医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

美しきガイア 39

2008年09月30日 11時33分40秒 | Weblog
 孔子は「仁」を重んじ「礼」を説いた儒教(Confucianism)の祖ですが、現代社会にも十分通用しますよね。

 なんちゃって仏教徒の僕も、外国人から君の宗教は?と問われた場合むしろ、Confucian と答えたいくらいだ。

 儒教は中国で国教化されるのですが、毛沢東の文化大革命で孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされてしまいました。

 もちろん、現代はキリスト教の個人救済に基づく個人主義の時代ですから、上下や序列を重んじた儒教は時代遅れなのかもしれず、しかし僕の遺伝子には儒教の教えのほうがマッチする気がします。

 社長に「ハ~イ、ジュンイチロウ、元気?調子は?」ってチューして肩を叩いて握手できます?

 だから、邦人が自分の父親や息子を「彼」、って呼んでいるのを聞くとお尻がかゆい・・・。




 で、次に「脳の中の私・・」では同じく中国春秋戦国の世、他の「諸子百家」として老子(Lao-tzi 写真:ラオチュウではない)を紹介、老子もすべては「無」だとし、それを「タオ」あるいは「道」とし、それが道教だと。

 「道」はすべての物事の根源だそうで、無限大に広がり、どこにでもあるのですが、しかし漠然としてとらえようがない。

 強いて言えば「無」なのだそうです。

 仏教の「空」に似てますね。

 「無知無欲」とは、知ることにとらわれない状態で、それが望ましいと。





 弟子が知ることにとらわれると、いろいろつっこまれて答えに窮するから、その言い訳じゃないの?って???



 中国の三大宗教といえば、仏教・儒教・道教らしいですが、近年見直されている道教(Tao-ism)は、「道」という文字からして首が始まりで之が終わりを意味するようです。

 その太極思想には共感できますけど、仙人に不老不死や霊薬・丹だの、風水や易学だとか、さらに日本の陰陽になると、ちょっと・・・ね。



 紀元前5世紀ころは、日本では諸説はありますがやっと弥生時代の始まり、その時代に、儒教が起こり、ソクラテスが弁明し、ピタゴラスが√2が無理数であるかどうか議論し・・・

美しきガイア 38

2008年09月29日 12時10分21秒 | Weblog
 前野氏いわく、「悟り」とはある問題を、その上のレベルからとらえて、問題の問われた意味を理解すること、だそうナリ。

 悩み事態を、解決するのではなく、そもそもなぜその問題について悩んでいるかということについて考えるところに答えがある、と。




 釈迦は、自己意識や物質世界(心やモノ)は存在するという考えも、存在しないという考えも極端だ・・・

 つまりは物的一元論でも、心的一元論でも、二元論でもない・・・

 いずれも真理ではないのだから考えても無駄だ、考えることは空虚だ、としたと著者は解釈しているようです。

 「意識」(心)が存在するかどうかを議論すること自体が無意味だ、というのです。

 修行の足りない僕には、分かったような、分からんような・・・。





 しかし前野先生によれば、釈迦が両極端だといって否定した2つの考え・・・

 すなわち、自己意識や物質世界が存在するという考え、存在しないという考えは、皮肉にも仏教の根本命題として、それぞれ発展して行ったのだそうです。

常見(じょうけん):自己意識は存在する

唯識(ゆいしき):心的一元論。ただ意識のみが存在する。ヨーガ。大乗仏教

断見(だんけん):自己意識も物質世界も存在しない。→中観(ちゅうがん)

 としてだそうです。




 次に、世界の四聖といえば、孔子(写真)、釈迦、ソクラテス、キリストを指すのだそうですが・・・

 キリスト以外の3人は紀元前500年代の人らしいのですが、孔子のほうが釈迦より年上なのかな。

 四聖に東洋人が2人も、ってすごいことだなぁ・・・。

 ナザレだって、もしイスラエルが中東に属するのであれば西アジアってことになるけど、それだとアラブ諸国がボイコットするので、仕方なくサッカーではヨーロッパのディヴィジョンになってますが・・・

 孔子は英語では、孔夫子の音訳して(夫子とは先生への尊称)"Confucius"、コンフゥーシュ、みたいに発音するのかしらん??

 困惑して狼狽・混同(confusion)しそうになるけど。

 孔子大先生は身の丈188cmもあったんですってよ。

美しきガイア 37

2008年09月28日 10時06分11秒 | Weblog
 日本の財産、東大・京大生よ、学問の徒よ、どうか矮小な金儲けにとらわれず・・・いやすべての若者よ、がんばれ!!

 数学の深いアイディアを考えつくのは、だいたいにおいて若い時分だそうです。




 「数学上の大きな一歩が、50を過ぎた人間によって踏み出された例を私は知らない」   ~ハーディ~ 



 証明された志村氏は、微笑みながら、「だから言ったでしょう」。

 カッコイイ。




 で、その「フェルマーの最終定理」を証明した、ワイルズは、証明の出発点として「帰納法」を選択しました。

 ある命題がすべての自然数について真であることを証明するには、nについて成り立つならば、n+1についても成り立つことを証明する。

 そうすれば、数学的な帰納法の場合、無限を証明できることになりますが、科学や思想では無限、つまり全宇宙に普遍だとか、全人類に普遍を証明するのはほぼ不可能なため、ある母数で近似することしかできません。





 ぐぐっと話は戻りまして、意識と無意識の前野氏の話ですが、彼も科学者らしく演繹法と帰納法を踏まえたうえで、前野氏はさらに形而上学的な問題に突入して行くのですが・・・

 二元論者に対して一元論・唯物論の彼が、帰納法によって論破するのは、カテゴリーが異なるので不可能らしく・・・

 僕を含め日本の医師は、僕を除いては往々にして勤勉なのですが、哲学や宗教という医師にとって必要な素養に、実際は造詣があまり深くありません。

 医学の情報量が多すぎて、医学書は読むものの、その他まで気が回らないというのも原因のひとつでしょう。

 また日常業務の余りのストレスに、趣味を深める余裕もないのかもしれません。




 東洋の「悟り」、前野氏的にはまずは、東洋が意識を語る上での哲学の「いの一番」。

美しきガイア 36

2008年09月27日 06時19分15秒 | Weblog
 その証明をきちんと理解できるのも、世界中に数名しかいないのだそうですけど、ワイルズの証明には、実は、「谷山・志村予想」や「岩澤理論」という、日本の数学者の貢献が非常に大きく・・・

 わが日本ではまったく知られておりませんが。

 特に「谷山・志村予想」が正しくて、すべての楕円方程式(y²=x³+ax²+bx+c)がモジュラー(無限の対称性をもつ)になることを証明すれば・・・?????

 フェルマーの方程式には解がないことになり、従って、フェルマーの最終定理を証明したことになるのだそうです。

 わけ分かりませんが・・・。





 また、20世紀を代表する数学者の一人、フランスの、アンドレ・ヴェイユをして、日本人でもっとも独創的な数学者と言わしめたのが、1998年に亡くなった、東大卒の岩澤 健吉。

 その理論は、僕の陳腐な脳ではまったく理解できませんが・・・楕円方程式を分析するための手段なのだそうです。

 正剛氏によれば、新潮文庫の「フェルマーの最終定理」、この本の特筆される点は、通常、意識的に?と思われるくらい無視される谷山・志村予想に、きちんとスポットライトを照てている点にあるらしい。

 で、谷山・志村両氏は、モジュラー方程式と楕円関数という(わけの分からない)異なる宇宙に見事に橋を架けたのだそうです。

 数学の世界は、分野によってばらばらで、その楕円方程式とモジュラーとやらが結びつくなんてとっぴな話、誰も思いつかなかったんだそうです。

 拙ブログも、フェルマーと深海とクオリアと人工知能とガイアを結びつけ、バインディング・・・・。

 それにしてもうれしいことに、谷山・志村の両氏や岩澤理論の岩澤氏といえば、数学者には国際的にもその名を知らない者はいないくらい、わが同胞が世界的に有名なのです。

 宮岡洋一氏も微分幾何学という数学的な形の性質や面の性質というアプローチを数論に応用し、独自の価値を持つ独創的な仕事によって、この最終定理の証明まで後一歩と迫り、世界をにぎわせました。

 残念ながら宮岡氏は失敗しましたが、彼の独創的な発想は、その後さまざまな定理の証明に利用されたそうです。

 僕たち日本人は何も自信を失う必要もないのです。

美しきガイア 35

2008年09月26日 07時45分02秒 | Weblog
 僕たちはフェルマーの最終定理なんか知らなくても、現代社会でまったく同じように生きていけますが、別世界を垣間見るというのは刺激になるし・・・

 別世界のエレガントな調和に触れること、そういう感性がその人間のもつエレガントさにもつながるんじゃないかなぁ・・・?

 と思ってるんですが勘違いかもしれません。

 仮に勘違いでなければ、少しでもエレガントさを身につけられるように、僕にはもっと努力が必要です。





 さて、xⁿ+yⁿ=zⁿ  のフェルマーの最終定理は昨日紹介しましたが、


 nが2ならばピタゴラスの定理ですから、満たす0ではない自然数x、y、zは代表的には3,4,5が、9+16=25ですので該当しますね。

 ピタゴラス組数っていうんだっけな?

 次が5,12,13、その次は99,4900,4901ととたんに大きい数字になる。




 フェルマーの最終定理では、問題は・・・後に有名となる、フェルマー氏のこんな書き込みがあったことです。




 「わたしは、その真に驚くべきすばらしい証明を見出した。しかしこの余白では狭すぎる。」




 とまあ、なんとも思わせぶり。

 このフレーズ、知っておくときっと役に立つと思いますので、ご存知なかった読者の方は、これを機にご記憶にとどめ、いつか応用してエレガントな使い方をしてみてください。

「しかし余白が狭すぎる」

 


 会社の会議で、誰もが解決策を見いだせない難問が議題にあがったとき、「わたしは、その真に驚くべきすばらしい方法を見出しましたぁ~

 「うぉ~、そうかい、君、では言ってみろ」

 「しかしこの余白では狭すぎる・・・」

 し~ん・・・





 しかし、これを書き込んだのが一般人なら、おそらく誰からも相手にもされないかボコにされますが、その張本人がフェルマー氏でしたので・・・。

 しかも別にこれが解けたからといって、世界が明日から変わるわけでもなんでもなく、深い真理が生まれるわけでもなく、直接世間に貢献することでもありません。

 それにしても、350年も世界中の天才数学者を悩ませたフランスのフェルマーさん、本職は役人で数学者でなかった、ってんですからさらに驚き。

 ニュートンが発見したという微分積分も、実はフェルマー氏の接線の引き方に基づいたとニュートンも書き残したらしいし、パスカルはフェルマーと協力して確率論を証明し・・・

 他にもフェルマーさんは、さまざまな定理を数学の本場、イギリスの数学者に送りつけては、僕は証明できたけどさ、ヒント知りたい?・・・な~んてあおったりしてたらしいです。

 微積分にアレルギーをもつ方も多いかもしれませんが、微積分というのは、案外使われており、たとえば時間に対する距離の変化率は速度、時間に対する速度の変化率は加速度、インフレーションとは物価の微分係数・・・

 んで、「フェルマーの最終定理」、イギリスのアンドリュー・ワイルズが1994年に証明してみせたのはみなさんもご記憶・・・あれ、ない??

美しきガイア 34

2008年09月25日 08時07分39秒 | Weblog
 フェルマーの最終定理はご存知の方も多いと思いますが・・・




 xⁿ+yⁿ=zⁿ 

 において、nが3以上のとき、満たす0ではない自然数x、y、zが存在しないことを証明せよ。




 とにかくこれが、350年以上、誰も解けなかった。

 



 ピタゴラス学派は、「背理法」といって、ある命題が偽であると仮定して、矛盾を指摘し、であるから命題は真だ、というそれこそ柔道の地獄車のようなアクロバティックで一見異端な大技を使って√2が無理数であることを証明しました。

 数学者は、完全な証明がされないうちはどんな主張も認めないことで知られます。

 そんな厳密な数学者の世界で・・・「フェルマーの最終定理」によれば、1931年に数学界の根本原理を覆す大事件が・・。




 「私はうそつきだ」

 この主張の真偽を証明せよ。

 主張が真なら、その人はうそつきになりますが、主張そのものを真と仮定したのだからその人はうそをついていないことになり、パラドックスになります。

 主張が偽なら、その人はうそつきではないのですが、最初にその主張が偽と仮定したのだから、その人はうそをついたことになります。

 だからどうした??って・・・?




 したがって、

 「この命題は証明できない」

 という命題があるとすると・・・。

 この命題が偽ならば、この命題は証明できます。

 しかしそれは自分自身を証明できないと述べている、この命題に矛盾します。

 したがって、矛盾を避けるためにはこの命題は真でなければならないわけですが、この命題が真だとすると、真なるこの命題が証明できないといっているので、この命題を証明できません。

 そうすると命題そのものは「真」であるにもかかわらず、決して証明できないものも世の中には存在することになります。




 なんだか、まだるっこしいですね~。

 「別にぃ、うちらぁ、どっちでもいいしぃ・・・」とお思いでしょう。

 数学者はそれくらい厳密さを求め、証明を好み、厳格なわけなんです。

 それにより真ではあるが決して証明できない命題、いわゆる「決定不可能」な命題が存在することがわかり、数学界には致命的な打撃となったそうです。

 定理や公理は、真であれば必ず証明できる、という前提で数学者は挑むわけですから。

 そのため、フェルマーの最終定理も、証明不可能なのか??という危惧が生まれました。

美しきガイア 33

2008年09月24日 07時28分33秒 | Weblog
 ロボティクス研究者の前野先生は、そのように厳密に、論理的に仮説の立証を行おうという、きわめて冷静で理系な態度に則(のっと)るわけです・・・

 こうなったら破滅的に脇道にそれてまいりますけど・・・

 もっともクールな証明といえば、数学としての証明・・・そこで僕の脳は「フェルマーの最終定理」という本を思い出します・・。

 「フェルマーの最終定理」(本日の写真がフェルマー氏)、ご存知の方も多いでしょう。

 サイモン・シン著の「フェルマーの最終定理」という本には、数学の面白さにあふれておりますので、分かりやすくいずれやりましょう。

 今回は、数学と科学の厳格さの違いと、そしてまた「帰納法」について考える手段になれば。

 「フェルマーの最終定理」によれば、音楽の和音から惑星の軌道にいたるまで、この世の中にはたとえ数学が好きだろうと嫌いだろうと、あらゆる事柄の背後に数が潜んでいるといいます。

 数学の発展のおかげで、月に到達できたわけですし、メールができて、保険屋さんが成り立つわけです。

 数学と科学で明らかに異なる点は、その「厳格さ」だそうです。

 つまり、ピタゴラスで大きく発展した数学の世界は、人間の知覚だとか判定だとか実験だとか、人知によるあいまいさを一切含まず、つまり人間の手を完全に離れた絶対的な公理に基づいて証明して行くものです。


 ここが非常に大切なのだ。


 一方、科学は現時点で真実に限りなく近い、というようにでしか証明がなされず、後世、新事実が発見されれば、消しゴムで消して書き換えられて行くものだそうです。

 量子物理学しかり、医学もしかり・・・確かに。



 しかし数学の世界では、遠くピタゴラスの時代から現代に至るまで、直角三角形である限り、x²+y²=z²(直角三角形において、斜辺の二乗の和は他の二辺の二乗の和に等しい)は燦(さん)然と輝く公理・定理なのです。


 以前に数式の持つ美しさに触れましたが、その毅然とした美しさには、人の手で変えようもなく、人間の価値観や人生観だとか思想や哲学、歴史や時代背景でも揺るぎません。

 数学の定理には、科学における観測や理解などの人間の手によるあいまいさを一切含まない、どのような例外もそれを許さず、そういう普遍的で絶対的な美しさがあるわけです。

 それはもはや「エレガントな調和」ともいわれます。


 x²+y²=z²  

美しきガイア 32

2008年09月23日 11時28分46秒 | Weblog
 「深海のYrr」によれば、本当は無数の微生物が地球を支配しているのにもかかわらず、自分たちをより高位と勘違いしている人類が、あたかも物事を決定していると錯覚をしているという地球の構図と・・・

 脳における「意識」と「無意識」の構図とは・・・似てなくもない・・でしょ?

 それで、この2冊が僕の脳ではエピソードとしてバインディングされたのですが、これも無意識の賜物なのでしょう。

 前野先生の「脳の中の私・・」には、以前に拙ブログで触れました、「ラプラスの悪魔」も出てきましたぞ。

 また、電気は物質か?にともなう本書における、色は存在するか?という問いも興味深かったです。

 前野先生いわく「物理学は、世界に色などという物理量は存在せず、あるのは物質が反射しやすい光の周波数だけだということを教えてくれる。」

 やっぱり、先日触れたように、「色」はあくまで光の反射を間接的に感じているだけで、トマトが赤い色を放っているわけではなく、光が無けりゃトマトは黒い、という理解は間違えていないんだ。

 


 で、「自由意志」ってのも物理世界には存在しないと前野氏は語ります。

 知覚の中に現象として出現する、のだそうっス。




 ここからはさらに話はわき道にそれますが、前野氏は科学者らしく、思考法も論理的に展開するように注意しており・・・

 以前何かで読んだのですが、日本人はこの、西欧では当たり前の、論理的な思考法のトレーニングができていないそうなので、みなさまと勉強いたしましょう。

 思考法の代表的な手法に「演繹」(えんえき)法と「帰納」法があります。



演繹法:一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法です。


帰納法:個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。




 「人間は死ぬ」、だからそれまでに人生を楽しもう、というのが演繹法で、Aさんの脳が活動を停止したら亡くなった、だから人間は脳が活動を停止すれば死に至る、というのが帰納法です。



 しかしそれぞれ短所もあって、演繹法では、前提が間違えることがあり、帰納法では、全事例を網羅できない場合、確率的にしか判断できないことがあります。




 さらにさらにのちなみに触れておきますと、「弁証法」というのは、ドイツ観念論の哲学者、ヘーゲルが提唱し、現代社会の推移を読み解く方法を解いたものです。

 テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)をよく議論して、ジンテーゼ(合)にいたる、これをアウフヘーベン(止揚)ということ。

 世の中は明快で決定的な回答があるわけではなく、対立や矛盾をはらみつつ、それらが原動力となって推進して行く・・・

 つまり現象には時間軸があるってこと???

美しきガイア 31

2008年09月22日 16時20分32秒 | Weblog
 「脳のからくり」によれば、ヒトの欲望はクオリアに向かうそうで、自分が経験したクオリアは他人に話したがり、逆に自分がまだ体験していない未知のクオリアに憧れ、それを強く欲望するそうです。

 ヒトが新しいものを好む傾向をネオフィリアというのだそうですが、クオリア体験におけるネオフィリアこそ人間の最大の特徴だと。

 だからヒトは旅行したがり、新しい食事を食べたがるのだそうです。




 脳において次に問題となるのが、「結びつけ(バインディング)問題」なんですって。

 脳がどうやって、複雑な認知の問題を統一的に解いているのか?

 前野氏によれば、「意識」が能動的で、「無意識」がそれに従うと考えると結びつけ問題は解けないんだそうです。

 つまり、自分の有「意識」に基づく、自由意志で決定している事象は、実は、さまざまな情報を「無意識」が処理した上で、かなり直感的に決断したに過ぎず、あたかも自分の意思が判断したと勘違いしているだけだというのです・・・。

 それは言ってみれば、「意識」によるトップダウンではなく、実は「無意識」によるボトムアップだと。

 ってことは、無意識がバインディングしている、ってことかな?

 自分の体験を『エピソード』として記憶するため(だけ)に、「意識」が存在する、というのです。

 脳でエピソード記憶ができれば、複雑な状況変化に伴い時間発展する、原因と結果の連鎖を脳内に順モデルとして記述できるため、環境適応上有利になり、知的な生き方ができるようになる、ということです。

 また、過去のエピソード記憶を用いて、さまざまな因果関係をシミュレーションできるために、高次元で複雑な生活を送れるのだ、というのです。




 僕たちの脳は、無数の「無意識」のボトムアップの結果、一見高位に思える僕たちの「意識」が、後づけでさも決定したかのような錯覚をしているのだと・・・。

美しきガイア 30

2008年09月21日 02時48分59秒 | Weblog
 クリントン・リチャード・ドーキンス氏の、生物は遺伝子によって利用される「乗り物」に過ぎないというショッキングな発言を耳にしたことがあるでしょう。

 ミームという彼の概念に興味のある方はどうぞお調べください。

 彼は無神論者としてはラディカルで、科学的に考えることの重要性を訴え、最終的に宗教を完全に駆逐することを主張しております。

 僕には宇宙や地球に意思や心がある、というのはにわかには信じがたいですが、解明されていない以上、ちょっとだけ気になってしまいます。





 さてさて「クオリア」に戻りますが、「クオリア」とは、うれしい気分だとか、すがすがしいだとか、そういう感じを現象として実感すること、だそうです。

 前野氏いわく、「クオリア」なんて簡単だ、ここで何かを感じている、ということを感じることのできる、この心の質感なんですよ、と書いてありますが、僕にはそれの理解が難しい。

 

 クオリアには2種類あるらしく、それが

感覚性クオリア:五感で検出した外部の情報を感じる機能。耳で聞いた音楽の質感。

志向性クオリア:自分の心の内部に向かう情報処理の結果として、うれしい、とか、すがすがしいなどの、心の内部で心の質感を作り出す機能。

 ってことは、気持ちだとか感覚、感じのことかな・・。





 ところが前の氏によれば、これらクオリアも、幻想なのだそうです。

 注射が痛いとして、痛いという情報は脳で作られるのに、痛いのは刺されたところ。

 なぜ脳もないところに痛みのクオリアが生じるのか?というのですが・・・

 知覚野にともない脳が痛いと感じているのでしょうけれど、そんなもん幻想でもなんでもなく、僕は実際に痛いし、しかも痛いのは時間差なく、瞬時に間違いなくその場所が痛いぞ・・・???

美しきガイア 29

2008年09月20日 12時04分03秒 | Weblog
 「ガイア理論」=地球を超有機的生命体とする仮説、転じて、ガイアとは生きている地球、のような意味合いをも持ちます。

 そもそもガイアとは、ギリシャ神話に出てくる、地球をつかさどる女神の名前で、そのガイア仮説にも「脳のからくり」の竹内氏はおおむね賛同する立場のようです。

 ガイアは「地母神」といわれ、「天空神」ウラノスの奥さんで、ゼウスやポセイドンのおばあさんにあたるようです。

 「ガイアの夜明け」というオトナのための番組もありますでしょ、確か?

 最近優秀な、テレビ東京ね。

 ガイア説なんかは、日本人は飛びつきやすいと思われますけど・・・。

 しかしガイア説を唱えるラヴロックは、さぞや環境派と思いきや、温暖化を現実のものとして危惧するあまり、原子力推進派なのだそうです。

 しかし、原発も実は曲者で、原発にしたからといって、直接の二酸化炭素排出は少ないとしても、研究費から精製、廃棄までのコストを考えると、間接的な排出量に疑問の声もあるのも事実。

 もっといえば話はそれますが、丸山茂徳(東京工業大学大学院教授)は、地球が「寒冷化」に向かうとし、「二酸化炭素=温暖化原因論」はウソだと唱え、IPCCの温暖化シミュレーションを信じるなとしております。

 地球の気温に与える要素は、太陽の活動度 、地球磁場 、火山の噴火 、ミランコビッチサイクル(他惑星の重力による公転軌道のブレ、地球の地軸の傾きの変化等)、温室効果ガスとなっており、温室効果ガス以外はすべて、寒冷化に向かって働くのだそうです。

 また太陽電池も生成の過程で、石油を使うので、温暖化対策には疑問だそうなり。。。。

 マスコミも政府も、二酸化炭素=温暖化を信じて疑わないので、僕たち国民もそう信じておりますが、事実は必ずしもそうではないのかもしれませんぞ。

 丸山教授の説がウソなのか、温暖化・二酸化炭素犯人説がまっかなウソなのか・・・。

 なら、京都議定書も・・・。

 僕たちはいったい何を信じればいいのぉ~???





 おっと・・・・その「ガイア」理論にまっこうから対立するのは、2004年にプロスペクト誌が行った「イギリスの知識人100人」で首位に選ばれたクリントン・リチャード・ドーキンス氏です。

 よその国の知の巨人は、どうもすばらしく思えてしまう、自虐観・・・

美しきガイア 28

2008年09月19日 12時16分52秒 | Weblog
 さて、唐突ですがみなさまは、どうして死に行くのでしょうか??

 単に寿命だからでしょうか?

 ではどうして寿命があるのでしょうか?





 前野氏いわく、「ヒトが死ぬのは進化のためだ!」と。

 え~、そこまで言い切っちゃうか・・・。

 なぜなら、「ヒトがいつまでも生きていたのでは進化や変化は生じ得ないから。」

 が、が、が、が、がっび~ん!!

 でも、生物学的には一理ある。






 んで、大部分の日本人はあいまいな二元論者ということなら、僕は1.1元論者あたりかな・・・?

 占いや霊魂や血液型による性格などはまったく信じませんし、スピリチュアルも大嫌いですが、一方で宗教的感性は必要だと思うし、神社などに漂う荘厳さにハッとすることはありますから。






 一方、「脳のからくり」の著者、竹内 薫氏は、心身二元論者のようですね。

 ネットワークと信号(エネルギーの相互作用)さえあれば意識が存在するなら、哲学者チャーマースがいうようにサーモスタットにも、あるいはインターネットにも、分子同士が相互作用する石にも、地球にも、宇宙にも・・・・

 それらにもわずかながらでも意識はあるだろう、と述べられております。

 石にですか・・・。

 「深海のYrr」でも、ネットワークと信号さえあれば、意識が存在する、という前提に立脚して意識が描かれているようです。

 しかし、その前提もどうかな??






 そして、イギリスの科学者ジム・ラヴロックが唱える「ガイア仮説」・・・

 これは生命圏(バイオスフィア)は自己調節機能を持った存在であり、科学的物理的環境をコントロールすることによってわれわれの住む惑星の健康を維持する力をそなえている、という説ですが・・・

 ここでようやくと、「ガイア」の登場です。

 今回は長かったですね~、ここまで・・・

美しきガイア 27

2008年09月18日 02時35分30秒 | Weblog
 ヒトが物を取ろうとして手を伸ばすとき、自分の意思で手を伸ばしているのではなく、無意識のうちに手は動き始め、後づけで自分がさも自分で操作して手を伸ばしたように勘違いしているんだ、というのです。

 確かに、無意識のうちに眠っていることや、知らず知らずのうちに・・・ってことはありますが、それが毎回ですべてだ!といわれると違う気もしないでもない。

 で、その仮説に基づけば、具体的なやり方はまだ不明だそうですが、ロボットに意識や心を持たせることはできる・・・らしい。

 



 その著者の主張や異なる主張を考察するのに、物的一元論、心的一元論、心身二元論が出てきます。

 つまり、意識は脳という物質によるのか(物的一元論)

 物質の存在などはそれを認識する意識や心があってこそだ(心的一元論)

 いやいや脳は脳で大切だが心は別の次元で作用しているに違いないし、神もいるかもしれないし、霊魂だってひょっとしたら(心身二元論)

 




 著者は、著者の言葉で言うと、「大部分の日本の科学者がそうであるように、物的一元論者」なのだそうです。

 引き合いに出されたのが、哲学者チャーマースの心身二元論。

 その二元論とは、「物質とは別のカテゴリーに属する意識というものが存在する」

 一般的な日本人の多くは、なんとなくご先祖さまの霊魂や、占いなどに惹かれてしまうあいまいな心身二元論者であると、作者はいいます。

 著者は、物的一元論者(唯物論あるいは物理主義)の立場をとるのだと。

 心は脳が生み出したものであり、それは進化の過程で獲得されたものであり、霊魂は存在せず、もちろん神も存在しない。

美しきガイア 26

2008年09月17日 16時38分34秒 | Weblog
 私事、夏休み中につき、サボりがちでご迷惑をおかけしております。

 


 さて、『脳と心は別物か?』この命題に答えるべく・・・

 ロボット研究者の前野 隆司氏によれば、な、なんと、ヒトの意識(心)は受動的な機能にすぎないんですって!

 ヒトは自分の意思(心)で何かを決定しているように思えていますが、実は何も自分で決めてはいないのではないか、というのです。

 ん、ん~??

 心の主人公のような顔をしている「意識」は、実は「無意識」または「深層意識」の奴隷ではないか?というのです。

 「意識」は、自分の体験をエピソードとして記憶できることが環境適応のために有利だから、進化的に生じたにすぎないささやかな存在なのではないか、というのが彼の主張です。

 エピソードとして記憶しないと、たとえば腹が減ればところかまわず食してしまったり・・・

 みなが勝手にふるまってしまうので、そのために「意識」として記憶されるらしい。

 でも、今こうしてPCに向かっているのも、実は僕の無意識の賜物になってしまい、僕の書こうという意識や、まとめている考えが後付けだなんて到底信用できません。

 また、茂木氏の研究対象らしい、意識の生き生きとした「クオリア」(感覚質)にしても、「クオリア」は確固として存在する現象というよりも、幻想のような頼りのないものなのではないか、と前野氏はいうのです。

 「人の「意識」とは、心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて、人の心の「無意識」の部分がやったことを、錯覚のように、あとで把握するための装置に過ぎない。」

 「意識」は「無意識」のあとにやってくる。

 つまり心は錯覚だ、というのですね・・・。

美しきガイア 25

2008年09月11日 09時02分14秒 | Weblog
 また「脳のからくり」によれば、DNA二重らせん構造の発見者のワトソンとクリックのクリック氏は、それまで哲学者しか語らなかった「意識」について・・・

 んなもん単なるニューロンじゃ~!と言い放ち、結局は脳内現象だ、今こそ意識の解明に向けて科学の力を動員しよう、としたそうです。

 ホログラフィよりもなんとなく安心します。

 相棒のジェームズ・ワトソン博士が、「黒人は知能で劣る」などという、許しがたい差別発言をしたことは、2007年11月に書きましたが・・・。




 確かに意識や心というのは、一歩間違えると科学の敵、オカルトに傾倒してしまいがちでもあり、それまで意識と心を学問として取り上げていたのは、科学者ではなく、哲学者という文系ど真ん中の分野でした。

 クリックの提唱により、脳の科学的研究が広まり、物理学者も化学者も解剖学者も生理学者も生化学者も哲学者も参戦し、今日、雨後のたけのこのように、脳科学者があふれる時代になったのだ、ということです。

 で、クリックは科学者ですから、ニューロンの発火が1秒間に40回、つまり40ヘルツで振動する際、たとえば「赤」と「円」に関連するニューロン群が、ほぼ同時に40ヘルツで振動すると脳は「赤い円」として意識できるということにつながるとしたそうです。





 一方、その「脳のからくり」も監修し、最近テレビによく顔を出す、茂木健一郎氏が研究対象にしているという、このところのトレンド「クオリア」。

 茂木氏に好感を持つわけではありませんが、ご存知でしたか、みなさま、「クオリア」??

 「クオリア」とは現象的意識のことで、人間が抱くイメージや感じのこと。

 らしいのですが、なんだかピンときませんね・・・。





 そこで、それらを考えるに一助となるのが・・・ホントになるかどうか分かりませんが・・・

 東工大卒の、慶応の教授、ロボット研究者の前野 隆司氏がおります。

 彼が唱えるのが、「受動意識仮説」や、「エピソード記憶」です。

 また、なんだか小難しそうですが・・・



~脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?~
 技術評論社

という、本も紹介したいと思います。