医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

涙と美肌-3

2006年05月31日 11時01分57秒 | Weblog
 つまり笑いや泣きの感情は無理に抑え込まない事が、体の「恒常性の維持」といって、正常に近づけようとする作用を亢進させるようです。

 ストレスがたまると活性酸素も増えますから、お肌の調子を悪くしてしまいます。

 都会で生まれ育った方を注意深く観察すると、概して、もちろんみながそうだとは言いませんが、いい子・八方美人・優等生が多く、人見知りをし、汗もかかずにどことなく涼しげで、そつがなく、おとなしくって当たり障りがないというか、喜怒哀楽の感情を表に出さず、クールで微妙に情に浅い方が多いように感じます。

 笑顔は多いのですが心からの笑いではなく、どことな~く作り笑顔が多いのかなあと感じてしまうのです。

 そして万人に好かれて敵も作らないのですが、個性はあるのにふたをしてしまうためややもすると印象も浅くなってしまい、誰にでも同じステレオタイプの応対というか、真の心の内面というか本音が見えないのです。

 心の奥深くの芯のところに垣根というか壁をつくり、決して芯を丸裸にはせず、他人には絶対にその芯を見せないものだと感じることがあります。

 都会では人も多いですから、
いちいち人と深くかかわるときりもないので人とのかかわり合いが浅くなり
いろんな人がいるからいざこざを本能的に避け、
その分出会いも多いのでリセットも効き、
そのため人付き合いも希薄になりがちだし
気が合わない他人と腹を割って本音で話して理解し合おうという努力も必要なくなり、
通勤や通学に時間も取られるので深く考えたりかかわったりする時間も少ないから人間関係を軽く流さなければならないし、
電車通学では騒げないし他人との会話も少なくなるし
隣近所にクラスメートが住んでいるわけでもないから生活のすべてが見えるわけでもなく、
したがって互いの心にも一定の距離が生まれ
プライベートはなるべく覆い、
玄関には鍵を閉めて生活し
子供の頃から母数が多いため集団で生活するのではみ出ると目立ってしまい、
なるべく皆と同じようにつつがなく振舞う必要があり、
また感情を表に出さない方が目立たず面倒くさくない、・・・

情緒を消すという防衛反応から、という側面もあるのでしょうか?

 
 鍵のかけ忘れの多い僕は、時に困惑することもあります。

 これは近代化・都市化による文化人類学的副産物かもしれません。

 また女性が男性化し、男性が女性化してきており、また大人が幼児化してきたことにより、泣く男が増えたのかもしれません。 感激して泣く女性が減ったため、泣く男が相対的に目立つのかもしれません。

 つまり男女間・年齢という縦・横両軸のボーダレス化ですね。

 泣くことは一種の感情失禁ですから、前述した化学的作用のほかにも、脳に貯まったさまざまな感情のごみや錆・・・、そういった不純物を排出する精神浄化作用もあるのではないでしょうか? だから僕は普段からストレスを感じないのかなあ・・・。

 ストレスの多い現代人のみなさん、一度思いっきり泣いてみませんか?

 同じ人生だったら、感受性を高め、感激が多い方が素敵だと思うのですけれども・・・ 小さなことにも感動して感激するので、得するような気がしております

 ただし周りが大変ですから、いくらストレス発散とはいえ怒り泣きはやめましょう。

 涙にもモラルを持って迷惑をかけないように、ひとりでこっそりさめざめと泣きましょう。

 涙によって活性酸素が抑えられて、美肌に近づくかもしれません。 エビデンスはないですけれども。

涙と美肌-2

2006年05月30日 13時19分55秒 | Weblog
 ちょっと昨日からのタイトルを変更しました。

 本日は少し医学的なお話です。 堅苦しいかも・・・

 AllAboutの健康医療チャンネルによれば、涙には脳から分泌されるプロラクチンや副腎皮質刺激ホルモンといった、ストレスに反応して心身に緊張を強いたり、免疫系に影響する物質が含まれていることが分かっています。

 また、ロイシン-エンケファリンという、ストレスによって生じる神経反応を緩和する働きを持つ、脳内モルヒネの一種も含まれていることが確認されています。

 さらに過多になると神経の伝達に影響を与える、マンガンというミネラルも含まれてくることが確認されています。

 どうやら涙は、ストレス物質を排出する重要な役目を果たしているようです。

 また泣いたり笑ったりすることで【コルチゾール】値、【インターロイキン-6】値が著しく低下し、【ナチュラルキラー細胞】活性値はぐんと高くなったという研究報告もあります。

 【コルチゾール】は副腎皮質から分泌されるステロイドで、糖代謝をはじめ、蛋白質や脂質代謝にも関与します。 

 ストレスとホルモンの関係はよく言われますが、産業医学総合研究所のHPによれば、

①「アドレナリン」というホルモンは主に作業の遂行に伴う「昂揚」した気分の状態を表します。
②「ノルアドレナリン」は長時間作業で上昇し、作業による「疲労」の状態を示唆します。
③【コルチゾール】は作業そのものの影響よりも作業を妨害し「苦痛感」を与えるような要因と関連するようです。

http://www.niih.go.jp/jp/current/topics/shigoto_sutoresu.html

 【インターロイキン-6(IL-6)】は日本人が発見した「サイトカイン」です。 

 「サイトカイン」とは細胞が産生する「蛋白」のことです。 サイトカインに対するレセプター(受容体)を持つ細胞に働き、細胞の増殖・分化・機能発現を行うものです。

 つまり【インターロイキン】はリンパ球間の情報のやりとりを担う物質、主にタンパクに与えられた呼称なのです。

 体の免疫をつかさどる「リンパ球」の70~80%は「T細胞」、5~10%が「B細胞」、残りの15~20%が【ナチュラルキラー細胞】です。

 【IL-6】はそのうちB細胞の分化誘導因子として発見されました。

 【IL-6】は多発性骨髄腫という血液の悪性腫瘍の一種では悪性細胞増殖因子として作用します。

 またさまざまな「炎症性疾患」や「自己免疫疾患」に関与する「Bリンパ球」の増殖分化だけではなく、その他にも広く免疫応答、造血反応、炎症反応、それから神経系の細胞の増殖・分化、あるいは機能発現に働く典型的な「サイトカイン」なのです。

 従って、人間の免疫はこれらの【IL-6】をはじめとする「サイトカイン」という蛋白を通じて、会話をして情報のやり取りをしていると考えられております。

 これからはICチップやコンピュータは「タンパク」の時代になるかもしれませんね

 ストレスが多くなると増える【コルチゾール】、炎症等の免疫の異常事態に増える【IL-6】が、泣いたり笑ったりすると減少するわけです。 

 炎症性のサイトカインが減少すると、線維芽細胞の活性が高まり、コラーゲンが増えることがわかって来ました。つまり、しわやコラーゲンの劣化の原因には実は微小炎症が関与していると言われて来ているのです。

 さらに、下記の「免疫プラザ」によれば、
http://www.menekiplaza.com/column/naturalkiller.html

【ナチュラルキラー細胞】はまだ研究途上ですが、どうやら人間の体を独自で見回って、ウィルスやがん細胞を見つけると、全体の命令系統によらずに、単独で攻撃する機能を持っているとされております。

 健康な人でも一日に100万個のがん細胞が生まれているそうですが、【ナチュラルキラー細胞】をはじめとする免疫機能がそれらを無事摘み取っているそうです。 びっくりですね

 そして、頼もしい【ナチュラルキラー細胞】活性を高めるためには

①喫煙をひかえる
②適度の飲酒を心がける
③質の良い睡眠をとる
④ムリのない適度な運動(歩く)をする
⑤笑う
⑥充分な休養などでストレスをためない
⑦体温を下げない
⑧薬・抗生物質を乱用しない
⑨バランスの良い食事を心がける
⑩健康補助食品を利用する
 
といいそうです。⑩はプロパガンダとしても、笑っても泣いても【ナチュラルキラー細胞】活性は高まるのですね。

明日も・・・。

涙と美肌-1

2006年05月29日 10時47分46秒 | Weblog
 最近男で泣くやつが増えたと思いませんか?

 どうなのでしょう、それは・・・。どういう社会背景があるのでしょうか? 男が弱くなったのでしょうか?

 みっともない、みっともない

 昔から男はめそめそ泣くものではない、と教えられてきましたが、かくいう僕は涙もろくすぐ泣きます。

 もちろん人前でとか、あるいは怒ったり悔しがったり、つらくて泣くことはもちろんありません。
 一人でひっそり、こっそりですけれども

 感動屋なのですぐに感激してしまうからです。

 どうも情につながる神経システムが先天的に過敏で、抑制のシナプスが欠損しているようです。

 ですから初めからお涙頂戴とわかっている映画や番組はなるべく見ないことにしています。

 なんてったって「初めてのお使い」を見ているだけで涙ぐんでしまうので恥ずかしいですし、映画としては優れているとは言えない「インディペンデンス・デイ」の大統領の演説を聴いているだけで感激してしまうのでやばいです。 

 初めて気づいたのは、小学生のとき「がんばれベアーズ」を見て、感激して涙ぐんでいたら、映画館中で僕だけだった・・・ときです。

 泣きで有名な松方弘樹さんや徳光アナならいいですが、僕なんか・・・みっともないったらありゃしません。

 ただし僕の場合、今始まって急に最近流行的に増えた部類ではなく昔からですから・・・だからといって威張ることではありませんが・・・。

 医師が言うのもなんですが泣くことは笑うこととともに体に良いそうです。

 全薬工業株式会社のHPによりますと、感情によって分泌される涙の種類が異なるそうです。 知ってましたか?

 悔しいときや怒ったときは、交感神経が涙腺を刺激して(涙の一部は鼻涙管を通って鼻に出ます)、水分が少なくナトリウムの多い涙(しょっぱい涙)。 悲しいときと嬉しいときは、副交感神経が刺激して、水分の多い涙(水っぽい涙)を分泌するそうです。

 僕は怒ったり悔しくって泣くことはなく、感動したときですから、しょっぱくない涙が流れているみたいです。

 つづく・・・

デレク・ジャーマンの美-3

2006年05月28日 11時02分24秒 | Weblog
 デレク・ジャーマン監督は、残念なことにHIVの後遺症で亡くなられてしまいました。

 遺作の「ブルー」は、僕はそれまでに感動を与えてくれた御礼に映画館まで行ってお付き合いしてきましたが、この遺作に関しては観ていない方は観ない方がいいかもしれません。

 「お金返せ!」と思うのがまっとうな感覚になります。

 前述の2作品は可能であれば、映画館での大画面で観ることをお勧めします。

 家庭用再生機ではどうしても真の魅力は1/10くらいに減少してしまうと思われます。

 そういえばいろんな監督のオムニバス版である「アリア」でも、目も覆いたくなる駄作もありますが、「ケン・ラッセル」と「ジャン・リュック・ゴダール」とこの「デレク・ジャーマン」の3人だけは、映像やセンス、才能が図抜けていることをつくづく実感しました。

 それにしても日本の映画やドラマって、全部トーンが暗すぎません?? 全部夜に見えちゃう。

 どうして?

 フィルムがそもそも違うのですか?

 「バグダット・カフェ」のように明るい色も出ないし、デレク・ジャーマンの暗闇の色も出ない・・・ 

 ただただ光量が足りないというか、アメリカのホームドラマに比べても画面全体のトーンが暗く感じませんか?

 照明機器の種類が違うのでしょうか?

 補色の使い方が悪いのでしょうか?

 それともそう感じてしまうのは僕だけなのでしょうか??

デレク・ジャーマンの美-2

2006年05月26日 20時48分18秒 | Weblog
 しだれ桜も妖しく美しいものです。

 例えば他の映画「ベティブルー」や「バグダッドカフェ」、それにチャン・イーモウの描く世界は、陽の光の下の鮮やかな「色」ですが、デレク・ジャーマンやデヴィッド・リンチは、本物の画家カラヴァッジョの描く絵画のような、暗闇に浮かぶ室内の妖しく、それゆえにこそはっとするような原「色」の美。

 ここでも岡本太郎さんの名言、『「美しい」は「きれい」の反対だ!』、が思い起こされるのです。

 そう、昼の太陽のまばゆい光の下での正々堂々としたパステルカラーではなく「暗闇に浮かび上がる原色のやましい・妖しい美」・・・

 決してただのポルノではない「淫靡な美」・・・

 ただのカーチェイスや撃ち合いや格闘技もののような、脳みそが筋肉でただ単なる外側からの暴力・ヴァイオレンスものではなく、はかなくも内側から自ら滅びいくような「破滅的・刹那的な美」・・・

 ハーレクインロマンスのような明るい正当なラブロマンスではなく、かといって奇をてらったり単なるグロテスクものでもない、かつてスティーヴン・ソダーバーグ監督が描いた、ある自主制作映画のような深い深い「退廃的・歪んだ愛情の美」・・・

 そして嘘に隠された純粋なる美や昂揚・・・

 決して「きれい」ではない、こういった「美」の概念というのは一般の女性にはなかなか受け入れられがたいことでしょうか??

 日本の文壇で言えば、安部公房、三島由紀夫、太宰 治、坂口安吾、半村 良、筒井康隆らの描いた「きれい」ではない、教科書には載せられないようなやましい「美しさ」。

 そういう「美しさ」はより一層魅力的です。

 また続きます・・・

デレク・ジャーマンの美-1

2006年05月25日 15時10分44秒 | Weblog
 故デレク・ジャーマン監督は、以前僕のお気に入りの映画監督であることをお話しました。

 彼はイギリス人なので、テムズ川河畔のビッグベンとともに建つロンドンのランドマークのイギリス国会を載せます。

 彼はもともとはケン・ラッセルの「肉体の悪魔」(同名の映画が何種類かありますが・・これはホラー映画の範疇かなあ・・映像は確かきれいでしたが)で美術担当して、映画界に足を踏み入れます。

 その後、僕の好きな「カラバッジォ」や「エドワードⅡ世」を残します。

 彼はホモ・セクシャルなので、作品にもその匂いがぷんぷん溢れております。

 僕はノーマルなのでその点では困りますが、そういう人ってデビッド・ボウイにしても、アンディ・ウォホールにしても、ヴェルサーチにしても、フレディ・マーキュリー、ジョージ・マイケル、ジャン・コクトー、三島由紀夫(?)にしても、僕のような凡人には無い何か特別な才能が満ち溢れているのでしょうか?

 壊れやすい繊細さ、人一倍傷つきやすく、脆(もろ)くてはかない生命観や精神性、そして研ぎ澄まされた、かつ切れ味の鋭すぎる「美」への感性・・・。

 「世界にひとつだけの花」なんて、槇原敬之さんの繊細さがないと生まれませんよね、やっぱ。 並みの男ではあの詩はねえ・・・

 デレク・ジャーマン監督の作品は衣装にしても、美術といい、映像としての色といい、照明といいほぼパーフェクトです。

 まるで動く絵画です。

 2作品とも確か大学生のとき、渋谷のスペイン坂の地下にあるシネマライズで観たんだっけなあ・・・?

 本物の画家カラヴァッジョも「リュートを弾く若者」、「バッカス」や「果物かごを持つ少年」を見ると、やはり同性愛というか、少年への特別な愛情を持っていたと思わざるを得ません。

 バロックの巨匠カラヴァッジョの絵の「光と影」が好きだと以前書きました。

 カラヴァッジョなくして、オランダのレンブラントは生まれなかったとも言われますが、カラヴァッジョはインモラルな人ですから、彼の作品をして「光と陰のコントラストの中で、でっぷり太った下品な人々が酔いつぶれている自堕落な絵」というような悪評も多いです。

 さて、デレク・ジャーマンは多分に前衛的な傾向もありますが、この2作品は分かりやすいほうなので、ただぼーっと画面を眺めているだけでも十分です。

 一応、続いてみます・・・

1.618の美-3

2006年05月24日 13時20分51秒 | Weblog
 先にお伝えした、おそらく世界一の桜、弘前城です

 さてさて、昔のテレビの画面は3:4ですから、比率は1.333です。

 最近の横長テレビは9:16なので、1.777と黄金比に近くなっております。

 ただし同じインチの場合、インチは対角線ですから、僕のケチな計算によれば面積としては10数%横長の現代のテレビの方が損をします。

 案外ワイドテレビはそれが狙いだったりして・・・

 この黄金比を利用した「美しい顔」のテンプレートが下記にあります。
http://www.beautyanalysis.com/images/RFMask_printable.jpg

 そして、やれこの黄金比に一番近いのはオードリー・ヘップバーンだとか、アメリカの有名な美容外科医がこの黄金比を用いて手術を行っているなど、まことしやかなことが言われておりますが、だからといって美容手術で鼻の長さを自由に変えたり、場所を移動したり、できなくはないですが瞳の位置を自由に移動したりするのは簡単にはいかないものですから、黄金比にとらわれすぎだと思います。

 そんな風に簡単に自由に取りかえられるものなら素晴らしいかもしれませんが。

 確かに自然界に良く見られる比率なのでしょう、さらにバランスが良いと人間が感じる比率なのでしょうから、顔でも美しく感じるバランスに非常に反映されるのでしょう。

 だからといって手術でその比率を獲得できるかは別問題だと思います。

 骨を切っても案外それほどパーツの距離は変わらないし、鼻や顎にプロテーゼを入れるくらいが精一杯だと思います。

 それに計り方で1.2なのか1.6なのか、なんて位は簡単にずれが生じると思います、実は。

 写真でもX線撮影でもCTスキャンでも撮り方や切り方によっても再現性に欠けるものだし、角度の違いや立体的な誤差、特に写真では影のとらえ方でかなり数値にバラツキが出るものです。

 その数値を知っているために、その数値で測ってしまう、当てはまる部分を意図的に抽出してしまうというバイアスもかなり大きく作用すると思います。

 建築物や美術品でも、あとづけ的にたまたまそれに近かった・・・ってことも多のではないでしょうか?

 そもそもこの黄金比は研究もされておりますが、こじつけも多い・・・ようにも感じます。

 しかもこと黄金比となると目の色を変えて主張をする方、ここぞとばかりに攻撃的に反論する方が多いのも特徴です。

 ファンもアンチファンも注目しているのは事実ですから、「美」を語る上でこの黄金比を知っていても損にはならないかと思います。

1.618の美-2

2006年05月23日 11時12分16秒 | Weblog
 ひとたびこの【黄金比】の話題になると、賛同者であれ反論者であれ、目の色を変える研究者がたくさんおりますので、下手なことを書くとおしかりを受けそうです。

 また「フィナボッチ数」というものがあり、0,1,1,2,3,5,8,13,21,34・・・と、前の数を足していくのですが、この数列も3以降、3÷2=1.500、5÷3=1.666、
8÷5=1.600、13÷8=1.625、21÷13=1.615、34÷21=1.619・・・と不思議なことに一つ前の数で割ると、1.618に近似します。

 ですから「3:5:8」も【黄金比】に近似することになります。

 細胞分裂で増えていく個数もこの「フィナボッチ数列」に従います。

 また円の円周を【黄金比】で割ると、中心角は137.5度になり、自然界においてこの角度で葉っぱなどが増殖していくと重なり合いが最小限になり、お日さまに効率よく照らされるそうです。 実際に松ぼっくりやひまわりの真ん中のところ、バラの花びらなどがこの法則に従うことが知られております。

 一方、半分に切ってもその寸法比が変わらない長方形を考えましょう。

 長方形を縦にして、長い方をx、短い横をyとします。長い方を半分に折っても新しくできた半分のサイズの長方形の比率が変わらず、縦横は入れ替わりますので、x:y=y:x/2が成立します。x2=2y2 (←2乗あり)となり、yを1とするとxの正の値は√2になります。

 つまりこの1:√2という比率が、普段良く使われるB5やA4などの紙のサイズです。 ちなみにA4は210×297mmで、297÷210=1.4142857・・です。

 √2は1.414です。これは「白銀比」や「大和比」と呼ばれます。1.618と1.414では大分違うような気がしますが、ときに黄金比に含められている場合もあります。
 
 どういうこと??

 5:8の黄金比に対し、白銀比は5:7に近似します。


「ダヴィンチ・コード」ではラングドン先生が、この黄金比に関して学生に熱っぽく語りかけます。

 美術品から自然界から、自分の体から、クラシック音楽に至るまで黄金比が隠れていると。

 有名な「葛飾北斎」の富嶽三十六景での神奈川沖を描いた、波しぶきがざっぱ~ん ってのは、波が正確にこの【黄金比】の螺旋を描いているそうです。

 昔からこの【黄金分割】に特に敏感な方は多く、アテネの神殿、ピラミッドの底辺の半分と高さの比、ミロのヴィーナスやダ・ビンチの有名な円の中に人が手を広げている、あの絵での身長とへその位置やら、他にもモナリザでも、また誰でも子供の頃いたずら描きした五芒星(ごぼうせい=五角星形)もこの比率を図形中に含むから美しいだとか、最近ではゴルファーが気にするウェッジの顔にもこの1:1.618の比率のものが出現しました・・・

 やはり八頭身で3:5くらいの比率というものは、人間が最も美しいと感じるようです。

1.618の美-1

2006年05月22日 13時34分42秒 | Weblog
 今日は数学です。

 1.618という数字、もしくは(1+√5)/2って何だか分かりますか?

 ぴんと来た方は「まにあっく」ですね。

 √5は、「富士山ろくオウムなく」ですから、2.2360679に1足して2で割るので、
1.618・・・になります。

 この数字、つまり 『1:1.618』 が、古代からこの世で最も美しいとされる比率、そうです、じゃじゃ~ん!!【黄金分割】(黄金比)です。

 1÷1.618=0.618なので、または0.618:1です。小数点以下がそろうことも興味深いですね。


A        C    B

 いま、線AB:AC=AC:BCとなるCを決定すると、AB/ACが1.618になります。


 また名刺の縦横比がこの数字です。

 この名刺の長方形の作図法と長さの求め方、もしくは黄金比の求め方ですが、図のように、まず正方形を取ります。

 正方形の底辺の中点をとります。

 仮に正方形の一辺を2とすれば、中点は当然1になります。

 その場合、青色の斜線はピタゴラスの定理から、√5になります。

 青色の斜線を半径とする円をコンパスで書いてできた長方形の横の線は1+√5になりますね。

 2:1+√5ですから、1:(1+√5)/2となります。

 正方形とコンパスがあれば、このような方法で黄金分割を作図することができます。 「だからどうした?」なんて言わないでくださいね。

 この長方形は内部に短い辺を一辺とする正方形を取ると、残った長方形はまた黄金比であり、さらにその残った長方形に正方形を・・・という現象が永遠に続きます。

 その際その正方形の一辺を半径とする円を中心角90度で描いていくと、美しい螺旋が完成し、オーム貝の螺旋がこれに従っていると言われておりますが、反対意見もあるようです。

 続きます・・

ホドロフスキーの美学-3

2006年05月21日 14時12分21秒 | Weblog
 以前このブログに書いた、NHK-BSでの「アジアに生きる子供たち」のノラルディン君のビデオをゲットしました。 僕の後輩の医師はこの話をここで読んで、まだ見ていないのに奥さんに話し伝えながら泣いてしまったそうです。

 当院の患者様でご希望の方がいらっしゃれば、お貸しいたしますから、僕にお声かけください。


 さて、2作目の「ホーリー・マウンテン」はプロの評価は高いものの、「エル・トポ」で見せた彼のカルト性を拡大・エスカレートさせた感じです。

 ストーリーはあるのですが、ほぼ無いに等しいです。

 やはり主キリストに似た主人公が、さまざまな体験を経てA・ホドロフスキー演じる錬金術師と出会い、また俗界の権力者たちは俗界を捨てて、主人公と一緒に錬金術師に導かれて「聖なる山」を目指すというものです。

 それぞれに暗示的な意味があるのかもしれませんが、彼が描写したかったのはやはり「瞬間瞬間の映像」と「現実の狂気」だと思います。

 ラストには現実に戻る「え?」という、ヌーベルバーグ的なエンディングが用意されております。


 彼は映像を観客に見せつけ、人間の醜い部分を際立たせ、社会の滑稽さを表現します。

 彼の美意識は独特であり、フランスのヌーベルバーグや、後で考察しますがイギリスの「デレク・ジャーマン」のようにまるで絵画のような洗練された「カルト」的映像美ではありません。

 どちらかといえば「デビッド・リンチ」や「キューブリック」、「タランティーノ」のカルトさの元祖といった感じです。

 「エロ・グロ・ヴァイオレンス・カネ・残酷さ・醜悪さ・血」を切り取って浮き彫りにします。

 どうもコーカサスにはそういうカルト的暴力的な血が奥深い部分に流れているのでしょうか?

 特にメキシコを始めとする中南米では先住民には先住民の独特の血の文化があり、さらにはかつてスペイン人に虐殺されたという深い悲しみもDNAに刷り込まれております。

 さん然と輝く太陽と、かつての黄金の文化と、虐殺と貧困、血・・・・。

 砂漠や高地・山岳地帯では居住するには決して最良の土地とはいえないかもしれない、苛酷で不毛な自然環境もあるでしょう。

 色彩感覚も、血という文化でも、先住民は僕たちと同じモンゴリアンではありながら、森で育った東洋人には分かりにくい部分があります。

 ラテンアメリカの暴力的、破壊的、破滅的、創造的、神秘性、色彩感覚や美術感性に岡本太郎さんも大いに驚愕し圧倒され強く影響を受けたようです。

 でもそういう鬼才が創る映像が、どうして平均的なハリウッド映画や日本映画より美しい(と僕には感じる)のでしょうか?

 どうして日本人ではこれらの美しい映像を撮れないのでしょうか?


 大島渚監督や北野武監督はそれらの映像美を理解し、またそれに迫ろうとしていた・いる意欲は認めます。

 しかし僕が言うのもはなはだ僭越ですが到達点はまだまだだと感じます。

 「チャン・イーモウ」はじめアジアの諸監督のほうが、センス溢れる色彩感覚に優れた映像美を捉えていると思わざるを得ません。

 日本国内の僕たち一般市民に、日本独自の「美しい」風景や、それを守ろうとする心や誇り、実存する「美しい」人間、尊敬に値する同胞、「美しい」価値観、さらには僕たち国民と日本のメディアの「美意識」や「美しさ」を愛する気持ちの度合い、「美しい」宗教観や哲学、「愛国心」が低下していることと無関係ではなさそうです。

 人間が「美しい」ということは、ブランド物の服や靴やかばんやアクセサリーを「所有」することではなく、それを身につけるにふさわしい「人間性」や勝ち得た「行動」、なしえた「業績」、と同時に社会への「貢献」、「言動」、「審美眼」、「知性」、「品性」、「哲学」、「他者・弱者へのいたわりの心」、「芸術に関しての姿勢」・・・そういうものだと思います。

 そうではない「成金的価値観」がまだまだ日本には、僕たち国民にもマスコミにもあふれているようです。

 お金を所有したものが偉いんだという「拝金主義」が浸透しすぎております。

 また昨今では鷹揚(おうよう)さにも欠けますよね

 わが国は残念ですが撮影する機械は優秀なのに、それを操る才能や美への感性にまだまだ埋められない差があることを実感します。

 CMや音楽のプロモーション用の映像などでは大分その差は縮まった印象もありますが、お金のかかる大掛かりな映画などの映像となると・・・。

 諸外国に比してお金を所有し、権力を持った「トップの美意識」の差も大きいのでしょう。

ホドロフスキーの美学-2

2006年05月20日 19時49分31秒 | Weblog
 弘前の藤田庭園の建物です。個性あるでしょ?

 さて、A・ホドロフスキーですが、彼の最も有名な「エル・トポ」はモグラという意味です。

 物語が2部構成になっております。

 彼の作品はストーリーよりも、瞬間瞬間の映像を重視しておりますので、細かいところは気にしないでください。

 ダリやキリコのようなシュール・レアリスムの映像版、前回書いたガウディの映像版とも言えるかもしれません。

 この映画では「キリスト教」と「仏教」の混成が基礎にあるように感じました。

 背景は砂漠と青空です。

 ある程度正義感を持った主人公の「主イエス」のような子連れのガンマンが悪党を倒し、悪党の首領の女であった女性を拾って、我が子を修道院に捨ててしまいます。

 彼はその女性にたぶらかされて、4人の賢者(修行者)を次々に卑怯な手を用いて撃ちます。

 釈尊の出家時の4つの「苦」を意識しているように感じました。

 最後の4人目では「人を殺しても無益だ」と悟り、最終的には自分は女性に撃たれてしまいます。

 その後、後半に東洋の僧侶のような姿に容姿を変えて、ある洞窟で目覚めます。

 その洞窟には「障害者」たちが住んでおります。その洞窟の住人の一人である障害者の女性とともに、トンネルを掘って「障害者」たちを解放しようとします。

 そのため障害者の女性と二人で、トンネルを掘る資金を稼ぐために街に出ますが、街は奴隷・得体の知れない空虚なオカルト宗教・性・暴力・カネ・・・見るもむごたらしいこの世の欲にまみれた醜悪な塊です。

 二人は見世物を行って資金を稼ぎ、そのうちに結婚をして赤ちゃんを身ごもります。

 主人公はその街で、以前捨てたはずの息子と出会います。 捨てたはずの息子は修道僧に成長しておりました。

 今度は息子が昔の父親のガンマンの格好となり、捨てられた仇を父親にうとうとしますが、父親はトンネルを掘り終わるまで息子に待ってもらい、そのうち逆に息子が父親を手伝うことになり、遂にはトンネルが完成しても息子は父親を赦(ゆる)してしまいます。

 そして開放された「障害者」達は、主人公の制止をふりほどいて急ぎ街に走り出でてしまい、待ち構えた俗人である街の住人に全員射殺されます。

 そして主人公は街の住人に復讐をして全員射殺しかえし、最後には自ら焼身「即身成仏」してしまいます。

 残された息子は、父親の息子と母親を馬に乗せて映画が終わります。

 そしてこのシーンが映画の冒頭につながり輪廻するように感じました。

 この映画はミック・ジャガーやアンディ・ウォホール、そしてジョン・レノンが気に入り、小さな映画館に足を運び、特にジョンが興行権を買い取ったのでも有名です。

 監督・脚本・衣装・音楽・主演、すべてA・ホドロフスキーです。

ホドロフスキーの美学-1

2006年05月19日 19時26分48秒 | Weblog
 パリのノートルダムがあったので載せてみます→

 復習です。ゴシックの傑作、マリア様の教会です。

 以前にも書きましたが、アレハンドロ・ホドロフスキーという映画監督がいます。

 彼はチリ生まれのロシア系ユダヤ人です。 それを聞いただけで僕は才能を期待してしまいます。

 世の中に「カルト」という言葉がありますが、彼の「カルト」はそんじょそこらの並みのカルトではありません。

 生粋の元祖、100%混じりっけなしの「カルト」です。

 通常は胸焼けを起こし不快なのが当然です。

 彼の作品をわかったふりをして、知ったかぶりをすることが、世に多い評論家としてのある種のステイタスを誇示する方法論としても使われております。

 彼の映像は以前お書きしたスペインの天才建築家「ガウディ」の美意識に相通ずるものがあると感じる僕は異端でしょうか?

 彼は「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」「サンタ・サングレ」という3つの作品を息子と呼んでおります。

 僕は残念ながら3つとも見てしまいましたが、紹介しておいてこんなこと言うのもヘンですが、見ないほうがいいかもしれません。

 でも3作目の「サンタ・サングレ」は純粋に美しいと思います。 僕がもっとも好きな作品のひとつです。

 ですが、ラテンアメリカにはどうしても「血」と「残酷さ」「見世物」がつきまといます。

 まだ見ていない方でこのブログを読んでご覧になられる方は、それらがラテンアメリカの「文化」と「歴史」なのでそこを理解して観て欲しいと思います。

 ただし僕たちは異文化に接したときに「文化が違う」ということで、真の背景を読むことなく自己納得させる悪いくせがあると思うのです。

 その背景には、そうなってしまった理由には、貧困であったり、先進国のエゴや、暴力、弱者へのしわ寄せ、差別、未教育が横たわっていることもあるので、そうしたくてそうなのか、それを望んだわけではないのにそうなってしまったのか、それは正確にとらえる必要があります。

 「サンタ・サングレ」はホドロフスキーが初めて商業用に観客を意識して創ったと言うとおり、ある程度論理的なストーリーがありますので、分かりやすいです。

 特に「キスシーン」はとっても美しいと思います。

 ただし彼の作品の中ではこれくらい分かりやすいものでも、並みの「カルト」ではないですからご注意ください。

 続きます・・・

ガウディの美意識-4

2006年05月17日 11時46分45秒 | Weblog
 前々回書いた弘前の大工の神様「堀江佐吉」棟梁も突出していると思いますが、以前と同じ愚痴になってしまうのだけれども、翻(ひるがえ)ってでは「東京」・・・一体どれほどの建物が個性に溢れているでしょうか?

 例えばみなさんは東京の絵葉書を一枚選べ、と言われたとしたらどの風景(建物)を選択しますか?

 スペインにはバルセロナですがガウディがいて、首都マドリッドには王宮やマヨール広場にアルムデーナ大聖堂、お城のような郵便局だってあります。

 チェコの首都プラハには聖ヴィート大聖堂があり、

 ウィーンにはシェーンブルン宮殿が、

 モスクワはもちろんのことサンクトペテルスブルクにはピョートル宮殿にエカテリーナ宮殿があり、

 ロンドンならテムズ川にビッグベンと国会議事堂・ウェストミンスター宮殿や大英博物館、

 ブタペストにはドナウ川に橋と荘厳な国会と王宮が、

 パリならコンコルド広場やノートルダム大聖堂、凱旋門にルーブルにヴェルサイユ宮殿、

 ローマはきりがありませんし、

 中国なら上海に海と個性あるビル群、北京は故宮、

 香港も、クアラルンプールも、シンガポールも海をたたえた美しく個性あるビル群、

 バンコクには水上生活・・・

 市民が誰でも親しみを持ち、憩いの場であり、誇りでもあり、その国の首都の個性が見られ、しかも外国人にも強く訴える力のある風景。

 東京は空襲の影響もありましょうが、今だにご老体の東京タワーだけでしょうか・・・? でも色合いもデザインもエッフェルに負けてませんか?

 迎賓館といっても門から建物までが遠く、市民に開かれているとは言えないし、(僕個人的には大好きで門にへばりついたこともありますけれど)一般市民にはなじみはありません。

 国会議事堂といってもそれだけならばテムズ川を見下ろしビッグベンをたずさえたロンドンに負けますよね?

 浅草か増上寺あるいは・・・上野の表慶館~寛永寺ですか?でも・・・それなら中国の天安門、故宮、紫禁城にかないませんよね。

 京都や日光は東京じゃないし・・・。

 銀座や渋谷を写したって一体世界中のどこの街かわからないし個性がありません。

 表参道ならさすがに瀟洒なビルもありますが、東京の顔としてはインパクトに欠けますよね。

 あ、秋葉原はある意味ジャパンですね。 でも・・・。アメ横とか・・。淋しいな。

 代々木体育館と東京カテドラル、東京都庁、パークハイアット東京、お台場のフジテレビビルの「丹下健三」氏頼みか。 そしたらお台場かな?

 やっぱり皇居かな・・? でもバッキンガム宮殿ほど開かれてもいないし、衛兵交替もやっていないし、宮殿の全貌が見えるわけでもないし、有名な建物もわかりません(門だけ??)。 

 宮内庁の方、もう少し皇居を観光客に開いていただき、それと東京駅側のあの贅沢な広場の空間に、屋根つきの「能」舞台や「狂言」舞台、「歌舞伎」演舞舞台を設置したり、また各地の日本祭りを再現したり、あるいはお花畑を作ったり、着物を着た女性がお抹茶を立てる実演をして、いろんな日本文化を堪能できるようにしたり、さらには日曜日には大道芸や移動動物園などに利用してはならないのでしょうか? 排ガスも多いので自動車道路をフードで覆ってしまうとか・・・。昼寝だけのためならもったいない気がするのですけれども。

 しかし皇居は素晴らしいとして、今朝もこれを書くために見てまいりましたが、その周囲の官庁、霞ヶ関から丸の内を経て平川門へ至る外側のビル群(付け加えて東京駅の八重洲側の特にデパートの入っている茶色いビルなど)はひどいね、ひどすぎて泣きたくなり、ショックのあまり倒れそうになりました・・・。

 あれを機能的で優れた建築だなんていうのは玄人だけでしょう。

 小学生に美しいかどうか聞いて御覧なさい。え?仕事をする場所なのだから別に建物に美しい必要性が無い? そこが「美意識」なんではないでしょうか? 誰がどうやってあの箱を、あの風景を決めたのでしょうか?

 僕が異常なのでしょうか?

 日本国民でいったいどれほどの人が個別のビルの写真を見て、どれが文科省で、厚生労働省、警視庁、消防庁、気象庁とビルを当てられるか?

 僕にはまったく、微塵も、せっかくの歴史と伝統を感じないし、花も緑も無ければ個性も無い。 あそこで働く優秀な方たちが気の毒です。

 立地的・空間的にあんなに恵まれているのに、誰が設計したのか知りませんが、あれを美しいと思う美意識を問いたくなりませんか?

 外国からの観光客に誇れますか?

 誇り高き国会議事堂と最高裁判所が、皇居と旧法務省とともに寒々しく泣いております。

 できることなら消しゴムで消して、丹下先生か堀江棟梁に全部設計しなおして欲しいくらいだ。

 じゃ都庁かな・・・?でも外国の観光客がわざわざ足を運ぶでしょうか?

 え~い、いっそのこと自虐的にもっとも平凡な灰色の四角い箱の雑居ビルがごみごみと立ち並ぶ一角を「アジアのケイオス」としてでも選んじまいましょうか?


 当たり障りの無いところでやはり、東京湾から臨む(船から撮った?)富士山と東京タワーとお台場がワンショットに映った風景か、桜の時期の国会議事堂と皇居がワンショットに納まった(納まるのかな?)風景か、都庁を始め新宿副都心の航空写真・・・でしょうかね? でも外国の観光客が同じ風景を実際に目にできますかね?お金を払ってでも見ようとするかなあ?


 新東京タワーに期待しましょうか! ああ、丹下健三先生が存命せらるるならば・・・。辰野金吾氏も片山東熊氏も堀江佐吉棟梁も村野藤吾氏もみ~んないないので、安藤忠雄氏か黒川紀章氏に期待してもいいのでしょうか?

 
http://blog.livedoor.jp/modernarchitecture/archives/cat_50016625.htmlこのページを見て、人気投票でもしましょうか?

 行政よ、どうか新タワーのデザインには日本建築界の英知を結集してくだされ!

 諸外国では僕たちのような一般市民の「美意識」が高いし、街の個性を保存しようとする意識が僕たちよりもうんと強いために、当然ながら市民の下僕であらねばならない行政も「審美眼」が養われ、建物には壁の色から高さから屋根の造作までいい意味でのさまざまな「規制」がかかると聴きます。

 一度僕たち日本人は「街の風景」というものに関して真剣に考える必要があると思うのですが、いかがでしょうか?

 どうしても僕たちは生きていると、つい自分の身の回りのことだけに意識が集中しがちになりますが、公共の「街の風景」ということにももっと関心を向けるようにいたしましょう。

 子供たちから疎(うと)まれないように、大人が責任を持って、少しでも美しい風景を残してあげましょう。

ガウディの美意識-3

2006年05月16日 11時17分40秒 | Weblog
 昨日、うれしい来訪がありました。 僕が手術を執刀させていただいた当時11歳だった女の子が、お母さんと一緒にわざわざ遠い南の島から、13年ぶりに当院に経過を見せに来てくれたのです。

 24歳という妙齢になられ、多感なせいかなぜか感激してくれたらしく、涙をあふれさせてくれました。

 僕も魂が共鳴して深く感動しました。 こういう感動があるからこそ人生は素晴らしいのですね。

 
 さて、ガウディといえば螺旋と曲線、歪みです。

 彼によれば建築は有機体であるから、有機体を構成する自然の法則に従わねばならない、というのが彼の理念のようです。

 そのために、僕たちの「既成概念」というひどく重い鎧を脱ぎさり、彼の柱は重力に抗う直線ではなく、また重力に対して垂直に屹立(きつりつ)することもなく、あたかも重力を吸収するかのごとく、傾斜・曲線・螺旋を描くのです。

 確かに生物・自然界において本当の直線は見ません。 すべて曲線・局面を描きます。DNAですら二重らせん構造です。

 かれの建築物は分類的には「アール・ヌーヴォー」です。以前お書きしたアール・ヌーヴォーを思い出してください。

 優雅な曲線、虫や植物をモチーフ、平面的(ガウディは異なりますが)で装飾的・・。

 僕個人的にはガウディは「バロック」の装飾過剰・重厚にも通ずると思います。

 ガウディのま反対に位置する建築物が、言ってみればN.Yの摩天楼の直線的で対称的なビル群(アールデコ)でしょうか・・・? それはそれで均整が取れていて、美しさや個性を感じます。

 ガウディの建築物はまるで地から這い上がってきた生き物のように、うねうねとうねっており、見方を変えればおどろおどろしく、「グロテスク」にも見えます。 彼の手にかかれば煙突ですら「巨人」や「きのこ」となり、カサ・バトリョにおいては屋根ですら有機生物のごとくうねりはじめます。 そしてここは「おとぎの国」や「ディズニー・シー」ではなく、明治時代の本物の・現実の建造物です。

 しかし建築物はアート(と思っております)ですから、一目見てこれは誰の設計だ、とわかるくらい個性的であってほしいと(僕個人的には)思います。 その意味ではガウディを超える天才はいないのではないでしょうか?

 音楽を含め、映画、絵画、建築、美術・芸術には強烈な個性(アバンギャルド性=革新性)が必要だ、という僕の持論(単に上手いだけではダメ、他人が真似できないほどの個性が大切)からすれば、ガウディの作品は誰が見ても当然目を引きますし、ほとばしるガウディの個性が溢れ出ているとは思いませんか?

 「天才か悪魔か・・・」ガウディの大学教官は彼を指してそう言ったそうです。

 岡本太郎はこう言います、「きれい」なものは相対的であり、型にはまり時代にマッチしたものである。「美しい」ものは絶対的であり、気持ちのいいものばかりではなく、不快なものやみにくいもの、グロテスクなものにも、ぞっとするほどの美しさというものもある。

 『きれいと美しいは反対だ!』

 「自分の中に毒を持て」、「はみ出せ、はみ出せ」


 写真は「グエル公園」の有名なトカゲ君です。

ガウディの美意識-2

2006年05月15日 12時01分10秒 | Weblog
 今日は記念すべき100本目です。

 写真は有名なトカゲがいる「グエル公園」です。

 ガウディはもともとは非クリスチャンでしたが、サグラダファミリアの製作中にクリスチャンになったそうです。

 彼は76歳で亡くなられたときには、路面電車に轢かれてしまうのですが、若い頃はダンディであったのに、当時サグラダファミリア建築に没頭するがためにあまりにもみすぼらしい格好をしていたので、タクシーにも何度も乗車を拒否されなかなか病院に搬送してもらえずに、早く搬送していれば助かったかもしれないのに、不幸にもお亡くなりになられたそうです。

 彼の建築はゴシック様式にも見えるのだけれども、彼はゴシック建築を、「骨格が支えなければならない肉の重みにつぶされて、あちこちに松葉杖が必要な人間のようだ」として、控え壁やフライングバットレスを取り去り、らせん柱を採用したりしております。

 パトロンとしての商人グエル氏の多大な支援を受けながら彼は、「サグラダファミリア」以外にも、小規模ながら最高傑作との評価も高い「コロニア・グエル地下教会堂」、「グエル邸」、「グエル公園」、「テレサ学院」、「カサ・ミラ」、「カサ・バトリョ」などを創っていきます。

 西洋のお金持ちはこうやって若き才能を育てることが素晴らしいとつくづく思います。 ただお金を所有するだけではなく、社会に還元する心や審美眼も要求されるのです。 ですから人々から尊敬されるのではないでしょうか?

 日本のお金持ちもぜひ美術・芸術・建築に投資をして欲しい(金儲けのための「投資」とは異なります)と以前にもお書きしました。

 しかもこれらガウディの建築物はなによりも明治時代だ、(堀江佐吉と同時代)ということに留意してください。

 以前僕が撮った写真を載せた「カサ・バトリョ」は海をモチーフとしており、壁面のガラスやタイルの装飾がまるで海面のように、さまざまに光が屈折してとても美しく、夜ライトアップされると海さながらにきらびやかに光るように設計されております。

 また「コロニア・グエル地下教会堂」では、重力を計算するのに、有名な「逆さ吊り模型」を使用し、その実験だけでも10年を費やしたそうです。

 ガウディの建築物に関しては下記を参照してください。
http://www.guell.co.jp/gaudi/index.html
http://www001.upp.so-net.ne.jp/bohemianload-2/gallery-1/S01Antonio_Gaudi/