医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

百年の孤独な南米美感2

2007年01月31日 12時29分43秒 | Weblog
 マジックリアリズムはそもそもドイツ生まれだそうです。

 日常の即物的現実的事象に、幻想的・突飛な噂話や空想などをあえてごちゃ混ぜに書いていくことによって、より幻想的でポワポワ~ンとなるんだけれども、リアリティもいっそう強調されるという方法です。

 現実と幻想の境界を不明瞭にしていって、全体のイメージを造り上げ、出来上がりのイメージを強烈に仕上げる分、現実もなおさらいっそう明瞭になるっていうのかな・・・。

 誇張やうそ、フィクションとはまた違うんですよね。

 日本でもマジックリアリズムに影響された小説をよく目にしますよね。

 中上健次、ノーベル賞作家の大江健三郎、筒井康隆に、ごひいきの町田康だって、僕が大好きな安部公房にもその影響が感じられます。

 一方、人間の「意識」というものは、常に論理的で時間軸に沿ったものではなく、あちゃこちゃ飛ぶものだし、うつろうものであり、断片的多次元複数同時進行ですよね。

 例えば朝シャワーを浴びながら、口には出しませんが頭の中で、お湯の温度がどうだとか、シャンプーの匂いがどうだとか、同時に腹が減ったので朝食の事を考えつつ、昨夜の夢や、今日のこれからの仕事のことや、あの人のことを考えたり、しょうもないことや、えげつないことを空想をしたりしつつ、鼻歌を歌ったりしながら・・・瞬間的には一つのことしか考えられないので、常に正確に同時とは言いませんが、断片的に多次元的に進行してますでしょ。

 それを文学用語では「意識の流れ」と言います(たぶん)。

 意識の揺らぎといってもいいでしょう。

 また、記憶には別段意識していないのに突然勝手に向こうからやってきて(もちろん、あ、この匂い・・などとトリガーはあるのでしょうけれども)、頭の中で展開されてしまうものもあります。

 それに言葉として発している意味と、本当の率直な心情や意識は異なるものです。

 それらをベンヤミンやプルーストの「無意志的記憶」、後者を「内的独白」と呼びます(きっと)。

 通常の映画やテレビドラマや小説でも漫画でも、この「意識の流れ」をはじめとする意識の揺らぎを再現することなく(再現も不可能ですが)、口に出した単一的な意識にだけ基づいて進行させざるを得ないところに、しらじらしさを感じてしまい、リアリティが欠けてしまうことが、僕にとって子供の頃からず~っと不満な、変わった子供でした。

 特に演劇は、日常の実際はあんなふうにしゃべらないよなって思うだけで興ざめだし、今でも「ぬゎにぃ~」などと大げさに目を剥くような華麗なる一族な演技を見るともうダメ・・・

 多次元の人間の思考や意識を、表現物として完全に二次元や三次元で表現しようとしても、ツール上無理と限界があります。

 「意識の流れ」に関してはイギリス文学が草分けであり、アメリカのフォークナーもその代表のひとりです。

 意識の流れやリアリズムを意識して、よりリアリティを与えるのに映画の世界で導入されたムーブメントが「ヌーベルバーグ」・・・と勝手に思い込んでおります。

 ヌーベルバーグに関しては、またいずれやりましょう。

 フォークナーの流れを汲むマジックリアリズムにも、そういった役割もあると、これまた勝手に解釈しておりますが、間違っているかもしれません。