熊太郎が信じていた正義とは、この世は偉い人がある程度の正義を持って、悪い人を罰し、よい人を救ってくれるはずだ、というひどく幼稚な正義であり、実際は砂のようにもろく切なかった。
誰しも年を重ねるたびごとに、どうしようもなくねじくれて癒着して絡みまくった人間関係や、大小の過ちなどの自分の過去の事実に忍辱(にんにく)の行を強いられて生きる現世。
人生という糸がもつれて、こんがらかって、よじくれて、お団子になって、からみついて、まったくもっていらいらするのであるが、それを丁寧に根気よく、ちまちま、ときほぐして行く、果てしない業(ごう)・・・
しかも足元は地雷だらけでそれを踏まぬよう留意しつつ、横から思いもかけずに飛び出る槍に刺されぬよう。
熊太郎は観音さまに悪行の許しを願ったが、すべてをリセットしてやり直したい、と願わない人がいるのだろうか?
そもそも共同社会である以上、考え方や思弁がその人口分あったとして、都度折衷案を考え、半分の位置、半分の位置に地味に旗を立て、それがやがて正論となってうごめいて行く政治、法律、社会。
当然共同体の運営のため、個を消して、ここまでは許されるのではと摺り寄せて、スピード違反したり、つい意地悪をしてしまったり、卑怯を為したり、主張したり、我を通したり、そんな小さな罪を詫びつつ、だが次の罪を同じく重ねてしまい、善行と悪行のはざまでもがく僕たち。
そもそも善とは?悪とは?
人が生きれば自覚の有無に係わらず誰かを傷つけ、罪にならない罪を犯し、ウソを言い、見栄を張り、怠けたり、地球に迷惑をかけ、それらは積み重なり・・・
しかし、生きているだけで、感謝をされたり、誰かを助けることができたり、支えになれたり、役に立ったり・・・・時にすばらしい行為を為せた者は、感動されたり、称賛されたり、銅像が建ったり。
善行と思われる実は自分のための行為で、偽善を為して、自分の小さな罪を自分のコスモで帳消しにし、ごまかしながら、だましながら、ヨロヨロしつつもなんとかぎりぎりバランスを取って、「元気ぃ~?」などと虚勢を張って生きる毎日。
ところが主張せず、我を通さず、我慢をする、正直者がバカを見るかもしれぬ世の中。
もちろん人生には、こんなネガティブな要素ばかりではなく、小さな幸せにとても満足したり、笑ったり、楽しいことも、美しいものに触れて感動するなどの、ポジティブな要素もあります。
昨今、心の癒しが共感を呼ぶということは、心に病理もあるということです。
誰しも年を重ねるたびごとに、どうしようもなくねじくれて癒着して絡みまくった人間関係や、大小の過ちなどの自分の過去の事実に忍辱(にんにく)の行を強いられて生きる現世。
人生という糸がもつれて、こんがらかって、よじくれて、お団子になって、からみついて、まったくもっていらいらするのであるが、それを丁寧に根気よく、ちまちま、ときほぐして行く、果てしない業(ごう)・・・
しかも足元は地雷だらけでそれを踏まぬよう留意しつつ、横から思いもかけずに飛び出る槍に刺されぬよう。
熊太郎は観音さまに悪行の許しを願ったが、すべてをリセットしてやり直したい、と願わない人がいるのだろうか?
そもそも共同社会である以上、考え方や思弁がその人口分あったとして、都度折衷案を考え、半分の位置、半分の位置に地味に旗を立て、それがやがて正論となってうごめいて行く政治、法律、社会。
当然共同体の運営のため、個を消して、ここまでは許されるのではと摺り寄せて、スピード違反したり、つい意地悪をしてしまったり、卑怯を為したり、主張したり、我を通したり、そんな小さな罪を詫びつつ、だが次の罪を同じく重ねてしまい、善行と悪行のはざまでもがく僕たち。
そもそも善とは?悪とは?
人が生きれば自覚の有無に係わらず誰かを傷つけ、罪にならない罪を犯し、ウソを言い、見栄を張り、怠けたり、地球に迷惑をかけ、それらは積み重なり・・・
しかし、生きているだけで、感謝をされたり、誰かを助けることができたり、支えになれたり、役に立ったり・・・・時にすばらしい行為を為せた者は、感動されたり、称賛されたり、銅像が建ったり。
善行と思われる実は自分のための行為で、偽善を為して、自分の小さな罪を自分のコスモで帳消しにし、ごまかしながら、だましながら、ヨロヨロしつつもなんとかぎりぎりバランスを取って、「元気ぃ~?」などと虚勢を張って生きる毎日。
ところが主張せず、我を通さず、我慢をする、正直者がバカを見るかもしれぬ世の中。
もちろん人生には、こんなネガティブな要素ばかりではなく、小さな幸せにとても満足したり、笑ったり、楽しいことも、美しいものに触れて感動するなどの、ポジティブな要素もあります。
昨今、心の癒しが共感を呼ぶということは、心に病理もあるということです。