医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

百年の孤独な南米美感2

2007年01月31日 12時29分43秒 | Weblog
 マジックリアリズムはそもそもドイツ生まれだそうです。

 日常の即物的現実的事象に、幻想的・突飛な噂話や空想などをあえてごちゃ混ぜに書いていくことによって、より幻想的でポワポワ~ンとなるんだけれども、リアリティもいっそう強調されるという方法です。

 現実と幻想の境界を不明瞭にしていって、全体のイメージを造り上げ、出来上がりのイメージを強烈に仕上げる分、現実もなおさらいっそう明瞭になるっていうのかな・・・。

 誇張やうそ、フィクションとはまた違うんですよね。

 日本でもマジックリアリズムに影響された小説をよく目にしますよね。

 中上健次、ノーベル賞作家の大江健三郎、筒井康隆に、ごひいきの町田康だって、僕が大好きな安部公房にもその影響が感じられます。

 一方、人間の「意識」というものは、常に論理的で時間軸に沿ったものではなく、あちゃこちゃ飛ぶものだし、うつろうものであり、断片的多次元複数同時進行ですよね。

 例えば朝シャワーを浴びながら、口には出しませんが頭の中で、お湯の温度がどうだとか、シャンプーの匂いがどうだとか、同時に腹が減ったので朝食の事を考えつつ、昨夜の夢や、今日のこれからの仕事のことや、あの人のことを考えたり、しょうもないことや、えげつないことを空想をしたりしつつ、鼻歌を歌ったりしながら・・・瞬間的には一つのことしか考えられないので、常に正確に同時とは言いませんが、断片的に多次元的に進行してますでしょ。

 それを文学用語では「意識の流れ」と言います(たぶん)。

 意識の揺らぎといってもいいでしょう。

 また、記憶には別段意識していないのに突然勝手に向こうからやってきて(もちろん、あ、この匂い・・などとトリガーはあるのでしょうけれども)、頭の中で展開されてしまうものもあります。

 それに言葉として発している意味と、本当の率直な心情や意識は異なるものです。

 それらをベンヤミンやプルーストの「無意志的記憶」、後者を「内的独白」と呼びます(きっと)。

 通常の映画やテレビドラマや小説でも漫画でも、この「意識の流れ」をはじめとする意識の揺らぎを再現することなく(再現も不可能ですが)、口に出した単一的な意識にだけ基づいて進行させざるを得ないところに、しらじらしさを感じてしまい、リアリティが欠けてしまうことが、僕にとって子供の頃からず~っと不満な、変わった子供でした。

 特に演劇は、日常の実際はあんなふうにしゃべらないよなって思うだけで興ざめだし、今でも「ぬゎにぃ~」などと大げさに目を剥くような華麗なる一族な演技を見るともうダメ・・・

 多次元の人間の思考や意識を、表現物として完全に二次元や三次元で表現しようとしても、ツール上無理と限界があります。

 「意識の流れ」に関してはイギリス文学が草分けであり、アメリカのフォークナーもその代表のひとりです。

 意識の流れやリアリズムを意識して、よりリアリティを与えるのに映画の世界で導入されたムーブメントが「ヌーベルバーグ」・・・と勝手に思い込んでおります。

 ヌーベルバーグに関しては、またいずれやりましょう。

 フォークナーの流れを汲むマジックリアリズムにも、そういった役割もあると、これまた勝手に解釈しておりますが、間違っているかもしれません。

百年の孤独な南米美感1

2007年01月30日 12時10分57秒 | Weblog
 「百年の孤独」といっても、焼酎ではありません。

 「ガルシア=マルケス」といっても、洋服のブランドでもありません。

 カラマーゾフで勢いがつきましたので、ロシアのドストエフスキーに続いては、南米はコロンビアが生んだ巨匠、ガブリエル・ガルシア=マルケスに挑みたいと思います。

 さてみなさまは、「マジックリアリズム」をご存知ですか?

 小説の技法のひとつです。

 そしてノーベル賞作家にて「マジックリアリズム」の使い手が、南米コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスです。

 1967年に発表された「百年の孤独」の作者ですが、この「百年の孤独」は世界の30か国以上の国語に翻訳され、全世界で3600万部以上の世界的ベストセラーとなりました。

 え~と世界の人口を65億6700万人として、な、なんと世界中の赤ちゃんまで含めて182人に1人は読んだ計算です。

 数字だけ見れば、みなさま方の中でも、読まれた方も多いことでしょう・・(ほんとに??

 僕は「百年の孤独」なんて聞いたこともないよ、ってのがこの本に出会った大学生のときの正直な感想でしたけど・・・。

 あの頃はインターネットなんかなかったから、たとえどこかで聞きかじって興味があっても、調べようもなかったもんですが・・・便利になりましたよねえ。

 今から25年前の1982年にマルケスはノーベル文学賞を受賞したのですが、ノーベル文学賞は毎年1名が定員ですけれども、現在ラテンアメリカで5人もの受賞者がおります。

 実はラテンアメリカ文学はかくも格調が高いものですが、奇をてらったようなアヴァンギャルドすぎる傾向もあると思います。

 このガルシア・マルケスはどちらかといえば正攻法です。

 そもそも「ウィリアム・カスバート・フォークナー」というアメリカのノーベル賞作家がおり、彼はライバルのヘミングウェイと比べると日本での認知度は低いのですが、フォークナーが作家に与えた影響は非常に大きく、マルケスもその一人とされております。

 そしてガルシア・マルケスが操る「マジックリアリズム」という文章の技法は、ラテンアメリカ文学で花が開きました。

 そんなもんちょこざいな、大体小説なんてもんは・・・と言ってしまえばそれまでですが、まあまあ・・。

 マジックリアリズムという言葉を初めて聞いた方は、中南米文学ということを参考にして、またこの言葉の持つ響きや意味から、いったいどんな技法なのか想像してみてください。

カラマーゾフ的美意識14

2007年01月29日 13時25分19秒 | Weblog
 本当はこの後、いじめや幼児虐待、宗教観について考察し、毎度中年の主張をくどくどと書く予定でしたが、今までの繰り返しになってうざいし、ウェットになるので急遽やめることにします。

 要点は、いじめについては大人が会社でまずやめなきゃだめ、宗教観は親である大人がまず持たなきゃだめ、子供より僕たち普通の大人に問題がある、というこってす。

 それでもってよそさまには60点で合格、悪意がなければおおらかに赦しあって、「地上のパン」よりも大切なものを守りましょうってなことっす。



 最後に、この世で最も信じる力が強大な「宗教」について考えましょう。

 宗教は神が本当にいるのかいないのかではなく、信じるか信じないかだと思います。

 では神を信じることによって、この世に平和が来るのか?

 残念ながら答えが「否」であることは、昨今の宗教対立がもたらす世界情勢を見れば明らかのような気がします。

 しかしそれは神を信じるのに平和が来ないのではなく、信じ方が不十分というか、国家間のエゴの張り合いや、利権、欲望、憎しみ・・・本格的な宗教的対立というより、そういった宗教を超えた人間の業(カルマ)による対立に宗教がリンクされているだけかもしれません。

 また、神が世界を作りたもうた訳ではない可能性も、理性的に感づいてしかるべきでしょう。

 であればいっそ宗教など必要ないのではないか?

 ところが当然のことながら人類は、例えば医学的な問題だけでも、胚細胞問題や、代理出産、臓器移植問題など、その歴史上経験のないことにも遭遇します。

 そのときにどう判断したらよいか、誰も経験はないのですから、真の正解は誰も分かりません。

 最大公約数で判断するしかないのですが、それすらもできない究極のケースもあるでしょう。

 人類の共通の取り決めや倫理観があればまだ一助にはなるかもしれませんが、それが神や宗教かもしれないし、そのことが精神的支柱になることでしょう。

 神に思いを馳せるとしたら、それは人間が歴史をつむいでいく過程で、守らなければヒトが滅亡してしまうような大切な倫理観や正義や、人として最低限尊重すべき道徳観というものがあって、その究極にある非人間的な万能の統治者かなあ・・・なんて。

 人間の意志を超えた形而上学的な場所にこそある力、それは人生の個々の不条理を超え、人間の宿命を裏付ける絶対的な力、そして古代より脈々と流れる人間としての作法や行儀。

 神である以上、不完全な人間を絶対的に従わせるために、万能でなければ困るわけで・・・



 でもね、日本はひざまずくべき絶対神はいませんが、実際にそれほど暮らしにくくもありません。

 不思議なもので日本では、猟奇的殺人も少ないし、銃を乱射する犯罪人も少ないと思いますし、路上でつばを吐く人間も少ないようにも思います。

 しかし一方現代日本では、たとえ不完全な人間としての他者の目を盗むことができても、お天道さま、神さまが必ず見ているという絶対道徳心や、弱者を思う正義感などに欠けて来ていることは事実です。

 だから他人の目を必要以上に気にかけたり、ごまかせればそれでいいやと他人の目を盗むことにエネルギーを浪費しすぎですよね。


 同じ日本人である同胞や、他国の人々を同じ人類として愛する気持ちだとか、思いやりや優しさが、宗教と直接的な関係があるかどうかは、僕も分かりません。

 しかし地上のパンよりも、個人よりも、大切なものを感じるには、やはり宗教的感情も必要なことかなあとこのごろ強く実感します。

 そしてもう少し他人に優しく、思いやりだとか、寛容だとか、恕する心を持って、柔和で、おおらかで、陽気で、いい意味でのアバウトな態度が必要なのではないかなあと・・・宗教とは究極は死生観と他者を慈しみ思いやる人間愛のことなのかな??

 僕も不完全ながら気をつけております・・・。

 「納得できないっ!」ではなく赦しあいませんか?

-カラマーゾフの終わり-

カラマーゾフ的美意識13

2007年01月28日 09時53分19秒 | Weblog
 昨年の1/31に、このブログの「美しくも尊い勇気」で、2003年1月26日の新大久保駅でのホームから転落した男性を助けようとして死亡した、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんと横浜市のカメラマンの関根史郎さんについて書きました。

 その李秀賢さんの半生記の映画が完成したそうです。

 よく調べてみると、李秀賢さんの葬儀には森(元)総理が参列したそうですし、その後追悼碑の序幕の際ご両親は、森(元)総理を表敬訪問され、森(元)総理は直接お礼を述べたそうです。

 さらに今回映画の試写会に異例にも天皇陛下がいらっしゃり、李秀賢さんのご両親に直接お礼されておられました・・・少し安心しました。

 李秀賢さんには日本から、たくさんの手紙や弔電が送られ、寄付も送られてご両親は基金を作られたそうです。

 このニュースがトップニュースになっていたことに、とっても感激し、もっともっと英雄を称えて欲しいと改めて思いました。

 そして今回名古屋でやはりホームに転落した方を、電車がホームに入ってきたにもかかわらず、果敢にホームに飛び降りて救出した女性1名を含む3名の方々には、通常国会にお呼びして、叙勲し、みなで褒め称えたいものです。

 素晴らしい方達がいらっしゃるものですね、世の中・・・。


④【美】

 これは囚われの身となったミーチャが力説しますが、

「美とは恐ろしい、どうにもならないものだ。

なぜ恐ろしいかといえば、定義できないものだからな。

なぜ定義できないのかと言えば、神様が謎かけしかしなかったからだ。

ここでは、川の両方の岸が交わってしまう。

あらゆる矛盾が共存している。

理性には汚辱と映ることが、心では美そのものと思える。」


 このブログのテーマは一応まがりなりにも「美」になっておりますが、美についてはみなさまも深くお考えください。



 さてさて、大変な代物「カラマーゾフの兄弟」ですが、読まれて無い方は読んでみようかな、とういう気になられたでしょうか???

 ここで今までの考察を試みてみようと思います。

1. イワンの言いたかったことと著者の答え

① この世にすべてを赦す権利を有するものなどがいるのか?

② 神はいるとしても、逆説的に人間の真の自由は圧政的な教会にひれ伏すことでは得られない。

③ 幼き子供の血の上に築かれるこの社会を認めない。→「知恵の実」を食べてしまった大人が勝手に造り上げた社会やルールの中で、子供が犠牲になってもそれが赦されるような社会はまっぴらごめんだ。

④ かつ人間が真に自由を目指せば、古いものを打倒し、結果として殺人すら(流血による革命をも)認めざるを得ないのか?


 キリストが大審問官を抱擁し、アリョーシャもまたイワンを抱擁し、ゾシマ長老の最後の説法の内容と・・・

 そこから類推すれば、ドストエフスキーの導き出した解答は、ロシアの未来、世界の未来は・・・

 ロシアの知識階級がいたずらに西欧化、つまり無神論的に血を流して争うことではなく、かといって弱者が犠牲となるような社会ではなく、矛盾をも優しく包み込む母なるロシアに抱かれつつ、土着の同胞が兄弟愛を持って、自由と強さを身につけて、キリスト教を信じるロシア正教が母体となるゆるやかな社会主義国家だったのだろうかなぁ、と思います。

 つまり、コミュニストによる大量殺人を是認するような無神論的・革命的ヨーロッパ型社会主義・共産主義を否定し、あくまでキリスト博愛主義、人道主義に基づく社会主義を願ったのだと思います。

 アリョーシャに将来を託したかったのではないでしょうか?

 しかし皮肉にもロシアは著者の死後、マルクス・レーニン主義により、またスターリンにより、おびたたしい流血とともに革命的に共産主義国家へと転じていきました。

カラマーゾフ的美意識12

2007年01月27日 06時38分28秒 | Weblog
③【ゾシマ長老の回想シーン】

 アリョーシャの敬愛する、ゾシマ長老は死に臨み、最後の説話を行います(といっても記録者はアリョーシャであることは注意)。

 そしてその回想の内容ですが、長老が若かりし頃、50歳くらいの町の有力者である、裕福な慈善家と出会いました。

 慈善家いわく、現在は人間の孤立の時代だと。

 「孤立の時代が終わらなければ、心理的に別の道に方向転換することができなければ、あらゆる人が本当に兄弟にならぬうちは兄弟愛の世界は訪れません。」

 「現代はあらゆる人間が自分の個性を最も際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいる。」

 「そうした一切の努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺に過ぎません。」

 「自己の存在規定を完全なものにする代わりに、完全な孤立に落ち込んでしまうからなのです。」

 「なぜなら現代においては何もかもが個々の単位に分かれてしまい、あらゆる人間が自分の穴蔵に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。」

 「一人でこっそり富を貯えて、今や俺はこんなに有力でこんなに安定したと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力に落ち込んでゆく事を知らないのです。」

 「なぜなら自分ひとりを頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心をおしえこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。」

 「個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一のうちにあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。」



 これは物語中の又聞きの又聞きの又聞きですが、僕はこの回想シーンにもっとも強くうたれました。

 まるで資本主義を金科玉条として、自由経済競争を錦の御旗として、拝金主義と個人主義に蝕まれた現代を予見しているかのようです。



 そしてゾジマ神父(回想を記録したアリョーシャ)は答えます。



 すべてを赦し、神を信じることだ。

 そして地上の人間たちが、お互いに兄弟愛で埋め尽くすことだということを。



 それがあえて「の」が入る『カラマーゾフの兄弟』というタイトルの答えでもあるのではないかと個人的には思ってしまいました。

カラマーゾフ的美意識11

2007年01月26日 10時15分06秒 | Weblog
 さあみなさんは、よわい90歳にしてものすごい迫力である大審問官に対し、再来したキリストは無言を貫いておりましたが、ラストではどのように対処すると思いますか??

 イワンの叙事詩においてラストは、自らを否定された再来したイエスが、な、なんと大審問官の老人を無言のまま抱きしめて、キスをして包み込んでしまって、無言で立ち去るのです。

 イワンの根拠は、人間は弱く、自由を与えられても真の自由は使いこなせず、結局自由などと言うものは地上のパンと引き換えに権威に返すものだ、という理屈があります。

 と、同時にイエスは大審問官をも抱擁し赦しているのです。


 つまり、キリストは人間の自主性や自由を尊重し、奇蹟と神秘と権威を拒否することにより、人間に自由を与えました。

 ところが、人間は弱いものですから、大審問官も結局のところ弱い人間に代わって自らその<自由という十字架>をキリストに代わって、支配という方法論で背負ったのです。

 そして、それによって今現在、ある程度の調和が保たれている以上、保たれていたとは思えませんが大審問官の立場からすれば、かといって壊せば滅茶苦茶になりますので、その支配を変えることもできません。

 キリストは、大審問官の苦しくも、かつ支配的にならざるを得ない、苦悩に包まれた本当の心のことまでも、すべてを理解し、無言のまま抱擁し、去っていくのです。

 

 キリストが大審問官を抱擁するシーンと、叙事詩を聞き終えてイワンから感想を求められたアリョーシャが、イワンを包み込んで抱擁しキスをするシーンが印象的です。

 これは教皇至上主義や教皇無誤謬(ごびゅう)主義を唱えた、ローマカトリックに対するドストエフスキーのアンチテーゼだと思います。

 またこれを批評家風に社会と、支配階級と、労働者階級と、革命と・・・になぞらえることも可能です。

 そしてそのようなイワンの考えと振る舞いは、神を否定することによって、だから逆に人間のすべてを肯定してしまった(とされる)イワンと、それをもって殺人まで肯定したとするスメルジャコフへと飛躍します。

 それは神を否定し、人間が自由のためという大義名分があれば、革命によって古いものを打倒するためなら流血の事態も免れない、という当時のヨーロッパでの風潮を批判するものではないでしょうか?

 悪魔の幻覚と、軽蔑する(知能に劣る)スメルジャコフとに自分を見つけてしまい、葛藤し精神の病に侵されてしまうイワン。

 神を否定するならば、悪魔も否定しなければならないのに、その悪魔の幻影に付きまとわれるのです。

 誰よりも理性的であるがゆえに、神を否定したいのだが、殺人は否定したい、ということは神を信じるということなのかと、人間的な悩みにさいなまれるのです。

 イワンが影の主人公と感じるゆえんです。

 ロシアの理性的な知的リーダーになってほしい現代人を代表しているのかな??

カラマーゾフ的美意識10

2007年01月25日 08時10分00秒 | Weblog
その理由は、三つの誘いのうちの

1.~石ころをパンに変えよ。~

しかしキリストは「人はパンのみに生きるにあらず。」と拒否。

「服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか。」

ところが大審問官は言います、しかし人は「食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!」と求めるものだ。

人々が自由でいる限り(背負わされた自由はあまりにも重いため、自力では消化できず)、人々は教会にキリストに与えられた自由を差し出して、「いっそ奴隷にしてください、でも食べ物は与えてください」とひれ伏すのだと。

自由と地上のパンとは両立しないと迫る大審問官。

大審問官は続けます、人間は弱いので、天上のパンのために、地上のパンを黙殺できない。

人々は「誰の前にひれ伏すべきか?」を探し続けている。

自由のみであり続けることになった人間にとって、人間はすべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。

(人間はこれまでにも異なる宗教間で)跪拝(きはい)の統一性のため、「お前たちの神を棄てて、われわれの神を拝みに来い」と殺しあってきたではないか、と。

大審問官いわく、キリストは自由の苦痛という重荷を、人類に永久に背負わせた。

しかし地上にはその三つの力のみが魅了する。

それは奇蹟と、神秘と権威しかないのだ、と。


2.~神の子なら(エルサレム神殿の屋根から)飛び降りてみよ。~

「神を試してはならない。」と退けたイエス。

人間は神よりも奇蹟を求めるのだとする大審問官。

人は結局神よりも祈祷師の奇蹟やまじない女の妖術にひれ伏す、ではないかと。


3.~(世界中が見渡せる高みから)悪魔にひれ伏せばこれらを与えよう。~

「主を拝み、ただ主に仕えよ。」と拒絶したイエス。

大審問官は、地上のかよわき子羊たちは、たとえ自分たちが造反者であるにせよ、自分の造反さえ持ちこたえられぬ意気地なしの造反者にすぎない。

教会は「大切なのは心の自由な決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わねばならぬ神秘なのだ」と教え込み、キリストの偉業を修正し、(キリスト教を)奇蹟と神秘と権威の上に築きなおし、(その3つの力によって)人々も導かれることになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物(自由)から逃れられた。

 (ローマカトリック)教会は権威をたてにしてもはや悪魔側についているとするイワン。

カラマーゾフ的美意識9

2007年01月24日 11時22分05秒 | Weblog
②【大審問官】

 この部分こそが、この小説の、いや全人類文学史上のハイライトと世界中の賢者から賞賛され、イワンがアリョーシャに聞かせる、自作の叙事詩(神話・伝説・英雄の功業などを物語る長大な韻文-goo辞書より)です。

 イワンが作った叙事詩ですから、劇中劇ではないですが、物語中の登場人物がつくった物語です。

 ・・・であるにもかかわらず、神の存在、役割、人間とは、自由とは、ローマカトリック教会の意義は・・・

 真実をとことん突き詰め、知性的に空想し、合理的に想像し、ものすごい迫力と鋭すぎる切れ味を、そして反論の余地など許さないかのごとくの理性をもって展開されるので、腰を抜かしてしまいます。

 この部分だけで一つの映画になると思います。



~時代は暗黒の中世16世紀。魔女狩りやら異端狩りがはびこる日常・・・。

舞台はスペインのセヴィリヤ。

キリストが登場しますが、詩の中では何一つしゃべらず、ただ姿を現して通り過ぎるだけ。

百人にも及ぶ異端者が、枢機卿である大審問官によって一度に焼き殺されたばかり。

キリストは気づかれないようにそっと姿を現したのだが、ふしぎなことに、だれもが正体を見破ってしまい、キリストは人々に奇跡を授けるのです。

奇跡を再現するキリストを目の当たりにした、90歳近くの大審問官はキリストを迷わず捕らえ、即刻牢に入れてしまいます。 ~



 キリスト教がキリスト教として確立した現在、今更になってキリストが再び現れれば、教会側から自由を奪うことになるからでしょう。

 つまりは大審問官の立場も危うくなるわけです。



~「今さら何をしに来た?お前はもはや邪魔者なのだ!」~

と、あの主なるイエス・キリストに向かい問い詰める大審問官、ひとことも言葉を発しないキリスト・・・。



 これを想像するだけでも、ドキドキしちゃいますよね。



 ここで、キリストが生前、荒野で体験した有名な「悪魔の三つの問い」があります。

具体的には、

1. 石ころをパンに変えよ。→「奇跡」の象徴

2. 神の子なら(エルサレム神殿の屋根から)飛び降りてみよ。→「神秘」の象徴

3. (世界中が見渡せる高みから悪魔に)ひれ伏せばこれらを与えよう。→「権威」の象徴


 イワンは、この三つの問いには「人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言され、この地上における人間の本性の、解決し得ない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態が現れている」とします。

 「もはや何一つ付け加えることも、差し引くこともできない」と。

 キリストは『人間の自由』のために、三つの誘いをすべて拒絶します。

 つまり、キリストが人間の自由のために悪魔の問いを拒絶したからこそ、人間には自由が与えられたのに、人間がその自由を拒絶してしまったとイワンは主張しますが、その理由は・・・・。

カラマーゾフ的美意識8

2007年01月23日 11時00分48秒 | Weblog
 『入場券』の続きです。

 イワンはアリョーシャに続けます。

 「ありとあらゆる手で両親から痛めつけられ、全身を痣だらけにした5歳の女の子が、天使のように健やかな眠りに沈んでいる女の子が、夜中にうんちを知らせなかったというだけの理由で、顔中に洩らしたうんちをなすりつけて、食べさせ、真冬の寒い日に女の子を一晩中便所に閉じ込めた」母親。

 「自分がどんな目に遭わされているのか、まだ意味さえ理解できぬ小さな子供が、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、「神さま」に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに、母親はぬくぬくと寝ていられるんだ。」

 自分の犬に怪我をさせた8歳の少年を裸にさせて、母親の目の前で自分の犬にかみ殺させた将軍・・・

 「どうだアリョーシャ、そんな大人たちは銃殺か?」と迫るイワン。

 耐え切れずに神に仕える身でありながら「銃殺です!」と答えてしまう純粋なアリョーシャ。

 つまりアリョーシャの心にも悪魔が、カラマーゾフが潜むわけです。

 キリスト教では、善悪を認識するために悪が必要だから、それでも悪を赦せ、としても「そんな認識を全部ひっくるめたとしても、「神さま」に流した子供の涙ほどの値打ちなんぞありゃしない。」と力をこめるイワン。

 「たとえ苦しみによって永遠の調和を買うために、すべての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子供にいったい何の関係があるんだい?そんな調和は、小さなこぶしで自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して「神さま」に祈った、あの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!」

 そして「なぜ迫害者のための地獄なんぞが俺に必要なんだ。子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を強制しうるというんだ?」

 もし目の前でわが子を犬にかみ殺された母親が、迫害者を赦したからといったって、それは「自分の分だけ赦せばいい」、子供の分までは到底赦せはしません。

 「だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。」

 「神を認めないわけじゃないんだ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだ。」

 これがイワンの述べる『入場券』です。

 矛盾をつまびらかにするイワン。


 しかし、それでもわが身を犠牲にしてまで、すべてを赦すのがキリストだ、と主張するアリョーシャ。

 矛盾をも超越する力と愛を信じるアリョーシャ。

カラマーゾフ的美意識7

2007年01月22日 10時56分33秒 | Weblog
① 【イワンの言う入場券】

 現代の日本でも特に問題となっている幼児虐待・・・。

 有名な『大審問官』のシーンに入る前に、次兄イワンが無垢な三男アリョーシャに語ります。

 これが僕の頭にず~っとこびりついて離れません。

 イワンは本来は人類の苦悩について話すつもりでしたが、子供たちの苦悩にだけ話をしぼります。

 どうして大人について語らおうとしないかは、「大人はいやらしくて愛に値しないこと以外に、大人は知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、『神のごとく』になり、今も食べ続けている」からだと・・・確かにその通りです。

 「子供たちは何も食べなかったから、今のところ何の罪もない。」

 「この地上で子供たちまでひどい苦しみを受けるとしたら、もちろんそれは自分の父親のせいだ。知恵の実を食べた父親の代わりに罰を受けている・・しかし、そんなのは別世界の考えで、この地上の人間には理解できず、罪のない者が、それもこんなに罪なき者が他人の代わりに苦しむなんて法はない。」

 ドストエフスキーも大変子供好きだったそうで、このくだりに反論はまったくありません。

 そしてイワンはたくさんの子供が実際に犠牲になった例をこれでもか、これでもかと挙げていきます。

 「人間の多くの者は一種特別な素質を供えているものだ。それは幼児虐待の嗜好」だそうです。

 その嗜好を持つ人たちは「いかにも教養豊かで人道的にふるまい、子供を痛めつけるのが大好きで、その意味では子供そのものを愛しているとさえ言える。」この表現が核心を突いてますよね。

 そして「この場合、まさに子供たちのかよわさが迫害者の心をそそり立てる。逃げ場もなく、頼るべき人もいない子供たちの天使のような信じやすい心、これが迫害者のいまわしい血を燃え上がらせる。もちろん、どんな人間の中にも、けだものがひそんでいる。怒りやすいけだもの、痛めつけられているいけにえの悲鳴に性的快感を催すけだもの、鎖から解き放れた抑制のきかぬけだもの、放蕩の末に・・・」・・・悲しいことです。

 イワンは、「大人の苦しみに関しては言わない。大人は知恵の実を食べてしまったんだから、大人なんぞ知っちゃいない。みんな悪魔にでもさらわれりゃいい。しかし、この子供たちはどうなんだ!」と主張するのです。

カラマーゾフ的美意識6

2007年01月21日 09時30分44秒 | Weblog
 イデオロギーの話しは難しいのですが、資本主義と「社会主義」と「共産主義」を区別しましょう。

『教えてgoo』から引用しますが、

『社会主義:「能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる」

共産主義:「能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる」』

とあります。でもこれだけでは分かりませんね。 さらに、

 『キリスト教博愛主義の一部までも含む多様な思想潮流の総称である「社会主義」思想と、マルクス、エンゲルス、レーニンらに基本的に依拠した理論構築を行ってきた「共産主義」思想にわけられると思います。』

 『マルクスは、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義と進むと考えました。

 資本主義と共産主義の過渡期にあたる社会主義とは何かといいますと、この段階ではまだ国家が存在します。

 資本主義を打倒した労働者階級が、国をおさめるわけです。

 彼等はいずれ、共産主義移行への準備を進め、私有財産を否定し、生産手段を社会化、国有化します。

 つまり、社会主義と共産主義の違いを簡単に言いますと、社会主義には国家があり、国が経済を運営している。

 しかし資本主義時代に存在した階級や、労働者への搾取、私有財産などは存在しない。

 共産主義は、国家がなく、私有財産がなく、階級がなく、搾取のない社会、しかも生産性が極限まで発展している社会と言うことですね。』

ということです。

 しかし、これらは机上の空論にも近く、人間は残念ながら自分のために汗を流しますから、社会主義や共産主義は生産性が著しく低下し活力を失い、結局は資本主義の前に敗れ去ることになったことは歴史が示しております。

 またその革命の際に、暴力が肯定され、粛清の名の下に信じられないくらいのたくさんの流血があり、日本でも一時はそのイデオロギーが学生に火がついて流行しましたが、日本国民からは否定されました。

 ソヴィエトが崩壊した原因には、しっかりとした資本主義が形成される前に、一気に社会主義・共産主義へと急ぎすぎたからだとも言われており、事実スウェーデンをはじめ、ヨーロッパでは緩やかな社会福祉国家へと変化していっており、進歩的であるという意見もありますよね。



 この小説ではまた、全体にドストエフスキーの嫌ったローマカトリックと、愛するロシア正教の対立も、僕は行間に感じましたが、ここの読者であれば同じように感じるでしょう。

 また、聖母マリアとマグダラのマリアも、ローマカトリックを否定するドストエフスキーにかかるとこんな具合に料理されるのかと思いました。

 そしてこの話のハイライトはたくさんありすぎるのですが、僕は4つにしぼりたいと思います。

カラマーゾフ的美意識5

2007年01月20日 23時27分21秒 | Weblog
 そして僕が思うもう一人の主人公が、アリョーシャの敬愛する長老ゾシマ神父です。

 このゾシマ長老とは本によれば・・・

「あなた方の魂と意思を、自分の魂と意思の内に引き受け」、

「あなた方は自己の意思を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意思を長老の完全な服従下にさしだし」、

「自己にこの運命を課した人間は、長い試練のあとで己に打ち克ち、自己を制して、ついには一生の服従を通じて完全な自由、つまり自分自身からの自由を獲得し、一生かかっても自己の内に真の自分を見出せなかった人々の運命をまぬがれることができるまでにいたるのだ」

という人物です。

 ですが、自己の意思を放棄するのは、完全な自由の獲得がたとえ保証されるにしても、いかがなものであろうかと思ってしまいます。

 ちなみにゾシマ神父は亡くなって、聖人であるにもかかわらず、腐敗臭を発するのですが、そこのくだりがどうしても理解できません。


 この本を読むに当たり、当時のロシアがおかれた時代背景が重要になります。

 当時ヨーロッパでは、王政・教会支配から1789年からのフランス革命をはじめとする市民革命を経て民主主義にいたり、市民革命で中心をなした都市における裕福な商工業者は、その後の資本主義社会ではブルジョアジー(資産階級)となり、その結果プロレタリア階級(労働者)も生まれます。

 そしてヨーロッパで、コミュニスト(共産主義者)による、暴力も辞さない、血を流す無神論的革命運動が起きます・・・いわゆる階級闘争です。


 ドストエフスキー(1821-1881)の生存中は、ロシアは皇帝(ツァーリ)が支配しておりました。

1848年:ドイツの経済学者マルクスとジャーナリストエンゲルスにより「共産党宣言」が出されます。

1861年:40歳の頃、農奴解放が行われますが、封建制度は色濃く残ります。

1881年:死去する年には実際、無政府主義者(アナーキスト)による皇帝暗殺事件が起きております。

1904年:日露戦争

1905年:血の日曜日事件

1917年:ロシア革命(10月革命・2月革命)により、ロマノフ朝は終焉し、共産主義政党の指導者レーニンによる社会主義国家、ソビエト社会主義連邦共和国が生まれました。

カラマーゾフ的美意識4

2007年01月19日 10時35分08秒 | Weblog
 ドストエフスキーの執筆活動を行った地、サンクトペテルスブルクにあるピョートル宮殿の大滝です。

 この本では、さまざまなこの世の問題点を、しかも百年以上前の本なのに、現代社会にも通じる問題点を、一つの本の中でダイナミックに展開してしまうのです。

 親子関係、兄弟関係、男女関係に始まり、拝金主義、物質主義、遺産相続問題、思想、自由主義・共産主義・社会主義、教会と国家、宗教か経済か、有神論無神論、幼児虐待、裁判の問題点、病気、貧困、精神の病、差別、非平等、嫡子庶子(ちゃくししょし)問題→正妻の子か妾腹(しょうふく)の子の問題、不倫や恋愛道徳観、殺人、自殺、いじめ・・・

 その中で、印象的で深~く、およそ読者が一生忘れ得ない場面が、綺羅星のごとく、これでもか、これでもか、と挿入されていくのです。

 これはまるでクラシックの作曲家であり、オーケストラとその指揮者です。

 あるいは巨大な蒸気機関車のようです。


 特に物語のラストで、アリョーシャに寄せた、亡くなったイリューシャの友人である(十二使徒を暗示する十二人の)子供たちの「カラマーゾフ万歳!」がなぜだか僕にはとても印象的でした。

 そしてこの物語には続編が予定されておりましたが、その内容はアリョーシャが革命家となって、その子供たちを率いてロシア皇帝を討つ、という説があるそうです。

 残念ながら、それは完成されずにドストエフスキーはこの世を去りました。

 ぜひ読みたかったとも思いますが、あったらあったで僕の苦悩も二倍になりますし、イメージは出来上がっておりますので、僕のつたない頭で考えるのもまた悪くないものです。

 実際にお読みになられる事をお薦めいたしますので、読まれる方には以下はネタバレ注意、これ以上ここをお読みにならないでください。

 すでにお読みになられた方や、どんな話か知りたい方は、解説が心もとなく、間違っているかもしれない可能性を念頭に、続いてこれをお読みください。



父:フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフ

→常識ハズレで金の計算だけしか能がない。
下品で粗野で好色で乱痴気。
無神論者のくせに表面だけはずるく取り繕い、古く悪いロシアの代表のような男。
著者の言葉では「ロシア的でたらめさ」。
ちなみにドストエフスキーもフョードルという名です。


長男:ドミートリイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ(愛称ミーチャ)

→フョードルと前妻の子。
元軍人にして「軽率で、気性が荒く、激情家で、せっかちで、遊び人」。
フョードルの血が最も濃い気がします。
ある意味こちらは現代ロシアの代表でしょうか。
破滅的でせつな的でありながら、純粋なところもあり、物語的には主役級。
やはりロシア的(カラマーゾフ的)好色さと自堕落さに、純粋さと高潔さを併せ持ち、生への渇望がほとばしります。


次男:イワン

→後妻の子。
気難しく、成績優秀。
神は人間の知力が創りだしたものなので、それを否定すれば人間の知をも否定することになるから神はしぶしぶ認めるが、神の創ったこの世の調和への「入場券」は返したいと願います。
この本の真の主役(だと僕は思う)。
ヨーロッパ的ニヒリズム理論に対して、イワンの意見を通してドストエフスキーによるロシア的ニヒリズムとしての返答という性質を帯びている気がしました。
最後には発狂してしまう。
発狂の際、悪魔と会話するのですが、その悪魔は劇中の人物と重複しているように思えます。
しかし、精神の病に陥り、悪魔にさいなまれるということが、つまり良心の呵責に悩まされることと感じました。


三男:アレクセイ(愛称アリョーシャ)

→後妻の子。
作者は主人公としています。
純粋で瞑想的、本性から誠実、真理探究者、信ずる者。
無知ではないが無垢であり、長老に惹かれて教会で半修道僧生活します。
兄二人を中和するような役割。
ある意味これからのロシアを託された若者の役割なのか。
現代のキリストを示唆する役回りです。
となれば、キリスト教社会ではみんなが好きな、物語中のユダ探しをするのも興味深いでしょう。
果たしてだれがユダなのか?? 僕は二人のユダを見ました。


フョードルの庶子スメルジャコフ

→存在が薄いくせに、微妙な存在。
ある意味、すべての人物との関連において対立します。
父と思しきフョードルとも、当然大きな事件となるくらい対立します。
育ての親のグリゴーリイとも、思想的宗教的な対立があります。
長兄ミーチャとも、犯人を巡っての対立が在ります。
そして一番大きな対立が次男イワンとのものです。
そもそもスメルジャコフを無神論的に造り上げたのがイワン。
そしてイワンはスメルジャコフと、悪魔と・・・。
そして三男アリョーシャとも。
一説には、当時ロシアで実際にあった去勢派の象徴とも。

カラマーゾフ的美意識3

2007年01月18日 08時32分36秒 | Weblog
 僕がこのブログでもロシアに思い入れが深いのも、この小説の影響が大きいのかもしれません。

 アメリカには何の憧れも感じないのに・・・。

 失礼なのですけど僕はあまり趣味ではないのですが、日本人でノーベル賞に最も近いとされる、2006年カフカ賞を受賞した村上春樹氏も、この「カラマーゾフ」を讃えてはおります。

 しかし彼によれば、現代の世の中の大半の人は「カラマーゾフ」など読まない、長すぎる・・・けれども、もしオウムの諸君がこれを読んでいたら、オウムになど入らなかったろうともしております。

 彼がやりたいのはもっとやさしくて短い「カラマーゾフ」を書くことだそうです。

 しかし本人も言っておりますが、それは大変難しいと・・・彼には無理だと僕も思います。

 そしてかつて日本が生んだ天才詩人、尾崎豊は歌いました。

 「鉄を食え~、飢えた狼よぉ、死んでも豚には食い~つくなっ!」と。

 これまでカラマーゾフなど無縁で生きてきたここの読者の方がいらっしゃれば、どうでしょう・・・鉄を食してみませんか??

 カラマーゾフもそうですが、別に宗教や哲学、文学など触れなくても、人生を楽しく生きることはできると思います。

 今は昔と違って、楽しいことがたくさんありますし、本など読まなくてもお金は稼げるかもしれません。

 文学など無用の長物であり、その国の貧困さと比例するものさ、という説があることも知っております。

 しかし昔の人は、あるいは昔の大学生は、エンターテイメントが少なかったせいもあるでしょう、これら純文学を読みあさり、哲学書を読みふけり、声高に友人同士で議論したようです。

 そしてここの読者の中には、「世界最高峰と評される文学を読まずして死ねるか!」・・・けど何を読めばいいの?という気概を持つ方もいらっしゃると思います。

 また、これを読むことが、宗教的な話題は極力避けなければならない、今日のこの国の現状にとまどう僕個人の、精神的カタルシスになっているだけかもしれません。
*カタルシス : アリストテレスの言った浄化・排泄という意味から、フロイトが「代償による満足」として使用

 この本は非常に重く大きなテーマが同時進行でいくつも散りばめられ、まるで命が与えられ意思を持ったかのごとくのそれぞれの人物のそれぞれの意見や解釈が存在します。

 その中で作者は「カラマーゾフ的」という言葉を使いますが、なんと表現したらよいか・・・

 善と悪、高潔さと下品さの両極端が同居しつつも、より崇高なものへの憧れは失わず、感情表現は大げさで自己陶酔型なのだけれども、考察や洞察も僕たち日本人には到底及ばないほどはるかに深い、そして自堕落や好色を自認しつつ、あくなく生きるという活力にみなぎる力・・・

 カラマーゾフ的イコール、ロシア的といった意味合いの背骨がしっかりと首尾一貫、貫かれております。

 そしてこのロシアという国は、矛盾をはらむものでも両者を飲み込む懐の深さがあり、おおらかで広い心を併せ持つみたいです。

 エリツィン氏を見ても、普段は底抜けに明るく(単なるウォトカ中毒??)、だけれども最近話題の国家ぐるみの暗殺事件・・・

カラマーゾフ的美意識2

2007年01月17日 10時56分41秒 | Weblog
 いや~今こうして挙がった名前を見てみても、暗澹たる思いになりますな。

 僕は松岡正剛氏のような、明晰な頭脳や鍛えられた文章力も批評力も持たない一市民であり、寺山修司のようなキラリ光る特別な才能を持っているわけでもないので・・・だからこそ暗澹としてしまう。

 世界の文学史上でもっとも評価が高いのがこの「カラマーゾフの兄弟」です (言い切り)。

 ドストエフスキーの設定する登場人物の、キャラクターにこめられる詳細すぎる設定はまるで実際に生きている人間のようであり、色々な考え方を持っており、考えの滲み出しもなくきちんと個別され、ひとりひとりがまるで自己意識を持たされているごとくであり、役回りや人物の背景描写、書き込みがすでにフィクションを超え尋常ではありません。

 小説中の回想シーンにしたって、物語上の架空の人物のさらに回想なのに、まるで実社会に呼吸をして生きている人物のようでさえあり、性格やらファッションからそのときのシチュエーションから・・・みずみずしくさえあり、偏執的書き込み狂です(風景描写はトルストイ等にくらべ毎度のこと、少ないですけれども)。

 パソコンもない時代なのに、いったいどんな構成の練り方なのでしょうか?

 日本の小説のように「やわ」ではなく、単純明快の対極をなします。

 この小説は車で言えばまるでマクラーレンF1-GTR LMのようなモンスターです。

 類似しているわけではまったくありませんが、似たように頭がくらくらする文学にはラテンアメリカの太陽の匂いがする、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」がありますが、これはまたあとでやりましょう。

 カラマーゾフでは、決して前衛的ではなく時間軸に沿った、一定の論理的な物語はありますが、物語に織り込まれるドストエフスキーの宗教に対する洞察・分析とその切れ味は、なみの天才や哲学者、神学者、文学者、科学者では足元にも及びません。

 彼の俎上に乗せるネタへの執着と理論、深淵さは病的に暗く、彼の良く使う語句、まさに「てんきょう病み」のようであります。

 これが19世紀のロシアの闇の深さなのか、思考の深さなのでしょうか。

 黒が黒よりも黒い、漆黒の闇。

 深く深く掘り下げられる地下トンネル・・・そしてほのかに浮かび上がるアリョーシャの青白き炎。

 僕のちっぽけなおつむでは完全に咀嚼吸収されているとは思えませんが、だからこそ何回も読み直してしまい、たちの悪いドラッグの常習者のように、理性では拒絶するのですが本能的に脳が求めてしまい、自然に体が向かってしまいながら、それでもあえなく何度でも打ちのめされるのです。

 目がチカチカして、まるで毒にやられたように脳がしびれて、呼吸が荒くなっちゃう。

 表通りではうそや虚飾、大法螺がサーカスのように跋扈しているのに、一歩裏通りに入るとそこには、いささかの矛盾も許されないような非日常的な違和感と、ここに立ち入ったならば、あらかじめナイフを渡しておくので万が一の際には自ら死をもって償え、といわんばかりの緊張感を読者に強いてきます。

この自虐性は、(自分を決してMだとは思いませんが、)そうそう、まるでオアフ島の「コオラウ」ゴルフ場のようで、あざ笑いそしていざなうのです。