないですね」とツアーメンバーと会話。帰る場所があればこその旅。同日日本を出発する予定だった同じツアーは、台風のため出発できなかったとのこと。わたしはやっぱり運のいい、晴れ女でした。







旅の思い出写真_ローザンヌからパリへ

2017年06月04日 19時07分22秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 2007年10月25日(木)、日本を出発して6日目。スイスのジュネーヴ、エリザベートが人生の終焉を迎えたレマン湖のほとりを経て、ローザンヌ発パリ行きのTGV(Train a Grande Vitesse高速列車)にて3時間半ほどの鉄道の旅。ドイツのライン川からスタートした旅の思い出はようやく終わりへと近づいてきました。パリではルーヴル美術館で「モナ・リザ」と出会った時の感動を書きたいのですがその前にフランスの新幹線TGVのお写真を。

 昨今はデジカメで撮影した、解像度の高い写真がウィキペディアなどにどっさりあって、こんな写真珍しくもなんともないですが、わたしにとっては10年前国家試験に合格したご褒美にやっとの思いで有給休暇をとって出かけた贅沢な6泊8日のヨーロッパへの旅の思い出の一頁。気がつけば10年の歳月が流れ、運とタイミングで資格を生かして仕事をする入口に立つことができているわたし自身のための、これもある意味断捨離。この旅に出発できるまでが長くって長くってがむしゃらでした。時差12時間、日本を真逆なので現実を大いに忘れることができました。苦しくって苦しくって仕方なかった会社げの現実を忘れることができました。やっとたどり着いた旅の時間。車窓からの景色がきれいで幸せでした。

 車中では、わたしボックスで一人でした。ツアーに一人参加していたのがわたしだけで他の方々は二人連れがほとんどだったのでそうなりました。ちょっとさびしんぼうでしたがおかげで車窓を流れていくフランスの田舎の景色をゆっくりと味わうことができました。お昼に日本のお弁当が出ました。ツアーでご一緒だった方々が時々話しかけてくれたりもして嬉しかったです。会社の二人労働のストレスで疲弊しきっていたわたしには一つ一つ小さなことが沁みました、ほんとに。

 車内は日本のようなアナウンスは一切なく、大都会パリへと向かう平日のお昼間、ひたすらパソコンに向かうビジネスマンが多くて静かでした。添乗員さんに一番気をつけるようにと何度も案内があったのがスリが多いということ。そう言っている添乗員さんが、お手洗いで席を立つ時ノートパソコンを置きっぱなしにしていくので心配しました。わたしたちツアー客がみていたので盗まれることはありませんでしたけどね。

 パリへ到着して列車を降りると、途端に喧噪の渦にのまれました。すぐにスリが忘れ物をあさって車両から車両へとわたるので忘れ物があるなら今すぐですよ、と言われました。ツアー客であるわたしたちの、トランクなど大きな荷物はカートで列車からバスへと運ばれていこうとしていました。わたしはトランクと一緒に大きな手提げかばんを預けたのですが、わたしたちの世話をするために現れた現地の日本人係員に、こんなの簡単に引き抜かれますから手持ちしてくださいと注意を受けました。ホテルに到着したわたしたちツアー一行は、のんびりとした田舎から久しぶりに大都会にやってきたおのぼりさんのような気分でした。緊張感を強いられる大都会パリの喧噪についていくことができなくて、びっくり状態でした。

 そういえば日本人向けの現地ツアーを企画する旅行代理店のガラス扉に、ここからバスに乗る間に荷物をひったくられることがあるので注意するようにという内容の張り紙がありました。なんだかんだいっても日本はまだまだ安全。カナダのプリンス・エドワード島もわたしのような英語がおぼつかないものが一人でひょこひょこ行けたのだから安全かな。旅に出たらツアーであってもリスクを意識して自分の身は自分で守る気構えが大切なのだとあらためて思いました。何があるかわかりません。日本にいるのと同じようなつもりでいると大変なことになるという意識は大切。パリ市内を歩くとき、バッグは必ず斜めがけ。「見かけなんか気にしないでください。パリの人もみんなそうですから。」現地係員の方の注意で目が覚めました。






ホテルへと向かうバスの中から撮影したパリ市内。
マリー・アントワネットが最期を迎えた場所は今は観覧車がある所だという説明でした。


旅の思い出写真_ロマンティック街道_ヴィース教会

2017年05月23日 23時14分23秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
「牧草地の丘の上にポツリと建つ教会。その外観をみただけでは、ヨーロッパで最も美しいロココ教会として、年間100万人以上が訪れる場所であると気が付くことはないだろう。しかし、内部に足を踏み入れると、一瞬のうちに外界を忘れさせるような豊かな色彩と華麗な装飾の世界に圧倒される。

草原の奇跡
 ヴィースとは、ドイツ語で草原や牧草地という意味。その起源は1730年、地元の農夫が持っていたキリスト像が、突然涙を流し出したという奇跡にさかのぼる。このキリスト像をひとめ見ようと集まる人々のために小さな巡礼堂が建てられた。その後、この像に祈って病気が治ったという奇跡も加わり、ヨーロッパ各地から巡礼者が続々と押し寄せてきたため、より大きく立派な教会堂を建てることになった。

 設計建築は名匠ドミニクス・ツィンマーマンが担当し、天井画はミュンヘンの宮廷画家だったヨハン・バプティスト・ツィンマーマンの作品。ツィンマーマン兄弟は多くの教会建築を手がけてきたが、それまで得たあらゆる経験をヴィース教会に注ぎ込み、1754年に完成した。

天井画:壮麗な天界を描いたフレスコ天井画。緩やかなドーム状に見える天井だが、目の錯覚を利用した絵画技法のせいで、実際はほぼ平面の天井。入口近くの天井に描かれた茶色の扉は天国の門。中央部の虹の上に座るのは復活したイエス・キリスト。雲の上には天国の鍵を持つ聖ペテロ、槍を持つ天使ミカエルも描かれている。

柱飾り:身廊を取り囲む、華麗な柱飾りには金がふんだんに施されている。正面の中央祭壇を取り囲む大理石模様の柱には、漆喰に彩色を施したもの。柱の赤い色は自ら犠牲になったキリストの血を表し、青は天の恵みを表している。

奇跡のキリスト像:主祭壇に祀られている、鎖でつながれた姿の「鞭打たれる救い主像」が、涙を流したという奇跡の像。」


(『地球の歩き方 南ドイツ ’07-’08』より。)


2015年5月17日の記事、旅の思い出写真_ノイシュバンシュタイン城
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6dca1ae239cd6c0c63855846dd2e1085

ライン河クルーズ→ロマンティック街道・ヴュルツブルク市内見学→ロマンティック街道・ローテンブルク市内の見学→スイスアルプスへとバスで長期離移動している途中で見学しました。
移動途中からだんだんと雪が舞い始め、どんどんと降りしきる感じになっていって、
お城に着いたころにはすっかり雪に包まれていました。
雪が降ると静寂感もあって、途中の雪景色も、雪に包まれた城も、すごくきれいでした。

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 ロマンティック街道からスイスアルプスへと、ドイツの牧草地帯を観光バスで走り抜けていく途中、雪の降りしきる中に教会がポツンと建っていました。ノイシュバンシュタイン城を見学する前だったと思います。ヴィース教会という説明でした。外観だけで内部は見学しなかったかな。急いで写真だけ撮りました。日本を出発してから四日目。2007年10月23日でした。農村地帯に入ってくると、ほとんど建物らしい建物がないところに雪が舞い散り始め、山が近づいてくると雪がどんどんはげしくなっていく光景に、わけもなくワクワク感が高まっていったことが思い出されます。この旅に出る前がすごく長くてつらかったので、バスの中からみえる光景に、雪に包まれているようなあたたかさを感じて幸せでした。

 10年前の旅の思い出すらまだ整理しきれておらず、まだまだぐちゃぐちゃ状態。写真も、忙しすぎて何年も整理できていなかったのが三年前からぼちぼちと整理できるようになりましたが、まだまだぐちゃぐちゃ状態でチャンネルで公開するに至らないまま、やっとまた更新できました。日程順に書けていないのでわかわかんないですね。スイスアルプスのことはすでに書いたので、このあとようやくスイスアルプスから、パリへと移動したことを書けます。数日田舎を巡った後だったので、パリに着いた時には突然大都会に出たおのぼりさんみたいになってしまいました。すっごい緊張。スイスからフランスへと国境を越える時、30分だけオーストリアも通過しました。国境を越える。同じ地続きなのに、番兵が立っていて門が開けられないと通過できませんでした。日本では経験することのない不思議な感覚でした。バスによる周遊ツアーのいいところですね。ツアーもわたしの中では旅、旅行ではなく旅です。
  







旅の思い出写真_ロマンティック街道_ローテンブルクの聖ヤコブ教会

2016年11月13日 22時01分40秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 わたし自身のための旅の振り返り。ある意味これも断捨離。まだまだ続きます。

「聖ヤコブ教会St-jakobs-Kirche

1311~1490年頃までの長い建築期間を要して完成したゴシック様式の教会。
ローテンブルクの主教会であり、1544年からはプロテスタントの教会となっている。

 1505年に完成した有名なリーメンシュナイダーの聖血の祭壇Heilig―Blut―Altarは、入口から左側奥の祭壇を上った所にある。

 祭壇中央は「最後の晩餐」の場面。中央で斜め後ろ向きに立つのがユダで、イエス・キリストから差し出されたひと口のパンを受け取ろうとしている。このときイエスが「皆の中で誰かが私を欺くであろう」と言った言葉に対する使徒たちの驚きととまどいの表情。リーメンシュナイダーの卓越した技術が緊張感あふれる場面を作っている。」


(『地球の歩き方_南ドイツ_’07-08』より引用しています。)

 わたしが撮った写真は使い捨てカメラで撮ったこの一枚だけ。ツアーで一緒の方々は何枚も何枚も撮影されていましたが、わたしは写真を撮るよりも目の前の彫刻をみることに集中したかったと思った記憶があります。木の彫刻はぬくもりを感じさせてくれました。




「ティルマン・リーメンシュナイダー(Tirman Riemenschneider 1460頃-1531)はヴュルツブルク(wuerzburg)に工房を構えていた彫刻のマイスター(Meister 職人で最高の親方資格)で、ヴュルツブルクの市長も務めた人物です。1524年から始まったドイツ農民戦争への加担により逮捕されて、失意のままに没したそうです。リーメンシュナイダーは教会の祭壇や墓碑などの彫刻を多く手がけ、南ドイツの色んな町の教会で彼の作品を見ることができます。ここローテンブルクも例外ではありません!旧市街で一番大きい聖ヤコブ教会で彼の作品を見ることができるんです。」

上記は、エイビーロードのサイトより引用しています。
https://www.ab-road.net/europe/germany/rothenburg/guide/00905.html


エイビーロードのサイトよりお借りした写真を載せます。

リーメンシュナイダーの最高傑作と言われる聖ヤコブ教会の聖血祭壇。




聖ヤコブ教会の最後の晩餐の様子。



こんな細やかな彫刻。すごいなあと思いながらみた記憶がよみがえってきました。

わたし自身のための旅の思い出し旅日記でした。

旅の思い出写真_ロマンティック街道_ローテンブルクの町並み

2016年10月29日 23時10分03秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 わたし自身のための旅の振り返り。こちらの2016年10月7日の記事の続きです。


旅の思い出_ロマンティック街道_ヴュルツブルク_レジテンツ
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/153e4533284f82c175eb9463ef2c55e3


旅程どおりに書けていないのでわかりづらいし、旅日記はないのでたいしたことありませんがよろしかったらお読みください。(修正が必要な箇所もありますがまた後日・・・)。


 2007年10月21日(日)ヴュルツブルク市内のシュタインブルクという古城ホテルに宿泊した翌朝、2007年10月22日(月)ローテンブルク市を訪れました。

古城ホテルでは、夕食にフランケンワインを少しですがいただきました。一人参加のわたしは添乗員さん、新婚旅行のカップルと四人テーブル。なにげに緊張しました。こういうツアー、基本は苦手ですが自力でバスを乗り継いで旅をするのは無理なところなのでよかったかな・・・。復習してみると、古城ホテルはぶどう畑の上にたっていました。だから夕食にはワインでした。

2015年5月24日の記事にも古城ホテルのこと書いてました。
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/365106718453207fc025f76bef4211c2

 ローテンブルクでは晴れわたった寒い空の下、3時間ほど歩いたでしょうか。こじんまりとしたあったかい街並みでした。


引用は全て『地球の歩き方 南ドイツ ’07-’08』からです。

「ローテンブルク Rothenburg

 13世紀に帝国自由都市となり商業で繁栄したローテンブルクは、17世紀の三十年戦争で痛手を受けて衰退し、歴史から忘れさられていた。しかし、そのおかげで中世の姿を完全に残していた町は、19世紀にロマン派の画家によって描かれて、広く世界に知られるようになった。

 第2次世界大戦では町の約4割が焼失したが、そう言われなければわからないほど中世の姿が忠実に再現されている。厳しい建築条例を定め、美しい町並みを保存するために並々ならぬ努力が払われている。中世の世界に浸りたかったら、観光客の雑踏のない早朝に散策に出るとよい。」



「マルクト広場 Markt

 マルクトとは英語のマーケット、つまり市が立った広場で、ドイツの中世都市の中心となった場所だ。今も、ローテンブルクのお祭りやクリスマスマーケットの舞台となる。

 切妻屋根の壁に時計がある建物は市議宴会Ratstrinkstube。ここは市議会員が集った宴会場だった。ドイツの町の市庁舎には地下に宴会場(ラーツケラー)があるのが普通だが、ローテンブルクでは、別に独立した建物を設けた。

 建物の外壁を飾るのは、一番上に日時計、その下に日付を示す文字盤と時計。11:00、12:00、13:00、14:00、15:00(夏は21:00、22:00も)になると時計を挟んだ左右の窓から「マイスタートルンク」の主役ティリー将軍(向かって左側の窓)と、大ジョッキを手にしたヌッシュ市長(右の窓)が現れ、市長がワインを飲み干す。マイスタートルンクの物語にちなんだこの仕掛け時計はローテンブルクに来たら一度は見ておきたい。」(マイスタートルンクの物語は後日『地球の歩き方』よりご紹介)。


マルクト広場前。



日時計。




「ケーテ・ヴォールファールトKathe Wohlfahrt

 ローテンブルクで一番人気の見どころともいえるショップ。世界で最初の1年中オープンしているクリスマス用品専門店。1日中いても飽きない楽しさ。店内にはドイツ・クリスマスミュージアムもオープン。」

広くていろんなクリスマスがあって楽しいお店でした。もっといたかったなあ。



他の記事で使っていますが「ケーテ・ヴォールファールト」の英語のパンフレット。





日本語のパンフレット。



自分へのお土産を買った時の紙袋。




他の記事で使っていますが、可愛い看板が並んだ通りでした。
歩きながら携帯で撮らないではいられませんでした。(解像度は低いです。)




「ブルク公園

 町の西端にそびえるブルク門をくぐった所に広がる公園。12世紀に築かれた城(₌ブルク)の遺構が一部残る。旧市街の南東部に広がるタウバー渓谷を眺められる絶景ポイントになっており、足を運ぶ価値がある。」

ブルク公園から市内を一望。





旅の思い出_ロマンティック街道_ヴュルツブルク_レジテンツ

2016年10月07日 16時52分00秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
2007年10月21日(日)、旅の二日目、午前中ライン川クルーズを楽しみ、午後バスでロマンティック街道の出発点ヴォルツブルクへ。2時間ほど徒歩で観光。マリエンベルク要塞に続いてレジテンツを訪れました。


「レジテンツ Residens

ユネスコの世界文化遺産に指定されているレジテンツは、1720-1744年に大司教の宮殿として建てられた。基本設計は天才建築家とうたわれたバルタザール・ノイマン。


玄関ホール
 昔は入口の扉はなく、6頭立ての馬車がこの中まで入ってきて階段の間の前で人が乗り降りしていた。そのため床は馬の蹄が滑らない石を使用し、天井も高く広々と造られている。

庭園の間
 玄関の奥にある部屋。上階には同じ面積の皇帝の間があるが、部屋の中に回廊のように12本の柱を立ててあるため狭く感じる。柱上部から天井にかけては繊細なスタッコ(漆喰)装飾、「神々の饗宴」と「女神ダイアナの休息」を描いた天井画が見られる。


階段の間
 レジテンツで最も有名な場所。ドイツバロック建築の精華、天才バルタザール・ノイマンの最高傑作で、階段だけでなく、そこから上がった二階の巨大な天井画部分までを指している。
 天井画はベネチアのフレスコ画の巨匠ティエポロが1752-1753年に描き上げた。面積は18*32m、奥行が約5mある丸天井に描かれており、世界で一番大きいフレスコ天井一枚画。天井画は、世界の四大大陸(当時オーストラリアはまだ知られていなかった)を表している。
 この絵の下部の一番手前に見える位置で、紫の軍服を着て、大砲の上に横たわっている人物が建築家バルタザール・ノイマン。自分の設計した階段の間を満足気に見下ろしているようだ。


白の間
 階段を上がって正面、最初の部屋。壁画と天井には、白いレースのように繊細なスタッコ(漆喰)飾りが施されている。前後の部屋が色彩豊かであることを計算して、この部屋はあえて白一色にして、視覚効果を計算している。


皇帝の間
 レジデンツでひときわ豪華な部屋。入って右側(南側)の壁画は、1156年にヴュルツブルクの大聖堂で行われたた皇帝フリードリヒ赤髭王と、ブルグンドのベアトリクスの結婚式を描いたもの。
 天井には太陽神アポロンの馬車に乗って天空を描けるベアトリクスが描かれている。


ホーフ教会
 レジテンツの南端にある付属教会で、贅を尽くした装飾で知られる。赤、紫、灰色などの大理石に金細工を施した柱、天井には天使が飛び交う。左右の祭壇画は、ティエポオロの作。


ホーフ庭園
 ホーフ教会の先のロココ風の鉄門から入ると、レジデンツの裏側にホーフ庭園が広がっている。幾何学庭園と、木々が生い茂る緑豊かな公園部分からなる。キューピットや子供の彫像が配され、市民の憩いの場ともなっている。」

(『地球の歩き方 南ドイツ ’07-’08』より。)


下記の写真は南ドイツ観光案内のサイトより転用しています。



レジデンツ_バルタザール・ノイマン設計の華麗なバロック建築




レジテンツ_正面入り口前の広場に「フランコニアの泉」と呼ばれる噴水がある




レジテンツ_階段の間、頭上には世界最大のフレスコ画が描かれている






バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。
バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。

(ウィキペディアより)


フレスコ画

アフレスコとも言う。新鮮なという意味のイタリア語で、漆喰を壁に塗り、それの乾かないうちに水性の絵の具で直に絵を描く。石灰の層の中に絵の具が染み込んでいき、漆喰は乾燥が始まると表面に固い透明な皮膜ができるために、それが絵の保護層となって非常に堅牢な画面となる。漆喰が濡れているうちに全て描いてしまわなければならないため、あらかじめその時間内に描ける部分の面積を割り出して下地を作らなければならない。

(美術用語Weblio辞書より)

 現地在住の日本人ガイドさんが何もみることなく、何年何月になにが造られた、どんなことがあったということなど細かく説明してくれました。女性のガイドさんだったと思いますが、すべて頭に入っている姿がすごくかっこいいなと思いました。フレスコ画の技法で繊細な絵を描くのはむずかしい、オーストリアからマリア・テレジアが来訪するのに合わせて豪華な部屋を整えたという話などあったと思います。いろいろと調べ始めるときりがなくなるほどに面白そうですね。

 自分で撮った写真はわずかなのでウィキペディアにどっさりある画像をみながら復習しようと思います。

旅の思い出_ロマンティック街道_ヴュルツブルク_マリエンベルク要塞

2016年09月25日 16時36分41秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 久しぶりの晴れ間、一日だけの休日、わたし自身のための、記憶が薄れてきている旅の振り返り。

 2007年10月21日(日)、旅の二日目、午前中ライン川クルーズを楽しみ、午後バスでロマンティック街道の出発点ヴォルツブルクへ。2時間ほど徒歩で観光。マリエンベルク要塞を訪れました。

「マリエンベルク要塞 Festung Marienberg

 1253-1719年まで、歴代ヴュルツブルク大司教の居城となっていた。城壁で守り固めてあり、要塞兼居城としてかなり堅固で複雑な構造になっている。

 アルテ・マイン橋から、ザールガッセを渡って右に行くと、細い階段の路地が延びている。途中から左に曲がり上って行くとノイトーアNeutorという門に着く。ここが外側の要塞の入口門で、さらに上るとようやく2番目の城壁内に入る。マイン川対岸に旧市街を見下ろしながら、3番目の城壁と建物に取り囲まれた本城へと回っていこう。要塞のすぐ外側、マイン川に面した東側と南側斜面はぶどう畑に利用されている。

 
 本城への入口は、シェレンベルク門Scherenbergtorで、広い中庭には、深さ104mの井戸Tiefer Brunnenと、1200年ごろに築かれたベルクフリート(主塔)Bergfried,706年創立のマリエン教会Marienkircheがある。」

(『地球の歩き方-南ドイツ ’07-’08』より。)

 10月といってもヨーロッパは日本の12月ぐらいの気温。冷たい空気の中を歩いたと思います。『地球の歩き方』にマリエンベルク要塞へ上る急斜面はかなりハードだと書かれています。Wikipediaをみると長い石の坂の画像があります。わたしここを上ったはず。


マリエンベルク要塞の入口



ヴュルツブルクの高台に鎮座するマリエンベルク要塞

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上記2枚の写真は、南ドイツ観光案内サイトよりお借りしました。
http://south-germany.jp/ac/2013/08/post-248.html


 国内の旅、英語圏への旅、いつも自分で予定を決めて宿や移動手段を確保しての一人旅。ツアー旅行への一人参加は不安でした。すぐ人に溶け込むことができないし、自分だけ浮いてしまったらいやだなって。案の定一人参加はわたしだけでしたが何気ない心遣いで声をかけてもらえることが多く、疎外感を感じることはほとんどなくすみました。ツアー旅行、あちらへこちらへと連れて行ってもらえるので正直観光名所のことってあまり覚えていません。移動の途中、バスの中からみた景色や何気ない街の風景などが、なんとなくふっと思い出されます。

 正直、この旅。どこでもよかったというわけではありませんが、行き先よりもとにかく遠くに飛び立ちたいという想いでした。ストレスため込みながら二人分労働をせざるを得なかった日々。オレ達海外出張に行くからあとのことはよろしくね、って言われて、ストレスをため込みながらひとりぼっちで大変な思いをしながらカイシャで留守番していた自分が時にはたまらなくみじめに思えてどうしようもなく、思いっきり遠くへ飛び立ちたかったです。2007年1月末、精神保健福祉士の国家試験受験。3月に合格発表。有給休暇を使い果たしてしまったのでその年の9月まで一日も休むことなくカレンダー通りに出勤して二人分労働。10月1日付でようやくまた有給休暇が発生。9月の中間決算の整理がついた10月後半、ようやく9日間連続の休日をゲットし、遠くへと飛び立ちました。休暇に入る前日はカイシャに一人で10時過ぎまで(夜ですよ)残ってもろもろ段取りをつけ、やっていることが多すぎたのできりがなく、お隣の部署の社員の女性にお願い事項をメールで送信、部署内のメーリングリストに休暇をとる旨送信して、ようやくパソコンを落とすと机の上に「たんぽぽは10月20日から28日まで休みます」と張り紙して消灯、退社。空港へトランクまでも大変だったので、ほんとうに、やっと、やっとでした。だからフランクフルトの空港から、ドイツが輝くような黄葉でわたしを迎えてくれたときはほんとうにうれしかったです。ヤッター、晴れ女パワー。到着日の夕方、黄葉の絨毯に包まれた公園をひとり散歩した時は、いいようのない幸せ感に満たされていました。その時間を忘れることはありません。

 この頃、モンゴメリさんの最期が自死だったと知り、妹のことがあるので『赤毛のアン』を封印しました。だからプリンス・エドワード島に旅するという発想はこの時はありませんでした。結果的に、『エリザベート』を観劇したり、昨今の世界ニュースをみるにつけ、こうして一度はドイツ語圏に行っておいてよかったと思います。安くはないお金と時間をかけて、その場に行かないとわからない空気を体感することは大切ですね。

 書き始めると止まらないので、また長文になってしまいました。