医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

伊東忠太と仏教美23

2007年01月12日 09時55分31秒 | Weblog
 五重塔といえば、僕はブルース・リーの「死亡遊戯」を思い出しますが・・・最後のほうはニセものが演じているんですよね、あの映画は。

 お釈迦様のお墓を模したものがストゥーパ→卒塔婆(そとうば)→塔婆(お墓に立てる細長い板状のもの)となり、塔婆が五輪塔になり、五重塔へとなったそうです。

 その五輪というものは、仏教の五大元素、地(四角)水(円)火(三角)風(半月)空(宝珠)の五輪なのだそうですが、形と対象の何となくイメージがぴったりじゃないですか??

 五重塔で肝心なのは実は、屋根のてっぺんのアンテナみたいなとこのさきっちょのとんがり部分で、7部位からなる相輪(そうりん=九輪の場合も)なんですって。

 相輪の一番上が宝珠(ほうしゅ)で、お釈迦さまの遺骨(舎利=しゃり)を入れる部分なので最も重要なのだそうです。

 てっぺんのアンテナ中央からつけね部分のわっかを「法輪」と呼び、5大如来と4大菩薩を表します。

 僕たちが目を奪われる塔の本体や屋根はむしろ飾りだったのです。



 以前のテーマからの流れで言えば、柱による均整の明るい人間美がギリシア・ローマ建築、壁と天上空間によるきりさめにけぶるおどろおどろしさと宗教的深遠さがゴシック建築とすれば、この木の柱と梁で作られて、四つ角がとんがった大きな反りのある屋根で覆われた日本的な空間は、蒸し暑い気候と豊潤なアジアの山々、動植物と人間が一体となった空間・・・

 それは伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、いずれやりましょう)が「動植綵絵」でも表現したかった、いきとし生けるものに宿る仏性、自然に内包される人間、そしてうつしおみ(空蝉)の空(くう)と無を表しているのでしょうか?

 近年の日本人に欠けて来ている事が大きな問題とされている、「宗教観」に思いを寄せずにはいられません。

 ちなみに僕の菩提寺は確か・・・禅宗の曹洞宗だと思いましたが(???)、修行が足りず煩悩にまみれ、浮世にうつつをぬかしている身のため、座禅などしたこともありません。

 みなさまも一度、ご自分の菩提寺の宗派をお確かめになり、2500年前の釈迦に、あるいは5億年先の弥勒菩薩に思いを馳せてみられるのも、なかなかロマンティックだと思います。


 重ねて高名なお坊さまにお願いをするとともに、応援したいので失礼を承知の上、あえて苦言を呈させていただきますです。

 西洋では病院にも神父さまや牧師さまが立ち入り、末期患者などの精神的サポートを行っているのに、今日本で病院に住職がいらっしゃったら「縁起でもない」と言われかねない現状をどのようにお考えになられますでしょうか?

 宗派がどうの、お布施がどうの、くだらない内輪もめなどしている場合でしょうか??

 俗世での日本仏教の本当の危機を感じませんか??

 僕たち庶民の、特に若者の仏教離れは深刻ですよ。

 このままでは墓守職業人か、高い拝観料をせびる偉大な建造物の管理人になってしまいますぞ。

 もっと柔軟に考え、時代に合わせ、メディアをうまく活用して、布教に力を入れて、子供たちから「修行して徳の高いお坊さんになりたい!」と言われるように、改革する必要性はないのでしょうか?

 それもこれも時代の流れ・・・ですめばいいですが、いかがわしい新興宗教が多いのも、自浄作用がないせいですし、本当に困った方を救済していないからではないでしょうか??

 以前の繰り返しになってしまいますが、自然災害があったときにも、赤十字のようにいち早く駆けつけ、被災者の救出活動を行う若手和尚さんたちや、街をパトロールして不良たちを説教する自警団だって、夜の違う場所で女性を相手に酒を飲む不良僧の姿は見ても、自警団の中に僧侶の姿を見たことがありません(不勉強なだけかもしれませんが)。

 庶民は心の救いや宗教的ぬくもりを求めているのに、いっこうに仏教側から手が差し伸べられていないのが現状です。

 今こそ、骨のある若手住職が立ち上がって、改革を起こすときではないでしょうか

 若手修行僧よ、街に出でよ