医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

伊東忠太と仏教美18

2006年12月29日 18時32分45秒 | Weblog
 仏教における三大行事は、月の順で言いますと、

①2月15日:涅槃会(ねはんえ)

 お亡くなりになられた日。

 沙羅双樹の林で頭を北にし、右脇を下にした形で、80歳で亡くなりました。

 平家物語での有名な、

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」

は、本来日本では育たないインドの沙羅双樹と、日本の夏椿を間違えたのだろうという説が有力です。


②4月8日:花まつり

 誕生の日。

 生まれてすぐ、7歩歩いて、右人差し指で天を指し、左人差し指で地を指し、これまた有名な、

「天上天下唯我独尊」

と、おっしゃりました。

 これは、「人は誰でもこの世に一人だけであって予備の人間はいない。命は貴いものである。私は苦しむ人々を救うことを第一としよう」という意味だそうなり。

 僕はこのフレーズは、この世は自分のものだという、少々身勝手なセリフかと思っておりました・・・不心得者ですみません。

 ルンビニー園の「無憂樹」(むゆうじゅ)の下でお生まれになり、花がたくさん咲いていたそうです。

 また釈尊のセリフに感激した龍が、甘露の雨を降らせたそうです。

 そのため、お寺では花御堂に赤ちゃんのお釈迦さまを置いて、甘茶をかけてお祝いするそうです。


③12月8日:成道会(しょうどうえ)

 悟りをひらいた日。若干35歳のときでした。



 みなさまの中でもし仏教徒の方がご覧になっていれば(大多数の方がそうだと思いますが)、せめてキリストの誕生日より、お釈迦さまの誕生日を、また2/14より2/15を大切にしてみてはいかがでしょうか。

 お寺側も4/8を国民的イベントとするように、(自分たちでできないようであれば)電通に依頼したらどうでしょうかね。

 家中にお花を飾って、紅茶を飲むとか、子供を祝福して贈り物をするとか、近所のお寺に子供が行けば、何かもらえるようにするとか・・・。



 釈尊の優れた業績は、なんとなく神秘的で不思議で胡散臭い「宗教」と言うものを、理論立てて、哲学体系としてバラモン教から独立させた点も大きいのではないでしょうか?

 キリスト教ですらアウグスティヌス以来、『神学大全』で知られる盛期スコラ学の代表的神学者、高名な「トマス・アクィナス」によって、13世紀になってようやく哲学・学問体系へとシフトしたというのに、釈迦はこの時代にしてすでに成し遂げていた・・・?

 絶対神の信仰者からは、仏教などお話しにならないと批判を受けますが、逆に仏教は神秘主義を克服した脱神性という点は評価が高いのではないかと思うのですが・・いかがでしょうか。

 

 今年ももうすぐ終わりですね。

 このブログも少しお休みです・・・来年もこのねたから続けようと思っております。

 今年一年ご愛顧をありがとうございました。

 皆さまにとりまして、来年も良い年になることを、心からお祈りしております・・・。

伊東忠太と仏教美17

2006年12月28日 14時00分03秒 | Weblog
 天部はきりがないのでやめましょう。。

 他にもお釈迦さまのお弟子さんで羅漢もいますし・・十六羅漢に五百羅漢・・・。

 あ~分かりにく過ぎ・・・これじゃあ若者は入ってきませんね。


 しかし仏教から来ている日本語はたくさんあって、例えば未来永劫(みらいえいごう)の劫(こう)は、百年に一度天女が羽衣で(長寿の老人が布で)岩をなでて、40里(160km)四方の石がなくなるまでが一劫の単位(気が遠くなりますね)、五劫のすりきれは落語「じゅげむ」でおなじみ・・・億劫(おっくう)にいたっては考えるのも億劫です。

 逆に時間の最小単位で、ひとつの意識が湧く時間が「刹那」。

 ちなみにボンボンバカボン、バカぼんぼんの「バカボン」も馬鹿なボンボン二世のことかと思ったら、実はなんと仏教用語の「婆伽梵」に由来し、煩悩から解き放たれた徳の高い人らしい・・・恐るべしだべし赤塚不二夫。

 ちなみに紀元前383年(?)に入滅したお釈迦様の遺骨を『舎利』(しゃり)といって、米粒ほどの舎利が法隆寺にあるとされておりますが、お寿司のシャリもこの仏舎利から来ているらしいです(へぇ~)。

 それからお釈迦さまが修行中に空腹で倒れ、乳粥を与えた少女の名がスジャータ→コーヒーにスジャータ、最もすぐれた味が醍醐味、醍醐味の一歩手前がサルピス、カルシウム+サルピス、そこからカルピス(創始者は僧侶)が生まれたそうな・・・。

 他にも、愛、愛嬌、安楽、一念発起、演説、大袈裟、隠密、懐石、開発、がたぴし、がらんどう、歓喜、看護、観察、観念、堪忍、我慢、看病、甘露、機嫌、喫茶、くしゃみ、根性、三昧、自然、娑婆、自在、出世、寿命、冗談、正念場、上品・下品、食堂、所詮、しょっちゅう、世間、接待、ぜんざい、相続、退屈、退治、達者、脱落、旦那、長者、頂戴、道具、投機、豆腐、床の間、内証、人間、皮肉、無事、不思議、蒲団、無尽蔵、迷惑、面目、夜叉、融通、油断、用心、律儀、呂律、・・・・

 これだけ深く仏教文化が入り込んでいるのに、当の日本人が仏教をまったく語れないこともさびしい気がしませんか?

伊東忠太と仏教美16

2006年12月27日 10時54分30秒 | Weblog
 天部にある十二天とは、東西南北と東北・東南・西北・西南の八方をまもる諸天に、天・地・日・月にかかわる4種の神を加えて十二天としたもので、

1. 伊舎那天 2.帝釈天 3.火天(かてん) 4.焔魔天 5.羅刹天(らせつてん) 6.水天7.風天 8.毘沙門天 9.梵天 10.地天 11.日天 12.月天(がってん)

の十二尊からなるそうですが、それにしても多すぎ。

 同じ12という数字でも、十二天とは別にさらに十二神将(じゅうにしんしょう)もいて、十二神将は薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる12の武神であり、クビラ(クベーラ=金比羅)、バサラ、メキラ・・・と続いていくのですが、それぞれ頭上には各十二支の動物を形どった標識を置くことが多いので、干支(えと)に基づいた守護神だと思いましょう。

 天部の有名神には他にも女神、【弁財天】がおり、いわゆる琵琶を持った弁天さまですが、日本では民間信仰の『七福神』として、大黒天(大黒さま)や毘沙門天とならび、信仰されております。

 【吉祥天】は繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す女神であり、美女の代名詞、吉祥天女という漫画がありましたね。

 【毘沙門】さまは四天王の『多聞天』、また『金比羅』(こんぴら)さまと同一で、香川県琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐう)が全国の金比羅神社(こんぴらさん)の総本宮となっております。

 十二神将の『クビラ』=クベーラが鰐の神(十二干支では一番目ですから子=ねずみですが)であったことから、日本では海上交通の守り神として信仰されてきて、高田屋嘉兵衛でも出てきましたが、特に舟乗りから信仰され、一般に、大きな港を見下ろす山の上に祀られます。

 毘沙門さまは四天王中最強で、勝利の神様、現世ご利益も強く、楠正成や上杉謙信らも好んだようです・・・宝塔を持ってますので覚えやすいですね。

 【韋駄天】はシヴァの子供とされ、伽藍(がらん)を守り、また小児の病魔を除く神ともいわれ、よく走る神として知られますので、スポーツでも使われますよね。

 【金剛力士】(こんごうりきし)は、開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として(あうんの呼吸)、寺院の表門などに安置することが多く、一般には「仁王さま」(二王とも書く)の名で親しまれています。

 【鬼子母神】は法華経守護神として日蓮宗で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」は下谷の真源(しんげん)寺(朝顔市で有名)、ちなみに「なんだ神田の大明神」は御茶ノ水の神田大明神、「びっくり下谷の広徳寺」は現在は練馬に、「情け有馬の水天宮」(人気に応えて一般に公開したため)は蛎殻町に。

 【摩利支天】は太陽・月の光、陽炎の神であり、実体がないために身が傷つかないとされ、武士から信仰されたそうです。

伊東忠太と仏教美15

2006年12月26日 12時42分07秒 | Weblog
 ようやくちと退屈で眠くなるような如来・菩薩・明王部が終わって、多少なじみのある天部まで降りてこられました・・・天でも現世からすればだいぶ上ですがね。

<天部>

 天部(てんぶ)、または天は、仏教の尊像をその由来・性格別にグループ分けしたうちの一つであり、古代インドのバラモン教の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神、護法神となったものの総称だそうです。

 代表的なものに四天王、梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)天、毘沙門(びしゃもん)天、弁才(べんざい)天(弁財天)、大黒天、吉祥(きっしょう)天、韋駄(いだ)天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)、十二神将、十二天、八部衆、二十八部衆などがあります。


 【大黒天】はシヴァ神であり、日本神話のオオクニヌシの「大国」といつのまにか混同され、民間信仰の七福神ではシヴァ神とは似ても似つかないやさしい笑顔の大黒さまになっております。

 仏の世界を守り、世界の中心にそびえる「須弥山(しゅみせん)」の頂上には【帝釈天】がいます。

 帝釈天は、バラモン教・ヒンドゥー教の武神・雷神「インドラ」と同一の神であり、梵天と並んで、仏の守護神です。

 もともとは武勇の神でしたが、仏教に取り入れられ、 成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法神となったそうです。

 帝釈天は葛飾柴又帝釈天で人気ですが、頭上に宝髻(ほうけい)を結び、中国式の礼服を着た二臂(にっぴ=ひじのこと=腕が二本)像として表現され、また、着衣下に甲冑(かっちゅう)をつけることもあり、手には金剛杵(こんごうしょ)や蓮茎などを執ることがあり、慈悲深く柔和とされ、一方で戦闘好き、酒好き、女好きとのうわさ・・・ どことなく人間的ですね。

 【梵天】はバラモン教のブラフマン(万物の根源)が仏教化されたものであり、ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)とともに三大神の1人に数えられたことは説明したとおりです。

 でも万物の根源といっても僕たち庶民には理解しがたいためか、日本では帝釈天と比べると、知名度は劣りますね。



帝釈天を守る【四天王】として、

・ 【持国天】(じこくてん) - 東方を守護する。「国を支える者」。四天王の中で唯一兜をかぶり、長剣を構えて邪鬼を踏みつける姿

・ 【増長天】(ぞうじょうてん) - 南方を守護する。「大きく育つ者」。増長天は口を大きく開けて叫ぶ明確な憤怒の相を表しており、一般的に長槍(矛)を持って邪鬼を踏みつける姿

・ 【広目天】(こうもくてん) - 西方を守護する。「千里眼を持つ者」。全ての世界の出来事を漏らさずに見届け、この世の真実を書き留めるために巻き物と筆を持ち、邪鬼を踏みつけた姿で表現

・ 【多聞天】(たもんてん) - 北方を守護する。毘沙門天(びしゃもんてん)とも呼ぶ。甲冑を着け、片手に宝棒、あるいは三叉戟(げき=ほこ)、片手には小さな宝塔(仏舎利を収める器)を持ち、邪鬼を踏む姿で表現

がいます。

 覚えづらいので、「トーナンシャーペー、じぞう(持増)の目耳」



 帝釈天と戦い続け、負け続けるのが【阿修羅】、三面六臂(さんめんろっぴ=三つの顔に六つの腕)の姿で、日本では人気があります。

 アフラ・マズダからと言われておりますが、アッシュルを最高神として崇めた、アッシリアとも関係がありそうです・・・。

 須弥山=須彌山(しゅみせん)はシュメール(現イラク)ですかね。

 須弥山の上には「有頂天」があるのをご存知でしたか?

 下には「金輪際」(こんりんざい)の金輪がありま~す。

伊東忠太と仏教美14

2006年12月25日 11時00分18秒 | Weblog
<密教と曼荼羅>

 一般の大乗を顕教(けんぎょう)と呼び、民衆に向かって広く教えを文字や言葉で説くのに対し、弘法大師、空海が持ち帰ったとされる密教(金剛乗)とは、神秘主義的・象徴主義的教義を、師匠が弟子に伝達するので、密教と呼ばれます。

 密教というとなんだか怪しげな印象を受けますが、果たしてそうなのかそうでないのかは分かりません。

 密教では両界曼荼羅があり、曼荼羅とは密教の中心、大日如来の説く真理や悟りの境地を、ヴィジュアルに表現したものです。

 ヴィジュアルといわれても、不心得者の私にはさっぱり理解できません・・・以前にも書きましたがなんだかICチップのようにきれいだな、ってところです。

 テレビで、この曼荼羅を砂に書いてすぐ壊しちゃう・・みたいの見ました。

 ちなみに両界曼荼羅は

1. 「胎蔵曼荼羅」:大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅とも。真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えている。母なる仏の慈悲。12の院。大日如来の四方向にいる普賢菩薩 (南東) 文殊菩薩 (南西) 観自在菩薩 (北西) 弥勒菩薩 (北東)が四大菩薩。

2. 「金剛界曼荼羅」:真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えている。堅い智慧。9つの会(え)。

 その金剛界の五智如来(ごちにょらい=五大如来)では、金剛界曼荼羅五智如来(五仏)の中心に大日如来、そして大日如来を中心として、

東方:阿閦(あしゅく)如来
南方:宝生(ほうしょう)如来
西方:阿弥陀如来
北方:不空成就(ふくうじょうじゅ)如来

となっております。



<明王>
 
 密教ではさらに明王もいます。

 明王は如来さまの使者です。

 明王は大日如来の命を受け、仏に帰依させる使いを指し、人間界と仏の世界の狭間に住むそうです。

 元来夜叉と呼ばれ悪鬼神だった古代インドの神々が、仏教化されて善の神となり、後述の天部より高い地位で民衆の帰依をはかる役割のようです。

 中でも日本では大日如来の化身である「不動明王」の人気が高いですね。

 いわゆる不動尊、おふどうさんです。

 不動明王は大日如来の化身として、煩悩にまみれてもっとも救いがたい大衆を力ずくでも救うために怖い顔をしておりますが、これは釈迦が菩提樹のもとで悟りを開くまでは動かないとした、普段は穏やかで柔和な釈迦の内面の鬼のごとくの強い意志を表したとも言われております。

 この顔が仁王様と同様、あまりにも怖すぎるので、特に子供の頃はどうしても仏像に馴染めないんだよなぁ。

伊東忠太と仏教美13

2006年12月24日 12時38分06秒 | Weblog
<菩薩>

 菩薩というのは修行中で王子の釈迦を指しますので、アクセサリーを身につけており、成仏を求める修行者ということになります。

 【文殊菩薩】は「三人寄れば文殊の知恵」の文殊です。

 【普賢菩薩】は、あまねく賢いとされ、六本牙の「白い象」に結跏趺坐(けっかふざ=座禅のような座り方)して合掌する姿で描かれます。

 女人救済を説く法華経の普及によって、主に貴婦人たちからの信仰を集めたといわれますので、ヨン様のようにオバ様方のアイドル的存在、東京国立博物館に普賢菩薩騎象像として国宝があります。

 【観音菩薩】は現世利益を与え、あらゆる人のあらゆる願いを叶えてくれるので、日本で人気が高いですよね。

 一方、【弥勒(みろく)菩薩】はお釈迦さまが入滅した56億7千万年後の未来に(いくらなんでも未来過ぎやぁしませんかね)姿をあらわす未来仏です。

 古代アーリア人(イラン=アーリア人の意、イラン・インド神話)の神話に登場する神ミスラ、ミトラ、マイトレーヤから来ているといわれます。

 ミトラは古くはアフラ・マズダーと同格で表裏一体を成す天則の神でしたが、ゾロアスター教ではアフラ・マズダーが出世して絶対となり、ミトラは格下に成り下がったものの、ギリシャ・ローマにも伝わり、太陽神となりました。

 堪忍袋をもった七福神の「布袋さま」もミトラの化身と言われております。

 キリスト教で典礼の際かぶる冠をミトラといいますが、関係があるのでしょうか?

 数珠とロザリオ冠は関係があるらしいですけど・・・。

 マイトレーヤ(ミトラ、弥勒菩薩)に関しても、トンデモ宗教がありますのでご留意されてください。

 56億年も先でないと弥勒菩薩が登場してくれないとなると、その間この世には仏さまがいなくなってしまうので僕たちは困ってしまい、名前を見るだけで恐ろしげな六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻してしまうとされております。

 それを助けてくれるのが【地蔵菩薩】、お地蔵さまです。

 お地蔵さまは閻魔大王の化身との説もあり、人々の行いを見ているそうですから・・・子供に教えてあげましょう。

 また先の恐ろしい六道からそれぞれ救ってくれるので、お地蔵さまは六体並んでいることも多いそうですからこれもわが子に。

 お地蔵さまは最も弱い立場の人々を最優先で救済してくれる、とてもありがたい菩薩さまです。


 よく「世界四大○○」や「三大○○」ってのをよく目にしますが、中国の四大仏教名山といえば、

・ 文殊菩薩の五台山(山西省):釈迦の掌と形容され、5本の指が5つの峰、3000m級の山がつくる掌は200kmにおよぶらしい

・ 観音菩薩の普陀山(浙江省):実際には南海に浮かぶ島らしい

・ 普賢菩薩の峨眉山がびさん=オーメイシャン(四川省):峨眉山のそばの楽山大仏はテレビで見たことがあるし、某社の水虫薬の写真にも使用されていたような・・・世界遺産

・ 地蔵菩薩の九華山(安徽省):ひとつの山ではなく99の山々らしく、九つの峰が蓮華のようであることから九華山と

を呼ぶそうですから中国旅行の際にはお役立てください。

伊東忠太と仏教美12

2006年12月23日 10時14分23秒 | Weblog
 大乗仏教では、仏陀は現世に釈迦として実在しただけでなく、無数の菩薩たちがそれぞれの世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えるのだそうです。

 ここがややこしや、のもとですね。

 小乗では釈尊だけなのですっきりしておりますけれども。

 大乗仏教での如来というのが僕には大変分かりにくい概念なのですが・・・

 如来は真実から来る者という意であるので、正確には仏陀、つまり現世では釈迦であり、大乗仏教では信仰の対象となる緒仏を指しますから、如来=仏さまと考えていいのでしょうか・・・。

 つまり仏教では、成仏して悟りを開いた者が仏陀(=如来)であり、仏陀は一人ではなく、それぞれの世界に無数に存在し、仏陀を目指すものが菩薩であり、また衆人を救うために、なれるのだがあえて仏になろうとしない明王や高僧も指すと・・・亡くなれば誰でも仏さまになるし・・・う~ん分かりにくい。

 では各論。。。


<如来>

 如来像を見ると、如来さまは悟ったお釈迦さまのお姿ですから、衣をはおっただけの質素で、アクセサリーは身につけておりませんね・・・ここが見分け方のひとつかな。

 この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀仏(阿弥陀如来)や東方浄瑠璃世界の薬師如来などがいるとしております。

 「浄瑠璃」といえば、日本の伝統芸能、人形浄瑠璃を思い出しますが、仏教用語では、「清浄な瑠璃」を意味し、薬師如来による仏国土、瑠璃を地とし七宝を持て成すると言われる理想世界を指すそうです。

 瑠璃はラピスラズリ、以前この世の中でもっともきれいな色だ、と書きましたが、仏教でも尊い色とされているのは、この浄瑠璃が関係しているのでしょうね。

 「薬師如来」は大乗仏教における如来の一人であり、瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされていて、無明の病を直す法薬を与える「医薬の仏」として信仰を集め、阿弥陀如来とともに日本ではもっとも信仰されてきた如来さまです。

 僕たち医師も信仰すべき如来さまだなぁ・・。

 ということは、阿弥陀さまは来世での安寧、薬師さまは現世での安らぎを与えてくれるのでしょうか。

 薬師如来信仰は顕教(けんぎょう=密教以外)であり、例外的に天台宗密教と関係が深く、東方ということもあって、皇室と縁が深い天台宗密教では、東方の王、天皇と結び付けられていたそうです・・・。

 ほかにも浄土には阿閦仏(あしゅくぶつ)の東方妙喜世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国、お釈迦様の霊山浄土(りょうぜんじょうど)、観音様の補陀落浄土(ふだらくじょうど:以前補陀落→二荒→日光を書きました)などもあって・・・はっきり言って訳が分かりません。

 有名な如来は、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、密教の五智如来・・・になるのでしょうか。

 釈迦三尊といえば、釈迦如来(しゃかにょらい)を中尊として、脇侍(きょうじ、わきじ)として左に騎獅の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、右に乗象の普賢菩薩(ふげんぼさつ)を配置します。

 釈迦如来=阿弥陀如来だとは思うのですが、阿弥陀如来の脇侍としては観音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)になります。

 まったく分かりにくくてしようがないので、釈迦如来も阿弥陀如来も統一すれば良いのに。

伊東忠太と仏教美11

2006年12月22日 09時05分51秒 | Weblog
 ヒンドゥー教において聖典ではないのですが、古来大きな影響を与え続けているサンスクリット語の大叙事詩の「マハーバーラタ」の一部に含まれる「ギーター」には英雄クリシュナが出てきます。

 同じく叙事詩「ラーマーヤナ」では英雄ラーマーが出てきますが、クリシュナもラーマーも維持神ヴィシュヌの化身だそうです。

 最近でも例えば非暴力不服従で有名なガンジー(マハトマ・ガンディー)氏は、この「ギーター」を生涯愛好し続けたことで知られるそうです。

 バラモン教やヒンドゥー教だけでもじゅう~ぶん良く分からないのですが、仏教でもさらにゾロアスター教やらその他民間信仰が複雑に絡み合っていますので、仏教における仏さまも非常に複雑化されており、わけがわかりません。

 仏門の高僧にお願いですが、日本国民にもっと広く帰依してもらうならば、もっともっとここを簡素化しなければならないんじゃないでしょうか??


 ではいよいよわが仏教の仏さまについて考えてみましょう。

 仏教の信仰・造像の対象となっている、広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、

1. 「如来部」:「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意

2. 「菩薩部」:悟りを開くために修行中の者の意

3. 「明王部」:如来の化身。説法だけでは教化しがたい民衆を、力ずくで教化するために恐ろしい形相をしているものが多い

4. 「天部」:仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在

の4つのグループに分けるのが普通だそうです。

 この如来部、菩薩部、明王部、天部の4つの区分けは、もっとも分かりやすいと思いますので、仏教徒であればこれくらいは覚えてみましょうか。

伊東忠太と仏教美10

2006年12月21日 05時45分54秒 | Weblog
 ブラフマーは宇宙の創造、ヴィシュヌは宇宙の保持、シヴァは宇宙の破壊をそれぞれ担当するといわれます。

 ブラフマーは4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った男性(多くの場合老人)であり、 ブラーフマナ文献やウパニシャッドに説かれる宇宙の根本原理であるブラフマンを人格神として神格化したのがブラフマーだそうです。

 ヴィシュヌは自由闊歩の神であり、世界の果てまで届く太陽光線の神格化であったと考えられ、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行きそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされます。

 オウムでもシヴァ神が敬われていたそうですが、このシヴァ神は、皮膚の色は青黒、髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、裸に短い虎皮の腰巻だけをまとい、片手に先が三つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を持ち、両目の間には第三の目が開いており、額には白く横に三本の線が描かれ、頭頂部からは小さな噴水の様に水が吹き出しており(これはヒマラヤ山脈におけるガンジス川の始まりの水を示す)、また、首を持ち上げたコブラとともに描かれ、彼が怒る時には激しい炎が出て来て全てを焼き尽くすとされております。

 シヴァ神は、世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしているとされます。

 おそらく光の神、ヴィシュヌを邪魔する、黒点や日蝕などの現象を破壊神としたのでしょう・・・日本では破壊の神シヴァ神が、にこやかな大黒さまとなって伝わりますが、ヴィシュヌとシヴァはアマテラスとスサノオにも通じそうな気がします。

 僕の中で、旧約聖書に出てくる「シバ(シェバ=Sheba)の女王」とこのシヴァ神をよく混同してしまって困るのですが、シバの女王はエチオピアかイエメンに起源を持ち、エルサレムのソロモン王を訪れた南方の女王です。

 ヒンドゥーはバラモン教を受け継いでいて、その聖典であるヴェーダ文献群(最古のリグ・ヴェーダは有名)と、その最後尾に位置するウパニシャッド群(ウパニシャッド哲学としてインド哲学の源流となっております)は、現代でも多くのインド人に愛読されているそうです。

 ウパニシャッド哲学では、意識の最も深い内側にある個の根源であるアートマン(自己の中心、人類の内なるエッセンス=我)が宇宙の根源であるブラフマン(梵)に溶け込み、ニルヴァーナ=涅槃に至るとしております。

 涅槃はヒンドゥーだけではなく、仏教でも出てきますが、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であり、ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態をいうため、その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳されたそうです。

 煩悩が智慧によって慈悲として働いて、涅槃に転ずる境地を「菩提」(ぼだい)というそうです。

 菩提とは悟りの果としての智慧のことで、菩提にいたる智慧は無上の悟りなので、特に「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい:レインボーマンに出てきた例の変身するときの呪文)というそうです。

 レインボーマンは格調が高かったんだなぁ。

 ということは、菩提は涅槃と同義語であり、煩悩の反対語になるわけですね。

伊東忠太と仏教美9

2006年12月20日 11時24分31秒 | Weblog
 仏教はインドからチベットにも伝わり、「チベット仏教」として独自の発展を遂げ、日本ではいわゆるニューエイジや怪しげなサブカルチャー領域で取り上げられて、少し歪んだ情報として伝わってきておりました。

 しかしチベット仏教の法王、ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞も受賞しており、現在は中国による弾圧のためインドに亡命し、チベット亡命政府の指導者でもあります。

 また「チベットのモーツァルト」で有名な中沢新一氏も、チベット仏教のニンマ派を修めましたが、かの東大中沢事件でなにやら宙に浮いてしまい、その後のオウム擁護によって経歴が汚れてしまい、ニューアカ(現代思想)ブームも一気に終焉したように思えます。

 西欧で絶対神を捨て、いわゆる仏教徒になる方は、残念なことに大乗仏教ではなく、このチベット仏教へ帰依するようで、リチャード・ギアも熱心なチベット仏教徒です。

 怪しげなカルト教団や邪教に簡単にだまされて入信したりしないためにも、基礎知識をきちんと備えましょう。

 ちなみに僕はその手の者ではありませんし、若干カルト好きの普通の一般市民、宗教的には中立、パンのみで生きるわけではありませんが、宗教や思想だけではパンが食べられないことも自覚しており、「美しい」ものに興味があるだけの現実主義者です・・・このブログで洗脳されるわけでもございませんのでご安心を。


 さて、ヒンドゥー教ですが、三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3神、

1. ブラフマー (創造神)
2. ヴィシュヌ (維持神)
3. シヴァ(破壊神)

がいます。

 ブラフマーは宇宙の創造、ヴィシュヌは宇宙の保持、シヴァは宇宙の破壊をそれぞれ担当するといわれます。

伊東忠太と仏教美8

2006年12月19日 13時01分41秒 | Weblog
 そもそも仏教は、紀元前1000年出生とも言われている、釈迦一族の王子、釈尊(ゴータマ・シッダールダ)が出家して、インド北東部、ネパールとの国境付近の現ビハール州にあるブッダガヤというところで、現在ではマーハボーディー寺の菩提樹のもとで悟りを開き、仏陀となり、教えを進め、紀元前386年(紀元前486年とも紀元前949年とも・・・いずれにしても80歳入滅とは合わない)2月15日入滅(仏滅)します。

 そこまでは僕も理解しております。

 その後、般若経の支持によって大乗仏教が生まれます。

 大乗仏教は釈迦入滅後700年を経て龍樹によって確立され、凡夫でも善根を積んで仏陀の道が開かれるという法華経により明確化されていきます。

 龍樹、ナーガアルジュナ(ナーガ=龍、アルジュナ=英雄)はインドの高僧で、「南都六宗」に天台・真言を加えた中国八宗の祖といわれ、真言八祖(しんごんはっそ)の一人であり、また、浄土真宗七高僧の一人だそうです。


 日本にはその大乗仏教が伝わり、南アジアは自己の修行により自己一人のみが救われる小乗仏教=上座部仏教が広まります。

 小乗仏教のほうが伝統的正統派であり、大乗仏教は新興宗教ですから、小乗とは言わないようにと決められているそうです。

 ところが仏教は本場インドではヒンドゥー教(ヒンズー教)に押されて廃れていってしまいます。

 諸説がありますが、仏教が成立したのは紀元前5世紀くらいとも言われておりますので、キリスト教やイスラム教よりも歴史はあるようですが、よくわかりません。

 そして、そもそも古代インドでは紀元前13世紀くらいから、「バラモン教」がありました。

 バラモン教のバラモンはとは僧侶、正確には「ブラーフマナ」、中国での音訳「婆羅門」から日本ではバラモンという事が多いようです。

 元来は、コーカソイドのアーリア人(イラン人)がインダス文明の担い手である、古代インドの原住民ドラヴィダ族を支配化するために生まれたのが、バラモンを筆頭としてインド社会に残る身分制度、「カースト制度」といわれます。

 その最高級職であるバラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、「宇宙の根本原理ブラフマン」(→バラモン)に近い存在として先住民に敬わさせたようです。

 バラモン教は古代の「ヴェーダ」の宗教とほぼ同一の意味で、「古代ヒンドゥー教」と理解しても良いと思います。

 バラモン教にインドの各種の民族宗教、民間信仰が加えられて、徐々にいろいろな人の手によって再構成されたのが現代インドの80%が信者であるヒンドゥー教です(仏教は0.76%)。

 ヒンドゥーは多くの特徴をバラモン教から引き継いだ多神教であり、ですから現代インドにも残るカースト制度もこの名残です。

 ヒンドゥー教は、輪廻や解脱といった独特な概念が特徴的です。

 輪廻とは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karuman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることであり、信心によって次の輪廻(来世)においてカーストが上がるといわれています。

 仏教においても、伝統的に輪廻や解脱が教義の前提となっておりますが、輪廻を苦としてとらえ、そこから解脱をすることが目的ですし、カーストもあまり関係がなさそうだし、個の存在も無、つまり無我ですから、ヒンドゥーのそれとは少しニュアンスは違うように感じます。

伊東忠太と仏教美7

2006年12月18日 12時47分07秒 | Weblog
 最近はいじめに自殺、親子間殺人、幼児虐待のニュースを耳にしない日はないくらい、世の中に暴力があふれております。

 僕はこの幼児虐待ほど許せないものはありませんが、それを聞くたびに実は、ロシアの巨匠ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を思い起こすのですけれども、これは重た過ぎますから、またいつかやりましょう。

 そして政府の教育基本法改正もトピックスですが、そこには民主党の言う、「宗教的感性の涵養」という文言がありました。

 いじめもそうですが、子供は常に大人の社会の鏡だと僕は思っておりますので、大人にない感性や大人が省みない事を、子供だけに求めることが果たしてできるものかと自問自答してしまいます。

 また宗教的感性を子供に涵養したいのであれば、学校任せではなく、僕たち大人が家庭で行うべき役割も大きいのではないでしょうか?

 それを行うには、僕の宗教学的感性は低いし、この場を借りて僕も再学習したいし、医師にはそういう素養も必要でしょうし、また京都に行ってもフランスやイタリアに行っても、観光はお寺や神社、教会が多いものだし、美術品もその方面が多く、それを楽しむなら基礎知識があったほうがいいし、西洋の小説や映画もそうだし・・・べつに僕の精神が病んでいて、急にこうなったわけではなく、これは高校生くらいからの興味の積み重ねですから・・・。

 そして確かに現代日本では、僕たち大人の宗教的感性が低くなり、「パンのみで生きる」者が増え、それとともに、モラルだとか道徳心、感謝の気持ちや、生命を慈しむ心、敬虔さ、謙虚さ、絶対的なものに対する畏れ、誰かが見ているという道義、さらには国家観、アイデンティティが低下していることは否めません。



 僕は仏教徒でありながら、仏教をまったく知らないし、残念ですがお坊さんも教えてくれませんし・・・仏教は身近なだけに複雑だし、ひょっとしたら重くなるかも・・・しかしマニアックでディープではありながら、そこをなるべく簡潔にいくのがこのブログ、腕の見せ所 



 間違っているかもしれませんが、僕たち大部分の日本人に刷り込まれている仏教の本質は、紀元前一千年頃の釈尊による「縁起」という概念と、その後の般若経および龍樹(りゅうじゅ=ナーガアルジュナ)による「空(くう)」という概念だと理解しております。

 物質の存在や現象は単一としては「空」であり、「空」とは言え何も存在しないのではなく、縁があるから起こる相対的なものである、そしてそれは絶対でもなく偶然でもなく、縁により成り立つのだ、という悟りにあると認識しております。

 一般的に「縁起」というと、縁起がいい、に代表されるように、物事のきざしや前ぶれといった意味に吉兆を含んで使用されますが、仏教で言う縁起はあらゆる現象は関係の上に成り立つ、という物質・事象の【相対的存在】の定義と解釈してよいと思います・・・たぶん。

 ですから、成仏という概念も、縁起という相対的な概念でも、西欧キリスト教、アラブのイスラム教、イスラエルのユダヤ教のような、絶対存在であるところの、絶対神とは相容れない考え方です。

 古代インドで発見された「ゼロ」の概念があって(その後のアラブで)初めて、十進法や負の概念が生まれたのも、この「空」の概念があってこそではないのでしょうか?

伊東忠太と仏教美6

2006年12月17日 09時23分56秒 | Weblog
 阿弥陀さまのいらっしゃる「西方極楽浄土」は、ゾロアスター教の起源であるペルシャ地方(イラン)、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方(イラク)?という説さえあります。

 またアフラ・マズダは一方で、アフラ→アスラ→阿修羅として、仏教に伝わったとも言われております。

 ゾロアスター教は高校の世界史で学びましたが、「拝火教」とも呼ばれ、古代イランで発生し(紀元前15世紀とも紀元前7世紀とも)、「アヴェスター」を経典とし、光と闇の戦い(二元論)を説きました。

 核疑惑でアメリカとやりあっているイランで起こったこのゾロアスター教が、ユダヤ教を通じてキリスト教に、更に、初期仏教やマニ教にも影響を及ぼし、 イスラム教もまた、ザラスシュトラの教え、すなわちゾロアスター教の影響のもとにあるとさえ言われているのです。

 そして一方同じくアメリカとやりあったイラクでは、世界の歴史に先立ち、紀元前3千年ころ、イラクの首都バグダッドの南約90km、メソポタミアの南部にアムール人によるバビロニアがありました。

 バビロニアは北半分がアッカド、南半分がシュメール、シュメールにはウル、ウルクなどの都市があり、最高神「マルドゥク」を守護神としておりましが、そのマルドゥクが絶対神につながっていったともされます。

 ぎるがめ~っしゅ!でお馴染の、世界最古の文学とされる「ギルガメシュ叙事詩」はこのバビロニアのものです。

 マルドゥクまでさかのぼってしまうと、資料が少ないためか、こじつけや想像も突飛となり、いわゆるトンデモ本がたくさんありますので注意が必要ですけど・・・。

 それにしても世界の文明の母ともいえる、偉大なるアラブ・・・。



 さてわが仏教において、仏さまというのは、佛とも書きますでしょ。

 佛に似た字、沸は、水が沸くので、お湯ですから、水だけれども、水ではありませんでしょ。

 それと同じで、佛(仏)は人であるが、人ではなく、解脱した者、真理を悟った者のことで、人にして人にあらず・・・ですが、人ですので、まぁ西方の絶対神とは異なるというわけです。

 そして仏教は、ユダヤ・キリスト・イスラム教のように、絶対神の元、祈りを捧げ、神に誓い、罪を贖い、正しき道を歩もうとする宗教ではなく、仏教はあくまで個人の解脱、人間が解脱して仏陀を目指す、哲学だと個人的には思っております・・浄土宗ではちょいとニュアンスが違うような気もしますが。

 つまり、絶対神宗教では、人間が神になるなど到底できないことですが、仏教では修行次第では信仰の対象である仏に、人間が成仏できるわけです。

 僕は仏教徒でありながら、専門家ではないし、いまひとつ仏教のことが、特に仏さまについて良く分からないので、みなさまと一緒にここでディープに勉強していきたいと思います。

伊東忠太と仏教美5

2006年12月16日 20時33分26秒 | Weblog
 本願寺って美しいなぁ・・・で終わらないところがこのブログのいいところ(欠点)、だんだんマニアックにエスカレートしていきます。

 浄土真宗では、衆生救済に関して48の願い(四十八願)を立て、特に浄土教において第十八願を「本願」(念仏往生の願=王本願)と呼んで重要視するそうです・・・それが「本願寺」の由来かな。

 ちなみにそこから「いよっ十八番!」って言葉が生まれたそうです。

 人が往生するのは「阿弥陀仏」の本願(願い)によってであり、この理(ことわり)を信ずること(=信心)によって、誰でもが修行をしなくても、あるいは自ら望まなくても、そこはスーパー阿弥陀さまの願いなので、たとえどんな悪党でも往生することができるといいます・・・布教のためとはいえ、ちょっと虫が良すぎるような。

 そして、「他力」とは「阿弥陀仏のお力のみ」を言い、阿弥陀仏のお力以外のすべての力を自力と言うそうなので、すなわち「阿弥陀仏のお力である他力」本願によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定され(自力では往生はできない)、自分で望まなくても念仏を唱えれば阿弥陀さまが浄土へお連れ下さるそうです。

 これもちなみに、世間で僕たちがよく言う「他力本願」ですが、その場合は「他人依存」だとか、自己責任を回避した「無責任」な意味として使いますが、本来の浄土真宗で言う「他力本願」は阿弥陀さまのお力ですから、俗界の使用法とは意味がまったく異なり、相容れない概念、この使用の濫用は浄土真宗にとっては失礼に当たるそうです。

 浄土真宗の本尊である「阿弥陀如来」は、西方極楽浄土を仏国土とする仏さまであり、サンスクリット語のアミターバ(amitaabha)」=「無限の光をもつもの」に由来しているとされております。

 南無はサンスクリットのナモnamoに由来し、私は帰依します、という意味だそうで、親鸞はナモと発音したため、浄土真宗では「なもあみだぶつ」と言うらしいです。

 阿弥陀如来は、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされ、大乗仏教で登場した仏尊であり、その起源はアヴェスターを経典とする『ゾロアスター教』にさかのぼり、光明の最高神「アフラ・マズダー」が無量光如来として仏教化されたという説もあります。

 ちなみに車のMAZDA(マヅダ)は松田という苗字ともに、このアフラ・マズダーが由来だそうです。

伊東忠太と仏教美4

2006年12月15日 08時14分12秒 | Weblog
 石段を登るとお線香の匂いが漂い、日本人としてはなんとも安らぎます。

 浄土真宗は念仏の教えですから、「南無 阿弥陀仏」・・・。

 本堂は思いのほか静かで、いすで居眠りをしている参拝客もおります。

 いすに腰掛けて、上を見上げると、天井は高く、意匠の凝らされたシャンデリア(?)が目に入ります。

 ゴシック教会の天井は神の深淵さと失われた森の木々への望郷の念・・・しかし本願寺のこの空間は仏教の本質、「空(くう)」を思うべき空間なのでしょうか。

 他の内装にも、伊東忠太独特の、妖怪というか、グロテスクな、オリジナルでちょっぴりお茶目な世界が展開されておりますので、ぜひ注意深く観察してみてください。



 本願寺は「浄土真宗」本願寺派であり、本家本元の西本願寺は京都市下京区堀川通花屋町下ルにあり、「親鸞」聖人を宗祖と仰ぎます。

 親鸞は12世紀後半の鎌倉時代の方ですから、おりしもちょうどゴシックの時代ですね。

 ご承知かもしれませんが「親鸞」は、浄土宗(「南無阿弥陀仏」=阿弥陀仏に帰依します)の開祖である「法然」の弟子です。

 浄土教系の宗派教団において、「南無阿弥陀仏」と念仏(ねんぶつ)を唱えることが勤行(ごんぎょう)とされ、修行をしなくても念仏を唱えることによって阿弥陀如来の慈悲を理解し、悪人を含む全ての人が(ここが大きな乗り物、大乗の特徴)浄土へ往生し成仏するという「絶対他力」への信順を往生成仏の正因とする宗教だそうです。

 浄土真宗は、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)と信徒を擁するそうです。

 浄土真宗における浄土宗(法然)との最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点だそうで、他の宗派と比べ多くの宗教儀式や習俗にとらわれないというような合理性を重んじているそうです。