医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

ちょらちょらな美作14

2008年10月31日 08時58分36秒 | Weblog
 熊太郎が信じていた正義とは、この世は偉い人がある程度の正義を持って、悪い人を罰し、よい人を救ってくれるはずだ、というひどく幼稚な正義であり、実際は砂のようにもろく切なかった。

 誰しも年を重ねるたびごとに、どうしようもなくねじくれて癒着して絡みまくった人間関係や、大小の過ちなどの自分の過去の事実に忍辱(にんにく)の行を強いられて生きる現世。

 人生という糸がもつれて、こんがらかって、よじくれて、お団子になって、からみついて、まったくもっていらいらするのであるが、それを丁寧に根気よく、ちまちま、ときほぐして行く、果てしない業(ごう)・・・

 しかも足元は地雷だらけでそれを踏まぬよう留意しつつ、横から思いもかけずに飛び出る槍に刺されぬよう。

 熊太郎は観音さまに悪行の許しを願ったが、すべてをリセットしてやり直したい、と願わない人がいるのだろうか?

 そもそも共同社会である以上、考え方や思弁がその人口分あったとして、都度折衷案を考え、半分の位置、半分の位置に地味に旗を立て、それがやがて正論となってうごめいて行く政治、法律、社会。

 当然共同体の運営のため、個を消して、ここまでは許されるのではと摺り寄せて、スピード違反したり、つい意地悪をしてしまったり、卑怯を為したり、主張したり、我を通したり、そんな小さな罪を詫びつつ、だが次の罪を同じく重ねてしまい、善行と悪行のはざまでもがく僕たち。

 そもそも善とは?悪とは?

 人が生きれば自覚の有無に係わらず誰かを傷つけ、罪にならない罪を犯し、ウソを言い、見栄を張り、怠けたり、地球に迷惑をかけ、それらは積み重なり・・・

 しかし、生きているだけで、感謝をされたり、誰かを助けることができたり、支えになれたり、役に立ったり・・・・時にすばらしい行為を為せた者は、感動されたり、称賛されたり、銅像が建ったり。

 善行と思われる実は自分のための行為で、偽善を為して、自分の小さな罪を自分のコスモで帳消しにし、ごまかしながら、だましながら、ヨロヨロしつつもなんとかぎりぎりバランスを取って、「元気ぃ~?」などと虚勢を張って生きる毎日。

 ところが主張せず、我を通さず、我慢をする、正直者がバカを見るかもしれぬ世の中。

 もちろん人生には、こんなネガティブな要素ばかりではなく、小さな幸せにとても満足したり、笑ったり、楽しいことも、美しいものに触れて感動するなどの、ポジティブな要素もあります。

 昨今、心の癒しが共感を呼ぶということは、心に病理もあるということです。

ちょらちょらな美作13

2008年10月30日 14時24分20秒 | Weblog
 人間の思考・思弁は自己の脳内で発生し、だらだらと渦を巻き、断片が重なり、流れたり、オーバーラップしたり、消滅し、新たに生まれたり、途切れたり、強くなったり弱まったり、モヤモヤしたり・・・・

 ところがそれらを表現すべく口語や文語へ変換した際にはギャップが生まれ、やっとこさ変換した言語を媒介して自分の本意が正確に他人に伝わるかどうかには、今度は受け手側の問題という新たなギャップが生じます。

 伝えるだけでもギャップがあるのに、それを伝わり聞いた他人が、次にその事象をどう評価するかにもさらなる大きなギャップがあります。

 自分にとっては大きな問題でも、伝えた相手にとってさしたる問題でもなかったり、相手の腹が減っていたり、ほかの事を思案中であったり、邪魔が入ったり、屁が出たり(町田節)、地震が来たり。

 そして、次にその思弁に基づく行為を自分が為す場合、思考と行為のギャップが本人の側に発生し、その上たとえばいくら本人が善行を積みたい、清く正しく美しく生きたいと望んでも、それが許されない周囲の状況があったり、共同体が存在したり、必ずや出現する仇敵・・・・などのギャップがまたもや生じます。

 さらにはその善行自体がよく考えると、功徳を積めば自分が天国に行けるだとか、実は自分のためだったりする、という間接的利己主義、偽善というギャップも生じます。

 ギャップの多重奏、ギャップ責めです。

 反対の反対は賛成なのダ!

 つまり、ギャップのギャップのギャップのギャップにより、他人から見ていかにも人を殺しそうなごろつきが、当の本人の本心では本当は人を殺したくないのに、結果として殺す状況に堕ちていく・・・。

 誰が悪いかといえば当然殺人者ですが・・・悲しすぎる。

 そのような本来は重い重いテーマをひょうきんな河内弁で、くどくど、ぐだぐだと疾走(どんな疾走だ?)させますが、しょーもないギャグをからめて、残虐に崩壊させまくるパンクぶりです。





 また、当たり前ですが、誰にとっても自分はスペシャルな存在であって、自分をこよなく愛したりします。

 度が過ぎるというか、他覚されればナルシストの誹(そし)りを受けますが、自分をスペシャルと捉えない人はいないのではないでしょうか?

 で、自分の思弁が自分にとって真実だとしたら、自分の内なるコスモスが真実であって、体外、外の世界はやはりうつしよ、浮世であり、共同体の倫理とはいわば、個人の思弁という真実の部分を個人の体の内部に残しつつも、自分の人格や思弁の何割かを外界に漂流させた自我の分身、うつしおみ、空蝉(うつせみ)の合算・・・かな。

 その空蝉の漂流体の中で一見して何も思わず生きていける者もいるかもしれないが、たいていの人は少なからず自分が属する共同体や身の回りの状況に違和感をもっているはず。

 自分の思弁が伝わらない疎外感やもどかしさを持っている人ってのは案外多いはずで、自分の中の熊太郎が大なり小なりいるのではないだろうか?

 うまく事が運ばない、伝わらない、違和感、疎外感ということは、自分が望むようには・・・ということ。

 しかし自分の思弁は自分にとって真実であるかもや知れないが、他人にとって、共同体にとって都合がよいとは限らないし、ましてや正義足りえず、そもそも真実や思弁など確固たる存在なのか?

ちょらちょらな美作12

2008年10月29日 11時36分17秒 | Weblog
 そんな風にぬらぬらして、町田氏のように有名ギタリストなぞと暴力沙汰を起こさぬよう、気をつけないとな。





 しかしたとえば「告白」での、主人公、熊太郎の盆踊りでの紀州人とのセッションのくだりなど、あまりにもばかばかしくて、たとえ自分がどんなに暗く落ち込んでいたとしても、声を上げて笑わずにはおれない・・・・。

 盆踊りなどという、日本人に超なじみがあって、だけれども凡人には深い考察など思いもよらない、そこにあれだけの突っ込みと、ばかばかしさを描ける著者のエネルギーは何なのだ?

 やはりパンクロッカーにしか分からぬ、音楽の醸成するエネルギーとその虚無とを知り尽くしているのか?





 これは単なる幼稚な読書感想文なのですが・・・

 それにしても「告白」は深い、深すぎる。

 「人はなぜ人を殺すのか――河内音頭のスタンダードナンバーで実際に起きた大量殺人事件<河内十人斬り>をモチーフに、永遠のテーマに迫る渾身の長編小説。殺人者の声なき声を聴け!」と内容紹介される。

 殺人者は熊太郎、明治の河内の農家の子で、当時の当地にしてあまりに思弁的過ぎ、思ったことを口に出せず、誤解を受け、転落して行きます。

 たいていの小説やテレビドラマなどは、物語を簡潔に経過させるために、会話の中でも無駄はなく、「そ、そうかい、君が・・・」などと通常は到底用いない白々しい会話で、さらに目をむいたりして、すすっと成り立って行くものですが、実際の世の中はそんなことはありません。

 コミュニケーションがブレイクダウンすることは当然ですし、心うちの読み合いがあったりし、途中で屁が出たり(町田節)、誰かの推理や心理分析が見事一致することもなく、原因もひとつではなく、実は事実も根拠も明確ではないことも多く、白黒決着もつかず、案外中途半端なことのほうがむしろ多い。

 それらに違和感を持った天才作家や映画監督は、いろいろな手法を用いて、この人間の思弁や意識、心理などの複雑さをなんとか凝縮しようと、また演じることやわざとらしさを超越しようと、各種の技法を試みたことは、以前にも触れました。

 広く言えば、意識の流れ、無意志的記憶、内的独白、カットバックにマジックリアリズム、幻想的リアリズム、ヌーベルバーグにジャンプカット(ジャンプショット)などです。

 「告白」では有無を言わせぬ言文一致体が用いられます。

 なので・・・クドイ。

 で、そこで、人間の「思弁」とは何なのか?

ちょらちょらな美作11

2008年10月28日 14時08分37秒 | Weblog
 なにせ先輩は、自分が不愉快な折、居住するマンションのエレベータにて上昇しながら、自分の住むフロアより上のすべての階のボタンを押し、そのような状況であれば、自分が降りて以降、そこより上のいちいちに停車するため、一階で待つ無辜(むこ)な他の住民は呼んでも遅いことにさぞイラつく目に遭うだろうと憂さ晴らしをする人なのだ。

 しかし、万が一、たまたま階下の親などのお宅を訪れた住人が、自分の階に戻るために中途の階から上に行くエレベータにふんふん相乗り合わせしめた場合、ある特定階から間断なく並ぶきらびやかにも通常にはアリエネー異様な点灯状態に、かかる奸計はたちまちのうちに察せられ、互いに耐えがたき重苦しさが立ち込めるにしてもだ。

 言ってみれば、非常に瑣末な憂さの晴らしなのではあるが、それが故に先輩はそのような後輩の振る舞いの異様さには気づき、結果いちびるのである。

 しかしさらに窮地に追い込まれると後輩は「う~」とうなって、このまま卒倒するか狂ってしまうのではないだろうかという、相手への居心地の悪さをあおるという暴挙にまみえ、常識的なオトナ同士の会話にもかかわらず、そういう小学生のような飛び道具を持ち出してでも、難を逃れるのである。

 難を逃れたと思うのは、かかる後輩の自己本位的なその場の希望的観測に過ぎず、後日どういうわけか俺が僕が私がその先輩に呼び出されて、お小言をもらうのである。

 然るに俺は「ほんとに困ったやつですね。それにしても先輩の突込みが見事で、僕は笑いをこらえるのに必死でした」とわけのわからぬおべんちゃらをしゅらしゅらっと言って、サラリーマン社会の悲哀を存分に謳歌したのであった。







 というような不毛なフィクションを不毛な文体で長々くどくどと妄想し、これで俺も熊のゾルバで芥川賞かと、くすくす感が余計に倍増され、あひあひして仕方がないのである。

 うん、うん・・・パンクだ。

ちょらちょらな美作10

2008年10月27日 13時17分22秒 | Weblog
 えてしてかように笑いが不謹慎な状況、重ねて言えば笑ったら負けの状況、例えて挙げるとお葬式などのときに、慣れぬ正座のせいで足がわぎわぎしてしまい、ちょらちょらっとしか歩けぬ人を、うかつにもつい自らの視界に入れてしまい、ビミョーな誦経(ずきょう)と相まってぬらぬら沸き起こってしまった・・・

 わが心の内なる感情であり己が責任の範疇ではあるのだが、もはや自力での制御を離れしまい、いまや勝手に増殖し噴火のごとく盛り上がる爆笑の我慢のための・・・

 そのような不条理な状況に晒されている自分への滑稽さに基づく、本事例にては認めてもよい、さらなる別の自分による爆笑の我慢、それが隣人にも強烈に伝染し、そのあまりに安易なる伝染の滑稽さに加え、他人のこらえという重い十字架まで背負わねばならないという・・・

 例の笑い漏れの連鎖反応を抑止すべく、もしくは笑ってはイカンという理性的な自分との対峙に、とてつもない集中力とまったくの不毛な徒労を要求され、実に不本意かつ迷惑であった。

 ここで笑ってはいかんし、笑いを必死にこらえているアホな自分の状況が客観的におかしく、そのまたそれを見る自分・・・と、まるで対面させた鏡に映る無限の自分の像に似た、しかも己の深遠なる内部に加えて左右の隣人にも伝播する、笑いの核連鎖反応状態、臨界点である。










 「やってません」ではなく、「やれてません」は、つまりは、自分は積極的にやろうとはしたんだけれども、言い訳になるから言わぬが、といってもホントは言い訳もないくせに、やれなかった正当な理由があるかもや知れぬので、憤懣やる方がない次第でもあり、結果としてはやっていないだけであるが、自分には非がないというようなニュアンスもある。

 未来形的には、やる意思は満々で、今はたまたまやっていないに過ぎず、「いつしかとても見事にやってみせるよ、俺は」的な、実にうまい言い回しである。

 本当は、やろうとしたのではなく、すっかり忘れていたか、やろうと思ったにせよ、めんどくせーからやっていない、というような状況が白々しくもミエミエにもかかわらずだ。

 「まだ」というのもミソで、とっかかってはおるのだが、まだ途中である、ような雰囲気を醸し、さらには奴は時に「やれてまへん」を「でけてまへん」とも応用していたがそれとて、さも俺はできたいんだと強く念じてはおるけれども、たまたまできていないだけなんだ、かのようでもあり、あなたさまの厳命を自分はないがしろにはしておりませぬ、くんくん・・・かのような響きである。

 しかもいつもはやれている僕ちゃんなのに、今回だけはできていないのよ、ペロペロ、というようにも取れる。

 その上、「ホントはやれる子よ、俺って」だとか、「やるときゃやる男よ」などの場合、じゃ今、この現実がウソなのか?またやるときにはやるのは万人にとって当たり前ではなかろうか?って疑問が自然に湧くが。

 たまたまやれた偶然かなにかを、あたかも自分の手柄のように振舞うことで、みなが抱いている自分に対する負のイメージを、君らが見る目がない、のようにそっくり相手に付け替えるような蛮行にもみえる。

 しかし当時の俺たちの先輩は、知性はあるのだがぷるぷるしちゃうほどファンキーでもなく、そのような振る舞いを流すような懐の深さや徳の高さもない。

 むしろそれを知った上でいたぶるという残虐性を持ち合わせているので、貪欲に容赦なく「やってないんでしょ?」と正面から突っ込むのである。

ちょらちょらな美作9

2008年10月26日 15時18分06秒 | Weblog
 町田氏のある一編に・・・

 会社でも評判のぼんくらがいて、そいつの口癖が上司にしかられている際であっても「あ~、そうだったんですか」って設定があり、この言葉が「そうなんですか」ではなく、なぜ「そうだったんですか」と過去形になっているのか?

 という一点にくどくどと長々と、そのぼんくらがもしそうであったと事前に知っていたならば、あたかもそうはならなかった、知らさぬ他人が悪いという本人の自己防衛と、小賢しさが隠れていると、説明するというくだりがあるのですが・・・。

 うなずける、うなずける。





 というのも・・・・

 俺の後輩も、先輩から「○○先生ね、こないだ言ったあれ、ちゃんとやっておいた?」と口元のぎこちなく硬い笑みで十分に察せられる、後輩がやってないのを承知で、半分キレながらの甲高い詰問に対し、「あっ、まだやれてません」と答えていたのを思い出すのであった・・・。

 ちょっとドスの利いた低音で早口なのですが、若干「やれてまへん」風なニュアンスが微妙に入り混じっていて、ここは東京なのに関西弁で多少威嚇的なのである。

 関西弁といえば、芦屋出身の大学の先輩がよく「茶ぁしばこけ?」と俺を喫茶に誘ったのだが、「しばくど」というのは彼ら流には、縛ってどついて泣かしちゃうぞ、かように理解していたのに、ただ飲むだけのコーヒーなどを痛い目に遭わす、というのはどういう了見か?

 というようなプチ混乱を思い起こさせるその後輩は、自分の心の中はぐんぐん暴風雨が吹き荒れ、ぼかぁ半ばパニックにもなっちゃってる、かのごとくのふるまいなのである。

 だからといって威嚇風なのはまったくもってお門違いなのであるが、その際に、表情としては、眉間に軽くしわを寄せ、下唇を若干かみつつ、一見して焦点の合っていないような伏し目がちが故に上まぶたがかぶって思惟風だがキモチ悪い表情を本能的につくり・・・

 今俺はこれだけ猛烈に自分を責めているのだから、これ以上つけいると、こちらもキレちゃうぞ的な、まるで理解に苦しむような、しかられているのにちょっと脅すという、どっちつかずの中途半端な。

 だけれども中途半端であるということに関しては、実に見事なホレボレするほどの中途半端振りなのである。

 そのような感嘆すべく中途半端ぶりのために、相手は一瞬であるがひるみ、だけれどもよく考えれば不当ないい訳であることはすぐ露見し、というように威勢、攻勢、優位性のせめぎ合いが運動会の間抜けな綱引きのように目に見えるほどで、傍での滑稽さはより一層につのるのである。

 やってないなら、やってない、と言えばいいのに・・・・。

 「やってない」だとやる意思も感じられず、ダメダメ人間かのごとく思われるが、「やれてない」と言うと、そこには主体たる自分しか本来おりゃせんくせに、さも架空の第三者が介在しているがごときである。

 あたかもやる意思はあったのだが、意思とは別に単にやるという行為のみが偶発的に為されていないに過ぎないのだ、的であって、意思の自分と為す自分は別人格のようでもあり、だから結果としてやってはないが、為されていない責任は50%なわけよ、的な実にわけのわからない言い回しである。

 為すべきも同じ自分である上に、そもそもやる意思もハナからなかったくせに、である。

 「あんたの要求は、実にばかばかしくて無意味だから、やれるわけないっしょ? ってゆーか俺、ゲーマーっしょ?それに子どもにトーマス描いてあげたり、忙しいし」的にしかホントは感じていないことが伝わる俺は、「やれてまへん」による爆笑をかみ殺すために、ぷるぷるしちゃうのであった。

ちょらちょらな美作8

2008年10月25日 06時10分30秒 | Weblog
 「パンク侍斬られて候」なぞ、ユースケ・サンタマリアさんに演じてもらえば、相当のハマり役だと思う。

 そう、町田氏のすべての主役が、僕個人的にはユースケさんなのである。

 ユースケさんはシリアスなんだよな・・・ギャグをやろうとしてるんじゃなくて、一生懸命なフリをして結果としてのクスクス感やダメじゃん感だとかヤッベー感を演じており、ハマる自分を計算づくで一見シリアスに、かつ素人目線的に滑稽に見せたいわけです。

 本能として無理にテンションを上げて。

 そのナイーブさがいいんだよな。

 所ジョージさんや、高田純次さんとか、ああいう人たちってのも好感が持てるけど、素で演じてるように見せるところに逆に作為を感じてしまったり、最初からそういう自分っていいでしょ?的に写り、そこが少しめんどくさかったりするのですが・・

 その点、逆の入り方のユースケさんはまたちょっと違って実にいい。

 プロだよな。

 テレビを席捲する日本のお笑い芸人を見ても、寒気はしても笑えないのは、最初からバカを演じようとしてやっているバカであって・・・

 そうではなくバカを隠そうとして必死に普通を演じようとするのだが、そちこちにはみ出してしまうバカさ加減や特異さってとこにこそ、笑いのツボはあるのではないでしょうか?

 それがユースケさんや、漫画コージ苑、ここりこの田中氏とか、古畑的田村正和さん、イッセー尾形氏、ある意味ダウンタウンの松っちゃんや、ツヨシ画伯やハマちゃんの絵・・・。

 松ちゃんのミラクルエースとか、「ちょっとええかな?」「「今日な、チョットな、パーティー行かなあかんねやんか~」で思い出す今田氏とのコント「ごっつええ感じ」での関西なまりのつけ鼻外国人Mrベーターなんか・・・





 町田ワールドに見られる、本当の笑い、大人が腹を抱えて、よじくれて笑ってしまう、緻密なでたらめさ加減と、彼の本来のインテリジェンスと生真面目さと、あまりの庶民感覚な気づきと指摘、ルースな解脱感に虚無感。

 加えて人間の深い思考・思弁にもかかわらず、コミュニケーションを媒介した瞬間に崩れ去ってしまう真実のもろさだとか・・・

 そうかと思えば真理・倫理への探究、人間の存在への問いかけ、自己と他者の関わり、言語への取り組み、それら真面目なアプローチをハチャメチャな町田ワールドで笑いにくるめて大長編に持っていって、バタンと一気に読ませてしまう力技。

ちょらちょらな美作7

2008年10月24日 09時13分11秒 | Weblog
 う~ん???

 緊張感ある、狂気じみていて、美しくも破滅的なものに惹かれる、ってことでしょうか?

 エラい作家たちの時代物は、美しくうるわしくはないでしょ?

 きれいかもしれませんが、病んではいないので美しくはないし、教科書的過ぎるというか・・・。

 男くささが鼻につくのでは、ってことであれば男くさ過ぎる漫画「男組」などは、流 全次郎なんか美しくてホレボレしますがね。
 
 拒否反応の決定的要因はやっぱ・・・チョンマゲかな・・・?

 ありゃ、いかんでしょ、やっぱ・・・どう考えてもイケてない気が・・・。

 それと平安・江戸美人像ってのも・・・

 それに時代劇って、映画も含め、映像が、明度が、なぜか暗すぎやしませんか?

 もっと、外の風景って言うか、青空の元、美しい色で開放的に撮ればまだいいのに。

 なんとなくイメージが夜、暗い室内、雨・・・なぜか、ドンヨリしてませんか?

 掛け軸だとか歌舞伎とか民謡だとか・・・なんか怖くて不気味で、スカッとしない・・・これってやっぱスカッとさわやかコカ・コーラ・・・あ、やっぱり西洋に毒されてますな。

 「おれは直角」みたいに、ばばっと明るきゃいいのに・・・。

 明るい時代物、望みます。





 マニアも多いこのような時代物の正統派(?)、多数派から見れば、言語道断の町田ワールドですが、その分、エピゴーネン(模倣者)でもなく、オリジナリティもアヴァンギャルド性も芸術性(?)もあります。

 時代考証なぞ、ハナクソほどにも感じずに(というか、意識的に無視し)、お侍や殿様がまるっきりの現代人言葉で「ってゆ~かさぁ」みたいに、しかも河内弁「あかんやん」みたいなんに標準語や「パルドン?」なんていうなめた英語が入り混じり、だけれども超難解な純文学以上の文学的な単語・漢字やら言い回しが炸裂しまくるのです。

 で、その沈み具合の過程での、登場人物の論理的思考回路が、一見して決して間違ってはいなさそうで、だけれども結果大間違いで、そのぐだぐだになり具合がたまらなくおかしい。

ちょらちょらな美作6

2008年10月23日 07時30分48秒 | Weblog
 まぁなんだかんだ言っても、日本人ってのは時代劇がお好きでしょ?

 司馬遼太郎、藤沢周平や池波正太郎に加えて山本周五郎らの大センセーらの作品群、あるいは坂本竜馬や新撰組などの幕末モノだったり、または中国三国志的な時代・戦国小説が好まれますよね。

 僕はどーゆーわけかそのような感性に不足しており・・・

 それは僕が変わりモノ過ぎるがためでしょうが、それらは僕個人にとってとてつもなく惹かれないジャンルですし、読みこなすまでの知識も相当不足しております。

 実在する過去の、しかも日本的規模の人物に、それほど興味を持てないからかもしれません。

 だからといって祖国を否定したり、祖先をないがしろにしているわけでは決してないことは、ここの読者ならお分かりいただけると思いますが。

 確かに時代に翻弄され、あるいは歴史的偉業を達成した大人物もおりましょうが、それはそのときの状況や環境にもよることであって・・・。

 人類全体や地球規模での最大公約数的な事象・偉業には興味が持てても、国内の、まして誰かの恋愛話など卑近過ぎて、そのような個別的案件にはさほど興味が持てません。

 殺人事件や推理モノ、おぞましい変態モノにしたって、外国モノと比べると度合いやスケールが矮小な気がする。

 あるいは、芸術家のような、どことなく破滅的で悲しきヒーロー的で邪道な人生に興味があっても、日本的規模での大金持ちになった秘訣だとか、戦国時代に誰と誰がケンカしただとか、戦争で勝ったの負けたの、そういうワイルドでマッチョな話にも興味が持てない・・・。

 それならいっそ、まったくフィクションのほうが夢ももてるし、織田信長よりラムセスⅡ世のほうが、関が原よりスターウォーズ、坂本竜馬よりもインディ・ジョーンズ、落語よりパルプフィクション、篤姫よりアンクエスのほうがやっぱりオモロい。





 ですから個別案件の多い邦画はほとんど見ず、映画は映像と色だと勝手に勘違いしてますので、監督によって鑑賞しますが、ゴダールにホドロフスキー、デヴィッド・リンチやキューブリック、デレク・ジャーマンだのカラックスですから、ハリウッドに毒された若人とも議論がかみ合わず。

 だけれども別に西洋カブレってわけではなく、あをによし、和的な文化や建築、仏教に神道、日本情緒は大好きです。

 日本の古代神話なんか、夢やロマンを感じ、結構くわしいんですけどね。

ちょらちょらな美作5

2008年10月22日 11時30分03秒 | Weblog
 町田氏は世の中のエラい文学者が誰もなし得なかったパンク文学を描き、登場人物は限りなくぐだぐだに堕落して、毎度奈落の底に沈んで行きますが・・・

 彼らはそれなりに思考回路が正常に近く、現実的で臆病で見栄っ張り、そこいら辺にいそうといえばいそうな人たちです。

 「宿屋めぐり」の珍太などは、あまりに自己中心的で保身的な独自の理論を展開しますが、僕なんかの周りにもそっくりな人がいるので、みなさまの周囲にも確実に実在しますでしょ?

 しかし現実的が故に、すぐ楽や誘惑に流されて、快楽にはまり込んで、ついにはどうにもならなくなっちまって、やぶれかぶれで自暴自棄となり、さらにドツボにハマって破滅してしまうのです。

 また平凡であるが故の、非凡かつ堕落した邪(よこし)まな考えに取り憑(つ)かれて、ジタバタした挙句、ますます落ちて行ってしまう・・・

 ある意味まったく救いようのないクールなまでのダメさ加減。

 その舞台の基礎すら現実と幻想が境界なく入り混じる、ウソで塗り固めた摩訶不思議な独特の世界観。

 とてつもなく残酷な一神教の主から遣わされる堕天使が日本神話のスクナビコナ、な~んて具合にハチャメチャにボーダーレスで繰り広げられる、虚無にまみれた世界での倫理の追求・・・。

 名前だって時代劇にして、石抜坂抜ヌヌヌノ王子だ、やれ石ヌだ、卵家ポロワだの、ぽぽぽだの、あぱぱだの・・・

 なんていうのか、ある意味かたくなまでに、こだわらなさにこだわり、押し通す。





 本家のフランスのドゥ・マゴ賞は、風変わりで、新味のあるものに与えられるそうなので、Bunkamuraドゥ・マゴ文学賞もそれに倣うのでしょう。

 それは分かる。

 谷崎潤一郎賞は中堅の作家の作品に、その作家の代表作ともいえる作品で受賞させることが多い文学賞らしい・・・ただまぁ「告白」は名作だ。

 萩原朔太郎賞は新潮社の協力で前橋市が贈る、現代詩の分野において最も優れた作品で、あわせて日本文化発展に寄与するとともに、市民文化の向上に資することを目的・・・って「土間の四十八滝」で市民文化が向上するか疑問だ。

 川端康成文学賞は、前年度の最も完成度の高い短編小説、ということですが、アパートのおばばが管理人ぶって・・・みたいな異様にしょぼい話題の「権現の踊り子」がねぇ・・・完成度ですか・・・。

 芥川賞はご承知のように、賛否ありますが、純文学の新人に与えられる文学賞で、大衆文学の賞として設けられている直木賞よりなんとなく格上な雰囲気があり、かなりまともな賞でしょ?

 いいのかな??

ちょらちょらな美作4

2008年10月21日 13時29分40秒 | Weblog
 まるで、早稲田の政経というそれなりの偏差値をもったサンプラザ中野氏率いた、爆風スランプが・・・

 「へびいめたるぅ?っざけんじゃねぇ~!俺たちの史上最強のメタルソングを聴きやがれぇ~!」

 「タイヤキヤイタ!」

 「俺の右手はあんこでまっ黒ぉ~♪」と尻を丸出しにしてやっていた、あの風である。

 一音ずつ音を発し、しかも母音がやたら多くてリズムに乗りにくい日本語を、いかにかっこよく乗せるかに四苦八苦した先輩邦人ミュージシャンが、こつこつと大切に日々少しずつ積み上げた軌跡を、突然ぶち壊して痛快にあざ笑った・・・

 しかしギャグはいかん、ギャグは。

 デビッド・ボウイやツェッペリン、レニー・クラビッツにU2などの、ワールドレベルでの美しき人々はギャグはやりませんから。

 シリアスでいかないと、戦う土俵が異なっちゃうんだよな・・・。

 ある意味、北野たけしや町田はズルいのである。

 愛すべきシャイな日本人における、この、「照れ」に基づく「ギャグ」はいかんのだと思うわけです。

 そこんとこ、キヨシローや町田やたけしも分かってんだろうけど、超えられないんだよな、日本人のバアイ。

 ギャグはユーモアや気の利いたジョークとは違うし、ギャグにはそもそも美しさってやつがないっしょ。

 タイガー・ウッズは絶対に、宴会用のおちゃらけたタスキをかけてグリーンに上がったりはしないのですよ、片山プロ。

 アインシュタインのアッカンベーは、ギャグじゃないんだよな、ユーモアだし、本業がシリアスだから愛せるんだ。

 だからといって、日本人がシリアスにやると、これまた演歌チックになったり、あるいは教祖みたいになったり、妙にガキじみた生意気なだけになっちゃうしな・・・

 貧乏臭くて優雅じゃないんだよな・・・困ったな。

 精神は高尚で、だけどワルで不良で、しかし知性もあって、ファッションセンスもよく、見栄えもし、ギャグにも走らん・・・・

 そういった美しき表現者が日本に出るまでには、あと100年かかりそうだ。

ちょらちょらな美作3

2008年10月20日 13時08分05秒 | Weblog
 彼のブンガクは「告白」などを除くと、大体において進行役や語り部は一人称の主人公であることが多く、ですから客観的な介在人はおりません。

 そのため、他の登場人物の心理描写や考えは反映されず、ただただ主人公が一人称的に堕落して行くか、わりと正常な感覚の主人公の周囲に、よくいがちな堕落して行く阿呆な人物がいたりする設定です。

 で、その回りくどい独特のその言い回しの逐一が僕にはたまらなく笑え、もってまわった思考回路のいちいちがもっとも臭く・・・

 たとえば思い込みが激しいわけの分からない輩の、わけの分からない考え方の理論だとか、言い訳であるとかのいちいちが笑えます。

 主人公から時には端役にいたるまでの、あまりの自堕落さというか、破滅振りというか、そのしょぼさ加減や、あまりのしょーもなさやヤバさ加減であるとか、とにかく全員ぐちゃぐちゃになって沈んで行きます。

 話の展開にもさしたる意味はなく、時間軸も適当だし、なにが真実で(って小説だからハナから虚構なのですが)ウソだかもわからないし、そもそもその世界からして、条虫の腹の中の反転世界だったりするので、ばかばかしさぶりは、当然のごとくです。

 また、社会のぶった斬り方の価値観ももっともで、勘違いしているヒトとか、そういう人種の行為や作品などを、好き放題ですが、一理ある理屈でけなしまくります。

 連鎖反応的にぐだぐだで、そのぐだぐださ加減がたまらず、そんな中で、江戸・明治風で古風なヴォキャブラリーや難しい漢字、言い回しが炸裂するので、著者のインテリジェンスは限りなく高いのだが、やはり性根の腐ったパンクロッカーなのであろう。

 彼なりのデカダンス(既成のキリスト教的価値観に懐疑的で、芸術至上主義的な立場)なのであって、ダダイズム(既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊)でもあって・・・

 だがニヒリストではなく、アナーキストでもないが、新戯作派(しんげさくは)、無頼派がごときである。

 それは、無意味で退廃的で、虚無であり、阿呆でもなく、だからといって世間には到底相容れないような、繊細かつ小規模自己完結型庶民派パンクロッカーなのである。

 言ってみれば、既存の敷居の高い文壇をあざ笑うかのような、破滅的・せつな的な、外道の文学だ。

 だからその分、腹を抱えて笑ってしまう。

ちょらちょらな美作2

2008年10月19日 21時37分56秒 | Weblog
 僕が勝手に思っている日本一の読書人、松岡正剛氏なども町田文学が密やかに好きらしいが・・・。

 日本音楽界の奇蹟、百年に一人の天才、キング・キヨシローを愛し、その振る舞いや歌詞にクスクス感を覚える僕のようなあかん人間は、町田氏の計算された出鱈目さが醸すグルーブ感が大好きなはずです。

 そうですねぇ、ちらりと書棚を見ると・・・傑作「くっすん大黒」の他に僕が所有する彼のブンガクは・・・

 「夫婦茶碗」「きれぎれ」「宿屋めぐり」「パンク侍、斬られて候」「土間の四十八滝」「外道の条件」「つるつるの壺」「へらへらぼっちゃん」「浄土」「供花」(くうげ)「耳そぎ饅頭」「壊色」(えじき)「正直じゃいけん」「テースト・オブ・苦虫」「告白」「権現の踊り子」・・・

 って、ほとんどじゃん。





 権現とは東照大権現であれば、徳川家康に朝廷から与えられた神号ですが、「権現の踊り子」本文中に家康など一文字も出てきやしません。

 「夫婦茶碗」の後半の「人間の屑」なんか、本当に人間の屑だ。

 「きれぎれ」は青空だか雲の切れ間のことみたいだが、最後にかろうじて触りますが本作中とほとんど関連性はなく、本書はマジックリアリズムやカットバック的な技法は感ずるものの、どうしてこれが芥川賞?と聞かれると、答えに窮する・・・。





 んでもってその文学性は、「ワヤ」である。

 「ワヤ」とういのは、広島出身の先輩が何かにつけ、「ワヤやのぉ!」と抜かしておったので覚えているのですが、ワではなくヤ辺りにアクセントがあり、ムチャクチャという意味です・・・たぶん。

 ブコウスキーより町田のほうがおそらくインテリジェンスが高く、腐りきっていない分、しょぼすぎてタチが悪い・・・。

 とにかく・・・こうだから、ああなんだけど、だからしたがってそこはまぁ常識的に、だからといってそういう意味ではなく、こういう風に取られがちなんだけど、それ自体実はそれがいやで、ぶっちゃけ、っていうかさー、モノホンでこうなわけで、「で、俺ってどうなのよ?」・・・

 的に、だらだらと思弁が混沌していくので、そのダラダラさが気に入らない方は不快なだけだと思います。

 町田流に言えば、著者町田の精神がぬらぬらしているわけッス。

 ちょらちょら、わじゃわじゃ、ぎゅんぎゅん、ぬらぬら、わぎわぎ、じゃらじゃら、うちゃうちゃ、しゅらしゅら、くんくん、しゅしゅっ・・・彼の独自の語彙が炸裂します。

ちょらちょらな美作1

2008年10月18日 23時03分38秒 | Weblog
 そう、町田 康(こう)である・・・。

 町田町蔵も同一人物です。



「くっすん大黒」  野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞

「きれぎれ」  芥川賞

「土間の四十八滝」(どまのしじゅうはったき)  萩原朔太郎賞

「権現の踊り子」  川端康成文学賞

「告白」  谷崎潤一郎賞





 これだけ見れば、どっからどう見たって堂々たる立派な小説家ではある・・・はずであるが・・・いいのだろうか・・大いに疑問でもある。

 しかし本人は未だパンクロッカーを名乗り、はなはだ往生際が悪い。

 彼の文体やテーマを、世間で常識的に振舞う知識人と呼ばれる、真の賢者ではなかろう見かけ上のエラい人らは、眉をひそめて批判すること請け合いです。

 常識ぶったオトナ人種が批判すればするほど、子どもたちはヤンヤの喝采を上げるのは、ドリフターズでも明らかな世の常。

 ってことは、子どもな僕・・・。

 けれど正論や原理主義だけでは生きていけないところが、人間の悲しいかな不都合な真実。

 ドゥマゴ賞はどうやら筒井康隆氏が与えたらしい・・・妙に納得。

 個人的には「くっすん大黒」は傑作である(と思う・・・たぶん)。

 しかし、大きな声では言えん。

 「くっすん大黒」だって、女性には忌み嫌われても仕方あるまい・・・。

 町田の場合は「告白」や「宿屋めぐり」、「パンク侍、斬られて候」などの中長編に限るな、短編はつまらん・・・。

 やっぱりやめようかな・・・人格を疑われても困るし・・・。

野獣の美意識 9

2008年10月17日 09時23分44秒 | Weblog
 同じレ・ザネ・フォル(狂騒の時代)、エコール・ド・パリのイタリア人モディリアーニもそうですが、珍しいフランス人のユトリロはアル中で知られます。

 ユトリロは、10代でアルコール中毒になり、治療のため医師に勧められて絵を描き始めたのは有名な話。

 彼が描いたのは、モンマルトルの裏通り・・・。

 静寂さが表現され、品がいいが独特の暗さももつと言われる・・・。

 ユトリロの「白の時代」・・・それは『漆喰』の白。

 絵の具に石灰や鳩の糞、朝食に食べた卵の殻、砂などを混入したそうです。

 彼がそれほどまでにこだわった「漆喰の白」。

 母親にほとんどかまってもらうことのなかった孤独な少年時代を、部屋の隅に崩れ落ちている「漆喰」で遊ぶことで紛らわせていたからのようです。

 唯一の友達が漆喰ですよ・・・。

 友人が「パリの思い出に何か1つ持っていくとしたら何にするか」と問うと、ユトリロは迷わず「ひとかけらの漆喰」と・・・。

 十分病んでくれている・・・。

 重すぎる十字架・・・。

 ご本人に失敬なのは承知の上、画家としての屈折ぶりがすばらしい。

 そしてその「白の時代」は、ユトリロがもっともアルコールにおぼれていた時期という・・・。

 壁はくすみ、空は重苦しく、建物はゆがむ・・・だからこそいい。

 決して人を愉快にさせることはない、重苦しい個性。





 色男で酒びたり・・・ユトリロの飲み友達、モディリアーニも好き嫌いは別にして、画風は個性あふれており及第点だ。

 2歳下の同じアル中のモディリアーニは35歳で死に、ユトリロは72歳まで生きた。





 知性的で破天荒なキヨシローよ、調子はどうなんだ?

 そうだ、じゃあ、町田康について、やろう。